Fate×DMC for 777
Devil/stay night ―Another bullet―

―― 作者:rentaさん ――




   4.Freaks who circulates


(本当……いい夜ね)
 月は明かり照らすもの。夜の頂から震えるように供給されるお月様の淡光を身体全体で浴びて、トリッシュは胸中で呟く。
 ――Till dawn(夜明けまで)だなんて、勿体ないくらい。この気分をいつまでも味わっていたいわ。
 夜闇の静けさ。冷たい大気の肌触り。それに――背中に預けられた、マスターの信頼感。
 これは最強ではないか、とトリッシュは思う。
 これに勝る心地良さなど、有って無きに等しいだろう。
 従者は主人に傅くモノ。
 その構図は、互いに不信を抱かない限りは有効だ。
 短い馴れ初めとはいえ、トリッシュは凛にそう悪し様でない感情を抱いている。否、むしろ好感すら憶えていた。意固地なようで素直な性格や、会話を交わす際の歯切れの良さ。出会いがまともであったなら、きっと無二の親友になれただろうと思う。
 でも悲しいかな、サーヴァントの立場。トリッシュは苦笑する。従者と、その主人の構図。なんと頭の痛いことか。それがなければ、普通に談笑でもして茶を濁していたものを。しかしまあ、なってしまったものは仕方ない。今更ぼやいてみせたって始まらない。夜は既に訪れて、闇と共に敵までもが眼前に現れている。
 ならば、自分はサーヴァントとしての役目をこなしてみせようではないか。
 それが頼もしき主人に対する、せめてもの忠義。
「……ふ」
 トリッシュは苦笑いを消し、いつもの微笑へと顔の造りを変えた。


   ◆


 凛は自分の真名を呼んだ。当然、間近にいる男――武器からして、明らかにランサーのサーヴァントだろう――がそれを聞き逃すはずもなかった。
「“トリッシュ”か……聞かねえ名だ。そりゃ真名晒されても一顧だにしねえよな」
 ランサーは眉をしかめて渋面。心当たりのない名前に、未知に対する警戒心が動いたのだろう。まるで見たことのない獲物の様子を探る野獣のように、ランサーはじりじりと事に対して構え始めた。
 身体の重心は腰の位置に溜め、槍の穂先は下方に。生憎と彼の時代背景も過去も知らないので、それが何を意味する型なのかはわからない。だが、トリッシュにとってそれは全力で迎撃するほかないものである。
 ランサーは唇の片方を皮肉気に軽く吊り上げ、
「まあ――名前や出自なんざ何だって一緒だ。穿ち、貫き、ブチ殺すことに変わりはねぇんだからよ」
 挑戦的な眼差し。
 なかなか小気味のいい男だと、トリッシュは胸中で呟く。
 戦うか否か。その二択しか、彼の中にはあるまい。粗野ではあるが、生憎とそれをあからさまに嫌うほどトリッシュは高貴の君ではなかった。それに、記憶の中の“彼”に少し似ている。好感が持てた。されど敵同士。
 故に。
「なかなか大きく出たわね、バウワウの分際で」
 同じく、挑発とも取れる言葉を返してやった。
 更に続ける。
「いいわ、尻にファドの炎を灯してあげる。蚯蚓のようにのた打ち回りなさいな」
 そうして――下げた両手に、双子の愛銃を顕現させる。
「……あン? なんだそりゃ」
 視界にそれを認め、ランサーは怪訝に問うてくる。
 あえて無視して、トリッシュは両腕を交差して、前方へと構えた。




「親愛なる貴方へ、私からのキッス・オブ・ファイアよ――いけずしないで、受け取って頂戴ね……!」




 四の五を言わせる前に、トリッシュは敵にケモノの笑みを浴びせ――撃鉄を引き絞った。




 俗説によると、一般的な拳銃の弾丸の速度は毎秒一キロメートルだという。全世界に存在する全てのハンドガンの平均という意味合いでは、これはあながち的外れでもない。だがアバウトさを除いて意味合いを細かく砕いていくと、それはやはり“俗”説にすぎない。そもそも誰が言い出したのかも判然としないのだから。
 ――さて、ここでいくつかの比較をしてみよう。
 @提示された平均と記録を競う対象に、世界中で最も有名な拳銃である『ピエトロ・ベレッタ・モデル92』を挙げてみる。M92の速度は約四百メートル毎秒。一秒間におよそ半キロメートル突き進むということだ。リコイル方式や強壮火薬、それに弾丸の形状などを考慮に入れて測定をし直せば、この結果は大幅に伸びるだろうが、それはひとまずの閑話休題。
 さて、毎秒一キロと毎秒四百メートルというこの結果。
 当たり前だが、違いはそのスピードにある。
 もし同時に弾丸が発射されたとしたら、両者は相手に突き刺さるまでに600m/sという誤差が生じる。
 誤差。
 それは当たり前の誤差。完全無謬の誤差
 ――ここで新たな議題の提示を行う。
 Aそれらは弾丸に限った話ではない、という論点だ。
 言い換えるとしたら、それはサーヴァント同士の対決にも置換できるのだ。人を殺す、という観点では、それらはよく似ている。否、むしろ同類といっても過言ではないだろう。銃は指の操作で相手を殺害でしめ、サーヴァントはその並外れた身体能力で生者を亡骸へと下落させる。
 兵器。
 そう、兵器という観点。
 拳銃は指の操作で相手を射殺す。サーヴァントは己の意思と少なからずのマスターの命令で相手を絶命させる。
 生粋の兵器と、意思を持った兵器。
 ここにも誤りが生じる。
 そもそもが、比較になっていないという点だ。
 確かに兵器という点では似通っている。どちらにせよ殺すのだから、経過はさしたる問題ではないのかもしれない。けれど@の弾速の比較と同じく、何らかの問題を比べてみたら、ものの見事に計測が付かない。当たり前だ。比べられるような相似の箇所が“兵器”という一点しかないのだから。
 ――最後の議題に移る。
 Bでは、銃器を持ったサーヴァントと、生粋のサーヴァントが争った場合は、どうなるのか。
 @とAの観点を一緒くたにし、なおかつ新たな相違を測るこの観点。
 この場合はどうなるのか。
 この場合の誤差とは、果たして――




「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!?」




 ランサーの死に物狂いの回避行動によって証明された。
 直線の軌道で死を撒き散らす弾丸の嵐は、あらゆる箇所に噛み付かんとひたむきにランサーを襲う。
「ンだよそりゃあ! 聞いてねえぞォッ!」
 そりゃ、言ってないもの。胸中で嘲笑いながら、トリッシュは連続してトリガを叩く。
 狙いはアバウト。それでいい。事足りる。圧倒的な弾幕の前では、少々の誤差など捨て置いて然るべき。
「のわっ、ちょっ、おっ!? 今マジで危なかったぞマジで――ってオイ! 額! 額狙った!?」
 半ば絶叫じみた声を上げながら、ランサーは走る。屋上という狭いエリアの中を縦横無尽に駆け回る。その背中を追うようにして、床に壁に真っ黒な穴が穿たれていった。
 トリッシュはニィィと笑みを模る。
 楽しくて仕方ない。
 大の男が、女の細腕から放たれるバレットを必死の体で避けている。
 愉快痛快ってヤツだ。
 たまらない。
 悦びのあまり、私の中からナニカがはちきれそう。
 心底からトリガ・ハッピーの心地で、トリッシュは“Ho!”と口笛をひとつ奏る。
「あっは! 随分とつれないじゃない? レディからの贈り物を無碍に扱うだなんて、玉無しのやることよ!?」
 冷汗を滲ませた引きつり笑いで、ランサーは、
「ハ……ハッ! そりゃあベーゼで返さなきゃ、男が廃っちまうよなぁ!」
 トリッシュの真正面の位置で、しなやかな動きで疾走状態の体躯に急制動を掛け、視線を合わせるように対峙した。
 間断なく、マズルフラッシュと共に火薬が爆ぜる。銃口から凄まじい速度で以って射出された魔力の鉛が、群れをなしてランサーの方向へと大気を切り裂いて行く。
 通常、銃とは火線の先にさえいなければ中ることはない。だが一度でもその射程内に捕らえられたが最後、肉を抉られ、骨をへし折られ、血を簒奪される。近代において手頃かつ量産が効く武器である銃とは、本来、絶対的な代物なのだ。
 しかし――それならば、唸り狂う弾丸の暴風雨の最中を悠々と駆け抜けてくるこのランサーは、その“絶対”をどうやって覆したのだろうか。
 トリッシュは本気でブッ放している。だが、それがまるで中らない。命中どころか掠りもせず、その上で距離を詰められている。あと瞬きほどの間で、ランサーの槍がこちらに届くだろう。トリッシュは半歩分だけ身を下げて、微妙に間合いをずらす。結果的にそれが巧を奏した。
「おらぁッ!」
 光速に迫る刺突。トリッシュは後退さりながらルーチェの銃身で矛を受け、そして即座にオンブラの銃身で横へと叩き流す。もう少し踏み込まれていたら肌に傷を付けられていたところね。
 ランサーはトリッシュを追撃せず仕切り直していた。先ほどまで緊張状態にあったのか、ふううと大きく呼吸。
「あーくそ……不覚にもブルっちまった。何だ今の? アレか、拳銃とかいうヤツか? 知識としては知ってるがよ、いやはや人間ってぇのは恐ろしいね。スカサハの魔術だってあんな馬鹿みてえに早いタマぁ出ねえぞ、このヤロ」
 にやけながら悪態を付く。
「しかしまァ、残念だがよ、俺には目に見える飛び道具は効かねんだ。景気良くぶっ放してもらっといて、ちょいとばかし悪い気はするけどな」
 自分でもついさっきまで失念してたけどな、あまりのビックリ加減に――ランサーは片目を瞑り、苦笑する。目に見える飛び道具は効かないと、さらりと言い流したが、実は凄い台詞を並べていた。事実、先ほどのように中らないとなると、彼には弾が視えていることになるのだ。物によっては秒速一キロメートルに達するであろう拳銃の弾が。数千ジュールにも及ぶエネルギーの塊が。それは如何なる反射神経が成せる神業なのか。
 もし今の攻防が逆の立場だったら、やられこそしないものの、トリッシュには無傷で切り抜けるのは難しいだろう。完全に見切れない上に、飛び道具を無効化するなどという反則じみた技を持ち得ていない。
「無効化、ね……矢避けの加護、というヤツかしら?」
「御名答(ドンピシャ)だ。倒したかったら白兵戦しかねえぜ? その細っこい腕じゃ無理難題だろうがな。アーチャーじゃあ尚更だ」
 最初から知っていたのか、はたまた拳銃という要素から当たりを付けたのか。ランサーはトリッシュのクラスを言い当てる。
「ま、そうね」
 あっさり認めて、トリッシュは手の中から銃を消した。ランサーはその様子を見送ると、眉をひそめて不機嫌を露にした。
「……たわけが。弓の騎士が己の飛び道具を諦めるとは何事かッ!」
 吼えた。そして、銃を仕舞い込んだトリッシュの向こうを張るかのように、片手で槍を後方へと思いきり引いた。それはあたかも弓弦に矢を掛けるが如く。アーチャーならばアーチャーらしくしやがれ――と、言外での叱責。状況としては、彼がトリッシュのお株を奪う形にも見て取れた。ランサーは怒りも露な面持ちで全身を撓ませ、神速の踏み込みのための体勢へと移行した。
 ぎちぎちと空気が凍る。瞬間凍結した時間は容易く死を連想させ、その場に居合わせる者すべてにこの上ない畏怖を与える。
 そんな凄絶な雰囲気の最中、トリッシュは、
「……“gives up(諦める)”ですって? ふふっ」
 面白いジョークだ、と失笑を漏らした。そして何も持たない右手を、ランサーの真似事のように思いきり引く。
 背後で戦の趨勢を見守る凛は、瞬時にその意図を悟る。そして気構えを擁した。
 アレは見るものを須らく呑み込む。使う方も見物する方も、半端な覚悟で正気を保てるような代物ではない。そんな危うい――宝具。恐らくは彼女にしか使えまい。凛は生唾を嚥下し、全身に渇を入れた。魔力を、意識を、水準以上へと即座に推移させる。
 今にも獲物へと襲い掛からんばかりだったランサーは、肌で感じ取った違和に、深夜の黒猫のように双眸を細めた。何か、とてつもなく善くないモノが来る――本能だった。そして間違いではないと確信する。同時に口の端を吊った。あの女にはまだ隠し玉がある。態度で解かる。ここで意味なく敵の型を模倣する馬鹿など、自分は知らない。ならばそれは、何がしかの脅威なのだ。
 ランサーの脳裏に警戒心が宿る。だが、彼はそれを遮二無二に振り払った。石橋の上を叩きながらおっかなびっくり歩いていくなどと、そんな悠長な行為を自分は好まない。あくまで対等に。あくまで好戦的に。あくまで愚直に。あくまでスタンダードに。それしか識らぬケモノのように、敢えて正面から挑むのだ。そうして俺は明日の朝日を拝んできた。今さらになって趣旨変えなど、そんなかったるい事をやってられるか。
 ましてや、相手は殺気立った己に向かって泰然と笑みを浴びせつけるアッパー・ビューティーだ。ここで引いて茶を濁すような甲斐性なしに成り下がった憶えはない。何より、女を呆れかえらせるような不様は遠慮したいところ。
 だから往く。当然だ。弓のサーヴァント、トリッシュ。上等だ、受けて立つぜ。折角の美顔に傷をつけるのはいささか躊躇われると思ってはいたが、あちらさんも承知の上での聖杯争奪戦、参戦表明だ。もはや知ったことではない。委細構うものか。さあ、存分に楽しめや――
 ランサーの血走った眼を見て、トリッシュは彼の意思を大まかに感じ取った。遠慮なし? 望むところよ。
(イイわ。ブラッド・パーティーとしゃれ込もうじゃない)
 私もまた、行く手を阻むものに容赦しない。愛すべきマスターに誓って。勇気ある敵に誓って。今宵の月に誓って。
 そうしてトリッシュは、現世へと“ソレ”を喚び起こした。




「眼醒めなさい――――“汝は背約が故に(スパーダ)”」




 真名を意味する言の葉と共に、艶やかなる美貌の真横、そこに、醜い刀身が顕れた。




 ――遥か昔。ヒトの一部は“悪魔”を恐れるあまり、とうとう崇め奉るに至った。
 貴方に憧れを抱きます。貴女を隣人よりも愛します。だから、どうか我を護り給え。
 その一念が顕著な形で実行されたのが、悪魔崇拝。そしてブードゥー教。黒ミサを経て、果ては身体に呪の印を刻まれた魔女。ブラック・サバスは『ミスタ・クロウリー』を謳い、カトリックは全身全霊を賭して立ち向かい、ファティマの母は涙を零した。
 それらは全て、赤眼の蝙蝠の如き御姿の“そいつ”の為の戯曲だった。
 そして“そいつ”は、美女へと容姿を変えて、この極東の地で今まさにノリにノっている。
 遠坂凛は今にも吸い込まれそうな魂をすんでの処で保持しながら――あろうことか、挑戦的な笑みを浮かべた。
(……面白いじゃない。さながらワルプルギスの夜の再来ってワケね……いいわ、踏み込んでやろうじゃないの!)
 物心ついた時分から魔の一端を学んできた。要するに、こういった事には“慣れっこ”だ。今になって怖気づくようなタマではない。凛は意気込んで、既に盲目の信頼を置いているトリッシュという名の“そいつ”が呼び込んだ“ソレ”を見据えた。
 昨日に見せてもらった時と同じく、禍々しい妖気は健在だった。血の池地獄の水底から直輸入してきたかのような深紅に染まった外見。迸る重圧感は心胆を凍えつかせ、相手に絶望感を叩き込む。その身に纏った異界の空気は、ただ肌で感じただけでもあらゆる生き物を震え上がらせ、度肝を抜くだろう。あまりの違和感と恐怖に。
 凛は安堵する。アレが敵でなくて本当に良かった。信頼する彼女の武具でなければ、いま自分が抱いている奇妙な頼もしさは生まれなかっただろう。あの宝具は強力だ。桁違いと言い換えてもいい。無論、他の宝具を見たことがないので比較できないが、それでも凛は解していた。誰であろうと、あの剣で斬り付けられて滅びないモノなどないのだと。
 当然ながら初見だったランサーは、何よりもまずそのフォルムに息を飲んだ。
「なっ……“剣”だと!?」
 夜の帳に包まれてなお清冽な蒼色を湛えたサーヴァントは、驚愕に眼を見開いた。予想の更に上を行かれた心地だった。まさか弓使いが剣を出して来るとは――否、否、否! ランサーは大きくかぶりを振った。驚嘆に値するのはそこじゃない。着眼点がまるでズレている。真に瞳に映すべきもの、それはこの醜悪な気配だ!
 形状は確かに不気味だ。だが、そんな要素は二の次だ。それよりも、背中に怖気を這わせるこの感覚だ。生まれてから死ぬまで、そしてこの戦場へと甦るまで、およそ味わったことのないプレッシャーだ。ただ目しているだけだというのに、ここまで相手を圧倒するなどと。
 何かが掴めそうではあった。いつだったか、こういった存在感を放つモノの話を聴いたことがあるような。ガキの頃の御伽噺だったか。それとも修行中だったか。はたまた死ぬ間際か。どれも違うような気がするし、そのどれもが正解のような気がする。思い出せない。そもそも本当に誰かから聴いた話なのかも判然としない。
 待てよ、とランサーは思考を違う方向へと持っていく。何故だか脳裏に閃くものがあった。
 ――ガキの頃、修行中、死ぬ間際。全てが合っているような気がする。ならばそれは“いつだって隣に居たこと”になるのかもしれない。
 想像して、ランサーは呼吸を忘れるほどの衝撃を憶えた。
 いつだって隣に、だと? 莫迦な。それではまるで、悪魔か死神の所業ではないか――
「あらあら、余所見をしていていいのかしら?」
 ハッ、と我に返り、ランサーは慌てて剣からトリッシュへと意識を向けた。
 彼女は既に弓なりの体勢から、残り刹那ほどの時間でランサーを穿てるほどの溜めを完成させていた。
 しかしトリッシュは更にチャージを続行した。挨拶代わりの一発のつもりで、見え見えの一撃を。
 溜める、
 溜める、
 溜めて、
 放つ!
「ィ――――ヤァアッ!」
 乾坤一擲の突きが、まるで一マイル先の標的を貫かんとするスティンガー・ミサイルの如く、人外の速度で撃ち込まれた。
 紅く、赤く、朱く、赫く、濃密な瘴気を垂れ流すソレは、素直なまでにまっすぐランサーの水月へと推進。
「チィィ……ッ」
 スラングを吐く間もなく表情で悪態をついたランサーは、攻撃のための構えを中断し、手元に戻しておいた槍の中腹付近で刃の先端を受けた。力の奔流自体はかろうじて受け流すことに成功した。だが流した途端、寒気すら催すほどの迫力を矛先から傍受して、堪らずたたらを踏んで数歩も後退する。
 距離が開いたところで得物を構え直し、ランサーは呆然と相手を見る。女の細腕では明らかに扱えるわけがないその剣を片手で、あまつさえ肩に担いで悠然と微笑するトリッシュ。
 ――人間じゃ、ねえ。
 そうはいっても、膂力のことではない。全てを指してそうだと思える。それが間違ってるとはまるで考えられない。だってあの武器は、様々な死闘を超えてきた自分ですら体験したことのない違和と畏怖を催させる。人間相手だと、こうはならない。
 だとしたらあの女は、
 あの妖艶な美女は、
 美女の皮を被った“ナニカ”は――
「…………ハッ」
 喉が引き吊る。やがてそれは、張り裂けんばかりの笑声へと変じた。


「ハ、ハッ……ハハハハハハハハハハハハハハッッッ!」


 疑念は、今の打ち合いで完全に晴れた。
 およそ英霊にあるまじき面妖なオーラ。その一端に得物越しだが直に触れて、ランサーは理解したのだ。
 あれは人間の延長上にあるモノではない。例え人智を超えた鍛え方をした人間でも、あんな代物、扱えるわけがない。
 ならば――あの女は人間ではなく、それ以外の何か。
 そしておそらくは、
「合点が行ったぜ! テメェは真っ当な英霊じゃねェ! テメェは“悪魔”の類だったのか!」
 ああ、畜生。道理であの違和感かよ――小さく、だが歪んだ喜悦に満ちた呟きを洩らし、ランサーは武者震い。
 トリッシュは妖艶に小首を傾げて、
「あら、怖気付かせてしまったかしら?」
「ハハハハハッ、まさか! 愉しくて仕方がねえ! 常世ならざるモノとの喧嘩だぜ、これ以上のバカ騒ぎが何処にある!?」
 素晴らしい隠し玉だ。この上ねえ。ランサーは嬉々として己の槍をぐるりとバトンのように回した後、力が有余るといった風情で槍の穂先をトリッシュへと向けた。そして宣言。


「誓うぜ! 俺が貫く! 俺が殺す! 死んでも逃すものか! テメェは俺の獲物だ!
 この、アルスターが戦士“クーフーリン”のなッ!」


 真名を明かすことすら厭わず、ケルトの大英雄は、もはや思考も打算もかなぐり棄てて跳躍し、トリッシュへと躍り掛かった。
 生前では叶わなかった立ち合い。光の神子と奉り立てられ、輝かしい逸話を幾つも書き連ねられてはいるが、ついぞお目に掛かる事がなかった“悪魔”という敵。これ以上の喜びは、ランサーにはない。
 ランサーには、もはやマスターからの命令など頭の中からすっかり抜け落ちてしまっていた。感情と犬歯を剥き出しに、それこそ上質の肉を前にした空腹の狼のように、思考は獲物へと牙を突き立てることにのみ働いている。
 トリッシュはそれを大いに歓迎してくれた。
「ふふふっ……大好きよ、あなたみたいな直情型の大馬鹿は!」
 そして剣先を下方に落とし、勢いよく掬い上げてくる。
 ランサーは両手に握った槍を乱暴に叩きつけた。両者の武器が互いに阻まれる形で火花を散らす。びりびりと刀身を伝う振動。だがトリッシュもランサーも痺れる手などお構いなしに続けて撃ち込んだ。
 トリッシュは大上段からの振り下ろしを。
 ランサーは着地するやいなや神速の刺突を。
 今度は相殺あたわず。トリッシュの剣先はランサーの頬に。ランサーの穂先はトリッシュの二の腕に。それぞれ浅く皮を裂きながらも、少々の手傷など知ったことではないと言わんばかりに、またもや同時に得物を跳ね上げる。
 トリッシュの横薙ぎは現世の常識を容易く覆す速度と膂力を秘めていた。ランサーの三連突きとて、沖田総司も裸足で逃げ出す神業。力と速度が鬩ぎあい、交錯する。剣の一振りで全ての突きを弾いたトリッシュは、もう一度の薙ぎ払いを敢行しようと刃を敵へと転身させた。そのまま振りかぶり、足を踏み出した。地にしっかりと靴底を噛み合わせ、全体重を乗せて撃ち出すべく。もはや女性とは思えないほどの猛々しさ。
 ランサーはそれを見て取って警戒した。攻勢を打ち流された勢いもあって、無理に追い打つのは危険だと己の経験が物語っている。そしてその経験は、あの手のパワーファイターが後の先に滅法弱いことも知っている。初撃の威力は大したものだが、それをかわされると往々にして後がなくなる。トリッシュはそれなりにスピードが備わっているが、さすがにあの重量級の剣を立て続けにブン回せるほどの筋力はないだろうと予測を付けた。
 故にカウンター狙い。紙一重で避けて、即座に穿ってやる――と、普段の俺ならそう思うんだろうがなァ。ランサーは「クッ」と一つ喉を鳴らして、自ら間合いを詰めるべく一歩を踏み出した。
 本来、槍を扱う者は、相手との距離を縮める必要はない。それを補って余りある射程の広さが、槍には備わっているからだ。先端の刃が当たりさえすればそれで事足りるし、急所ならなお良し。敵の得物がそれこそ飛び道具でもない限りは射程圏外からのヒット&アウェイでダメージを蓄積させることができる。故に、戦場での白兵戦では最も多用される武器となったのだ。
 そういった安全策を馬鹿にするつもりは毛頭ない。むしろそれが戦いにおいて当たり前の気構えだ。生きて国に戻ることを考えて、なるべく死なないように奮戦する。それが兵士の基本のスタンス。常ならばランサーもそう考える。
 しかし、ランサーはその事実をあえて無視した。
 自身、それが命取りになるであろうことは重々承知している。ただでさえ幾多の死線を潜り抜けて今日に至るケルトの英雄クー・フーリンが自分でそう理解しているのだ。
 それでも。
 それでも、だ。
 せめて今は、今だけは。この最上級の好敵手と、ギリギリの勝負がしたい。してみたい。
 本能と肉体が吠え荒ぶままに。情熱が滾るままに。せっかくの昂揚感を台無しにしたくないために。
 解かっていても、身体が云うことを聞いちゃくれない。そういうのは、ままあることだろ。言外で眼前の敵、薄い微笑を浮かべるトリッシュにそう問うて、ランサーはほとんど体当たりにも近い形で向かっていった。一種の搦め手として、相手の意表を衝く技。槍を中腰に構えた低い姿勢からそのままの格好でぶつかっていくという不意の一手。いわば任侠者がドスを持ち、己の体重で相手に刃を押し込んでいくような格好だ。
 トリッシュとて単なる鍔迫り合いなど真っ平御免だった。だから、ランサーの特攻じみた無謀な行為は歓迎すべき事態。こういう解かりやすい相手ばかりなら、生前は苦労しなかったのだけれど。トリッシュは胸中で愚痴って、とん、と軽やかに後退した。
 ランサーのそれは、無謀ではあるが、悪くない選択ではあった。そのままトリッシュが剣を振るっていれば確実に彼に命中はしただろうが、刃の浅い箇所――すなわち柄のすぐ上、最も体重の乗せにくい刃区(はまち)に近い箇所にしか中らなかっただろう。そんなもの、膚を少々傷付けて終わりだ。それほどまでに、彼の基本速度と自分の武器の速度には差がある。
 ペイアウトの見合わない勝負などやってられない。だからトリッシュはスパーダを構えたその体勢のまま後ろに退いた。だが当然、ランサーは追って迫ってくる。トリッシュはもう一度後方へと跳んだ。ランサーもまたその軌道をなぞって突進してくる。
 その様子を辛うじて眼で捉えることのできた凛は、額に冷や汗を滲ませた。あのままでは単なる繰り返しだ。そもそもランサーの行動スピードの方が速いのだから、いつかは捕まってしまう。そんなこと、トリッシュならばとっくの昔に悟っているだろう。早いところあの膠着状態をどうにかせねば、自分のサーヴァントの負けは必定。そう思った。もっとも凛はトリッシュを全面的に信頼しているので、不思議と不安はないのだが。
 トリッシュが四度目の後退の末に、ようやっと剣を撃ち出すべく肘を伸ばした。一手前と同じく、横薙ぎの形。ランサーは愉しくて仕方がないとばかりに、喜んでその射程内に侵入しようと速度を上げた。自分も無傷ではいられないだろうが、その代わり、相手は結構な痛手を負う。ならばそれでいい。そういうガキの喧嘩じみた馬鹿な勝負が、自分は大好きなのだ。
 そうして左足を前へと踏み出したところで――ランサーは信じられないものを見た。


 トリッシュの剣が――いつの間にか“大鎌”へと、形状の変化を遂げていた。


 してやられた、と悟るが、ランサーはそれでも笑った。さっきから剣を振りかぶって背後に構えてたのは、変化のプロセスを悟られないためか。そして自分が考えなしに向かって来るであろうことも計算の内か。なるほどなるほど、確かに好きなんだろうよ直情型の大馬鹿野郎は。てめえにとってはやりやすい相手だものな!
 女の詐欺師に引っ掛けられた気分。だがランサーは更に間合いを詰めた。剣が鎌に変わった。それはおそらく、自分にとっては好ましくない状況なのだろう。けれど今さら退いてたまるか。こちとら既に勝負に乗っちまった後だ、博打だろうが何だろうが、あえて受けて立ってやる。
 もはや手を伸ばせば触れられるまでの距離に達している。もうすぐで届く。あと少しで、腹に刃を捩じ込める。獰猛に哂い、ランサーは踏み込む足を一段階速くした。
 何がなんでもこのまま進むことしか考えていないランサー。だが――眼前に銀の銃が現れた時、さすがに狼狽を覗かせた。
 トリッシュは両手で扱っていた剣から片手を離し、間近に迫ったランサーの眉の間にポイントしていた。その一連の動作には淀みがなく、抜き打ちもかくやと言わんばかりの早業。ランサーの体躯が硬直する。それは正しい反応だ。銃で狙われたら、熊みたいな男だってビクリとするものだから。
 そして自分は、その硬直を見逃すほどお人よしではない。即座に後方へのステップを極限まで速めて間合いを広げ、すぐさま鎌を打ち出した。
「づッ……!」
 横からの薙ぎを槍の中ごろで受け、ランサーは急停止。だがこれしきのことで止まる性根ではない。ランサーは再び走――り出そうとして、行き着く間もなく飛来した“二撃目”を脊椎反射で防いだ。
「何……だとォッ!?」
 毒づく。その間にも三撃目と四撃目。速過ぎる。それも、同じ方向から来ている。慌ててトリッシュを見た。どうやったらこんな攻撃が出せるんだ。


 だがトリッシュは、“空転”する鎌の手前で、空の手で佇んでいた。


 ッ、と息を飲む。鎌が勝手に回ってやがる。なんという常識外れの所業か。ランサーはもう何発目かもわからない鎌の自転に、脚を踏ん張って耐える。クソが、何がどうなってやがるんだ、これは。
 トリッシュはくすりと笑みを零し、云った。
「それはね、ラウンド・トリップっていうの。なかなかイカした技だと思わない?」
 さ、頑張りなさいな、男の子なら。そんなふうに茶化して、彼女は片目を閉じる。ランサーはむしろ苦笑して、言われるがまま頑張りを続行。
 ガキン、ガキンと、立て続けに槍を齧る魂狩りの大鎌。蒼穹に向けて放り投げられた木の枝の如く浪漫飛行を繰り返すそれを防ぎながら、ランサーは額に冷や汗を滲ませた。これは……動けない。横や後ろに逃がれようにも、一発一発の衝撃が苛烈過ぎて動けそうにない。相手に防御の構えを取らせたまま、逃げる動作を封印させる。そんな一手だ。
 鎌は既に十数回も空転している。だというのに、一向に速度が減じない。この宝具自体が意志を持ってそうしているのだとばかりに、刃は次から次へと大気に裂傷を刻んでいく。まるで台風のようだ。範囲内のあらゆるモノを巻き込んで解放を赦さない暴君。
 心胆を驚愕に硬直させて回転を防ぎ続けるランサーを尻目に、トリッシュは悠々と彼の横まで歩み進めていた。
「……おい、てめぇ何やってんだ? 得物を放り出して散歩かよ、なっちゃいねえ飼い主だなッ」
「あら、平気よ。そのコは一度喰らいついたらなかなか放さないから。安心して外を出歩けるわ」
「抜かせこのアマ。育児放棄は美しくねえぞ、さっさと迎えにきやがれってんだ」
「ふふ、それはお断り。女はね、男みたいに無鉄砲じゃないのよ。負ける勝負なんて大嫌いなの」
 火花と金属音をバックミュージックに、トリッシュは両の手を叩き、打ち鳴らした。
「さて、ここからが本題。さっき目に見える飛び道具は効かないって云ってたわよね、あなた」
「は……それが、どうかしたかよ」
「なら、眼にも止まらないゼロ距離からの射撃は、果たしてどうなのかしらね?」
 ランサーの笑みが引きつったそれに変わる。嫌な予感。
「……おいおい。てめえ、まさか」
 トリッシュはニッコリと顔を緩ませて――ランサーの左のこめかみに、ごりっと銃を突きつけた。
「そのまさか、ってヤツね。気分はどう?」
「へ……最高だぜ、姐さん」
 つい減らず口。
「そう? それは何より。じゃあ、イカせてあげる……グッドラック、英雄さん――――!」
 ウインクを一つ。そして、




 ランサーの視界が爆裂した。




 炸薬が閃光を生み、太陽の黒点じみた銃口の奥底から吐き出された魔力の鉛。それは皮膚を突き破り、肉を抉って、ランサーの意識を刈り取る。
 ガ、と短く苦悶を吐いて、ランサーは仰け反った。白目を剥き、シャウト寸前のパンクロック・シンガーのようにのように背筋を常と違う方向に曲げて、痛烈な衝撃の余韻に打ち震える。そんな最中にあっても槍を手放さないのはさすがの気骨だと云えた。
 銃声を合図にようやく追求を諦めて失速していたスパーダをキャッチしたトリッシュは、銃口にふうっと息を吹きかけて恍惚の表情で感想を一つ。
「Awesome(濡れるわ)……」
 と、ふと何か考えついたのか、トリッシュは観戦に熱中していた凛の元へと小走りに駆け寄る。そして訊ねた。
「ね、凛。タバコ持ってる?」
「え……う、ううん。持ってないけど……何でまた?」
「こういう時に紫煙の一つでも吹かしたら格好いいかと思って。西部劇のジョン・ウェインみたいに。ま、本当は私タバコ吸わないんだけどね」
「……あのねえ」
 凛の呆れを他所に、トリッシュは剣を肩に担ぎ直し、真面目くさった顔で思案した。
「んー、やっぱり葉巻の方がそれっぽいかしらね? そもそも銃もコルトじゃないし……ビッグ・デュークは遠いわね」
「知らないわよ、そんなの」
 凛は苦笑いを浮かべ、片手で頭を抱える。戦闘中に何を余裕綽々かつふてぶてしいことを喋くっているのだろうかこの女は。つい笑ってしまう自分もいささかアレだが。
 と。


「ッッッとに、文字通り頭にキたぜこのイカレアマがッ! 今すぐブッ刺さねぇと溜飲が下らねえってモンだ!」


 がばっ、と上半身をくの字に折り曲げ、撃ち抜かれたはずの箇所を手で押さえながら、ランサーが怒り心頭といった風情で雄叫び。乱れた呼気でトリッシュを睨むランサーの顔は、左半分が血に濡れていた。
「まだ闘る気なの? 盛りのついた犬っていうのは面倒ね、誰彼の見境なく襲いかかるんだから」
「ケッ、抜かせや売女。こちとらまだ全力を見せてねえんだ、出さずに帰るなんざ真っ平御免だぜ」
「ふうん、ならとっとと魅せなさいな。私だって自分ルールのリミットまで後一分しかないのよ」
 両者共に大胆不敵。
 口火を切って、ランサーが咆哮する。
「征くぜ――我が一撃、眼に灼きつけて逝け、アーチャー……!」
 穂を下にして逆手に持ち、腕を精一杯に引く。身を大きく震わせて、血走った眼は鬼の如し。
 そして――魔力の奔流が渦を巻いた。
 凛は即座に悟った。宝具。宝具が来る。ランサーのサーヴァント、クー・フーリンの槍。凛はそれが何なのか知っている。
 ケルトの英雄、クランの猛犬が持つ至高の武具。
 名を“ゲイボルク”。
 数多の敵、それに加えて息子と親友を殺し、そしてクー・フーリン自身までもを死に追いやった呪われし魔槍。
 多種多様な文献があるが、一般的には投擲用として伝えられている。敵陣の只中に投げると、無数の鏃となって、一度に複数の敵を殺傷せしめる、と。無論、凛は今こうして対峙しているあの槍が、そのような用途のみに使われるなどと思ってはいない。投槍として聞いていたはずの彼の武器だが、彼はさっきまで投擲などただの一度もしようとしなかった。それどころかトリッシュの剣と斬り結んでさえいた。
 ならば、と凛は瞬時に推測する。投げは宝具としての在り様なのか。これからランサーが見せるのは、神話のみに伝え聞く魔性の業なのか。ともすればへたり込みそうになる殺気に身を焼かれつつ、負けじと凛は拳を握った。アルスターの伝説が、今ここで甦る。
 トリッシュが剣を構えた。剣道の正眼に似た型。迎え撃つ気だ。危険だが、止められない。トリッシュは言っていた。五分で片をつけると。ならば自分はそれを信じよう。そして可能ならば、魔術や令呪での援護もする。彼女と一緒に勝つと、そう決めた。後でどうなろうと、それは己の信念に身を委ねた結果だ。後悔などしない。
(頑張って)
 胸中で、トリッシュの背中にエールを送る。繋がれたラインから、それはトリッシュの心に伝わってくる。
 主の想いに応えるべく、トリッシュもまた気を張ってランサーを見据えた。
 ランサーの魔力が収束する。


   ◆


 ――それは必然だったのかもしれない。


 この世界には“運命”というモノが介在する。それは望まずとも訪れて、状況を撹乱していくのだ。
 例えば少年Aがいるとしよう。Aはこの日、たまたま友人から用事を押し付けられて、それでも文句の一つも言わずに請け負った。そしてそれを終えた頃、どこからか金属質の音を耳にする。音源は遥か上方。夜の学園の屋上――物語の展開によっては、あるいはグラウンド等の場所から流れてくることも有り得る――から響いてくる。そんな状況ともなれば、Aでなくとも当然、不審に思う。生徒の下校時間は過ぎて久しい。教員ですら帰宅している頃合だ。ならばこんな夜も遅くに、いったい誰があのような場所で騒音を奏でているのだろうか。
 それが察しの良い世俗的な人間ならば、おそらく警察に通報するなり何なりと公的の手段を採るだろう。また、魔術師の類ならば迸る魔力を感じ取って腰を抜かしただろう。だがAは自身で確かめに行くという暴挙に出た。それは肝が据わっているということではなく、きっと自身の危険を顧みない特殊な人柄から起こしたアクションだ。
 もしAが屋上への出入り口の扉を開いて顔を覗かせたが最後、トリッシュや凛は記憶を操作する程度で済ませてくれるかもしれないが、ランサーはそうもいかないだろう。ほぼ間違いなく殺される。この戦いは一般人の与り知るところにあってはならない。だから息の根を止めて口封じにかかる。それが確実かつ、一番手っ取り早い。
 あくまで仮定の話だが、もし実現したとしたら、この少年Aに該当する人間には不幸が与えられる。十割に近い確立で。もしドアを開けて誰何の声を上げでもしたら、ランサーは絶対に見逃さない。


「誰か……いるのか? そこで何して――」


 残酷だが、これもまた“運命”の一ピースなのだろう。
 よりにもよってこんな時に、その赤毛の少年は、屋上に存在するであろう人物に向かって、ドアを開けて緊張気味に尋ねて来たのだ。
 この時点で、彼の命運は尽きていた。今夜この場で“運命”に出会った少年は、今夜この場で絶望を体験する。死という解かり易い絶望を。


 凛と、トリッシュと、ランサーと、少年。
 異質な空気へと変遷した学園の屋上で、一人が死に、そしてまた甦る――――


   ◆


「お人好しよね、凛って。ま、そういうところが可愛いのだけれど」
 ソファーに寝転って寛ぐトリッシュの言に、対面に座る凛は「やめてよ」と嘆息する。
 ……あの後。
 ランサーの一撃で心臓を貫かれ、斃れた男子生徒――凛は彼のことを知っていて、考えうる限り絶対に居合わせてほしくない類の一人だった――を虎の子の宝石を惜しげもなく使い、蘇生。そのまま放置し、二人は自宅に戻った。そして今、こうして休息を取っている。時間にして五分程度の手合わせだったが、その中でトリッシュは宝具を使用した。彼女曰く「“奥の手”を使うまでには至らなかったから、魔力の消費はさほどでもないのだけれど」らしいが、それでも多少は持っていかれたことには相違ない。そのため、念を入れて今日はもう散策しないでおこうと凛は決めたのだった。
 少年を殺害した後、ランサーは名残惜しそうに歯噛みして退却した。引き際に、
『マスターが“帰還しろ”だとよ……畜生が。この決着は、次の逢瀬で必ず果たすぜ』
 などと述べていた。
 凛は思う。結界については継いで調査の必要がある。それだけでなく、あの蒼いサーヴァントとはまた戦り合う機会が必ず巡ってくる。幸いにして敵の真名も知り得た。ていうか自分で言ってた。その意図はともかく、それだけの覚悟で向かってくる相手だ、次までに策の一つや二つも考えておかねば――と、横からトリッシュがニヤニヤしながら、からかいの言葉。
「ほんと、口では否定しつつも、何だかんだで甘いのよね、あなたって。もう可愛いったらないわ。こっちにおいでなさいな、お姉さんがハグしてあげる」
「こ、子供扱いしないでよね、もうっ!」
 赤面し、ぷいっとそっぽを向く。学園での出来事から、トリッシュはずっとこれだ。いいように弄られているのが気に食わない。しかしいちいち照れてしまう自分もなんだかなぁと思い、つい頬を紅潮させてしまう。
 ウェッジウッドのティーカップに満たした暖かい紅茶を一口含み、香りと味わいを堪能。それは戦いの昂揚感を和らげ、落ち着かせてくれる。凛は器の中でゆらゆらと波紋を広げるそれを眺めながら、あまり穏やかではない胸の裡を宥めすかした。
 ――あの男子を救ったことは、間違ってはいない。そう思う。これが普通の魔術師ならば、事切れようとしている彼を放置して、とっとと現場から引き揚げていたかもしれない。だけど、それは嫌だったのだ。学園で鍔迫り合いに陥ってしまったことは仕方がなかった。だが敷地内にまだ生徒が残っていたのは、有体に言ってしまえば凛のミスだ。確かめきれなかった自分が悪い。なのに、そんな自分が五体満足で生き残り、ただ居合わせただけだった彼が胸に大穴を空けてしまうというのは許し難かった。何より、彼を死なせてしまっては“あの子”が悲しむ。
 だから助けた。
(それに、なんとなくだけど……次にまたあんなコトが起こっても、わたしが彼を見捨てるっていう選択肢はないような気がする……いえ、違うわね。“気がする”じゃなくて“用意されていない”ような……我ながら妙な感慨を抱いてるとは思うけど)
 だがそれも今となっては言い訳にすぎない。凛は目を伏せて大きく息を吐いた。陰鬱だが、それに浸ってしまうのは健康に悪い。戦闘時の気構えにも影響する。ろくに落ち込む暇もない。困ったものだ。
 まあ、仕方がない。自分が選んだ道だ。求める勝利のため、多少のリスクとメランコリックには目を瞑るしかない。父もそうして聖杯戦争に挑んだのだろうし。
(……そういえば)
 寝そべりながら髪の毛先を弄んでいるトリッシュを見やり、ふと疑問を抱く。彼女は何を求めて召還に応じたのだろう。
 英霊というのは、普通は二度目の生を得るためや後悔の念を消したいがために成る存在だ。悪魔である彼女にそれが適合するかどうかは知る由もないが、駄目もとでいいから訊いてみたい。この鉄火場に臨んだ理由を。
 凛はカップをテーブルに置いて、尋ねた。
「ねえ、トリッシュ? 貴女は何を欲してわたしの召還に応えたの?」
 彼女は「うん?」と面を上げ、そして唇に人差し指をあてて「んー……」と考る。
 だが結論は十秒程度で出てきた。
「さあねえ、別に何も……というより、気が付いた時には既にあなたに呼ばれていたわ」
「え……ちょ、ちょっと待ってよ? 何もないってコトはないでしょ、さすがに」
「本当よ? 今のところ別に欲しいモノなんてないわ」
 言って、肩を竦める彼女。横になったままそれを行ったにも関わらず、どことなく優雅で華やかな印象を受ける。美人は何をやっても様になるってことかしら。凛はほんの少しジェラシーを覚えつつ「でもね」と追求。
「何かしらあるんじゃないの? 例えば、貴女がこの世に残してきた未練とか」
「それは……まあ、ないこともないかもね」
「教えて……っていうのは、駄目かな、さすがに」
 トリッシュは身を起こしてソファに座りなおした。
「ふふ、そんなに畏まらなくてもいいわよ。あなたが呼んだ使い魔なのだから、質問一つで遠慮しないで頂戴な」
 さばさばとした口調で告げて、トリッシュは少し逡巡する。
「そうね……未練とは違うかもしれないけれど、“彼”がどうしているのか、一目だけ見てみたいわね」
 この世界にはいないかもしれないけれど、と続けて、彼女は顔を背けて窓の外を見つめた。
 遠い目だった。遥か昔の美しい出来事に心を震わせているような、そんな表情。
 凛はそんな彼女に声を掛けるのは躊躇われたが、それでもあえて声を発した。
「見るだけでいいの? もう一度、一緒に生きてみたいとは思わないの?」
「どのみち、私はもう世界の中にはいられないのよ。だからね、いいの。ただの一目で、もう満足」
 至極あっさりと、彼女は言う。
 今までの会話で、彼女に想い人がいるのは明らかだ。凛にもトリッシュの感慨は理解できた。わたしはまだ、その、好きな人なんてハッキリと挙げられないけど。誰に言い訳するでもないが、凛はいささか焦った様子で胸中にて言葉を並べた。経験が浅いせいか、どうにも好いた好かれたの話には弱い。
 それでも、トリッシュの気持ちは理解できたつもりだ。そこは同じ女同士だ。だが、その上で凛は――そんなのは違う、と思った。
「……どうしてよ?」
 そして口出ししていた。
 踏み込むべきではない、と、頭の中ではわかっていたのに。
「トリッシュ。貴女、無理してない? そんなささやかな願いだけ叶えて、それで後悔しない? 自分の人生が短すぎたとは思わないの?」
 一目だけだなんて、そんなのは哀しすぎる。この歳になって未だ恋に焦がれたことはないけれど、わたしだったらきっと、たった一目だけじゃ満足なんてできない。そう思う。
「悪魔に“人生(ライフ)”だなんて生命賛歌を唱えるのは、ちょっと間違ってる気がするけれど」
 くす、と曇りのない微笑を零し、トリッシュは眼を閉じて、胸元に両の掌を添えた。


「後悔なんてしないわ、何一つ。だって、私の人生は――――最高だったもの」


 その笑顔は、とても満ち足りていて。
 凛は何かを言いかけたまま、結局、何一つ言葉に出来ない。
 ああ、と納得する。
 この人は、本当に満足してるんだ、と。
 きっと彼女の中には、数え切れないほどの思い出と経験と出会いが詰まっているのだろう。そのどれもが素晴らしくて、美しいのだろう。死んだ後でさえ、追憶を噛みしめるだけで心が満たされるほどの。
「でも、そうね……一目だけってのは、さすがに謙虚が過ぎるかも」
 息を飲んだ凛に、トリッシュは苦笑して、
「じゃあ、もう一度会ったら『この浮気性。でも楽しかったわ』とでも言って頬を一つ引っぱたいてあげようかしらね」
 悪戯っぽく片目を瞑り、何やら聞き捨てならないことを言う。浮気て。
 こんなふうに思いの丈を吐露されては、もはや追究などできるはずもない。ましてや、こちとらまだ十に幾つか歳を重ねただけの小娘だ。どのくらい年上なのかはわからないが、とにかく自分よりも年上の彼女の想いを知るには早すぎる。
 なんだか急に己の卑小さ加減を思い知らされた気分で、凛は肩を落とす。好きな人、か。そんな人が、わたしにもできるのかな。脳内で呟いてみる。先のことなんてわからない。もしかすると、生涯一人身かもしれない。それはそれで気は楽なのだけれど。今のところ男性に興味は……ないことは、ないけど。
 と、そこでトリッシュが「あ」と小さく声を上げた。そして間断なく凛に問うてくる。
「ところで、凛? たった今、ふと疑問に思ったのだけど」
「何?」
「あの坊や、大丈夫かしら」
「……え?」
 あの坊や、というのが誰を指しているのかが一概にわかりかねて、凛はきょとんと瞬き。
 トリッシュは続けた。
「あの男――ランサーよね、確か――が言ってたじゃない。目撃者は消さなきゃいけないって。それなのにあの坊やが生きていることを知ったら、もう一度殺しに行くんじゃないかと思って」
「……あ」
 はっきりと解せた。
 ランサーは口封じのために“彼”を殺害した。それをわたしが助けた。なので“彼”はまだ存命だ。そんな“彼”の存在を、ランサーは許しておけるだろうか? 自問してみる。
 刹那の脳内演算の後に、回答が導き出された。そんなわけがない、と。
「しまった……!」
 すぐさま席を立った。わたしのバカ。考えなし。へっぽこ。貧乳。誰が貧乳よ! と、後半に虚しい一人ツッコミを含んだ罵声を飛ばしながら、凛は椅子に預けていたコートを引っ掴んで、夜の中へと走り出したのだった。
 トリッシュは一瞬その様子を見送りかけたが「あら、大変」と暢気そうに言って後を追った。







   5.Devil/stay night ―Another bullet―


 角を曲がり、視界に衛宮家を捉えたまさにその時、敷地の中から目映い光芒が炸裂した。
「えっ……?」
 凛はその現象を目撃するや否や、体躯に急制動をかけて停止する。その隣で、トリッシュもまた立ち止まる足音。
 その瞬間、凛の位置から四メートル前、そこの壁が爆砕した。
「何っ……くっ!」
 重々しい轟音と時同じくして、撒き散らされる礫。まるで決壊した堤防だった。川の水の代わりに濛々と粉塵が巻き起こり、それは凛の瞼を薄めさせた。砂と塵の嵐が身体の側を通り抜け、思わず目を庇って上げた両腕を戻し、凛は前方を見る――何が起こってるの? 
 その答えが、そこにあった。
 大きく穿たれた壁穴の手前。地に片手を着き、起き上がろうとしている男の姿。
 ランサーだ。
「ちぃぃッ……!」
 獰猛な唸り声を吐き、ランサーは屋上での邂逅の時と同じ鮮烈な赤の槍を腰溜めに構え、つい今しがた拵えられたばかりの壁の穴へと素早く飛び込もうと地を蹴る。
 が、




「ハッハーッ!」




 ランサーがその身を潜り込ませるよりも速く、高らかな笑声と共に、今度は塀が爆砕した。
 穴を中心に、直径二メートルぐらいの範囲で内側から破裂。きっと戦時中ならば敵襲と判断されるほどの規模の破裂。
 そして、そこから飛び出してきたのは……一人の、男性。
 この場はランサーの槍の一振りで絶命し、凛が珠玉の宝石を用いて救った男子生徒の家。その敷地内から敷地外へとまっすぐに右足を伸ばして、前へと推進していたランサーの顔に、カウンターとなる形で靴底を叩き付けている、石くれと共に登場し、やたらと痛快な笑みを表情として貼り付けたその男。
「が……ッ、てめぇッ!」
 すぐさま槍を翻し、今度はランサーがその男を穂で殴打。側頭部に命中。だが、男は相当に痛いはずのそれを笑い飛ばし、剣で受け答え。ギィン、と濃厚な得物同士の激突音。槍が男を、剣がランサーを、それぞれ衝撃波で後退させて、間合いを広げる。
 そこで男が空いている方で手招き。
「よォ、もっと派手にやろうぜ。ブルーベリーなんてメじゃねえくらいのヤツを」
 ランサーは苦笑して応える。
「当然だ、腐れ悪魔が。今夜はツイてるんだ俺は。一晩に二回も悪魔と踊れるなんざ、そうそうねえシチュエーションだぜ」
「……二回? おれ以外にも悪魔が呼ばれたってのか? ハッハ……そいつはなんとも。業が深い世界だな、オイ」
「いいじゃねえかそんなことは。やろうぜ、悪魔。言いだしっぺはてめえだ。とびっきりで、最高で、泣きたくなるような闘争(ヤツ)をなァ!」
 吠えて、駆ける。ぎらぎらと眼球を灼いて、槍のサーヴァントがいざ参る。
 男もまた、
「――OK,my men(了解だ、相棒)。蕩けるほど可愛がってやるぜベイビー……!」
 軽薄そうに吠えて、だが重過ぎる一振りを放った。
 そして辺りに響くのは剣戟の音だけとなる。凛は汗を垂らし、服の胸元に刺繍された十字架を意識しないまま人差し指で撫でていた。


 実のところ、凛は一目で“男(それ)”を理解していた。
“男(それ)”とは――深紅の悪魔だった。


 見た目は人間だ。だがアレが人間であるものか。目しているだけではっきりと感じ取れる。この強引で醜悪で鮮やかな気配。トリッシュの時とは違って、やたらと豪快な気迫ではあるが、それでも根本的に似通っている。
 アレは悪魔だ。それも普通の存在じゃない。そこまで解せる。どのようなものかは残念ながら知りようもないが、だが、どことなく混ぜ物のような雰囲気だ。例えるなら、人間と悪魔を半分ずつ足して二で割ったかのような。
(なんて、状況なの……!)
 凛は、まるで黙示録のようだと思った。少し誇張が過ぎる気もするが、とにかくそうとしか思えなかった。二、三日のうちに二人の悪魔を目撃するだなんて、そんなのはもはや怪異でしかない。常ならばこの在り得ない展開に疑問を抱いて然るべき。だが凛はすんなりとその現実を受け入れて戦況を理解すべく脳を働かせた。この聖杯戦争は何かがおかしい。だがそんな疑いを抱いていても仕方がない。ならばできることだけやっていくしかない。
 その男は雪のような白髪で、真っ赤なコートを着込んで、その手には鈍い銀色の大剣を掴み、縦横無尽に振るい狂っていた。一撃一撃の重量は、受けに回ったランサーの苦々しい表情を見れば一目瞭然だ。長槍と剣が激突する度に火花と硬質の悲鳴を奏で、その衝突の烈火が暗い夜道を煌々と照らしては消える。まるで夏の夜の花火のような派手さ加減だった。殺し合いという名の打ち上げ花火。作り出している当事者はおろか、傍観者をも魅了する三尺玉の破裂が如き剣舞。
 ごく、と、凛は唾を飲み下した。ランサーもそうだが、悪魔とは、なんという苛烈さなのだろう。トリッシュもそうだが、書物で知り得たこととはまるで違うイメージだった。悪魔と記されてある項目には、漏れなく“堕落”だの“滅ぼす”だのという穏当ではない単語が踊っていた。だが、それならばこの爽快さは何だ? ケルトの大英雄の軽快な槍捌きを、剛剣の一薙ぎで吹き飛ばす、この小気味のいいリズムとライムは。ミュージカルよりもリアルで、オペラよりも華やかで、ハリウッドよりもリアリティのない演出。
「シッ……!」
 ランサーの刺突。それも一息に数回。いったい何度お見舞いしたのか、凛には目視できない。辛うじて複数だとわかる程度だった。
「ハァッ!」
 だがその神業すらも、白髪の男はただの一薙ぎで相殺してみせる。ベーブ・ルースも裸足で逃げ出すフルスイング。暴風のようだと、凛は目を見張った。
 剛毅で、粗野で、乱暴な武器の扱い。だがその剣筋にはどことなく洗練された雰囲気もあった。一つ一つ応対しようと思えばできないこともないが、面倒だからまとめて叩き潰しているかのような。
 剣戟は続く。拮抗したそれは夜の静謐を覆し、激しさを増す。放っておけば三日ぐらいやってるんじゃないだろうかと思えるほどの愉悦すら漂わせて、ランサーと白髪の男は刃金の打ち合いを続行。そこで凛は我に返り、引き吊り気味に苦笑する。ここのところすっかり驚き役だ。路上販売のサクラみたいで、あんまり気分はよろしくなかった。というか見入っていてどうする。たしかにあの斬撃の応酬は観戦に足る価値があるが、今はそんな娯楽に浸っている場合じゃない。まずは状況。そう、状況を理解しないと。
 そういえば、隣にいるトリッシュが先程からやけに静かだ。凛はふうっと嘆息。彼女もまた楽しんでしまっているのだろうか。なんとなく好きそうだものね、こういうのって。見るのも、戦るのも。
 そう思って、彼女の面を窺った。
 すると、


「フ……フフフフフ」


 ……笑っていた。
 顔を俯かせ、肩を震わせ、底冷えするほどの気質を迸らせて、トリッシュは静かに笑っていた。
 凛はぎょっとして、思わず一歩退く。
 ぶっちゃけ怖かった。
「……トリッシュ? ど、どうしたの急に」
 訊かずにはいられない。何ですかその変節は。召還してからこの方、彼女はずっと柔和な――いやその、戦闘中は別だけど。あと一回だけものすごい壮絶なのがあったけど――笑みを崩していなかった。それが何だ、ここに来てその、親の仇を発見したみたいな含み笑いは。
 トリッシュは凛の言を無視して、胸の前でぎゅうぎゅうに握り締めた拳をブルブルと振るわせた。
「何なのかしらねこの展開……私、前言撤回って嫌いなのだけれど」
 そしていきなり宝具を発動。スパーダ。悪魔の剣。
 合図もなく間近で出されて、凛は「……ッ!」ずざっと飛び退く。ごめんなさい、心臓に悪いですそれ。
「さっきの私の話って何だったの……あのバカ、ここで出てきたらいろいろ台無しじゃない……ッ」
「ト、トリッシュ? 何の話――って」
 尋ねてから、気付く。
 もしかして、あの悪魔の男が彼女の想い人……とか?
 セリフに“前言撤回”とか“あのバカ”とか、それらしい様子を匂わせている。もしかしたら、本人も予想してなかった再会がここで起こってしまったのかもしれない。いやまあ、さすがにそれは都合の良すぎる話ではあるが。
 ……仮に。もしそうだとしたら、再会、という単語の割には、えらい殺気を放っているようにも見えるのは何故だろう。
(ええと……この場合、どうするのが正しいのかな)
 おろおろと狼狽しつつ掛ける言葉を探す凛。
 ……だがそんなことはお構いなしに、トリッシュは既にブチ切れていたのだ。
 剣を肩に担ぎ、重心を落とし、猫のように背筋を撓ませ、




「よくもノコノコと顔を出せたわね、この甲斐性なし……!」




 軋む歯の隙間から怨嗟を零して、一目散に襲い掛かっていった。
「あっ、ねえ、ちょっと待――!?」
 静止の声を上げるが、そんな言葉一つでもちろん待ってくれるわけはない。待て、と言われて本当に待つのは底なしの阿呆かお笑い芸人くらいのものだから。
 一直線に向かって行くと思えたトリッシュは、途中、右足でアスファルトを踏み砕き、跳躍。月に向かうように、重力に見放されたコスモナウトのように、星空へと舞い上がった。その下では、赤い悪魔――この表現にはなんだか親近感が沸いてくる。何故かはわからないが――と蒼い槍の騎士が攻防戦を繰り広げていて、もはや傍観者と化した凛は眉を寄せて困り果てている。なんだこの夜は。
 紆余曲折の果てに鍔迫り合いになっていた野郎二匹の真上、トリッシュは宙で身体をくるりと一回転。そしてありえないことだが、その勢いに乗って“真っ直ぐ”落下した。いちいち物理法則を論って現象の可能不可能を解くのも馬鹿馬鹿しいほど、気持ちのいい急降下。きっと魔力放出とかそんな感じのアレで重力等を修正したのだろう、と無理矢理頷いておき、凛はハラハラとその行方を見守った。


   ◆


 ……ヴォイジャーの乗組員みてえな服装してるくせに、なかなかやるじゃねえか!
 緋色の悪魔――ダンテは、相手の槍の迫撃を跳ね返し、嬉々として次の一手を打ち出した。
 この世に呼び出されて数分、状況をよく理解せぬまま雪崩れ込んだ戦ではあった。気が付くと眼前に腰を抜かした赤毛のジャパニーズがいて、その次の瞬間にはこの槍の男に襲われたのだ。
 何らかの事情で召還されたらしい。それはなんとなくわかっていた。そしてこの男と打ち合っている内に、聖杯とやらの知識が頭の中に流れ込んできて、一つ得心が行った。どうも自分は厄介ごとにやたらめったらと好かれているらしい、と。まあ自分から踏み込んで行ったヤツもかなりあるのだが。
 サーヴァント、魔術師、聖杯戦争、宝具――セイバー。剣の英霊の役職に就いたのだと解せた今、ダンテの中に迷いはない。相手は敵で、自分はそれを討たなければならない。残念ながら勧善懲悪とはいかないが、それもまた良し、だ。
 あとは夢中になればいいだけ。他の何も聴かず、ただ目の前の脅威を切り抜ける。それこそが、今のダンテが採るべき手段だった。
「Blastッ!」
 気合の言葉を吐いて、ダンテは背負い投げのように剣を振り下ろす。槍使いのサーヴァントはそれを半身ほど横にずれて回避。間断なく槍の一撃がダンテの額を目指して伸びる。仰け反ってやり過ごす。身体を回して、水平に剣を走らせる。槍の腹で防がれる。しかしバランスを崩すことに成功。すかさず足蹴。ブーツの先が腹に激突。小さく呼気を捨てて、ランサーは渋面。間合いが空いた。ダンテは連続突き。ランサーはそれに応対。穂先と穂先が噛み合い、打楽器のような音色。三秒ほどそれを続けて、お互いに得物を引く。すぐさまお互いに斬り込む。
 そして鍔迫り合いに至った。
「グ……くッ……!」
「づ……ふッ……!」
 両者ともサイコパスのような笑みで、間近に迫った顔を睨んだ。
 いわば、男の意地を賭けた状態だった。退いた方が負け、といった感じで、筋力のみを頼りに武器を押し合う。
 拮抗。
 その最中、ダンテは心の裡で嘯いた。こいつのような野郎が、あと五人? 素敵だ。楽しすぎて狂っちまいそうだ!


 まさにそう思った瞬間、上から何かが降ってきた。


 最初は隕石だと思った。だがすぐさまそれを否定した。大気圏の外から飛来してきたにしては然程の熱量を感じないし、おまけにそいつは人型だった。
 そしてそいつの真っ直ぐ伸ばされた右足は、ランサーの頭頂を踏み抜いていた。
「がっ……!?」
 横槍というまったくの想定外に、ランサーは短く呻いて顔面から地面に陥没。
「チッ、外したわね」
 一方のそいつはというと、ランサーの頭の上に乗ったままぼやき、携えていた“剣”をゆらりと持ち上げる。
 そして面食らっているダンテが何を言うよりも速く、今度はこちらに向かって斬りかかって来た。
「うおっと!」
 己の剣――銘を“断罪する反逆の剣(リベリオン)”という――を横に掲げ、放っておけば西瓜みたいに脳天を割ったであろうその振り下ろしを防ぐ。相手は舌打ちしてから、続けざまに四撃。その重く熾烈な衝撃を後退しながら受け、ダンテは口笛を一つ。
 新手か。そう悟る。しかも女だった。長いブロンドが闇に跳ね、綺麗な残滓を描いている。それに呼応するが如く、彼女の得物もまた夜を裂く。だが生憎とこっちは斬られてやる筋合いはない。そらッ、と力任せに都合十三発目の薙ぎ払いを、同じく薙ぎで払いのけて、ダンテは三間ほど更に後方へと飛び退いた。
 そうして態勢を立て直し、ダンテは宝具の腹で肩をポンポンと叩き、軽口を投げた。
「よォ、姐さん。喧嘩の邪魔はいただけねえな?」
 返事はない。女は無造作に間合いを詰めてくる。ダンテは続けた。
「それとも、お前さんが代わりに相手してくれるってのか? そりゃいいや、最高の退屈凌ぎに――」
 が、途中で言葉は途切れた。
 彼女が持つ剣。それに見覚えがあった。
 


 それは、もはや剣などと呼べないような次元の形状。
 地獄の生き物のようなおぞましいフォルム。
 全体から湧き出る赫い瘴気――



「…………おい」
 見紛うはずもない。
 だって、それは――かつて己の手にあった剣だからだ。
「……おいおい」
 そして、とある事情から相棒の手に渡った剣。
 ダンテの“相棒”の手に。
 渡った剣――
「ちょっと待て」
 じゃあ、何か。
 こいつはアレか。
 おれの。
 おれの、相棒?
 ダンテはそこで初めて相手を瞠目した。


 そこにいたのは、夜闇に跨る白人女性。
 泰然と路を闊歩し、悠然とこちらに歩み寄ってくる、眉目秀麗な女。
「トッ――」
 眼を剥き、呆然と呟くダンテの真正面で、彼女は上段の構えを取った。
 そして……ニッ、と犬歯を剥き出しにした。




「――トリッシュ!?」




 迸ったダンテの声は、悲鳴にも似ていて。
 だがまあ、それとは関係なく。女――トリッシュは、相手が知己とわかっていながら問答無用で剣を彗星の如く急降下。
 あまつさえ、




「っっ――――死ねぇっ!」




 とか叫んでいる始末。
 やべ、とダンテが悟った時には、既に身体が反応していた。受け止めるべく剣を斜め上へと奔らせる。
 ガギィン、と打ち鳴らされた刃の衝突は、まるで試合開始を知らせる銅鑼のよう。
 そして剣と会話のやりとりが始まった。
「ヘイ――ヘイヘイヘイ! どうなってんだこりゃ? ここは地獄か天国か!?」
「悪魔の行き着く先なんて……地獄にもないわよ!」
 剣戟の火花。
「そりゃ言えてるがよっ……どうしてお前さんがここにいるんだ!? ワケがわかんねえ!」
「こっちのセリフよ、この若白髪! 相変わらず萎びたレッドペッパー(赤ピーマン)みたいな格好しちゃって、歳を考えなさいな!」
 火花。
「なっ、お前がそれを言うか!? この期に及んでスパンコールも真っ青なスーツ着やがって! ドル・ガバ狂いのハリウッド・セレブだって、往年は落ち着いた服装するってンだ!」
「何ですって!? あなた、暗に私のことガキ臭いって言ったでしょう今! 取り消しなさい、このマザコン!」
 火花。
「ハッ、知らねえのか。男はみんなマザコンなんだよ! 嘘だと思うなら大統領にでも訊いてみやがれ、無駄に偉ぶってる奴ってのはだいたいマザコンだからなあ!」
「小癪な言い訳は見苦しいわよ、早漏のくせに!」
 火花。
「ンだとォオッ!? だ、誰が早撃ちマックだ誰が! そのジミー相手に毎晩ヒーヒー鳴かされてたのはどこのどいつだ!?」
「あまりの下手糞さに泣いてたのよ! 察しなさいな、このヘタレ○玉!」
 火花。
「ッ……てめっ、言うに事欠いてそれか!? オーライ解かったそこを動くな! 今すぐ嫌ってほど種を植え付けてやるッ! そんでもって絶対に認知してやらねえからなッ!」
「こっちからお断りよ、ファシスト野郎!」
 そこで交差し損ねたお互いの剣。トリッシュの剣先は頬をかすめ、ダンテの剣はトリッシュの頭上を通過して相手の肝を冷やさせる。だが双方共に中断する気などさらさらない。一度火が点いてしまった導火線は、繋がった先の内容物を全て爆発させるまで止まらない。
 それこそが痴話喧嘩というものだ。


   ◆


 かなりの努力を強いて道路から顔面を引っぺがした後。
 完全に蚊帳の外へ投げ出されていたランサーは、壮絶な夫婦喧嘩をポカンと眺めていた後、やがてハッと気が付いて大声を張り上げた。
「て……手前ェらッ、俺を無視して勝手におっ始めてんじゃね――」


『すっこんでろ青瓢箪ッッッ!』


「――って、ぐぼォッ!?」
 赤の男に右の打ち下ろし(チョッピングライト)を、トリッシュに右足での踵落としを、絶妙なハーモニーで以って放たれた怒声と共に、それぞれの乾坤一擲を頭のてっぺんに喰らって、ランサーは一回、顔面から地面にバウンドし、跳ねた。そのまま空高くハイタイム。たぶん四メートルぐらい。
(うわぁ……)
 ランサーがゆっくりと落ちてくる様を眺め、凛は青ざめた。そしてコンクリートの地面に背中から激突し、二度三度と痙攣して無念さを表現した後、ランサーはぐったりと動かなくなった。凛はくっと目を背けて、彼に同情の念を覚える。別にわたしが悪いわけじゃないんだけど、なんか気の毒。
 だがまあ英霊なんだし、たぶんあれぐらいの打撃で死ぬことはないだろう。なので放っておくことにして、二人の方に目を向けた。意図せず槍のサーヴァントを気絶せしめた二人は、もはや痴話喧嘩にしてはスケールが違いすぎる斬った張ったを続行した。ついでに罵り合いも。
「あまつさえサーヴァントになっちゃってまあ! 何、まだ悪魔を駆逐し足りないっていうの? お金も貰えないのに!?」
「こりゃ金の問題じゃねえだろが! 気が付いたらもう呼ばれてたんだよ! っていうか人のこと言えんのかてめえ!」
 あーまったくその通りねーと凛は思った。だがトリッシュはその事実を無視したようだった。
「そうね、昔っからそうだったわよねあなたは! 行き当たりばったりで、計画性なんて全然なし! 店だってそうよ! 曲がりなりにも経営者なんだから、少しはお金に頓着する癖を付けて欲しかったわ! お陰で家計はいっつもいつも火の車! あなた、貯蓄っていう概念まるで知らないでしょう!」
「貯蓄貯蓄ってお前は息子の将来を皮算用する教育ママか! 第一だな、宵越しの金が惜しくて冷えたジン・トニックが飲めるかっての!」
「言い訳にすらなってないわよっ! まったく親の顔が見たいとはこのことだわ!」
「じゃあてめえの顔を鏡で見てみな! そっくりなのが映るからよ!」
 火花。
 剣戟の花弁が、夜に輝く。
「ああっ、もういいから言いなさい! 召還に応えた理由は何? 女? 女なの!?」
「ちょ、待てコラ! おまっ、なんか勘違いしてねえか? 第一おれは浮気なんて一回も」
「完全にないって、そう言い切れるわけ!?」
「か、完全にねえ……んじゃねえかな」
「何でそんなに煮え切らないのよ、この下半身!」
「か、下半身!? さすがに意味わかんねえぞてめえ!」
「ふん、もういいわっ。どうせ訊ねてもくだらない理由が返ってくることなんて明らかだし! ホント、理解の及ばない生物よあなたは!」
「いやそりゃ、お前だって事実ここに来てんだから、お互い様だろ! そこは理解しとけよ!」
「わかるわけないでしょう!? 愛くるしい少女の猫探しの依頼を、たった一枚のニッケル(五セント硬貨)で引き受けるくらいのお人好しだものね! 死んでまでその気前の良さを発揮してるだなんて、とんだ聖人君子がいたものだわ!」
「ありゃお前が情にほだされて請けてきた仕事だろうが! 勝手に人のせいにするんじゃねえ!」
「え、そうだったかしら? ええと……よ、よく考えたら関係なかったわそんなこと!」
「あっ、汚ねえぞてめえ! いざ自分の旗色が悪くなると誤魔化しやがって!」
「うるさーいっ! もう大人しく斬られなさいったら斬られなさーいッ!」
「ば、馬鹿やろォ! そうほいほい斬られてたまるかってんだーッ!」


 この後。
 二人の悪魔が織成す剣戟は、実に一時間半にも及んだ。


   ◆


 やがて、どちらともなく打ち合いは止まった。
 さすがに両者ともに息が切れていた。男もトリッシュも、白い呼気をあらわに下を向いて酸素を渇望している。サポートも何もなく完全に観戦していた凛は、そこで初めて背後からの気配に気付いた。
 とはいっても、半ば予想はついている。後ろには、さきほどあの白髪のサーヴァントがぶち抜いた大穴がある。そしてそれは塀であり、中には家があって然るべき。
 しかもその家とは、さっきまで凛が必死の体で向かっていた場所であり、その目的とは、その家に住む人物を救うため。ならばその家からその人物が出てくるのは当然の流れだ。
 凛は振り向こうとした。だがそれよりも早く誰何の声が耳朶に響いた。
「と……遠坂?」
 ほら、やっぱり。わずかに肩を竦め、凛は声の主を見る。
 そこにいたのは、赤毛の少年だった。付け加えるなら、顔見知りだった。もっと言えば、名前すら知っていた。
「衛宮くん」
 そう、衛宮だ。衛宮士郎。つい先ほど、トリッシュとランサーの交戦に鉢合わせて、哀れにも命を喪った穂群原の学生。
 そんな彼を死の際から現世へと繋ぎ止めたのは他ならぬ凛なのだが、おそらく彼はその事実に気付いていないだろう。その証左に、士郎は目を瞬かせて凛の存在にただただ驚いているだけ。その視線の先にいるのが命の恩人だということに気付いていれば、彼の性格からいって何よりもまず礼を述べるだろう。まあ断定はできないが、根っ子から人のいい彼のことだ。きっとそうする。妙な確信だった。
 凛は彼のことを知っている。というのも、前に一度調べたことがあるからだ。
 彼の養父は、業界では名の知れた魔術師だった。衛宮切嗣。フリーランスの魔術師。凛は、そんな人物が冬木に居を構えて気付かないほどの馬鹿ではなかった。故に調べた。とはいっても、その時には既に切嗣は他界していたのだが。
 結果、血の繋がっていない息子がいるということがわかった。そしてその息子は魔術的な要素が薄かった。だから気に留めるだけで直接コンタクトを取ったり交渉事をしたりするには至らなかった。
 だが、この状況はどういうことだろう。養子だから魔術刻印の継承もなければ、下手をすると魔術の魔の字すら知らないとたかを括っていた彼の家から新手のサーヴァントが出現し、あまつさえさっきまでランサーと互角の戦いを繰り広げていたのだ。ならば必然的に衛宮士郎はマスターか、あるいは巻き込まれただけの不幸な一般人ということになる。だが凛は後者の可能性をさらさら信頼していなかった。ただの人間と断ずるには状況要素が揃いすぎている。
 そんなことを考えている内に、彼が話を切り出してきた。
「遠坂、だよな……? 何してるんだ、こんなところで?」
 何って。
 決まってるじゃない、そんなの。アンタを救いに来たのよ。
 だがそれを言ったところで無駄だし、何より凛の精神上よろしくないのでやめる。結局それには及ばず、自前で解決したらしいし。まったく、サーヴァントを呼べるだけの地力があるのなら、最初から呼んでおきなさいよ。とんだ無駄足だったわ。
 いや、そうでもないか、と凛は思い直す。士郎から視線を外し、二人のサーヴァントを再び見た。
 ――二人はいつの間にか剣を手放しており、最後の衝突の余波で離れた三メートルほどの距離、その両端に、それぞれ俯いて佇んでいた。既に呼吸のリズムは治っている。
 トリッシュが、一歩を踏み出した。
 示し合わせたように、男もまた一歩。
 ゆっくりと、歩み寄っていく。
 空いた三メートル。
 それはきっと、今まで彼と彼女が邁進してきた道程に比べたら、どうというほどのことはない距離だった。
「……そう、だったんだ」
 その様相を目撃して、凛はぽつりと呟いた。
 言葉では一目だけで充分と言っていたものの、実物が目の前にあるとなると話は違ってくる。要するに、そういうことだったのだ。なんだか雛が巣立つような気分で、凛は微笑。良かったわね、トリッシュ。貴女が望んでいたものは、ここにあった。
 いつのまにか隣に来ていた士郎もまた、状勢をよく知らないままとはいえ二人の様子を見守っていたが、凛の呟きを耳にしてそちらに注意が映ったようだった。そうだったのか、という納得。それは今ここで起こっていることに、何らかの得心を持ったということ。ならば彼女はこの事態の当事者の一人なのだ――そんなふうに理解したのだろう、士郎は切羽詰った声で問いを投げかけてきた。
「もしかして、知ってるのかっ? あいつらが何なのか、何が起こっているのか――」
「うるさい」
 だが凛はその質問を一顧だにせず、しかも不愉快の色を示した。
「……えっ?」
 当惑する士郎。凛は低い声音で続けた。
「うるさい、って言ったの。状況がわからないから知りたいっていう気持ちは理解できるわ。でもね、黙ってなさい」
 昔から言うじゃない。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んでしまえと。
 眼前のこれは、要するにそういう話。
 彼らを邪魔する権利なんて、誰にもないのだ。
 そう、


「……ほら。ようやく、会えたんだから」


 温かみのこもった凛の言葉。
 それを裏付けるように、二人のサーヴァントの距離は今や数センチもなかった。
 男が言った。
「こういうの、感動の再会っていうらしいぜ」
 トリッシュは苦笑したようだった。
「馬鹿」
 失楽園のアダムとイブを髣髴とさせる、濃厚なハグだった。男がトリッシュの背中と髪に両手を回し、トリッシュは男の胸に顔を埋めながら抱きついている。
 涙はなかった。ただ喜びだけがあった。織姫と彦星よりも遠い“死別”で以って切り離され、もはや二度と会うことはなかった二人。それがここで予想外の再会を果たしたのだ。凛は胸が熱くなった。静かに寄り添う二人には、そう感じさせる何かがあった。
 ふと横を見ると、呆然とサーヴァント同士の抱擁を見つめている士郎。凛は笑みを混ぜた嘆息をつき、
「……ね?」
 納得がいった? という意味合いで小首を傾げた。
 士郎は「あ」と気付き、慌てて凛の方に顔を向けた。そして「……ッ」と息を飲み、顔を背ける。
 ――ちょっと。何でそこで赤面するのよっ。
 それの意味するところがわからなかったが、凛もまたつられるように憮然と頬を赤らめて反対側を見た。
 向こうでは大人の空気。こちらでは微妙な雰囲気。だが決して悪くはない――と感じてしまうのは何故だろう。わからない。わからないが、悪い気分ではない。凛は急に羞恥を覚えた。よくよく考えたら、こんな最悪な夜はない。悪魔と交流し、死線を潜り、安堵感を満喫し、その果てに一度救った同級生と何やら珍妙な空気の最中で微熱を催している。何これ。どういうこと。わけがわかりません大師父。
 ああ、畜生。最低の夜だわ本当に。凛は口元を押さえて、人知れず熱っぽい溜め息を零した。








 とにもかくにも、こうして七騎が揃い、聖杯戦争の幕が完全に上がったのだ。
 凛は考える。
 これから、何が起こるにしても。何が待っているにしても。わたしは駆け抜けなければならない。
 それはとても難しく、耐えられないほど辛いことなのかもしれない。
 それでも。
 頑張ろうと決めたのだから、それを嘘にしたりなんかしないわ。




 ――――悪魔も泣き出しそうな夜の中で、凛は静かに、そう遠くはない未来へと思いを馳せた。






























 戦争は、次第に過激さを増して行く。


「某はアサシンのサーヴァント、佐々木小次郎。海向こうの悪魔よ。悪魔の剣士よ――いざ、参る」
「オイオイ……どうも堅ッ苦しいなァ。そういう時は気の利いたことの一つも詠わねえと駄目だろ、やる気が出ねえよ」
「……ふむ、そういうものか? いやはや、最近の流行には疎くてな。どう名乗りを上げればいいのだ?」
「おれとしては、出来れば英語が望ましいなー。ほら、言ってみ? “C’Mon Baby”ってよ。ノーマ・フレイザーみてえによ」
「相解かった――く、くもーん、べいびー? こ、これで良いのか? 何か言い様のない違和感があるのだが……」


 剣は敵を割り、銃声は敵を撃ち貫く。


「ふん……反吐が出るわね。メディアだったかしら、一つ教えてあげる。近頃はね、待ってるだけの女じゃ駄目なのよ」
「な――んですって、貴女」
「阿呆の子みたいに下らない男にすがって、それで満足? 捨てられて泣き寝入り? ハ――駄目ね。駄目駄目ね、あなた」
「ッ……! 何も知らないくせに、好き勝手なことを――」
「男なんてね、女が主導権を握ってやれば、簡単に操れるの。それこそ王様から道端のガキまで、ね。
 ……そんなことも覚えようとしなかったボンボンの小娘が、一人前の口を利かないでちょうだい。不愉快だわ」


 まるで融かされた鉄のように熱く。


「ッ……このままじゃ、埒が明かないわね……ねえ、ライダーさん? 一つ提案なのだけれど」
「……何でしょうか?」
「せっかくの女同士なんだから、ここは気持ちよく、拳で決着をつけない? そして負けた方が勝った方の言う事を聞く。どう?」
「……おかしなことを言い出しますね、あなたは。私の腕力は先程の通り。岩ぐらいなら、紙のように引き裂けますが?」
「あら、それは御免なさいね。生憎と、私も腕力には自信があるのよ」


 また極限の凍土のように冷めてもいる。


「バーサーカー! そいつらまとめて潰しちゃいなさい!」
「……だってよ。どうする、トリッシュ? あのチビ助とデカブツ、大層ご立腹のようだぜ?」
「ふふ、それはお誂え向き。私もそろそろ運動したいと思っていたところなの」
「ハッ……そうだな。んじゃまァ、シロウを助けるのは後回しってことで行こうか」
「そうね、そっちは凛に任せましょう。大丈夫、彼女なら上手くやるわ。私たちの受け持ちは、あのビッグ・ダディのお相手」


 それは、有り得なかった筈の鉛弾。


「……ランサー、そこを退いて。用があるのは貴方じゃなくて、言峰なのよ」
「凛、何を言っても無駄よ。だって彼、もう戦る気だもの。それこそずっと前から、ね」
「……悪いな、姐さん。本当にすまねえとは思ってる。けどな、納得できねえんだ。
 戦わずに終わるってのは、どうにも性に合わねえんだ。このままじゃ終われねえんだ。わかるだろ、な?」
「ふふ、わかってるわよ――さ、構えなさいな。わたしでよければ、ジルバを踊ってあげる」
「いや、てめえがいいんだ。この世界で誰より、てめえがいいんだ俺は。
 戦うだけ戦って、勝とうが負けようが、満足できそうな相手――つまるところてめえだ! てめえしかいねえんだよッ!」


 世界に投じられた、運命の跳弾。


「我の前で悪魔臭い醜気を垂れ流すな――目障りだ。横の雑種ともども、疾く失せるがいい」
「行くぜ、シロウ。お前とおれ、二人でやるんだ。お前は剣を取れ。おれも剣を取る。斬るのはおれで、斬るのはお前だ」
「……ああ、やろう。二人で戦おう。戦って、イリヤを助けよう……俺の家族を、救けよう、ダンテ!」
「……よく言った、シロウ。家族を大事にしてこそ、一人前の男ってもんだぜ……!」
「――王に叛意とは愚か者が。いいだろう。存分に示せ。そして死ね。贖う血は、貴様らのものと知れ――!」


 かくして役者は揃い、幕は斬り落とされた。


「いいか、ここが防衛線だ。あのくそったれな悪魔の大群を、世界に触れさせねえための」
「シロウ」
「ああ」
「リン」
「勿論」
「ライダー」
「出来得る限り」
「トリッシュ」
「右に同じ、ってヤツね」


 さあ。


「……往くぜ、コトミネ。馬鹿野郎どもを呼び込んだツケ、利子付きで支払ってもらうからな」
「ふふ、当然。じゃあダンテ? 号令行くわよ、一緒に。とびきりクールなヤツを」
「ハッハ……いつでも来い、トリッシュ」


 二人の悪魔と、踊ろう。
















『Let's Rock,Baby?』























To be continued…






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