Fate×DMC for 777
Devil/stay night ―Another bullet―

―― 作者:rentaさん ――




  3.Admit




 開け放った窓から澄みきった空気が侵入し、更に夕焼けのオレンジに染まった陽が優しく射し込んでくる。
 そんな柔らかな宵の口。遠坂家の居間に、ふたつの影が映る。
「はぁっ……ね、ねえ、アーチャー……ここ? ここでいいの……っ?」
 ひとつめの影は、荒く息を喘がせながら、華美な刺繍が施された絨毯の上に仰臥。
 彼方を掴むかのように突き出された右手が、寄る辺なく空を掻き、ぴくりと一つ短く痙攣する。
「ええ、そう……そこよ、凛……そのまま、そう、そのまま挿れて――」
 その影に覆いかぶさる形で、ふたつめの影は玩具を前にした童女のように、しかし成熟した大人の余裕で以って、展開の行く末を愉しんでいる。
 それはあたかも、大勢の同胞を引き連れた鮫が、水面を求めて足掻く愚かな肉塊を眺めるが如く。
「んっ……あ、待ってっ、ちょっと……ぁ、痛ッ」
「大丈夫よ、あなたなら出来るわ……落ち着いて、ほら」
「う……ん、わかった……やってみる、ね」
「ええ。さ、遠慮なんかいらないわ。思うように侵入なさい――」
「うん……あ、くっ……っ、ふう……はいっ、た……」
 ひとつめの影が、達成感に打ち震える。さながら悲愁の夜露に打たれる彼岸花の如く。
 暗闇の秘唇に飲み込まれたソレがうねり、深みへと蠕動する。
 奥へと――
 もっと奥へと――
「っあ」
 到達。
 届いた。
 突き出したソレの先端が、最奥の壁面を浅く掻く。
「ふふ……上手よ、凛。よく出来ました、ってところね」
「っはあ……あ、アーチャー……ここから、どうすればいいの……?」
「動かすのよ、前後に、左右に――そうすれば、良い結果が得られるわよ?」
「ぇ……も、もう、限界よっ……これ以上、動かせないわ――――っていうか何の会話、コレ!?
 ひとつめの影/凛は、ソファの下からがばっと手を引っこ抜いて、があーと叫んだ。
 妖しすぎる会話だった。たかが家具の下の隙間に手を挿しこんで瓦礫の欠片を拾うだけの作業だったはずだ。それが何をどう曲解したら百合展開に。
「あら? わざと乗ってたんじゃなかったの?」
 ふたつめの影/トリッシュは、きょとんとこちらを見返し、そんな心外なコトをのたまう。んなわけあるかい。
 袖に付着した埃を払いながら、凛は棒か何か使えば良かったと思――イヤやっぱり棒はマズイかなーと考え直す。何故かは解からなかったが。ええ、解かりませんとも。わたしは純良なオンナのコですから。
 ともあれ夕方である。ようやっと居間の掃除――トリッシュも自身の視力の良さを発揮して、隅々のゴミを探ったりと手伝ってくれた。前述の不穏当なやり取りはその賜物である――を終えて、凛は軽く伸びをする。凝り固まった背筋がほぐれ、なんとも評しがたい心地よさ。
 見れば、大方は元通りだった。というか、そうでなければ修復やら何やらの魔術を多用した甲斐がないというものだ。まあまあの出来映えに凛はひとつ頷いて、ソファに腰掛ける。
「ちょっと疲れたわねー……さすがにこうまで大掛かりな修理はしたことなかったし」
「でも、凄いのね。たかが数時間でほとんど元の状態じゃない」
「そりゃあね。物体の修復なんて、魔術じゃ基礎の部類だしね」
 これでも遠坂家の跡取りだ。そんじょそこらの一山幾らとは培ってきた努力が違う。時には血を吐き、時には三日三晩も焼けるような激痛に苦しんだ。弛まぬ時間を基盤とした我が生涯だ、ぽっと出の魔術師どもに後れを取るなど万が一にもあってはならない。
 それでも疲労は多少なりとも感じている。だが、それは単なる気疲れであって、決して精神的な面で枯渇したわけではない。むしろ体躯の裡を流れる魔力は充実していて、まるで底がない状態だった。
 古来より、悪魔との契約はそれだけで恩恵を授かれるという。ヒトよりも高次元の存在とリンクしたヒトは、絶大な力を得ることとなる。例えば魔力だ。遠坂凛はトリッシュという悪魔と契約したことによって、魔力の逆流という本来ならば有り得ない特典を物にした。もっともこの契約とはなし崩しであって、決して凛の意思ではないのだけれど。
 サーヴァントシステムとは、端的に述べてしまえば“過去の英霊を召還して、令呪でそれを律する”ためのプログラムである。一括りでは説明できないが、隅から隅まで挙げていくときりがないので割愛。遠坂、マキリ、アインツベルンといった魔術の大家が心血を注いで造り上げたシステムツリー。その無駄のない構成は、さほど多くの実情を知らない凛の目から鑑みても納得のいく出来だろうと思う。
 英霊と英霊を競わせて、勝者は聖杯を獲得する。それがこの聖杯戦争の仕組みだ。
 幼い頃よりそれに向かって研鑽を積み重ねてきた凛だ。無論、戦争には参加する。その表明のための、先日のサーヴァント召還だ。結果、悪魔が現出するといったイレギュラーこそあったものの、まずまずの出だしだと凛は苦笑する。長年続いてきた魔術の家系が悪魔等の胡散臭い存在に汚染されるという側面もあるが、それに目を瞑れるだけの旨味はあるのだ。
(少なくとも、勝ち易くなったことだけは確実よね)
 魔術師としての打算。凛は胸中で呟く。勝てるのならば是非は問わない。さすがに己の道徳的に逸脱した行為にまで歯牙に及ぶつもりはないが。
 それよりも、今は未来に向けての話だ。凛は心構えを切り替えた。
「さて、と……ひと段落ついたところで、今後の方針でも練りましょうか」
「その前にお茶でも入れるわ。この家の紅茶って美味しいから好きよ」
 にこりと笑んで、トリッシュはキッチンへと足を運んでいく。
「あ……うん」
 出鼻を挫かれた気分で、凛はいささか肩を落とした。幸先の悪いことだ。



   ◆



「宝具は何?」
 クラスの確認、技能の有無などの受け答えを経てから、凛は単刀直入に訊いた。
 ――宝具。
 それは、英霊を名実ともに表すシンボルであり、また強力な武具である。
 ただ在るだけで途轍もない代物らしいが、その真価は“真名”すなわち呪を唱えることにより倍化する。らしい。実際お目にかかったことがないので何とも言えないが、少なくとも自分が想像しているよりも凄まじいものではあるだろうと凛は思う。
 宝具はサーヴァントの唯一無二の切り札であり、それを知っておくに越したことはない。いや、知らねばならない。己の相棒の武装がどんなものか。それによって、立てるべき方策も千差万別。
 対面に座すトリッシュはカップを口に運ぶ途中で手を止めた。
「宝具、ねえ……見たいの?」
「そりゃ、そうでしょうよ。とにかくどんなモノなのか知っておかないと、戦略の一つも立てられないし」
 しかし彼女は「んー……」と唸って考え込んでしまう。
 何を考えることがあるのだろう。勝つために手札を晒すのは決して悪いことではないはずだ。それとも、宝具を見せることにより、何らかのマイナス要因が働くのだろうか。
「駄目なの?」
「駄目ってことはないけれど……ただ、その前に一つ約束して欲しいの、凛」
「え、なに?」
 約束、という単語に、凛はなんとなく居住まいの改まった心地で聞き返す。
「決して見入っちゃダメ。さもなければ引き摺られるわ、確実に」
 真摯な口調で、トリッシュはそんな忠告を述べた。
「……? う、うん。解かったわ」
 とりあえず頷いておく。おおよその意味としては、たぶん、悪魔の扱う武器なのだから、呑まれないようにしろ。そういうことだろう。
 こちらの肯定を見て取り、トリッシュはひとつ頷いた。
 そして、
「ま、コレだったらあなたでも扱えると思うわ」
 ――虚空から、手品のように二丁の拳銃を出現せしめた。
 濡れた漆のように艶めいた、漆黒の銃。
 まるで雪原の狼のような、鈍い銀の銃。
 生憎と重火器の類に疎い自分だったが、それでもこの対となるハンドガンが途方もない破壊の膂力を秘めているのは一目で理解できた。
 触れれば噛み付かれそうな、そんな錯覚。
(……魔としての側面を見れば、それほどの脅威は感じないけど。でも、無骨なところがかえって怖い)
 それはあたかも能面のような殺意。相手を殺すことに何の頓着もない、ホリフィックキラーの様相。軽い身震いに、凛は今さっき言われたばかりのトリッシュの言を思い返す。見入っちゃダメ。なるほどこれは含蓄のあることだ。悪魔だとか、そんなのは無関係に、まるで“殺人鬼”のそれへと引き摺られてしまいそう。村正に魅入られた藩士のように。
 それにしても、この内の片方は。
「さっきの銃……」
 さきほどわたくしの額に“ゴリッ”と突きつけられたアレでした、銀の方。ちょっと複雑な気分。
「銘は“銀の処女&鉄の悲鳴(ルーチェ&オンブラ)”。気に入らない奴らを片っ端から穿ち尽くしたから、若干は概念みたいなものが備わっているんじゃないかしらね、多分」
 言って、西部劇のガンマンのようにくるくると銃を回してみせるトリッシュ。というか気に入らない奴らって何だろう。微妙に気にはなったが、ひとまず度外視。
 ――概念か。本来なら長い年月を掛けて得るものだと記憶しているけれど、数をこなせば同じなのかも。しかし本人が若干と告げているからには、さほど期待はできなさそうではあった。まあ何にせよ、サーヴァントが扱うのだからそれなりには使えるのだろうと予測する。
「ふうん……って、ちょっと待って。わたしでも扱えるって何? どういうコト?」
「要するにまっとうな悪魔の武器じゃないってこと。私が使っていたから多少は染まっている部分もあるかもしれないけれど、私と契約して悪魔の加護を得たあなたなら、少しくらい撃っても大丈夫」
「へえ……でも、わたし銃なんて撃ったことないわよ?」
「あら、簡単よ。手順としては、しっかり持って狙ってトリガを引く。以上。あとは銃の方が勝手にBLAM。ね、簡単でしょう?」
「……それってなんか間違ってる気が」
 図式的には簡潔でも、そこには様々な工程が介在するわけで。
 まあそれはこの際だから置いておこう。そう思ったところで、トリッシュは双子の銃をテーブルに置いて、今度は空の右手を頭上に掲げた。
「それからこっちが本命。気を抜かないでね」
 ――本命?
 よもや、この銃は食前酒(アペリティフ)だとでもいうのか。ロマネ・サン・ヴィヴィアンを差し置いて、それに勝るメインディッシュが存在するというのか。
 だとしたらそれは……凄い。
 凛は緊張を覚える。
 人生の全てをかけた試験の合否を待っているような、期待と畏れの交じり合った心地。
 果たしてそれは如何なるものか。
 高く伸びたトリッシュの右手。そこに、




「――――“汝は背約が故に(スパーダ)”。それが、この剣の真名よ」




 一振りの“剣”が、顕れた。




 ――ドクン、と。
 凛は動悸を速める。
 双眸を見開いた。
 それは、およそ剣などと呼べる次元のシロモノではなかった。
 そもそもの問題が、形状からして剣とカテゴライズしていいのか微妙だ。
 まるで地獄の生き物のようなおぞましいフォルム。
 全体から止め処なく湧き出る赤い赫い瘴気。
 ――ドクン、と。
 剣が脈動する。
 凛は完全に見入ってしまっていた。瞬きすら失念して、ただ剣を視つめる。
 剣が脈動する。
 脈動する。
 脈動す








     あ、
















 
               やば











































「――――凛ッ!」
 トリッシュの強い口調をきっかけに、はっ、と我に返る。
 途端に、急激に肺が酸素を渇望する。まるで呼吸を忘れていたかのような――否、実際に忘れていたのだろう。凛は息苦しさに上半身を折った。
「ッは……かはっ、はっ! はぁっ!」
 喘いだ。
 額に汗が浮かぶ。けほっ、と咳き込んだ。身体が強かに震える。両手で鳩尾を押さえた。心臓が常より回転数を上げている。
 ぼやけていた意識を固定化し、飛んでいたわたしを急ぎ取り戻す。それはあたかも解れた衣服を紡ぎ直すがごとく。
 何だ――今のは。
 理解の及ばない物体だった。トリッシュは言っていた。見入るなと。全く以ってその通りだと凛は得心する。決して気軽に見てはいけない類のモノだった。蛇の頭を持つ神話の獣と同じく。
「はっ……はっ、はーっ……」
 落ち着かせる。息が荒れている時、人間は上手く呼吸を行えていない状態だ。それを元の鞘に戻すには、まず肺に多量の酸素を溜める必要がある。そして吐き出す。数回繰り返す。そうして調息する。僥倖なことに、早い段階で脈の暴走は治まってくれた。
 覚悟が甘かった。凛は己を叱咤する。まるで解かっていなかった。まさかここまで魔術師を狼狽させる代物だったとは。
「大丈夫? もう消したから、顔を上げても平気よ」
 トリッシュの気遣い。ありがたく頂戴して、凛は袖で汗を拭いながら面を上げた。最後に、ひとつ深呼吸。
「……洒落にならないわ、今の。なんてモノを持ってるのよ、貴女」
「だから最初に言ったじゃない。まあ、これは教訓だとでも思っておいてね」
 肩をすくめ、美女はそう告げた。その言い草に凛は少々まなじりを吊るが、今回は自分の詰めが甘かっただけなので反論はしない。けど、もうちょっとぐらいは事前に伝えておいて欲しかったなあと思う。
「それにしても、アーチャーの割には剣が宝具だなんて。どういうことなの?」
 通常、サーヴァントはクラス名通りの武具か、それに順ずるアイテムを所持していて然るべきだと記憶していたのだが。
「別に私は剣術を修めたわけじゃないから、多分そういうコトなんじゃないかしらね。確信はないのだけれど。
 ……あと、アーチャーって呼ぶのは止めてくれないかしら? なんだか落ち着かないわ」
「じゃあ他に何て呼ぶのよ。真名? そんなの相手にバレバレ……って、よく考えたら貴女のコトを知ってるのっていなさそうね。私が知らないくらいだもの」
「そうね。この時代に私のことを知っている人間なんていないと思うわ……それでも念を押すというのなら、従ってあげてもいいけどね」
「んー……」
 指で頬を掻く。
 真名の流出、それは弱点の流布と同義だ。過去の英霊の文献を紐解けばそこに記してあるものだし、ましてやそれに基づいた攻略法など、それこそ幾通りも考えつくだろう。万が一を考えると、今まで通りにクラスで呼び分けしたほうが確実だ。
 凛は考える。
(でも、彼女の宝具)
 ――アレの前では、弱点など霞むだろう。それほどの衝撃。それほどの畏怖。
 結論。
「……ま、いっか」
 もし既知の人間がいたとしても、別に大丈夫だろう。もしもがあっても、わたしが気をつけてさえいれば、それでオーケー。
「じゃあ、トリッシュって呼ばせてもらうけど、いい?」
「勿論よ」
 にこっと微笑んで、トリッシュは頷いた。つられて苦笑する。ここまで人懐っこい悪魔が、かつてあったろうか――
 と。
(…………あ、そういえば)
 悪魔、という箇所で思い出す。まだ聞きそびれていたことがあった。
 ――これは元来、悪魔との契約なのだ。メフィストフェレスのそれと同じく、何かを持っていかれる代わりに何かを得る、という。
 それが本来の契約の在り方だ。
 いくらサーヴァントシステムを代替にして由緒正しい――この表現には若干、納得しかねるが――契約の履行の過程をすっ飛ばしたからといって、対価まで失われるわけではないのかもしれない。
 これは尋ねるべき事項だ。いや、むしろ必須要項。
 凛は訊く。
「もう一つ訊ねるわ。貴女との契約によって、わたしが背負う副作用は存在するの?」
 するとトリッシュは、あからさまに『何を寝ぼけたコトを抜かしてるのかしら、この馬鹿娘は』的に眉根を寄せた。
「そんなのあるに決まってるじゃないの。今更何を改まって聞くかと思えば、そんな再確認?」
 聞いて、嘆息。
「やっぱり……都合いい都合いいとは感じてたけど、それ相応の代金は支払わなきゃならないってワケかあ」
「当たり前じゃない。ロハで物貰おうなんて図々しいにも限度があるわよ」
 それはまあそうだ。私が逆の立場だったら絶対に請求するだろう、立場にあかしてとびきり法外なヤツを。
 仕方ない。それは割り切ろう。で、
「……具体的には、どんなのが?」
 ここが最も気懸かりだった。なるべくならば軽いのをお願いしたいところではある。
 トリッシュは顎に親指を当てて、考え込んだ。
「そうねえ……悪魔との契約は、魂の受託と同義だから」
「え、それ聞いてないわよ!?」
 魂の明け渡しと同義だなんて、それではまるで宿主の栄養を貪る寄生虫ではないか。彼女の名誉のために言わないでおくが。
「んん……まあ、そうね……」
 そんな凛の抗議を全く意に介さずに、脳の演算を済ませたトリッシュが告げてくる。



「――――ざっと、余命三十年分ってところかしら」



 続けて、リーズナブルね、などと人差し指を立てるトリッシュ。
 凛はぴしっとフリーズ。



 ――三十年。
 さんじゅうねん。
 さんじゅうねんで、なにができるかな。
 いろんなことが、かのうです。
 けっこう、きちょうなじかんです。
 そのさんじゅうねんが、なくなるわけですか。


 凛は仰け反った。肩を震わせた。ほとんど痙攣の様相を呈していた。
「……ふ」
「ふ?」
 凛は大きく息を吸った。
 そして。



「ふっ…………ふざけんな、このあくまああああああああああああああッッッ!」



 今年一番の絶叫が、冬木の空をがあーと駆け抜けた。



   ◆



「さて。じゃあ、何とかしましょうか、コレ」
 更に一日経過して、夜。
 凛は自らも通う穂群原学園の屋上へと足を踏み入れていた。
 月夜の晩である。しじまは眠りを呼び、街の陰影は黒へと沈む。街灯の点が、高みに居る凛の瞳に宝石のように映えた。
(……しっかし、まさか本当に学校にこんなモノがあるなんてね……)
 髪を撫でる微風に目を細めてから、凛は足元近くのそれを眺めた。
“結界”である。
 学園全体を半円状に覆い尽くす、明らかに真っ当ではない魔術の成果。
 朝方に凛が登校した時点で、もうこの結界は張り巡らされていた。凛は学園の敷地に踏み込むと同時に気付き、まさか、と口の中で呟き、そして怒りを催した。わたしのテリトリーで好き勝手やってくれるじゃない。
 これは最早、喧嘩を売られていると同義だった。凛はそれを買う決意を抱き、教室に赴き、授業を受け、数式を解き、英文を訳し、陸上部のマネージャーの食事の誘いを丁重に断り、放課後前のホームルームでは担任の低い声音にいつもの風景だと実感し、時間を潰して夜を持った。学校から人気がなくなる頃合を計り、このふざけた結界を潰すための調査に乗り出した。
 そういう次第だった。
 そして今、凛は眼下のコレに怒りどころか殺意さえ覚えている。
 コレは――発動したが最期、範囲内の人間を“溶解”させる代物だった。そうして人間の器を取り除き、魂を丸ごと頂く不穏当極まりない外法。
 許せるわけがない。
 凛は静かなる怒気を吐く息に乗せて鎮め、冷静を取り戻す。
 思考展開。
(ここに至るまでに、いくつかの刻印があった。そして、これがおそらくその起点)
(……遺憾だけれど、レベルの桁が違うわね。わたしが消し去ることのできるような、そんな甘い造りじゃない)
(これは現代の魔術師に扱えるようなモノじゃない。よって消去は不可能)
(……貯蔵されてる魔力を横からつついて流出させるくらいは可能か)
(でも、それじゃ時間稼ぎにしかならないわね。根本的な解決策にはなっていない)
(けど――)
 ――本格的な発動の前に、使い手をデリートすれば万事解決だ。
「よしっ」
 考えが纏まったところで、短く気合を入れる。
 と。
「ねえ、まだ根に持っているの?」
 隣から相棒の声。
 凛はそちらを向いて、にっこりと微笑んだ。
「いいえー? これっぽっちも根になんて持ってませんともちくしょー」
「持ってるのね……」
 トリッシュの苦笑いを視界からぷいっと振り切り、凛はその場にしゃがみこむ。
 袖を捲くり、魔術刻印を露に。結界に貯まった魔力を消し去る準備を進める。
 中途で、凛はぼそっと呟いた。
「冗談よ……もう諦めたもの。だいたいわたしが未熟なせいなんだし。むしろ三十年で済んでラッキーわたし」
「卑下なのか前向きなのか判断が付きかねる発言ね……」
 トリッシュは嘆息を漏らし、続けて取り繕ったような慰めを返した。
「凛、ほら、気落ちしている時は思考がネガティヴに働くものよ。帰ったら一緒に映画でも見ましょう? 一晩中付き合ってあげるから。何なら添い寝でもしましょうか?」
 ネ? と小首を傾げて妙なシナを作るトリッシュ。凛はいささか青筋。
(絶対、踏み倒してやる……!)
 なんだか間違った誓いに胸を焦がしつつ、凛は結界の魔力を消し――






「――――なに、消しちまうの? そりゃ、わざわざご苦労なこった」






 その声は、給水塔から響いてきた。
 夜気に混じり、まるでカンバスに顔料が滲むかのように、それはじわりと、凛の聴覚を刺激する。
 同時に反応したのは、嗅覚だった。
 ……獣臭。
 さながらハントの直前のように、目を細め、舌なめずりを一つ、研いだ爪のグリップ感を確かめながら、虎視眈々とこちらの肉を狙う猛獣の臭気。
 凛は硬直した。だが刹那の後に全身を叱咤して、すぐさま主導権を取り戻す。
 声の方へと振り向き、仰ぎ見た。


 そこに、男がいた。


 男は学園の給水を担う球体の建造物の横手に立ち、腰に左手を当て、薄笑いで眼下を鑑みていた。
 蒼い痩躯。だが決して柔な体躯ではないと、凛は大悟した。あれは単に引き締まっているだけだ。生物は進化するモノ。始まりのバクテリアから人類に成り上がっただけでは飽き足らず、環境への更なる適応を目指し、カラダの変異を邁進させる。男のそれは、そういう類の延長上にあるものだった。人間、という種の性能を見限り、より“戦闘行為だけ”に適したスペックを求め、結果、そうなったのだと見る者に悉く主張している――そんな錯覚。
 脆弱な生き物、即ち人間が肉食の四足獣に逆行するようですらある。それは一種の芸術だった。あの細腕はきっと、持ち主に最高のレスポンスを返してくれるだろう。
 凛はいつのまにか忘れていた呼吸を再開し、傍らのトリッシュを慮る。彼女は、大丈夫だろうか。悪魔である彼女は、この獅子を相手取って、本当に勝ち名乗りを上げることが可能なのか。今更すぎて我ながら呆れるほどの心配だったが、それでも胸中で再確認せずにはいられない。
 だって、
(相手は、正真正銘のサーヴァントなんだから……!)
 まったくの無為なのは承知の上で、凛は身構える。
 この男は間違いなくサーヴァントで、それも、おそらく今までに敵対した誰より強い。それも頭一つどころか、身体全体で悠々と抜き去って遠目でなければ見失ってしまうほど。自分がいくら微塵の隙もなく構えていようとも、あの男には明らかに敵わない。役者の質が違うのだ。例えるならば、凛は地方の劇団員。男はハリウッドスター。そんなもの、どこの評論家の意見を紐解いても、差は歴然だろう。
 だからここは、トリッシュの出番。
 元来、そのためのサーヴァントである。
 丸腰ではライオンには歯が立たない。人間は、銃器を持って初めて猛獣に対抗できるのだから。
 目には目を、英霊に英霊を。そういう理屈。
(頼むわよ……伊達じゃないってところ、ちゃんと見せてよね)
 男の実力は計り知れない。ともすればトリッシュよりも強いのかもしれないし、あるいは弱いのかもしれない。どちらにせよ、それは結果であり、過程で油断などできない。勝敗とは、つまるところ“結”の取り合いなのだから、残りの“起承転”で手を抜くわけにはいかない。逆に言えば、最後さえ掴めば後はどうとでもなるのだが。
 半ば祈るような心地だった。そもそも凛は己のサーヴァントの実力を完全に把握していない。確かに宝具は見せてもらった。あの剣が凄まじいという事実だけは変わらない。だがそれで勝てるかどうかは別問題だ。剣ではなく、担い手の問題。果たしてトリッシュという悪魔の女は、あの男よりも強いのだろうか。凛は件の彼女を横目で窺う。
(……え?)
 驚きに、軽く目を見開いた。
 トリッシュは――泰然と微笑を崩していない。
 それはきっと、自信の現れだった。この状況で根拠なく笑う馬鹿はいない。必然的に、彼女のそれは余裕と見て取れた。
 得心が行くと同時に、凛は心強さを覚える。
 それもまた、自信に繋がるものである。そう、わたしが召還したのだ。ならばそのサーヴァントが最強と違うはずがない。
 凛は心身ともに気概を一転し、男を見返した。
「この結界は、アンタの?」
 訊く。
 男は肩を竦めて応えた。
「いや、俺はそういう悪趣味なの好まねえタチでな。人払いとかならともかくよ」
 継いで、男は苦笑。
「けどまぁ、別にどうでもいいんじゃねえの? 今はそんなの関係ねえさ」
「関係ない?」
「ああ」
 眉をひそめた凛に、男は右手を横にゆっくりと伸ばす。
「どっちにしろ、サーヴァントとサーヴァントが出会っちまったことに変わりはねえんだ。なら――」
 凛はその挙措を油断なく観察し、


「……ヤるこたァ、一つっきゃねえだろが?」


 そして、見た。
 男の薄っぺらい冷笑が、獣相。ケモノの哂いへと塗り変わる様を。
 同様に、男の右手に――唐突に深紅の“槍”が現出するのを。
 宝具。
 英霊の持つ、唯一無二の得物。
 凛は戦慄した。



   ◆



 槍を視界に認めるが早いか、凛は慌てて地を蹴った。後方へ。
 距離を置かねばならない、それも早急に。ここからはサーヴァント同士の戦いとなる。間合いの埒外にいなければならない。戦闘の余波に巻き込まれて惨死だなんて、お話にもならないからだ。
 トリッシュが動く。己の主を守護せんがために。
 男はおよそ考え得るよりも俊敏だった。残像すら許さず、刹那の内に間合いを詰める。
 トリッシュもまた素早かった。
「ハ――!」
 男の嬉々とした咆哮と同時に、槍が突き出される。狙いは凛。
 しかし、男が凛のサーヴァントの動向を視界に収めていたことは想像に難くない。あえて凛を狙い撃ちしたのだろう。当然、その槍は彼女のサーヴァントによって弾かれる羽目に陥った。
 魔弾の直線の進行方向が、唐突に横に逸れる。凛は眼前に躍り出た相棒の姿を認め、更に退いた。
 トリッシュは蹴りで男の槍を防いでいた。体躯が連動する流れで、淀みなく中段足刀。まるで蝿でも叩き落とすかのような無造作な蹴り。否、無造作というのは語弊がある。彼女のそれは、そうとしか見えないほど最小限度の動きだ。次弾に備えた無駄のない立ち回り。
 しかし男は距離を取った。数歩離れて、ひゅう、と口笛を一つ。
「なかなかイイ足してんじゃねぇか。敵にしとくには勿体なさすぎて涙が出るぜ」
 トリッシュは一笑に付す。
「ええ、泣かせてあげるわ? 犬のようにね」
 男はそれを聞いて、一瞬ぴくりと眉を顰めるが、しかしすぐに苦笑に変えた。
「……いや、まあ。アンタみてえな女に犬って呼ばれるのは案外悪くねえな。少なくともウチの糞野郎に言われるよか、ナンボかマシだ」
「あら、マゾヒストの素質があるのね。素敵ね、嬲り甲斐がありそうで」
「おうよ、存分に弄り倒せや。鞭でも蝋燭でも持ってこい。こっちもヤられっぱなしでイかねえけどな」
 なんだか妖しい会話だった。凛は少々赤面。
 ふと、男が眉尻を下げる。
「……それで、テメェは何なんだ? いや、サーヴァントってのは解かるがよ。けど、どうにも気配が違うな。よく解かんねえが、まともじゃねえ――」
 射るような猜疑の視線。
 男は気付いたのだろうか、トリッシュの表層から漏れ出す、希薄な気配に。
 悪魔の瘴気、とでも著せばいいのだろうか。彼女から微かに滲み出るそれは、どうしようもなく異質。勘のいい者ならば、きっと一般人でも感付くだろう。まあ、そんな敏感なアンテナを張っている輩はそうそういないだろうが。
 男は、今度はむしろ苦笑して、
「もう一度問うぜ。“何”なんだ、テメエは?」
「さあね。直接に確かめたら?」
「ハハ、そうすっかね。じゃあ、さっさと得物出せや。それっくらいは待ってやるからよ」
 告げるなり、男は後方に飛び退いた。トリッシュから約四メートル半ほどの隙間を空けて、男は槍を肩に担ぐ。
 気風のいい男ではあるようだった。凛はなんだか置いてけぼりの心地で、むうと眉根を寄せる。
(サーヴァント同士の戦いが起きた時、マスターって本当に蚊帳の外ね……下手に援護しても、邪魔にしかならないでしょうし)
 歯痒くはある。でも仕方ない。割り切るしかない。
 いざという時には令呪があるのだから、完全に外野に回るわけでもなし。 
 頼みの綱はトリッシュだ。この場は彼女に任せる。というより、そうする他ない。
 ……しかし当のトリッシュはいつまで経っても動こうとしない。相手の蒼いサーヴァントも「……あン?」首を傾げて睨んでいる。
 何故なのか。
 戦は既に始まっている。ゴングが鳴ってもただ突っ立っているだけのボクサーはいない。だというのに、彼女は微動だにしない。まさか怖気づいたということでもあるまいに。
 訝る凛。そして彼女が言った。
「凛」
 唐突に呼ばれて、凛は「え」と瞬いた。
 トリッシュは動かず、殺気すらなく、ただ――訊いてきた。




「それで、いつになったら、号令を掛けてくれるのかしら?」




(あ――)
 凛は驚きに瞼を見開いた。
 強かに、
 強かに、
 彼女のコトバは、わたしを鼓舞する。
 ようやっと凛は気付いた。
(彼女は、わたしを認めている)
 一昨日のやりとりが、記憶から甦る。
『あなたとなら、上手くやっていけそう』
 ……それはつまり、こういうコトだったのだ。
 号令をくれ、と彼女は言った。本来ならば反抗しても仕方のない、強制的な主従関係。それを認めた上で、わたしを立ててくれている。
 号令をくれ、と彼女は言った。それまでは待つと、彼女の艶やかな背中が物語っている。
 だって、使い魔は、主人の命令無しに動いてはいけないモノだから。
 凛は息を呑む。
 瞼をきつく閉じる――嬉しさに。
 それはこの上ない喜びだった。
 誰かに認めてもらえる。それはなんて心地よいのか。無論、経験がないわけではない。学校では自他共に認める優等生だ。
 けれど魔術的な側面では、わたしは誰かに認めてもらえたことが、果たしてあっただろうか。
 額面通りではない、本当の自分を“遠坂凛(じぶん)”として見てくれただろうか。
(……そう、か)
 彼女は認めると言った。
 それはつまり、こういうコトだったのだ。




(――――信頼、されている……!)




 ならばそれに応えるのが、暫定的ではあれど、主としての使命ではなかろうか!




 凛は視界を開いた。毅然とした態度で、己のサーヴァントの背中を見返す。
「トリッシュ」
 声を投げる。頼もしき相棒へ贈る、マスターとしてのコトバ。
「貴女の力、ここで存分に揮いなさい。っていうか、私のサーヴァントなんだから、甘やかさないわよ?」
 にっ、とひとつ笑って、凛は胸の前で両手を組んだ。ここからは傍観に徹する。無論、いざという時は援護するが。だがそれも無用かな、と思う。
 信じている。
 わたしは彼女の実力を崇拝している。
 だからきっと、彼女は最高の形で応えてくれる。
 盲目の信頼。けれど、確かにそれはたった今ここで繋がったのだと――まるでそう凛の胸中に返答するかのように、トリッシュは背中をひとつ奮わせた。
 ここから本格的に始まる。夜は長いのか、それとも短いのか。予測の付かないチキンレース。脱落するわけにはいかない。その為に、緒戦は輝かしい勝利を得たいところ。そうね、と口の中で呟き、凛はもうひとつ命令を下す。
「十分くらいで片付けましょう。あんまり夜更かしが長引くと、肌に悪いから」
 ユーモアを混ぜた凛の言に、トリッシュは「フ」と苦笑したようだった。
「……十分? 冗談じゃないわ」
 と、トリッシュは左の手指を開いて、






「……Five minutes(五分よ)」







 とても素敵な台詞を返してくれるのだった。














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