幕間劇「王の流儀」



 サー・エクトルは地に膝をつけ、深々と頭を垂れた。サー・ケイもそれにならう。
 自らを強く、そして優しく育ててくれた義父と、共に競い合い健やかに育った義兄が自らに跪くのを見て、彼は何も感じなかった。
「我が王、アーサー様。わたくしはあなたの父でもなければ血を分けたものでもございません。あなたは私が考えていたよりも高貴な血筋の方なのです。
 王となられましたあかつきには、優しく慈悲深い主君になっていただけますか?」
 サー・エクトルは一度も顔を上げずに、そう願いを込めた。
 その光景を全く予想していなかったといえば嘘になる。もう自分は彼を父と呼び、その傍らの人を兄と慕う事もないだろう。
「誓いましょう。この剣に」
 故に、アーサーは答えた。
 それは王となって最初に背負った他者の願い。答えた言葉に、固い誓いと、決別、そしてほんの僅かな悲しみを込めて。そしてもう二度と心の弱味を見せぬと誓う。
 一つの終わりを告げた親子の絆。
 手の中には美しい黄金の剣。真の王を選び出す<選定の剣>
 この剣を抜いた時から、一人の人間の物語が終わり、一人の王の物語が始まったのだ。






「……王、眼をお覚まし下さい」
 その時、蹄の音と呼び声が聞こえ、アーサーははたと白昼夢から現実へと引き戻された。彼が着ているのは夢で見た平民の服ではなく、その足も地に着いてはいなかった。彼は気高い白に染まった軍馬に跨り、その身は彼のみにあつらえられた白銀の甲冑を着込んでいた。
 傍らを見れば、王の傍に立つ事を許される程の騎士でありながら、まだ年若い青年が心配そうにこちらを覗き込んでいる。アーサーは、若さから新参であろうその騎士の名を知らなかった。
「……束の間、夢を見ていたようだ。すまない」
 軽く頭を振り、わずかなまどろみを払うと、アーサーは馬に乗りながら居眠りをした自分の神経の図太さにほんの少しだけ苦笑した。
 その、ともすれば見落としそうなほど僅かな笑みを見て、若い騎士は驚きに眼を見張り、その貴重な光景を後で鮮明に思い起こせるように記憶に刻んだ。
 若い騎士は、王に真の忠誠を誓っていた。
 彼の王は誰よりも優れた騎士であり、強く、気高く、そして美しかった。今も自らの先を進む王の横顔は少女と見紛うばかりに端整で、神々しく、つわものの騎士に囲まれながら全く違う輝きを放っている。そして誰よりも、王としての黄金の精神を携えていた。
 アーサー王こそ最も優れた王。
 それはもはや彼だけではなく、多くの騎士の確信となっている。
 だが、彼には一つだけ気になっている事がある。アーサー王が王として力と栄誉を手にするほど、王は笑わなくなっていった事だ。
 だから、先ほどの王の笑みが例え寝起きでの自然的な口の動きでしかなかったとしても、彼は貴重な記憶として宝物のように心の奥へ仕舞って置く事にした。
「いえ、もうじき丘に差し掛かりますので」
「安心しろ、例え眠っていても王が落馬するなどありえない。馬の方が落とさぬだろうよ」
 緊張を表に出さない努力が全くの徒労に終わっている、汗を滲ませ頬を赤く染めたその騎士とは反対の位置に並んだ騎士が茶化すように答えた。それは王を前にして少々気安すぎる言葉だったかもしれないが、場の空気を和ませる効果は十分にあった。
 完全に覚醒したアーサーはその冗談にピクリとも表情を変えなかったが、傍らの騎士のフォローに内心感謝していた。言葉少ない自分を補佐してくれるのは、いつも傍らに控える執事(セネシャル)であり、かつて兄と呼んだ男だ。
 アーサーが辺りを見渡せば、荒涼とした風景とその中を歩く自らの屈強な騎兵隊が広がっていた。焼け残った木々の切り株が転々と広がる焼け野原だ。戦闘にさんざんかき乱された今、そこは身の毛もよだつような沼地と化していた。戦いによって勝ち得た土地ではあったが、残ったものは何もない。灰色の泥と血の絨毯が敷き詰められた戦の爪痕でしかなく、緑の葉は一枚として残ってはいなかった。
 その沼地の向こうにはまだ広大な松林が広がっていたが、朝霧に包まれたそこは今ひどく禍々しく見える。その奥に潜むモノの事を考えれば尚更だった。
 騎兵隊一行がなだらかな丘の上に揃うと、彼らは一様に目の前の松林を睨み、木々の間の闇に眼を凝らした。
「この辺りです、サクソン軍の残党が確認された場所は」
「この周囲一帯の敵は以前一掃したはずだ」
「だがこの国にいる全てのサクソン人を一掃したワケではない。奴らは何処にでも湧いて出る」
 背後に着く騎士達の報告と会話を聞き流しながら、アーサーも他の者と同じく林を見つめていた。
 不可解である事は彼自身も感じていた。『サクソンの残党』と言ったが、確かな報告があったワケではない。しかし、その報告を前提として支度をし、隊を揃えた。騎兵隊の数は多いが、本格的な戦をする想定ではないので投射器や対軍武具も持ってきていない。
 恐れなどないが、戦闘の指揮官としての懸念や不安はあった。アーサーの未来予知にも近い直感が、何かひどく気持ちの悪い感触を感じている。
「……余計な疑念は挟むな。我々はここに敵が潜んでいる事を想定し、それを打倒する事を想定している」
 しかしアーサーが厳かに告げると、騎士達は皆口を噤んだ。内心の動揺など欠片も現れない、王として完璧な態度と威厳だ。そして同時に、彼自身が戦の為に在る剣であるかのように人間味を感じない声だった。
「弓兵隊を前へ。火矢を放ち、敵を森から燻り出す」
 戦の常識に忠実な王の命令を受けて、軍隊が動き出す。それは奇しくも、彼らがここでサクソン人の軍隊と戦った時にとった戦法と同じだった。あの時はアーサー王の采配により勝利を収め、同時にこの地を目の前に広がるような泥と燃え残りだけの荒地に変え果てた。
「弓を構えろ!」
 下級士官が後列に向かって叫び、弓を構える兵達の前に一直線に敷き詰められた藁に火が灯される。
 その時、弓兵よりも優れた視力を持つアーサーは闇に蠢く人影を捉えた。
「待て、出て来たぞ!」
 突如として上がった声に、全員の目がさっと森に注がれた。皆、緊張と高揚に体を強張らせている。
 木々の間から薄汚れた外套と胴着を重ね着た男が一人、現れた。血と泥で薄汚れ、伸ばした髭がまるで野生の獣のような容姿に見せかけている。見慣れたそのおぞましい姿は、侵略者サクソン軍の者に違いなかった。
「様子がおかしい……」
 誰とも分からぬ呟きが兵士たちの間に広がる。
 その男はひどく静かだった。戦の挑戦状を叩き付けるワケでもなく、軍に向かって特攻するワケでもない。まるで酒に酔ったかのような足取りでフラフラと木々から抜け出し、流血した顔には生気がない。それでいて降伏の意を表す様子はなく、片手には抜き身の剣を無造作にぶら下げている。
「―――弓を構えろ」
 戸惑った空気が漂う中、アーサーだけが平然とその男を見つめ返し、再度命令を下した。
「しかし、降伏する可能性も……」
「命令は二度言わん」
 慈悲のない王の答えを聞き、士官は異議を唱えるべきかどうか迷った。主の凛々しい横顔が、今は剣の刀身のように冷たく見える。王に対して不義を持つ事など有り得ないが、時折畏怖を感じる事がある。それが今だった。
 彼は何と言うべきか一瞬悩んだが、答えるより早く状況が動いた。フラフラと依然歩き続けるサクソンの兵に続くようにして、木々の間から一人、また一人と敵が現れ始めたのだ。その全てが一同にしてのろのろと歩き、敵の軍隊を前にして雄叫びの一つも上げない。まるで亡者の如き歩みでジリジリと距離を詰めてくる。
 不気味な進軍を目の前にして兵隊達は僅かに後退った。敵からは何の覇気も感じないが、数だけは不可解な程に多く、何より全体が纏う禍々しい雰囲気が彼らを徐々に圧倒している。
 アーサーは馬を一歩前進させた。その周りを騎兵連隊が取り囲んでいる。彼は、あまりに鈍い敵の進軍を見下ろす形で丘の頂上に立っていた。
 アーサーもまた敵の異常を感じていたが、やはりそれを表情に出す事はしなかった。
「見ろ。あれほど禍々しい生気を放つ相手が敵でないと言えるか?」
「はっ、ですがあれはサクソンの軍にしては……」
「あれが敵であるとわかったのなら」
 言い淀む士官の恐れを視線で貫き、アーサーは颯爽と剣を抜き放った。
「迷う必要はない。恐れずに戦え! お前たちは騎士だ!」
 張り上げた王の声は動揺と恐怖の中にあった兵士たちの意識を現実に引き戻した。その一声で、にじり寄る得体の知れないモノに対して怯えていた少年達が騎士に戻った。
 鞘から抜き放たれ、王の手に納まった黄金の剣が高々と掲げられる。美しい装飾と刀身から放たれる輝きは眼下の兵士たちに等しく注ぎ、それが神の代わりに加護を与えているようだった。
「死を捨てろ! その手に力と名誉を!!」
「力と名誉を!!」
 アーサー王の叫びに、騎士達も声を揃えて応じた。
 それまで呆然としていた弓兵達が今一度矢を番え、足元で燃える藁に矢じりを差し込んで、油に浸した布を巻いた先端に火種を移した。弓兵は長弓をじりじりと限界まで引き絞った後、さっと一斉に放った。
 騎兵全員が見守る中、炎の矢は弧を描き、歌うような音を立てて宙を飛んでいく。雲の掛かった薄暗い空を切り裂き、それは火の雨となって愚鈍な敵軍の真っ只中に降り注いだ。
 小さな火種が何百と重なり、何人もの敵を炎で包み込む。矢を受けて倒れる者を踏み越えて進む中、更に第二射が素早く放たれた。空が炎で埋まり、そしてすぐに三度目の掃射が―――。
「……おかしい」
「ああ、全く怯まない!」
 騎士達の間に再び不穏な空気が漂い始めた。信じられない事に、サクソンの不気味な兵士たちの波が崩れ落ちた仲間の死体を踏み越え、なおも変わらぬ遅い進軍を続けていたのだ。火矢の洗礼を受け、勇ましく吼える事も、駆ける事もせず、何も変わらぬフラフラとした足取りのままで。まるで悪夢でも見ているような光景だ。
 アーサーはサクソンの野蛮人達に対する怒りが、今初めて戸惑いに変わるのを感じていた。眼下には男達の大群が増水する川のごとく、森から注ぎ出す様子が広がっている。
 すでに支配したはずのこの地にこれだけの数のサクソン軍が残っていた事も異常だったが、幽鬼のような敵の様子も常軌を逸していた。そこらじゅうで不安にかられた馬が跳ね返り、近づきつつある大混乱を恐れている。
 しかし、アーサー王とその部下たちは怯えるだけの子供ではなく、厳しい訓練と戦を経た騎士だった。
「兵士たちよ、準備はいいか!?」
「おう!!」
 肩と肩を並べて整列した騎士達が応じた。
 アーサーの乗る馬が陣形の先頭に立つ。誰よりも強く、誰よりも勇ましく、そして誰よりも尊い王は、これまで誰よりも前線に立って戦い抜いてきた。君主たる彼が倒れれば軍の大きな損失であると自覚していても、彼は戦に立つ事を止めなかった。
 多くの傷を負い、それより多くの敵を斬り殺して、彼は戦い続ける。
 その振るう剣の先、民と自らの騎士達を含む一人でも多くの人間が笑顔で居られる為に。
 その理想の下、笑顔で逝った者達の為に。






 ―――それは夢ではなく、もう変えようのない過去(げんじつ)に他ならない。


 成人したばかりの騎士が王となる。そこに選定の剣と魔法使いの奇跡の影に隠れた反発があった事は否めない。
 それを行動で捻じ伏せる為、アーサーは誰よりも優れた王である事に徹した。
 結果、手に入れたのは孤独。
 彼が目指したのは理想の王。
 騎士が求めたのは理想の王。
 そこに人間としてのアーサーが入り込む余地などない。彼は王として、人の上に掲げられる虚像として扱われた。
 だがそこに、何も存在しなかったわけでもない。ある名も無い騎士が、またある名高い騎士が、アーサーの掲げる剣の下に忠誠を誓った。
 多くの人々が笑顔でいる為に―――。
 そんな単純で、困難で、愚かしくて、そして何よりも尊い願いを抱く彼の心に賛同する者がいた。王という虚像でなく、その人間として誰しも一度は願う奇跡を果たす為、共に戦う同志がいた。アーサーの傍に、寄り添う者達がいた。
 しかし、アーサーが彼らに与えてやれたものは早すぎる死だけだった。
 自らが剣となって誰よりも戦う王。奇しくもその傍に近づくほど、その者は死に近くなる。
 故に、また一人。
 幾つもの血が流れ、幾つもの心許す同志の命が失われた。今は寂しく眠り、忘れられていく。その中で王は、ただの一度も涙を流さない。涙と共に彼らの記憶を流し出すよりも、その身に刻んで生涯忘れ得ぬものとせんと。
 そうして泣かない王を、冷たいと囁く者も多く。
 そして、また一人。
 戦うと決めた。それが、彼の誓い―――。
 多くの孤独を経て、近づく者から失って、心を鉄で覆って。
 それでも戦うと決めた。
 故に、彼は一人。
 剣と鎧と屍の丘の上、彼はただ静かに勝利を見つめる。


 ―――それは夢ではなく、もう変えようのない過去(げんじつ)に他ならない。






 ちゃんとした『戦い』は、敵の別働隊が軍の横腹を突く形で現れた時に終わった。
 この国中のサクソン軍を相手にしているかのように際限無く無尽蔵に現れる敵の群れを、もはや統率など消え失せた騎士団が各個で迎え撃つ。混戦などと生易しいものではない。四方八方から降ってくる剣の雨を誰もが夢中で避け、受け、斬り返し。人の群れは皆等しく魔女の釜の中のように撹拌され、最後は誰もが何も解らず血の海に沈んでいった。
 混迷極まる戦場を、アーサーは必死で駆け抜ける。剣を振るって他者を庇い、自らは甲冑で刃を受け、見える敵から片っ端に斬り倒し……。
 その後の状態は、熱に浮かされたようにぼうっと夢を見ているようだった。
 真ん中から分断されたアーサーの軍の内、前線で戦っていた者達は完全に孤立する事になった。押し寄せる亡者の如き敵に追い立てられ、後方の味方から遠ざかっていく。
 アーサーは狂ったように走り回り、部下たちに警告を与えながら小競り合いを繰り返した。彼の指揮のもと、騎士達は編隊を組み、猛然と陣地を守った。その戦いは数刻か、それとも丸一日続いたのか。
 気がつけば、アーサーは一人になっていた。
 気がついたというより、我に返ったと言った方が正しいかもしれない。つい先ほどまで剣戟の音が聞こえていたような気がするのに、ふと気がつけばもう周りに音を発するものは何一つない。剣も、人も。全てが赤く染まった大地に沈んでいる。
 アーサーは剣を支えにして、跪いていた体を持ち上げると、その凄惨な光景の中を歩き始めた。死者の間を歩き回る内に恐怖と昂奮が醒めて気だるい余波が訪れた。あの激戦の中で、敵も味方も含めてアーサーだけが生き残っている。嬉しいというより、呆然としていた。この戦いに挑む前は、このような無残な結果になるなどアーサーを含める誰一人として予想はしていなかっただろう。
「誰か……生き残っている者はいないのか!?」
 アーサーは沈黙の降りた戦場に必死で呼びかけた。
 誰もが予想すらしなかった敵の大群。その劣勢の中で敵と相打って全滅させる事が出来ただけでも、あの状況では奇跡に等しい。その上で生き残れる者がいると思うほど彼は楽観していなかったが、それでも呼び掛けずにはいられなかった。
 『こう』ならない為に王となったのに―――。
 無力感に蝕まれながら、アーサーは死んだ戦場を徘徊する。
 そうして時間の止まった場所で、不意に聞き慣れた音を捉えると、アーサーは這うようにしてそこに駆け寄った。おぞましい獣の皮を被るサクソン人は身につけない、甲冑が鳴らす金属音だ。
 アーサーは敵味方等しく切り刻まれた死体の山から、そのかすかに動く生存者を引きずり出した。
「大丈夫か……っ!」
 返り血か、あるいは自分の血か、赤く染まった鎧を着たその騎士を抱き起こして顔を覗き込んだ途端、アーサーは脳に衝撃を受けて口元まで出掛かっていたあらゆる励ましの言葉を忘れてしまった。
 甲冑の隙間に半ば折れた槍を深々と刺したその騎士は、あの年若い―――数少ない王の笑みを見た事のある騎士だった。
 彼はかすかな笑みを浮かべ、遠くを見つめるような目で自らの王を見た。
「ご、ご無事で、な、な、なによりです」
 彼の声は穏やかだったが、ひどく震えていた。
「しっかりしろ!」
「ああ、いけません。王、鎧が……王の鎧が汚れて、しまい、ます……っ」
「良い! そんな事を気にするな!」
 血まみれの騎士を抱き上げたアーサーの甲冑は返り血がべっとりとこびり付いたが、それより前に彼の甲冑はおぞましい敵の返り血で赤く染まっていた。
 口の中に広がって、あっという間に溢れ出た血でゴポゴポと喉を鳴らしながら必死に言葉を紡ぐ騎士を黙らせる。しかし、すでに致命傷であると、アーサーも本人もよく理解していた。
「……すまない……っ!」
「嘆いて……おられるのですか、王?」
 歯を食いしばり、呻くように呟くアーサーを見て、騎士はにっこりと子供のような笑みを浮かべた。
「ああ、やはり……アナタは、お優しい。アナタの、剣の下で戦えた事を、私は……誇りに、思います……」
 彼は濁り始めた目で、短い時間だったが自らが命を賭して仕えた王に淡い笑みを向け、それから迎えに来ている誰かを見るように、空に目を向けて呟いた。
「どうか、優しく……慈悲深き、王に…………」
 血まみれの手の上の肉体から生命が去っていくのを、アーサーは感じる事が出来た。ただ呼吸が止まるだけではない。その若い騎士はあまりに短い人生と共に逝ってしまった。傷だらけの殻を残して。
 随分長い間、アーサーはその場を動けなかった。そこにじっと座り、彼の心に触れてくれて、そして死んでいった同志を見つめていた。鎧と同じように鉄で塗り固めた顔は涙を流す事が出来ない。しかし、兄弟を亡くしたのと等しいほど深い悲しみに襲われていた。
 再び舞い戻ってきた忌まわしい沈黙の中に、遠くで響く剣戟の音が聞こえてくる。分断された後方の騎兵隊は未だ敵と戦い続けているようだ。
 駆けつけなければ。死んだ彼らの骸を捨て置き、まだ戦っている部下たちの為に向かわなければならない。それが王としての務め。騎士としての流儀。
 遺体を横たえ、アーサーは自らの剣を取ると立ち上がった。


「やめた方がいい」


 不意に聞こえた声に、アーサーはさっと後ろを振り返った。
「人間相手の戦ではない」
 真っ黒な影が立っている。そう錯覚するほど、ただ黒に染められた外套を羽織り、小柄なアーサーの倍近い体躯を持つ一人の男が、いつの間にかこの死者の庭に入り込んでいた。
「……何者だ?」
 慎重に、アーサーは問い掛ける。
 この死地に足を踏み込む事自体もそうだが、その男の容貌は戦場に迷い込んだ農夫などとはかけ離れていた。
 銀細工のような、見たこともない銀髪を後ろに流すように纏め上げ、露になった顔立ちは女が嫉妬する程に美しく整っている。それに反して外套の下には服の上からでもわかる程鍛えられた体躯があり、その顔に刻まれた鋭い両眼は血のように赤い危険な光を宿していた。
 そして何より、背中に背負った剣。野晒しの刀身は鈍い鉛色の光沢を放ち、その長さはアーサーの身長を超す程巨大なものだ。並の人間が扱う代物ではない。
 互いに剣は構えず、しかし奇妙なほど緊迫した空気を間に保って、二人は対峙した。
「名を名乗れ」
「名はスパーダ。しがない旅の剣士だ」
「ここで何をしている?」
「戦だ。私だけの」
 意味不明な答えに、しかしアーサーは顔色一つ変えなかった。ただ、鋭く睨みつけるように視線を送る。
 警戒するアーサーとは裏腹に、スパーダはリラックスした体勢で微笑を浮かべていた。それはもちろん相手を嘲笑するようなものではなく、敵意を薄れさせる為の友好的なものだ。
 僅かな問答が終わると、奇妙な沈黙が降りた。その中で、アーサーは油断無く視線を走らせ、相手を探り、そしてその足元で目を留めた。
 表情が変わる。明らかな敵意へと。
 スパーダと名乗った男が視線に気づき、自らの足元に向けると、そこには名も知らぬ騎士の死体とそれを覆うように伸びる自分の影があった。薄く雲に隠れているとはいえ、太陽を背にしているのだから、あって当然のものだ。
 ただ一つ、その影が人間の形をしていないという事を除いては。
「お……」
 地面に広がる、人に蝙蝠の羽を生やしたような異形の影を見下ろし、スパーダは気まずげに言葉を探す。その黒いシルエットは、古来より人が<悪魔>と呼ぶ者達を空想した姿に酷似していた。
「……念のため言っておくが、私は敵ではない」
 言った。次の瞬間、アーサーが風のような踏み込みで間合いをゼロにまで詰め、自らの剣を高速で薙ぎ払った。
 常人ならば気がつかない内に首を落とされているであろう閃光のような一撃を、しかし男は抜き放った大剣で受け止める。鉄の門を大槌で殴りつけたような、剣戟とは思えない凄まじい金属音と振動が空気を震わせた。
「……話をしないかね?」
 小柄な体に似合わぬ強力な剣圧に顔を顰めながら、スパーダは場違いなほど気安く話しかける。しかしアーサーは更に表情を険しくさせた。剣としては標準的なサイズである彼の剣の『抜き』の速さと、スパーダの鉄塊のような大剣の速さはほとんど同じだった。
 悪魔を模した禍々しい装飾を持つ剣と、それを不自然なほど自在に操る細腕。そして何より、纏う空気と存在感そのもの。全てが人間離れしている。
「魔性の類が、血に呼び寄せられて迷い出たか!?」
「人間でない事は認めるが、私は敵ではない。剣を収めろ!」
「貴様と話す口は持たん!」
 稲妻が煌めくような剣閃が矢継ぎ早に繰り出される。幾多の敵を葬り去った、アーサー無敗の剣をスパーダは巨大な剣を盾のように掲げて全て受け止めた。黄金の宝剣に秘められた力は鎧ごと敵を切り裂くほどに強力だが、一見ただの鉛の塊に見える彼の大剣はそれらの斬撃全てに耐え切っている。
 死者の横たわる戦場で、二人だけの激しい闘争が繰り広げられた。どちらの剣さばきも人の身を超えた速度を持ち、その狂暴性も大差ない。それは剣戟ではなく嵐。二人を中心に刃の風が螺旋状に吹き荒れる嵐そのものだった。
 攻撃と防御が同時に、絶え間なく続く。この二人の剣士の力は全くの互角のようだった。
「人の力ではないな」
 アーサーの猛攻撃を清流のように受け流しながら、スパーダは呟いた。
「この地で猛威を奮う騎士の王は、竜の血を引き継いでいると言う。君がそうか」
 アーサーはスパーダの言葉を右から左へ聞き流していた。あらゆる攻撃が、彼の持つ黒い鋼鉄に受け流されていく。斧槍に匹敵する重量級の武器でありながら、まるで柳を振り回しているかのように柔らかく、速く、そして強く。
 その剣技は何処かで見たことがあるような面影を持ちながら、あらゆる剣技と全く違う。つかみ所がない。目の前の人に似た人でない者が、アーサーの生涯で最大の敵であろう事は確信できた。
 それでもアーサーは剣を振るう手を止めない。戦争の時と同じ、汚れのない信念と自信を持って、手に馴染んだ黄金の宝剣を振り抜く。
「しかし、名高い騎士の王が君のような見た目麗しい『少女』とは驚きだ」
「私は女ではない!」
「ほう、そうかね?」
 見透かすような視線と嘲笑を受け、アーサーは頭に血が上るのを感じた。大振りの横薙ぎが音を立ててスパーダの目の前の空間を引き裂いていく。
「どちらにせよ戦場で君のような人間は珍しい。私は多くの戦地を回ったが、君のような若い少年が少女のように犯され、蹂躙されるのを何度も見てきた。『そういうもの』ではないのか?」
「貴様……っ!」
 それが明らかな挑発であると分かってはいたが、理性を超えて感情が爆発する。怒号と共にかつてない殺意と力を込めて一撃が繰り出された。雷撃に等しい輝きを放つ斬撃が飛来する。
 しかし、それまでと違い剣は弾かれなかった。互いに次の一撃を放つ為剣を振り抜いていたが、唐突にスパーダは剣を射線上に掲げるだけに留め、盾のように攻撃を受け止めたのだ。
 それまで高速で刻まれていた剣戟の旋律は不意に停止した。リズムを寸断するような唐突な制止に一瞬硬直するアーサーの首筋に向けて、スパーダは足元に転がっていた死者の剣を蹴り飛ばした。ここは戦場の跡、武器ならば幾らでも転がっている。かつてそれを振るっていた死体と一緒に。
 まったく予想だにしなかった方向からの攻撃にも、アーサーは驚異的な直感で反応した。柄を爪先に乗せ、槍のように突き出された剣先から顔を逸らせてかわすと、慌ててスパーダから距離を取る。それは騎士として屈辱的な後退だったが、その一瞬だけアーサーは余分な事を考える余裕を失くした。
「貴様、死者の剣を……っ!」
 剣先が頬を掠め、流れる血の滴を拭いながらアーサーは憎々しげに相対する人外の剣士を睨み付けた。
 騎士にとって剣は魂だ。それを足で弄ぶ事は死者への冒涜に他ならない。そんな騎士道に沿った怒りの傍らで、同時にアーサーはスパーダに感嘆と畏怖を抱いていた。
 スタンダードな剣術が常識となる騎士の中でも奇抜な剣術を扱う者はいたが、戦場に転がっている剣を足で使う剣士などは見たこともない。これは技ではなく機転だ、誰も考え付いた事のない戦いの発想だ。
 薄々感じていた、相手との戦闘経験の差が如実に示されていた。目の前の優男に見える剣士は、見た目に違い老練な戦士なのだ。
「君の剣には少々、柔軟さが足りない」
 言いながら、スパーダは足元に転がる別の剣を蹴り上げ、大剣を片手に持ち替えて空いた手にその剣を取った。二刀流、それも互いの剣の重量からリーチまで違う左右非対称な歪な構えだ。
「さあ、こう来たぞ。どう、対処する?」
 スパーダはまるで試すように冷や汗を滲ませるアーサーを挑発した。
 自らの大剣を槍のように前に突き出し、半歩退いた左手で拾った剣を掲げる。位置的には大剣が盾の役割をしているが、果たしてその見た事もない構えからどのような太刀筋が繰り出されるのか、アーサーには予測すら出来なかった。彼にとって、全く未踏の戦いだ。
 両手で剣を正眼に構える正統な構えを取りながら、アーサーは内心の動揺を押さえ込んだ。こんな戦い方は知らない。だが自分に出来る事はこれまで磨いた剣技を信じて突き進む事だけだ。彼は覚悟を決めた。
「潔い判断だ」
 迷いを振り切り、鋭くなった眼光を受けてスパーダは全てを察した。呟く言葉には素直な賞賛が含まれている。彼の眼には、これからより磨き抜かれ名剣となるであろう刃鉄の姿が映っていた。
 二人が対峙する度に張り詰めた空気が上げていた悲鳴が再び聞こえた。死者の転がるこの不毛な場所で、皮肉にもこの二人の強烈なまでの生命力が周囲の死臭を圧倒していた。
 何時、どちらが相手に斬りかかってもおかしくはない。止まった空気の中、砂時計が落ちるように激突の瞬間が迫る。
 そして、いよいよ戦いの火蓋が切って落とされる―――何故か二人が同時にそう確信した。
 瞬間、弾けるようにスパーダが持っていた死者の方の剣をアーサーに向かって投げつけた。
 その行動は完全に虚を突いていた。アーサーと、そして投げたスパーダ本人さえ。
 矢のように飛んだ剣は咄嗟の事で完全に身動きの取れなかったアーサーの顔のすぐ横を通り過ぎていった。ほとんど同時に、背後から剣先が肉に突き刺さる生々しい音が聞こえる。
「後ろだ!」
 緊迫したスパーダの声に、思わずアーサーは振り向いていた。敵対する相手から眼を逸らし、あまつさえ背を向けるなど戦いにおいて決して行ってはならない愚行だったが、切羽詰った声は彼の体を無意識に突き動かしていた。
 そして振り返ったアーサーの視界に入ったモノは、あるいは戦場以上の悪夢だった。
 地面に倒れていた死体が音も無く起き上がっていた。来ている甲冑からそれが騎士である事はわかったが、その頭は彼を『殺した』何者かの戦斧によってカチ割られ、ザクロのように爆ぜ、左腕は千切れ飛んでいる。そして先ほどスパーダの投げた剣が下腹を貫いて背中から突き出ていた。
 どう考えても立ち上がれるはずがない。だが現実に、相手は静かに、そして身軽に起き上がった。
「な、なんだ……これは?」
 アーサーもまた多くの神秘を経験した選ばれし騎士だった。自らの体に流れる竜の血、彼の知る魔法使い、人ではない生き物。多くの幻想を目の当たりにした彼にとって、常識を超えた不可解な物事を目にした程度で動じることはない。
 その彼の身体が小刻みに震えている。
 怖いのだ。
 これまで見た事もない、このおぞましい光景が恐ろしいのだ。
 目の前で次々と死体が起き上がっていく。味方の騎士も、戦っていた敵も等しく。その様子は丁度、アーサーと騎士達が戦った不気味なサクソンの大群と酷似していた。いや、そのものだった。彼らの目に生気はなく、しかし確かに魔術などでは説明のつかない禍々しい生命の波動を放っている。まるでその亡者たちが既に別の生命であるかのように。
「やれやれ、君との戦いに夢中になりすぎた。巻き込んでしまったようだな」
 急激に淀み始めた周囲の空気の中、ついさっきまで対峙していた時と同じような口調でスパーダが呟いた。
 無造作な歩みで近づくと、硬直したアーサーの肩越しに鋭く大剣を突き出し、斧のように幅広い剣先がのろのろと立ち上がった死体の頭をあっさりと斬り飛ばした。
 我に返ったアーサーは弾けるように振り返る。周囲で蠢き始めた亡者の群れを眺めるスパーダの横顔が眼に入った。
「見るがいい、騎士の王。死者の体を乗っ取ってこの世に這い出た、聖なる光にも神の力にも裁く事の出来ない、本当の<悪魔>の姿を。アレには聖職者の祈りも通じん」
 アーサーは戦慄した。周囲の動く屍たちにではなく、目の前の男の背中から放たれる圧倒的な黒い瘴気に。それはこの死地に漂う闇を何倍にも濃縮したような、あるいはその闇の根源がこの男であると錯覚してしまうような暗黒の気配だった。いや、この男が闇の中心でないと何故言い切れるのか。
「―――さあ、ここからは私の戦だ」
 断罪の刃の如き大剣を掲げ、スパーダは厳かに告げた。






 どのくらい時が経っただろう。
 あるいはそれは瞬きする間の事だったのかもしれない。アーサーの周囲にはつい数刻前と同じ死者の群れが横たわっていた。『戦いで死んだ者』も『死にながら戦った者』も。
 動き出した亡者たちは、もう一人として残っていない。その動かない屍の山の中心で、墓標の如く自らの大剣を地に突き立て、佇む黒い剣士の姿があった。
 彼の戦いに加勢する必要すらなかった。ただ獲物を狩る一方的な悪魔の殺戮。ただ目の前の光景を見るだけの生ける彫刻と化していたアーサーは、佇むスパーダの体を取り囲むように漂う黒い靄を、確かに見た。それが耳に聞こえぬ絶叫を残して消滅していった異形の魂たちである事に、彼はなんとなく気付いていた。
「……お前は、何者だ―――?」
 アーサーの口を突いて出た疑問は、ただそれだけだった。
 常識では計りきれない光景を見た事も、それらの原因も、何もかも差し置いて、ただそれだけを彼は淡々と尋ねた。
 黒い魔剣士は振り返る。
「―――魔剣士スパーダ。悪魔の『仲間内』では、そう呼ばれていた」
「悪魔が何故悪魔を狩る?」
「別におかしな事ではない、君たち人間が人間同士で殺し合うように」
 スパーダはアーサーに皮肉げな微笑を向けると、剣を背に担いで軽い足取りで歩み寄った。激しく鼓動していた心臓は既に落ち着き、アーサーは戦場でいつもそうであるように冷徹な仮面を被り、スパーダと対峙する。
「我々が討伐した筈のサクソンの軍も、あの亡者の群れも、貴様が仕向けたものか?」
「違う、アレは悪魔に体を乗っ取られた者たちだ。
 君たちはこの地で人を殺し過ぎた。悪魔は狂気と混沌の渦の中心に現れる、奴らは君たちの闘争と血に呼び寄せられたのだ」
 他人事のように淡々と告げられるスパーダの言葉。それを聞いてアーサーは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
 話された内容は衝撃的なものだったが、彼に不快感を抱かせているのはスパーダの口調や様子だった。
 彼は自らも悪魔でありながら、悪魔を狩った。それは結果的に人間を守ったことになる。だがその行為を素直に感謝しようと思いながら、あまりに平坦で他人事のように語る彼の姿が大きな隔たりを生んでいた。
「……貴様は何が目的だ?」
「人間を守る事だ。君と同じように」
「悪魔が人間の為に剣を振ると言うのか?」
「おかしいかね?」
「信用し切れない」
 剣先をスパーダの喉元に突きつけ、アーサーは周囲を見渡した。スパーダの手によって地獄に送り返された亡者たちは、等しく原型を留めぬ肉片と化している。まるで獣に食い散らかされたかのような無残な姿だ。
 命懸けの戦いで、礼節や死者への敬意を重んじる事が必ずしも賢い事ではないとアーサー自身も理解している。しかしスパーダの剣は、あまりに無慈悲で容赦のない、機械的なものだった。彼は人間と人間であったモノとを割り切りすぎている。
「やはり貴様は悪魔だ。人間とは違いすぎる……っ」
 訴えかけるアーサーの言葉は嘆きに近かった。彼もまた、目の前に立つ剣士を信用しようという気持ちと信用し切れない現実との狭間で苦悩しているのだ。
「……そうだな」
 アーサーの言葉に、それまで不敵な態度しか見せなかった魔剣士は眼を見開いてわずかに声を震わせた。
「…………その通りだ」
 スパーダは何度も頷き、自分自身を納得させるように小さく頷いた。ついさっき自分の口走った言葉が安っぽい冗談だったと今気付いたかのように、寂しげな笑みを浮かべる。
 戦いの最中で繰り出した幾多の太刀筋でも傷一つ負わなかったスパーダに、たった一言の言葉が途方もない痛みを与えた事を悟ると、アーサーは愕然とした。
 気まずげに突きつけていた剣を降ろしたが、もうすでに二人の間には致命的な亀裂が走ってしまったように思える。
「―――悪魔は泣かない。それは彼らに心がないからだ」
 次の言葉を探すアーサーの前で、スパーダは空を仰いで独白のように言葉を紡いだ。
「感情を高ぶらせて流れ落ちる涙は、他者を想う心を持つ人間の特権であり、証明なのだ。
 ―――だから、私は君の言う通り確かに人間ではない。誰かの為に涙を流せない悪魔だ。私がどれだけ人の為に剣を振るおうと、『我々』と『君たち』が見ているモノ、聞いているモノ、感じているモノには致命的な差異があるのだろう」
 背筋を伸ばして、スパーダはアーサーの眼を見つめた。
「あるいはこれこそが<世界>の違いなのかもしれない」
 今度はアーサーがスパーダの眼を見つめ返した。血のように赤い瞳。だが、もうそれに嫌悪感も恐怖も感じなかった。
「だが、私が初めて人間を見た時、彼らの持つ心に温かさを感じた。あの感覚だけは、今でもはっきりと覚えているし、あれが『温かい』と……断言する事が出来る。あの瞬間確かに、私は人と視点を共有出来た。殺戮と恐怖にしか愉悦を見出せない、ただ『存在する意味だけ』を求める単調な生き方に、初めて岐路を得た」
「……」
「あの時、私の中の何かが変わった。人の守る為に、戦うと決めた。
 あるいはそれを君たちは『正義に目覚める』と言うかも知れないが……そこまでは、よくわからん。人間が無条件で美しく素晴らしいものだとは、私とて盲信してはいない。いろいろな所を回ったが、どの場所でも人間同士が殺し合わない所はなかった。ここもそうだ」
 低い声で言い、彼はつかの間声を上げて笑った。
「……だがそれでも、人間は弱くて強い。絶望と希望を同時に持った生き物だ。あらゆる場所で見てきた、人の残酷さ、優しさ、醜さ、美しさ、卑小さ、気高さ―――。その度に私は、信じていた人間という存在に裏切られ、同じように救われてきた。
 これほど両極端なものを合わせ持つ存在は、我々の<世界>にはいない。本当に人間とは、光と影が一つになったような存在だ」
 横たえられたたくさんの死体や血の匂いを、風が旋律を奏でるようにささやきながら吹き渡り、二人は黙然とそこに立って、互いの事を考えながら、自らが剣を取った時の事を思い出していた。
 アーサーはとっくに剣を鞘に収めていた。
「……君は、自分の国の民の為に戦っているのか?」
「より多くの笑顔の為に戦っている」
 アーサーは淀みなく答えた。
「だが君の戦う姿を見ていると、まるで<剣>のような印象を受ける。誰よりも戦いの前に立ち、自らを差し出して戦う鋼の剣のように見える」
「そうだ」
 誰よりも多くの命を守る為に、誰よりも多くの命を狩る。戦の被害をゼロにする事は机上の空論だが、限りなく少なくする事は王としての役目だ。故に王は、誰よりも戦いに適さなければならない。『一を切り捨て、九を守る』という、鉄の決断を下せる剣のような存在に。
「だから私は、剣になる」
 迷いなど無く、悲しいほどに強く断言したアーサーの意思を感じ、スパーダは静かに首を振った。
「剣で人は救えない」
 静かな宣告を受けても、アーサーは何も言葉を返さない。それはスパーダの言葉に反発していないのか、あるいは他者の言葉に揺るがされるものではないのか。おそらく後者だと、彼は感じた。
「これまで人間を守る為に、ただ剣を振る事しかしなかった私が言うのもおかしいが……だからこそ言える。人を守る事と、人の笑顔を守る事は致命的に違う」
「多くの人々が笑っていた。だから、これは間違いではない」
「そうかもしれない。だが、それでは君が笑う事が出来ない」
 アーサーはスパーダの顔をまじまじと見つめ返した。これまで多くの騎士や民が、彼に王として多くのモノを求めたが、彼のような事を言ったものはいなかった。
「人は絶望と希望を持っている―――。
 覚えておくが良い、王よ。人を壊す事が出来るものは人の持つ絶望、そして人を立ち直らせる事が出来るものは人の持つ希望だ。剣では駄目だ。ただ一つ、目の前に差し出される一人の人間の手が必要なはずだ」
「多くの人の為に戦うには、私は<人間>であってはならないのだ! 一人の人間として戦う価値を見出してしまったら、もう多くの誰かの為には戦えない!!」
 諭すようなスパーダの言葉に、アーサーは強く反論した。その返された答えに、スパーダは黙するしかない。はっきりと断言して返せる言葉ないのだ。
 そこに、間違ったものと正しいものがあるとは互いに思ってはいない。目の前の相手が見てきた世界とそれを経て手にした結論。そのどちらもが、間違ってはいないと思えてしまうものだった。
「……それでも、剣では人を救えぬと思う。折れない剣はない。私が何度も、人に絶望して自らの信念に挫折しかけたように」
 声を絞り出すように、スパーダが打ち明けた。
「私が悪魔だから、こんな事を考えるのかもしれない。所詮私は人間ではないからな。こう考えると、もうなにもかも信じられなくなってしまうが、戦いに徹して剣を振るえば振るうほどあの時触れた人の温かさから遠ざかっていくような気がする……」
 吐き出すように答えた言葉が、唇を噛み締めてその場に佇むアーサーの心の隙間へと入り込んでいった。
 その時、木々の向こうから幾人もの騎士達の上げた声が大きく響き渡った。それは勝利を祝う歓声だった。戦いが終わったのだ、彼らの勝利で。
 あるいはそれは、スパーダが現れた事や彼が同胞の悪魔を斬った事が原因であったのかもしれないが、それは今やどうでもいい事だった。
 喜びの声が響く空の方向を、しばらく見つめていたアーサーが視線を戻すと、既に背を向けて歩き出したスパーダの背中があった。
「……何処へ行く?」
「ここでの戦は終わった」
 肩越しに振り返り、スパーダが小さく笑みを浮かべた。雲間から覗き始めた太陽の光がその黒い悪魔を照らし出す。彼の周囲にははっきりと、纏う空気そのものが形を表したかのような闇色の霞が漂っていた。この光のある世界で、スパーダという闇の存在だけが唯一の拠り所であるように寄せ集まった異形の魂の残留たちだ。
「『こいつら』は私が連れて行く。君も戻れ、自分の戦場に」
 淀んでいた雲が払われ、そこから現れる鮮烈な空。まるで嵐が吹きぬけたあとのような、鮮やかな空だ。
「君と話せてよかった、人の王よ」
 その青い天の下で、空を見上げ、地を這うようにその大剣を担いだ悪魔は遠ざかっていく。
「お前はこれからも、人の為に剣を振るうのか!?」
 その背に、アーサーは叫んでいた。魔剣士が振り返る。その瞳に確かな意思を宿して。
 それが全ての答えだった。
 彼の、彼だけの『答え』だった。
「……いろいろと、迷わせるような事を言ってしまってすまない。君が戦うと決めた事だ。他者の言葉など君にとっては戯言に過ぎない、正しさは何時だって自らが決める」
 ほんの僅かだけ足を止めて、スパーダは微笑と共にそう告げた。
「ただ、知っておいて欲しい。私が話した事を。私は人間ではないが、だからこそ見えるものも在ると思う。
 私はこれからも人と関わり続ける。誰よりも近く、誰よりも遠く。人に絶望し、失望し、そしてまた人に救われるだろう―――」
 そうして、黒い魔剣士は去って行った。青い空と太陽の光に染められた大地を歩き、闇を引き連れて。
 その後ろ姿を見届けると、アーサーは踵を返した。まったく正反対の方向、彼の行くべき勝利の音が鳴り響く方向へ。
 ほんの僅かな短い邂逅を経て、再び分かたれた二人の剣士の道。その分岐点で、アーサーは歩み出した足を止め、もう一度だけ振り向いた。もう見えなくなった彼の背中に向けて、手向けの声を張り上げる。
「私の真の名は<アルトリア・ペンドラゴン>! この名を魔剣士スパーダに預ける―――っ!!」
 王となった瞬間に捨てた、その名前を『彼』は叫んだ。
 その名が示すたった一人の人間の人生。
 終わりを告げた、ある少女の人生。
 それを彼女の名前と共に『彼』は束の間邂逅した悪魔の剣士へと預ける事にした。
 もうここに、アルトリアと呼ばれる少女はいない。スパーダと呼ばれる悪魔の反逆者が、闇と共に持ち去って行ったのだ。




 その二人の出会いに意味はあったのか、誰にも分からない。
 後の歴史に伝えられる名高き<アーサー・ペンドラゴン>の騎士物語(ロマンス)に<魔剣士スパーダ>という名前など、ただ一つとして刻まれていないし、人の為に悪魔を斬った悪魔の物語も伝えられてはいない。
 二人の出会いとなった戦いは、アーサーがサクソン軍の侵略との戦いにおいて最大の戦であったという解釈以外は為されず、騎士王の伝説はその後一切の淀みなく語られていった。
 そして、悪魔の間に流れる魔剣士の伝説についても同じように。かの魔剣士スパーダが心を晒し、彼の信念を震わせた人間がいた事を知り得る者は誰一人としていなかった。
 ただ、あの時出会った当の二人だけを除いて―――。



 誰よりも人から近く、同時に人から遠く離れて、剣を振るい続けた裏切りの悪魔スパーダ。結局、彼は一人の人間の女を愛してしまった。人に近づきすぎた故に生まれた、それが彼の破滅の始まり。


 誰よりも先頭に立ち、自ら剣となり、理想の王となって戦い続けた騎士王アーサー。『彼』もまた、自らの信念と理想を貫く果てに、自らの国と共に破滅する結末を辿ってしまった。






 果たしてどちらが正しかったかなど、誰にも分かりはしない―――。









 その夢を、今度ははっきり覚えていた。
 滲んだ視界がゆっくりと輪郭を取り戻していく。見慣れた自室の天井をしばらくぼうっと見つめて、士郎はおもむろに体を起こした。関節が油の切れた機械のようにギシギシと軋む音が聞こえる。全身が熱を持って、気を抜くと再び眠りについてしまいそうだ。それが限界以上の魔術を行使した結果である事は、士郎にも理解できた。
 感覚が鈍くなっているのを感じる。眼は見えるのに周囲の音や気配さえはっきりと感じ取れない自分に違和感を覚えながら、士郎は無意識に洗面所へ足を進めていた。さすがに勝手知ったる自分の家だけあって、熱に浮かされながらも自然と辿り着く事が出来た。
 蛇口を捻り、冷水で顔を洗うと少しはマシになる。火照った顔に冷たさが心地よい。士郎はようやく一息つけたような気がした。
 頭の中を、多くの記憶が駆け巡っていく。黄金のサーヴァント、悪魔の剣、魔剣士の過去、彼女の過去。混迷する頭の中を洗い落とすように、もう一度顔を洗うと、士郎はのろのろと頭を上げた。
「……あれ、何だコレ……?」
 洗面台の鏡に映る自分の顔を覗き込んで、士郎は思わず呟いた。見慣れたはずの自らの赤毛、その前髪の一部がまるで色が抜け落ちたように白く変色している。その一房を触ったり引っ張りしてみるが、色以外に異常はない。
「魔術の後遺症かな……」
 かなり無理をしたのは確かだ。諦めたようにそう納得すると、士郎は大きくため息を吐いた。
 酷い脱力感が思い出したかのように襲い掛かってくる。おぼろげだった記憶の一つ一つに確かな現実感を感じ始めた。
 昨夜知った、多くの事。
 この無力な手をすり抜けたモノ。
 知らず、士郎は手を握り締めていた。外傷ではない、致命的な傷を抱えてしまったような絶望感が心の中に巣食っている。
 何を信じたらいい。何を目指したらいい。どうすればいい。どうしたらいい。誰か。
 助けてくれ―――。
「…………キャスター」
「シロウ、目が覚めたのですか?」
 不意に呼ばれ、士郎は背後を振り返った。洗面所の入り口には、心配そうな表情でセイバーが立っている。
「セイバー……。ああ、ついさっき」
「そうですか。様子を見に行ったらいなかったので、心配しました」
「ああ、ごめん」
「……シロウ?」
 洗面台に手をついたまま、振り返らない士郎の様子にセイバーは訝しげな表情を見せる。
 彼女と眼を合わせる事が出来なかった。あの夢を、あの過去を、今ははっきりと覚えているのだ。
「なんでもないよ」
 以前ならば、自分はきっと何かを言っていただろう。
 理不尽な人生。自らに従う騎士と戦う事になった、非業の王アーサー=ペントラゴン。その悲しい結末に、それを抱える目の前の少女に自分は何か言葉を掛けてやろうと思っただろう。
 だが、今はもう無理だ。
 もう、自分にはそんな事を言う資格がない。
「皆は、大丈夫だったのか?」
 顔に偽りの笑顔を貼り付けて、士郎は内心の葛藤を隠しながら振り返った。
「ええ、ダンテと桜以外は居間にいます。それと、ダンテ達の仲間という者達が訪れました。此度の異常事態に対する情報を知っているようです。今から、そちらの話し合いに」
「そうか、じゃあ俺も行かないとな」
 先を行くセイバーに連れ立って、士郎も居間に向かって歩き出した。
 目の前を歩く少女の小さな背中。そこに掛かっていた多くの人々の願いを、今ならはっきりと知る事が出来る。
 何も知らなかった自分。
 愚かだった自分。
「なあ、セイバーは……」
「はい?」
 振り返った少女の瞳は、夢の中で見た王のそれと同じで。
「…………いや、なんでもない」











 人の為に剣を振るった最強の悪魔でも、人の為に剣を振るった最高の王でさえ、違えてしまった道が酷く遠く。そしてその道が、つい昨夜まで自分の目指していた理想への道筋であるという現実を知り。
 今、士郎は、ただ己の無力に拳を握り締める事しか出来なかった―――。











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