幕間劇「禁じられた言葉」



「さて、ここがそうか」
 人目を嫌う魔術師の主な活動時間は深夜だ。バゼットも多分に洩れずそうだった。
 月明かりの下、緩い風に乗って金糸が揺れる。深山町の洋風住宅街の頂上部にある二つの邸宅。その片割れ、間桐邸の正門をバゼットはくぐっていた。
「……淀んでいるな」
 わずかに顔を顰め、周囲に篭った粘着質な空気を振り払うように、スーツの上から着た黒いコートの裾を翻す。
 魔術師の邸宅や工房というのは一種の城塞と同じである。己の研究を外部に漏らさぬための手段として、当然の如く外敵排除のための仕掛けや結界が存在し、侵入者を拒むのだ。
 しかし、この間桐邸において足を踏み入れようとする者を拒んでいるのは結界などではなく、人間のあらゆる感性に訴えかける不快感だった。この屋敷に足を踏み入れた瞬間に走った、嫌な予感。まるで墓地に入り込んだかのようなぬるくて冷たい空気。
 そして更に、これ程までに魔術師らしい『他者を拒む』場所でありながら、結界の類を全く確認出来なかったのがバゼットの頭の中に引っ掛かっていた。
「近づく者は拒むが、侵入する者は誘い込んで飲み込む。まるで食虫植物のようだな」
 夜の闇が包む屋敷は、バゼットには大きく口を開けた化物のように思えた。
『注意を怠らないで下さい。まず間違いなく、ゾウケンは待ち構えています』
 バゼットの傍らで霊体化した状態のライダーが告げる。
 臓硯の庭である間桐邸に足を踏み入れた以上、バゼットの存在は感知されているだろう。
「君のマスター、サクラと言ったか。ゾウケンが彼女に魔術を掛けていたというのは確かなのだね?」
『はい、私に魔術の知識はありませんが、奇怪な蟲を用いた呪術のようなモノでした。サクラの体内に生きた異物がある事も確認しています』
 ライダーの言葉にバゼットは顔を顰めた。予想はしていた事だ。間桐桜がマキリの後継者にされたというのなら、マキリの魔術に適した肉体に改造されているだろう。血の繋がりのない養子で、しかも遠坂というある種完成された血筋の養子では、真っ当なままで他の血族の魔術に体が合う可能性など少ない。
 合わないモノならば、合うように形を変える。至極当然の事だった。
 蟲を媒介にした魔術を扱うマキリの醜悪さは、魔術師の間でも悪名高い。間桐桜の受けてきた『魔術鍛錬』という名を借りた生き地獄は想像を絶するものだろう。バゼットは知らず込み上げた吐き気に、反吐を吐きそうになった。
 学校の結界騒ぎに巻き込まれた間桐桜は現在、他の生徒達と共に病院に入院している。もちろん数日で退院できる軽傷だ。ライダーは桜の確保より先に、彼女の苦しみの大元である間桐臓硯の抹殺をバゼットに要求したのだった。
「ふん、元よりゾウケンの悪名は聞き及んでいる。奴自身、聖杯戦争に何らかの形で関わっている可能性は高いからな。出方次第では、こちらも喜んで実力行使させてもらおう」
 閉ざされままの屋敷の扉を睨みつけて、バゼットはどす黒い空気を笑い飛ばした。
 邸内に侵入し、探査のルーンを刻んだ石を放り投げる。同時に自身の感覚を張り巡らせて、屋敷内の気配を探る。
 元々バゼットは封印指定の魔術師を捕縛する仕事をこなしていた武闘派の魔術師だ。工房に侵入し、ターゲットを見つけ出して対処するという一連の過程は彼女にとって慣れ親しんだものだった。
「……屋敷内に人の気配はないな」
『サーヴァントの気配も感じません。まあ、私の探査範囲はあまり広くはありませんが』
 バゼットの呟きに、ライダーが答えた。
 寒々しい印象を受ける屋敷の中にあるのは、窓から入る月のわずかな明かりと、それを飲み潰そうとする闇だけだった。
「ルーンも何かに反応はしているのだが、かなり希薄な気配らしい」
『だとすれば地下ですね。
 私が召還された場所ですが、あそこは強力な気配消しと探査妨害、それに防音の結界が張られていました』
「そこがマキリの工房か。ライダー、地下への入り口はどこにある?」
『案内します』
「頼む」
 不気味な静寂を漂わせる屋敷の中、バゼットは闇に臆しもせず歩を進めた。




「くっ、これは……っ」
 その臭いは階段を降り始めて幾ばくもしないうちに、バゼットの鼻腔を強く突いた。
 その臭気は、バゼットにとって決して未知の物ではなかった。魔術師というのは己が探求する<知>の為にはあらゆる犠牲をいとわない。必要な物は手に入れる。ない物はある場所から持ってくる。実に合理的な思考だ。
 例えそれが実験の為に必要なモルモットであっても、そしてそれが人間を対象とするものであっても、彼らは躊躇しない。必要ならば、街から攫えばいい。
 そんな魔術師たちの工房で、実験の成れの果てとなった人間の死体をバゼットは多く見てきた。そして今感じる臭いも、その時に嗅ぎ慣れた、死体の発する腐臭だった。
 だが、これはその中でも桁が違う。一呼吸するだけで肺が腐ってしまうような汚臭。死体の山をそのまま腐らせたかのような、圧倒的に濃密な臭いだった。
 恐ろしく淀んだ空気には水の中のような抵抗感すら感じる。こういった臭いに慣れたバゼットでさえ、出かける前に食べた軽食を戻しそうになった。
「まるで墓の下だな。噂に違わず外れた魔術師らしい……」
 吐き捨てながら、足元を走る奇怪な黒い虫を踏み潰す。階段を一段下りる度に、腐臭の密度は増していった。
「この下はどうなっている? 工房か?」
『かなり広い地下室になっています。ゾウケンの魔術が具体的にどのようなものかは知りませんが、その空間では魔術に用いる蟲を飼育しているようでした』
「ふん、この腐臭は魔術研究の人体実験の結果などではなく、単なる蟲の食料となった人間のものか」
『はい。彼は体自体が蟲で出来ていて、自身の体を保つ為に人を喰らうようです』
「外道の業か……胸糞悪い」
 おそらくライダー自身、ゾウケンの『食事』を見た事があるのだろう。さすがに嫌悪感を表した言葉を聞くと、バゼットは舌打ちと共に言い捨てて、闇が支配する階段の奥へとさらに足を進めていった。
 やがて、どういう理屈か淡い光に満たされた空間で階段は途切れた。狭い階段から一変して、広大とも言える地下空間にバゼットは足を踏み下ろす。
 そこはまさに<巣>だった。明らかに自然には存在しない、奇怪な形状の蟲がその広大な地下室の半分以上を覆っている。薄汚れた石畳は動く蟲と動かなくなった蟲の死骸、そしてそれに食い荒らされた人間の死体の『残骸』で埋め尽くされている。
 薄暗い闇の中ではしきりに何かが蠢いている。蟲嫌いの人間が見たら、まず間違いなくその場で泡を吹いて気絶するような光景だ。
 バゼットは、ある種一つの地獄の具現であるその空間を、氷のように冷めた瞳で見渡した。
「……マキリ・ゾウケンは文字通り蟲だな。人である事は捨てたか」
「いやいや、人であるからこそ、このような蟲の体となってでも生きようと足掻くものよ」
 薄暗い空間に朗々とした声が響き渡り、それまで何もなかったはずの場所に一人の老人が立っていた。
 バゼットの周囲には生きた蟲が近寄らないのに反して、その怪翁の周囲の影は終始蠢いている。そんな異常の中において、老人の存在はあまりに馴染みすぎていた。それは老人の体から発する、この空間と同じ腐臭のせいかもしれない。
 その異様に眼光の鋭い年寄りは、生きながらにして腐っていた。
「人が生きようと足掻くのは当然の事。そうは思わぬか、外来の魔術師よ?」
「思わんな、外法の魔術師よ。生を全うする事と、生にしがみ付く事は全く違う」
 この異常な空間で、気配も察知させずに現れた間桐臓硯の異様な存在感を前にして、しかしバゼットは些か動じる様子も見せずに平坦な声で返した。その氷のように冷静な態度に、臓硯は感嘆の声を漏らす。
「ほほう、どうやら腕に覚えのある魔術師のようじゃな。おまけに、サーヴァントも従えておるようじゃ。さて、この気配は何処かで……」
「なるほど、ここはアナタの胃の中も同然。霊体化は無意味でしたね」
 蠢く闇の中、その臭気を吹き飛ばすかのような神々しい美しさを持った女神がバゼットの傍らに姿を現した。蟲達が、突如現れた強大な存在に圧倒されて薄暗い部屋の隅へと逃げていく。
「なんと!? 貴様、滅んでおらなんだかライダー!」
 そこで臓硯は初めて驚愕の声を上げた。その様子から、この老人が己の血族にあたる間桐慎二の聖杯戦争における戦いに全く関心を持っていなかった事が伺える。むしろ、彼が勝ち抜く事など最初から想定していなかったかのような反応だ。
「随分な言われ様ですね、シンジはアナタに少なからず期待されていると思っていたようですが」
「カカカッ、魔力も持たぬアレが勝ち抜けるほど甘くは考えておらぬわ。何、可愛い孫に玩具を与えたにすぎぬよ」
「そして、アナタの企みから眼を逸らす為の陽動ですか?」
「カッ、なかなか聡いのうライダー」
 その言葉に、臓硯の慎二に対する歪な愛情をライダーは感じ取った。孫に対する甘さもあるだろう、だが同時に魔術師としての思考も彼にはあるのだ。
「なるほど、新たなマスターを得たか。確かにアレに比べれば、はるかにマシな……いや比べるのもおこがましいか。名前を聞かせてもらえるかね、異人の魔術師よ」
「バゼット・フラガ・マクレミッツだ。此度はサクラという少女の保護の為に参上した」
 周囲の蟲が蠢く音も、臓硯の耳障りな笑い声も遮って、バゼットは凛とした声で本題を切り出した。臓硯の持つ不気味な威圧に対して、顔色一つ変えず仁王立つその姿は闇の中にあって輝きすら感じられる。傍らに佇むライダーがそれを際立てていた。
 醜悪な蟲の魔術師に対峙する、美しい戦いの女神が二人。全てにおいて相反する存在が、そこにあった。
「ほう、あやつが目的じゃったか……」
 一転して冷たい表情を浮かべた臓硯と睨み合う。臆す様子も見せないバゼットに対し、臓硯も対応を改めたようだ。これは奇術で翻弄できるような相手ではない、と。
「間桐桜から手を引け。彼女に施した魔術を解き、素直に引き渡すというのなら今ここで手を出さないと約束しよう」
「ほう、あやつに仕掛けたモノが何であるか、知っておるのかな? いや、知らぬだろうな。アレを知っているのならば保護などとは言うまい。多少予想外の事態もあったが、アレが我がマキリの悲願を達する為の切り札である事は変わらぬ。故に答えは否よ。おぬしにはここで死んで貰おう」
「ほう、やはりそう来るか」
「当然じゃろう、今は聖杯戦争の最中よ。マスターとマスターが出会うたら、戦うは道理じゃろうて」
 臓硯が笑って答える。バゼットは明確な敵意を持って彼を睨み……そしてようやく気づいた。
 サーヴァントが佇んでいる。
 一体いつの間にそこに現れたのか、出現のタイミングさえ分からなかったというのに、今では眼を瞑っていてもはっきりと感じ取れる圧倒的な存在感を持って、薄暗い闇を纏った剣士が臓硯の傍らに立っていた。
「ライダー……」
「申し訳ありません、気付きませんでした」
「となると、アサシンか」
 既に交戦体勢で身構えていたライダーが気配を察知できないとなると、気配を遮断できる暗殺者のサーヴァントに他ならない。しかし、バゼットは呟いて、同時に自分の言葉を疑った。
 視線の先で、幽鬼のように佇むアサシン。その姿は、暗殺者と言うにはあまりにかけ離れたものだった。
 生物的な波動を放つ、歪なフォルムの鎧に身を包み、その手には自らの身の丈程もある巨大な剣をぶら下げている。漆黒に塗りつぶされたその姿は、騎士にして騎士にあらず、暗殺者にして暗殺者ではない。酷くおぼろげな印象を受けるかと思えば、同時に焼け付くような闘気を放っている。
「……ゾウケン、貴様何を召還した?」
 そして何より、その顔。ゆっくりと持ち上げた顔は人のそれではなく、ギラギラと危険な光を放つ獣の瞳と捻じ曲がって生えた角があった。
 バゼットは知っている。目の前の、アサシンと呼ばれる『何か』が放つ気配と、それを受けて自分の心の奥底から湧き上がる感情を知っている。
 それは魔に対する恐怖。人間には決して抗えない、根幹に刻み込まれた魔を恐れる心。
「有り得ない……何故、<悪魔>が召還される!?」
「ほう、これを悪魔と分かるか。今では悪魔を知る者さえ、ほとんどおらぬと言うのに」
 知らず、声を荒げるバゼットに対して臓硯は愉快そうに笑い返した。
「魔術師の間でさえ、悪魔の存在は明確には認められてはおらぬ。何故か分かるか?
 簡単じゃ、恐ろしいからよ。この<世界>にさえ従わぬ、律を外れた悪魔という存在がどうしようもなく恐ろしいからよ。故に、その存在は故意に封印されてきた。……だが、おぬしは何故かそれを知り得ているらしい」
「質問に答えろ。貴様、今度はどのような反則を使った?」
「カカカカ、何もしてはおらぬよ。儂がこれを呼び出したのも単なる偶然でな、むしろ捻じ曲がっておるのはこれを現界させた此度の聖杯の方よ」
「何?」
「さて、さすがに予想外の事であったが、儂の見る限りあるいはこの聖杯こそが望むべき物かも知れぬ。いずれにせよ、死に行くおぬしらには関係のない事よ」
 臓硯の声と共に、甲冑を鳴らしてアサシンが前に出る。その手に握る大剣の刃には、蒼白い魔力の炎が立ち昇っていた。
「さあ、アサシンよ。速やかに殺せ。未だ偽臣の書に縛られたライダーなど、お主の敵ではないわ」
 カカッと嘲笑う臓硯の声に反応して、ライダーは一直線に駆け出した。
「なめるなっ!」
 銀光が走る。疾風のように接近したライダーがいつの間にか両手に握った杭を閃かせ、アサシンの額を貫かんとする。
 それまで無造作にぶら下げていた大剣が轟音と共に振り上げられた。そのあまりに大雑把すぎる鉄の塊を、まるでレイピアのように軽々と振り回してライダーの連続攻撃を弾き飛ばす。
 ライダーが機動力を活かしてヒット&アウェイによる激しい攻撃を繰り出し、アサシンの恐るべき豪剣がそれを迎撃する。激突する金属の音と共に、薄暗い地下室で激しい火花が散った。
 その激戦の片隅で、臓硯とバゼットは変わらぬ体勢で対峙する。
「カカカカ、魔術師の獲物など久しぶりよ」
 笑い声と共に、出入り口であった場所が奇妙な壁に塞がれた。いや、壁ではない。それは夥しい数の蟲だ。小さいが鋭い牙を持つ蟲の群が蠢く壁となってバゼットの退路を塞いでいた。
 バゼットはそれを一瞥するだけに留める。
「さて、魔術師殿。お主には蟲どもの慰み者とした後で、肉体と魔力を我が蟲の滋養とさせてもらおうか」
「むっ?」
 いつの間にか、バゼットの足元には無数の蟲が集まっていた。既に足首にまで這い上がった奇怪な蟲が、バゼットの体を覆い尽くさんと迫り来る。群れとなった蟲の力は異常なまでに強く、既に覆われた足はピクリとも動かない。
「なるほど、厄介な魔術だ」
 あっという間に胸元まで蟲に覆い尽くされたバゼットは、しかし平坦な口調のまま呟く。
「カカカ、我が蟲はやがて体内にまで入りお主を喰らい尽くす。恐怖を味わい、存分によがり狂うがいいぞ!」
 臓硯の哄笑が暗い地下室の内部に響き渡る。狂気と愉悦を含んだその声に、バゼットは顔を顰めた。
 楽しいのだろう。目の前で獲物が蟲に喰われながら狂っていく瞬間を見るのが。人を喰うという蟲の魔術を使い続けた結末の一つが、目の前で笑っていた。
「毒虫が……っ」
 バゼットが冷たい怒りを吐き捨てる。
 その一言で、魔術回路が瞬時に起動した。バゼットを覆い尽くしてた蟲どもが、内側から噴き出した凄まじい炎に飲み込まれて灰燼と化す。
「な……っ!?」
 臓硯が驚愕の声を上げる。
 バゼットを中心に巻き起こった爆炎によって、蟲と地下の淀んだ空気が一瞬で吹き飛ばされる。真っ黒な消し炭となった蟲の残骸がボトボトとバゼットの足元に落ちていった。
「舐めるなよ。私はこれまで、貴様のような奴らを相手にしてきたのだ」
 バゼットは氷のように冷めた顔に、獰猛な笑みを浮かべた。既に全ての蟲が燃え落ちたコートの裾を払う。その体から立ち昇る魔力、それが炎の正体だった。
「ルーンかっ!? 貴様、自らの体にルーンを……っ!」
 バゼットの全身を血管のように走る光のラインを捉えて、臓硯が叫ぶ。そのラインは火のルーンを無数に描いていた。
「死ね、外道。貴様には、地獄にさえ居場所はない」
 一瞬だった。呆然とする臓硯に向けて左腕を振り上げる、それだけで事足りた。臓硯がその行動から発動するであろう魔術を予測した時には、バゼットの義手から放たれた三本の矢が額をぶち抜いていた。
 義手の魔術回路に魔力を通すだけのシングルアクションに反応など出来る筈がない。臓硯は甲高い悲鳴を上げて石畳に転がった。
「ぐ……っ、かぁ……クカカカ! この程度でぇ……っ!?」
 頭蓋を砕いて脳を貫いた攻撃を受けて、それでも尚蟲となった魔術師は立ち上がろうとする。
 しかし、再び視界に捉えたバゼットは冷めた表情のまま臓硯を見下ろしていた。
「燃えろ」
 短く宣告する。瞬間、その言葉が引き金であったかのように、矢に刻まれたルーンが炎を撒き散らした。
「ぎひぃぃいいいあぁああああーーーっ!!!」
 生きたまま火達磨にされた臓硯が、この世のものとは思えない悲鳴を上げる。
 矢から溢れ出た炎は臓硯の体や周囲の蟲に飛び火して、凄まじい勢いで燃やし尽くしていった。
 既に声は途切れ、黒煙を上げてぶすぶると縮んでいくマキリ臓硯であった物を確認すると、バゼットは何の感慨も抱かずに視線をライダーとアサシンの戦場に向けた。
 マスターである臓硯が倒れた以上、アサシンの命も風前の灯だ。わざわざ相手をする必要などない。
「ライダー、退くぞ! ゾウケンは倒し……っ!?」
 言葉が途切れる。
 視界の端で、蟲を育てていたであろう穴や壁の隙間、果ては石畳の隙間から無数の奇怪な蟲が這い出してくるのが見えた。気色の悪い音を立てて大行進を繰り広げ、蟲の群れが燃え盛る炎に殺到する。それはもはや黒い波のようだった。
 甘かった。バゼットは己の油断を噛み締めていた。何百年という月日を生き抜き、自らの体を腐った肉と蟲に変えてまでも生き延びてきたマキリ臓硯の生への執着を、彼女は甘く見すぎていた。
 蟲たちが炎に群がって、それを呑み潰してしまう。炎と煙は徐々に黒い波に呑まれ、あっという間に消し止められてしまった。
 黒ずんだ塊がゆっくりと体を起こし、丸焦げになった不気味な人形となってゆらりと立ち上がった。その体を動かすものは蟲であり、その蟲を動かすのは間違いなく臓硯の執念であり怨念だった。
「ゾウケン、完全に人間を捨てたか……」
「死ナぬゾォ……っ! ワしハ死なヌゥゥ!!」
 もとより淀んだ声色だったが、喉まで焼け爛れた臓硯の声はさらに不鮮明になっていた。しかし、そこからは臓硯が消耗した様子が感じ取れる。ダメージは与えたようだ。
 臓硯の呪詛の声に反応して、地下室全体が脈動するように蠢いた。
「ちっ、ライダー撤退するぞ!」
 バゼットは素早く決断すると、身を翻した。
 油断を突いて本体を跡形もなく消滅させるつもりだったが、こうなった以上この地下室は臓硯の手の中と同じだ。蟲の数は圧倒的。留まる事は賢い選択ではない。
「……了解です」
 ライダーは桜の事を思い、一瞬躊躇ったがすぐにその指示に従った。状況を不利と悟ったのはバゼットだけではない。アサシンの能力は彼女にとっても予想以上だったのだ。
 アサシンの袈裟斬りをわざと鎖で受け止めて、その反動を利用して場を離脱する。退路を塞ぐ蟲の壁をライダーが切り裂くと同時に、バゼットが火のルーンを刻んだ石を投げ込んで一掃した。
「私の見積もりが甘かった。すまない、ライダー」
「いえ、予想外の事態が多すぎました。仕方ありません。まずはこの屋敷から離脱しましょう」
「ふん、あれを完全に殺すには魂ごと浄化でもしないと無理だな」
 響き渡る臓硯の呪詛の声を背に、二人は一目散に階段を駆け上がる。
 アサシンが追って来る可能性もあったが、臓硯のダメージが予想以上だったのか背後から迫る気配はない。もちろん、相手がアサシンである以上、気配の察知など全く信用できないのだが。それでも二人は立ち止まるなどという愚行を犯す事などなく、階段を駆け上がり、屋敷の廊下を一直線に走って玄関から飛び出した。
「ライダー、追ってきていないか?」
「おそらく。相手がアサシンでは何とも言えませんが」
「いずれにせよ、ここから早く離れなければ……」
 言い掛けて、バゼットは正門の手前で足を止めた。
「……ライダー?」
「はい、気配を感じました。サーヴァントではありませんが、人間でもありません。複数、近づいてきます」
「……」
 バゼットは無言でコートの下から愛用の二挺拳銃、ルガーP08を取り出した。月の光を受けて黄金の光沢を放つそれは、銃身に刻まれた装飾も相まって武器と言うよりも芸術品のようだ。
 二人は背中合わせで周囲を警戒した。


 そして、ソレは来た。


 衣擦れのような、かすかな音と共に確かに伝わってくる冷たい気配。雲に隠れた月明かり。周囲を包む闇が不意に蠢き、人の形を見せ始める。
「この瘴気……」
 バゼットは何かに気づいたかのように顔を歪めた。
 音が近づいてくる。しかしそれは足音などではなく、木と木が擦れ合うようなガチャガチャと無機質な音だった。
 月に掛かっていた雲が徐々に晴れ、近づくモノの姿が明かりの元に晒される。
 それは文字通りの<人形>だった。細長い木で出来た手足に、顔を覆う白い仮面。古ぼけて埃にまみれたボロ服を着込み、その関節を本当に糸か何かでぶら下げているかのように奇怪な方向へ曲げて歩み寄る操り人形たちの群れだった。
 ガチャガチャと壊れた音を立てて、その人形が複数、ライダーとバゼットを囲むように歩み寄ってくる。まるで闇夜に人形劇でも見ているかのような、狂った光景だった。
「ゾウケンの放った使い魔ではなさそうです」
 ライダーが人形から感じる生々しい気配を分析して呟く。単純に魔力で動く人形ではない、おぞましい生気が感じられる。
「桁は違いますが、あのアサシンと酷似した気配を感じますね」
「ああ、おそらくこいつらは悪魔の一種だ」
 バゼットは周囲に視線を走らせながら、静かに呟いた。
「知っているのですか?」
「人形に憑依するという点では魔術との類似も多いので、はっきりとは言えないがな。そういう悪魔が存在すると言う記録が残っている。しかし……」
 迫り来る人形の群れを見る。その数は十は下らない。動きは緩慢だが、人形の放つ魔の気は人間の根幹に根ざす恐怖心を煽り立てる。
「数が多すぎる。こいつらは<マリオネット>と呼ばれる、比較的目撃例の多い下級の悪魔だが、それでも協会ではコイツらの記録さえ禁書扱いだ。それだけ希少な悪魔が、何故こんなに出現する? しかも日本にだ」
「あのアサシンと関係があるのかもしれません。ゾウケンが故意に呼び出したのでは?」
「……それにしてはおかしいが」
 間桐邸のドアを一瞥して、バゼットは呟く。依然、アサシンが追って来る気配はない。この場で足止めをしたのなら、追撃してくるのが定石だ。
 何の規則性もなく、ただ光に集まる蟲のようにマリオネットたちは獲物であるバゼット達ににじり寄ってくる。その無造作な歩みに知性や計画性は見られない。
 召還された悪魔のサーヴァントに、自然発生したと思われる悪魔の群れ―――。
「ゾウケンの言うとおり、今回の聖杯戦争は一筋縄ではいかないようだな。どうやら、やるべき事が増えたらしい」
 不吉な展開を見せ始めた聖杯戦争の行方。それを笑い飛ばすように、バゼットは不敵に口の端を歪めた。
 背後にライダーの確かな感触を感じる。背中を預けられる信頼感と力強さが、バゼットの心を奮い立たせていた。
「どうしますか、マスター?」
 答えは判っている、と言わんばかりにライダーは杭を構えた。
「周囲の住民を襲う前に全滅させる。蹴散らすぞ、ライダー」
 カチリッと安全装置を外して、二挺の黄金の銃が迫り来る人形の群れに向けられた。
 ぎこちない動きで、人形達は各々錆びの浮いた短剣を取り出す。敵の数は多い。しかし、そこに不安など微塵もありはしなかった。
「いくぞ!」
「イエス、マスター」
 二人は同時に飛び出した。






「う……っ、なんだ? ここ……何処だよ?」
 その闇の中で、間桐慎二は目覚めた。
 横たわっていた体を起こす。背中に感じていた固い感触はベッドなどではなく、ただひたすらに続く黒い床だった。
 全身を覆う虚脱感を堪えながら立ち上がる。混濁した意識は状況を中々把握できない。
「僕は……一体? 此処は?」
『フロリダに憧れた老人が最後に行きつく場所さ、腰抜け。へへへ』
「だ、誰だ!?」
 反吐を絡めたような声が聞こえた。あまりに近いところから聞こえたその声に、慎二は慌てて後ろを振り向く。しかし、誰もいない。延々と続く黒い空間に、ようやく恐怖という感情を思い出す。
 世の中の全てを滑稽に嘲笑するような口調で、声は饒舌に喋り始めた。
『お前はあのスーパーマン気取りの似非ハンサム野郎に、足をぶち抜かれて教会に運び込まれた。その後で足の傷を神父が治し、小便漏らしたお前のおむつまで変えて、ここに呼び寄せたってわけさ。思い出したか?』
「何処だ!? 何処にいるんだよ……っ!?」
『うるさいねえ……。こういう時に聞くのは「何処」じゃねえ―――』
「『何故いる?』それがベストだ。ギャハハハッ!」
 響き渡っていた声に、不意に現実味を帯びて慎二の目の前に現れた。誰もいなかったはずの、視界の隅に太りすぎた道化師がニヤニヤと笑いながら佇んでいた。
「ひ……っ!?」
「クラウン参上〜。人の顔見て悲鳴上げるなよ、傷つくぜ」
 生まれた時から笑み以外の形を持っていなかったかのように、相手を嘲笑うにやけた表情を浮かべながら、その男はあまりに短い足で慎二に歩み寄った。
 醜くぶよぶよに太った肥満体と、ギトギトのペイントでメイクしたピエロの顔。その全てが嫌悪を持たせて見下しこそすれ、威圧や恐怖など感じるハズもないというのに、慎二はにじり寄るその道化に対して確かに怯えていた。
 笑いを誘う道化師の化粧も、笑みも、その滑稽な体格も、全てが人間ではない異形に思えて、慎二は後退った。
「お、お前誰だよ……っ? サーヴァントか? だ、だったら僕はもう関係ないぞ! 僕はもうそんなのに関係してないんだ!!」
「ヘイヘイ、落ち着きなよチキンボーイ。みっともなく叫ぶな、お前のツラがまるで噛み捨てたガムに見える。そんなに戦争が怖いか?」
「こここ怖い……? 怖いだって? ふざけるな! 僕が負けたのは僕のせいなんかじゃないぞ! ライダーが、あいつが全然使えない奴だったからじゃないかっ!! 畜生! 桜の奴……あんな役立たず召還しやがって!」
「ハハハッ、いいね負け犬。ここに呼んだかいがあった」
「ま、負け犬? この僕が……負け犬だと!?」
 道化の挑発に、慎二はそれまで抱えていた恐怖も不安も凌駕して憎悪に顔を歪めた。
 彼は侮蔑や嘲笑には、ひどく敏感だった。生まれた時から自らを魔術師の血筋と自覚し、他人との違いや優越の中で満たされながら過してきた日々。だが、ある日それは単になる勘違いだと悟る。
 マキリの後継者に選ばれたのは魔力を持たない自分ではなく、血の繋がらぬ妹だった。叩きつけられた現実は、彼の自尊心や誇りを根こそぎ打ち砕く。後に残されたのは歪んだまま自分を偽って生きていく道だけ。これまで見下してきた妹に、逆に憐れみを受けていると感じ、日々心は磨り減っていく。
 自分は魔術師であると。自分は特別であると。
 自分が理想とする世界と、自分のいる世界とのギャップに耐えられなくなった彼は心を歪めた。
「僕を馬鹿にするな! 僕は魔術師だ!」
 笑い続ける道化の顔が癇に障る。慎二はその胸倉を恐れも忘れて掴み上げた。
「いいねえ、その顔だ。やるじゃねえか、足撃たれて小便漏らした腰抜けとはとても思えねえ。グァハハハッ!」
「この……っ」
「おっと、そりゃデブを殴りたいって眼だ」
 慎二は怒りに任せて拳を振るった。その醜く膨れた顔に目掛けて右手を振り下ろす。
 しかし、それはあっさりと空を切った。拳が捉えるはずの手ごたえも、つい先ほどまで胸倉を掴んでいた左手からもその存在は消失し、大きく空振りしたパンチに引き摺られて慎二は思わずその場でたたらを踏んだ。
「は……っ?」
「まあ、そう熱くなるなよ。俺はお前の味方だ」
 背後から響く笑い声に、慌てて振り返る。性質の悪い夢でも見ているみたいに、道化の男は変わらぬ様子でそこに佇んでいた。
 その短い足で素早く逃げたワケでも、霞のように消えたワケでもない、ただ最初からそこにいたかのようにピエロは笑っていた。
「おま……お前は、一体……っ?」
「英雄を助けるのは天使の仕事だが、小悪党を助けるのは悪魔の仕事だ。お前らが崇める神よりもサービスはいいぜぇ? ヘルスみたいにハズレもねえ、ギャハハハッ」
「助ける? お前が……?」
「ああ、そうとも。俺の事は守護天使とでも思えばいい。魔界のピエロは主人公の味方だ」
 ニヤニヤ笑いを絶やさずに、道化は馴れ馴れしく慎二と肩を組んだ。男の纏う粘りつくような空気と、口から洩れる腐臭に顔を顰めたが、慎二には何故かその腕を振り払う気が起きなかった。
「ピエロに名前なんてねえが、俺の事は『微笑みデブ(ゴーマーパイル)』とでも呼びな。お前の味方、お前だけのクラウンちゃんよ。誰かがお前さんに屁でも引っ掛けてみろ、即俺が飛んでくる」
 真剣な表情で囁きかける『パイル』と名乗った道化は、言い終わると同時に尻から派手な音を鳴らしてガスを漏らした。
「……おっと、失礼」
「このっ、どこまでふざける気だ!? 僕を馬鹿にするなっ!!」
「ヘイ、落ち着け。悪かったよ」
 カッと頭に血が上って振り払おうとする慎二を笑いながら抑える。相手の不快を煽って笑い続けるその姿に、嫌悪よりも諦めの方が強くなった。
「なぁに、お前のやりたい事はわかってる。お前さんは、まだ聖杯戦争を諦めちゃいないんだろ? あの小生意気な赤毛の小僧をぶち殺し、それにくっつく魔術師のお嬢ちゃんを犯しまくる。ついでにあの腐れヒーローのはらわたを引きずり出して海に沈める。違うか?」
「な、なんでお前がその事を……」
「言っただろ、俺はお前の天使。お前の味方だ。へへへ、任せな。俺が力を貸してやるよ」
 慎二は初めて、道化の眼を正面から見据えた。
 膨れ上がった肉に埋もれた眼球は血のような赤い光を放っている。全てが醜いパーツで構成されたその道化師の体の中で、その眼だけは、相手に圧倒的な威圧と恐怖を与える物だった。
 慎二は恐れていた。目の前の人間ではない存在に。
 彼は魔を恐れていた。怖いのだ。
 見るのが耐えられぬ程に。
 近づくのが恐怖になる程に。
 だが―――。
「……じゃ、じゃあ僕に力を貸せよ!」
 同時に、彼は魔に魅せられていた。
「もちろんだ、坊や。これでお前は『大人』になる。一皮剥けて、お前はおっ勃つ! ゲェへへへ、お前にくれてやる力はすげえぞ。魔術師なんて問題じゃねえ、いや『人間』なんて問題じゃねえ! お前は全てを超えた存在になる! 派手にやれ、遠慮なんかするな! 犯して殺して喰いまくれ! 誰もお前を、止められやしねえんだからなぁ、ゲェヘァハハハハハハハァーッ!!!」
 闇の中、狂ったような哄笑が延々と響き渡る。やがて、笑い声は二つになっていった。









 神々しい美しさを持ちながら、その身は単なる石でしかない偽りの神像を眺め、言峰は小さく嘲笑した。
 それは一体何に対する嘲笑だったのか。
 人か。
 神か。
「かくしてアダムは、蛇の誘惑に負け、禁断の実を口にした……」
 あるいは、悪魔か―――。









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