幕間劇「赤い悪魔」



 遠坂凛は美少女である。
 学校では支持率ナンバーワンのアイドルを張っている。本人は全く関心がないが。
 遠坂凛は天才である。
 魔術師としても、学業を本分とする学生としても。非凡の才を持ち、それに驕らず孜々と磨く。
 遠坂凛は人格者である。
 確固たる信念を芯に持ち、彼女独特の価値観の中で彼女らしい優しさも兼ね備えている。
 そして何より、遠坂凛は魔術師である。
 彼女には遠坂の悲願であり、また彼女自身の目標である一つの誓いがあった。
 それは<聖杯戦争>に勝利する事―――。
 あらゆる願いを叶える聖杯。それ自体に、凛は興味がなかった。価値観の違い、と言えばそれまでかもしれない。
 凛はこの戦争で欲しいものがある。
 それは全ての願いを叶える奇跡ではなく、勝利という自己を満たす優越などではない。
 それは<証>だった。
 遠坂凛の父は、かつてこの戦争に向かい、そして帰らぬ人となった。
 聖杯戦争は国と国との戦いではない。人と人の、魔術師と魔術師との戦いであり、その先に得られる明確な物を求めて戦う私欲の戦いだ。彼女の父はそれに自ら出向いた。徴兵などではなく、己の意思で死地に赴いた。
 だから凛が怒りや悲しみなどを引きずる事はない。父が自ら納得して選んだ道なのだから。
『凛、いずれ聖杯は現れる。アレを手に入れるのは遠坂の義務であり―――何より魔術師であろうとするな避けては通れない道だ』
 父はそんな言葉を少女に残し、そして帰らぬ人となった。
 今でも、凛の心の中にはあの言葉が残っている。
 凛は父が好きだった。父親として、魔術の師として、育ててくれた父が大好きだった。
 故に、彼女は彼の最期の言葉を心に刻む。それは彼女の目指す道となった。
 これは、きっと儀式なのだと凛は思う。
 この戦争の果てで何が手に入るのかはわからない。きっと人を殺すだろう。戦い、傷つくだろう。全てが終了した時に元のままの自分でいられる事などあるはずがない。
 故に、気高き少女は自らこの戦場に足を踏み入れる。
 もはやこの世にはいない、父に胸を張って見せることのできる自分の成長の<証>を手に入れるために。
「よし。それじゃあ一つ、気合い入れて一人前になりますか―――」
 自らに呟いたそれは言葉にすれば軽く、心に刻めば決して消えない。
 遠坂凛は、魔術師である。







 凛は自分に誇りを持っている。魔術師の家系に生まれた事を後悔などしていない。
 でも、血は呪っていいですか?
 誰もいない静かな校門の前で佇み、凛は思わずそう心の中で呟いていた。
「あれ、遠坂? 今日は一段と早いのね」
「……やっぱりそう来たか」
 気さくな口調で話しかけてくるのは、凛のクラスメイトの美綴綾子だった。
 学校のスーパーアイドルであり、同時に手を出せない高嶺の花である凛にこうくだけた口調で話せる相手は少ない。美綴はその少ないうちの一人だった。
「おはよう、美綴さん。つかぬ事を聞くけど、今何時だかわかる?」
「うん? 何時って7時前じゃない」
「……うちの時計、1時間早かったみたい。しかも軒並み」
 うんざりするような口調で呟く。
 天が二物どころか、えこひいきして色んな物を与えた遠坂凛にも致命的な欠点があった。
 それはうっかりさんだと言う事。
 何故家の時計が一時間早まったのかは不明だが、まさか屋敷の中だけ時間が進んだなどというはずがない。自分の気づかないところで自分がうっかり、何かをやったと考えるのが妥当だった。そして、そういう結論に行き着いて納得してしまう自分が、なんだか物凄く情けないような気がしてならない。
「遠坂?」
「気にしないで。それより……」
 凛は内心、自分の遺伝的な呪いに悪態をつきながら、なんとか話を逸らそうとした。
 瞬間、感覚が爆ぜた。
 ―――ヤバイ。
「……っ!?」
 弾けるように、凛は視線を走らせた。
 ヤバイ。危険ダ。ココカラ逃ゲロ。
「どうした?」
 美綴が不思議そうな顔で、視線を巡らせる凛に尋ねる。しかし、答える余裕はない。周囲にあるのは見慣れた校門前の風景。それなのに、凛の心の底から湧き上がって来る感情。
 恐怖。
「……」
 そして、凛は見つけた。
 凛が登校して来た道の反対側から、校門の壁に沿って校舎を眺めながら軽い足取りでやってくる一人の男を。
 銀色の髪。恐ろしく整った顔立ちは日本人のそれではなく、身長は人ごみで頭一つ分出てしまいそうなくらい高い。革製の真紅のコートを静かに揺らし、口笛でも吹きそうな軽い調子で歩いてくる。
「へえ、珍しいね」
 凛の視線を辿った美綴が、何処か感心するようにその男を見て呟いた。深山町は古くから外国の移住者を受け入れており、外国人というだけならば物珍しいものではない。しかし、その男の特徴はその中でも浮いていた。
 全身赤と黒のコントラストで彩られた派手と言っていい服装も人の眼を引く。しかもそれが違和感なく似合うだけの容姿と雰囲気を持っているのだから、良い意味で注目を浴びるような男だった。
「モデルか何かかな?」
「……」
 決して面食いなどではないが、それでも男の整った容姿に感心するように呟く美綴に対して、しかし凛は返事を返す事ができなかった。
 あの男は、ヤバイ。
 知らず握り締めた手のひらには汗が滲む。コートの裏に隠した、魔力を込めた宝石を確認して無意識に臨戦態勢を取る。
 あの男からは死の匂いがする。何より、ただ見ているだけで彼女の鋭敏な感覚が危険と恐怖を感じていた。
 あれは、闇だ。
 物珍しそうに見つめる美綴と、睨みつけるような凛の視線に気づいたのか、男が不意にこちらを見つけた。
 浮かべた表情は笑み。ごく自然な体勢で立ちながらも、凛が美綴を庇って相手に宝石を投げつける所までシミュレートしていると、男は軽く手を上げた。
「よぉ、お嬢さんがた。俺があんまりいい男だからって、そんなに見つめられたら困るぜ?」
 流暢な日本語で飛んできた軽口に、凛は思わずその場にへたり込みそうになった。







「ではHRを終了する。日直は日誌と戸締りの確認を。部活動のない生徒は速やかに帰宅するように」
 お決まりの台詞を残して担任の葛木が退場する。真面目が服を着て歩いているような彼の今の台詞は、凛の知る限りこの一年間で一語一句間違ったためしがない。
「遠坂、もう帰り?」
 速やかに下校準備を行っていた凛に美綴が気安く話しかけてくる。
「ええ。朝方、間桐くんと一件あったし、面倒になる前に帰るわ」
 凛の言葉に美綴が苦笑する。弓道部の練習場の手前で間桐慎二を手酷くふったのは、朝のことだった。
 夕日が教室を赤く染め、クラスメイト達が各々部活や帰路に向かう。凛もまた、寄り道をせずに家に帰るのがいつもの予定だった。
「朝といえば、結局あの外国人何者だったんだろうね?」
 その美綴が不意に漏らした何気ない一言に、凛は過剰に反応した。
「……さあ、本人は仕事で来たって言ってたようだけど」
 凛はさも興味なさそうに、素っ気無く返す。
『日本にはちょっとした仕事で来た』
 違和感なく日本語を使いながら、あの真紅の男は二人に説明した。物珍しそうに校舎を眺めながら、仕事の休憩に町を観光しているのだ、と。
 凛も美綴も軽薄な男は嫌いだったが、男のユーモアを交えた喋り方には不思議と不快感が湧かなかった。その仕草の一つ一つが様になっていたからだろうか。気さくな態度に凛は思わず警戒心を解きそうになってしまいながら、その横ではすっかり意気投合した美綴が男と十年来の友人のように談笑している。
 他の生徒たちが登校してくるまでの短い雑談を終えると、美綴から町のお勧め観光スポットなどを聞いた男は何事もなく学校から去っていった。
 それが朝の出来事。
「気がついてみれば、名前も聞いてなかったしね」
「……美綴さんって、ああいうのがタイプなのね」
 知らなかったわ、とからかうような口調で笑いかける。しかし、当の美綴はその言葉に躍起になる事もなく、穏やかに苦笑した。
「タイプっていうか、気が許せるタイプだね。友人にしたらおもしろいかも」
 それは驚くほど素直な返答だった。
 凛もその言葉に決して反対ではない。わずかな時間話しただけだが、あの男の人間性はなんとなくわかる。それが好感を得るものだとも。しかし、凛はそれでもあの男を警戒していた。
 あの男は、信じられない程の魔力を放っていたのだ。
「……そうかもね」
 言葉を濁す。美綴に人を見る眼がないとは言わない。ただ、凛にとってあの男は『この時期』に会うにはあまりに得体が知れなさすぎた。
 朝からずっと考えていた可能性が、嫌な予感と共にどんどん大きくなる。
 あの男は。
(聖杯戦争の参加者……)
「遠坂、どうした?」
「なんでもないわ」
「今朝から様子がおかしいぞ? ……はは〜ん、ひょっとしてアンタこそ今朝の」
「それだけは絶対にないわ」
 笑顔で断言。その表情に薄ら寒いものを感じた美綴は、引き攣った笑みを浮かべながら「冗談だよ」と呟く。
 放課後の教室にいつものやりとりが流れる。そうして、朝の出会いは日常となって今日一日の時間と共に流れていく―――はずだった。
「……」
「ん? どうしたんだ、急に黙って」
「……いいえ、ちょっと用事を思い出したの」
 一瞬だけ強張った表情に仮面を被せて、凛は微笑みながらコートを羽織って立ち上がった。
「悪いけど、急ぎの用が出来たから」
「ああ、わかった。また暇が出来たら、弓道部の方にも顔を出しておくれよ」
「ええ、それじゃ」
 別れの挨拶もそこそこに、凛は足早に教室を後にした。
 優雅な笑みの下に、わずかな焦りが生まれる。自然と早まる足は、一階ではなく上の階に続く階段を踏む。とうとう、最後には全力疾走になって凛は屋上へと続く階段を駆け上がる。
 その進む先には、つい先ほど発生した凄まじい魔力が確認できた。まるで凛に知らせるように、はっきりと指向性を持ってぶつけられた威圧感。
 あの男だ。
(来た。とうとう、来た……っ!)
 凛は自分でも信じられない程狼狽していた。まだ何の準備も出来ていないのに、これから戦争が始まるかもしれない。
 緊張。焦り。不安。恐怖。様々な感情が激しく心を揺さぶる。それらを少女らしからぬ覚悟で押さえ込み、屋上へと走る。
 そして屋上に出るドアを蹴り開けた先に、夕焼けに真紅のコートを更に赤く染めた男が、業火のような魔力を纏って佇んでいた。
「よぉ、お嬢さん。俺があんまりいい男だからって、そんなに見つめられたら困るぜ?」
 今度こそ完全な敵意を持って睨みつける凛。今朝と全く同じ口調で、男は軽口を叩いた。




「アナタ、一体何者……?」
 屋上のフェンスに背を預けながらこちらを見つめる男に対して、身構えながら尋ねる。右手には、既に呪文を一言発するだけで発動する魔力を込めた宝石を握っていた。
 それに対して、相手はただ腕を組んでこちらを見つめるだけで、武器らしい物も持っていない。
 それなのに。
(マズイ。あの男、私より明らかに魔力が高い……っ)
 男の体から目に見えると錯覚するほど立ち昇る魔力。形のない魔力に色など付くはずがないが、凛にはそれが炎のように真っ赤に見えた。
 おまけに感じる、その禍々しさ。これだけ離れているのに、皮膚が焼け付くような感覚を受ける。放出するだけで、これほどの影響力。
 凛が持つ魔力を純粋なエネルギーとするなら、男の持つそれは戦闘用に特化した<火薬>のような印象を受けた。
(純粋な戦闘力じゃ、勝ち目がない)
 自分の中の冷静な部分が理解してしまう。もしこれが聖杯戦争の始まりだとしたら、サーヴァントを持たない自分は今日この時刻を以ってあっけなく敗北する。それは即ち、死だ。
「今朝会った時は名前を言えなかったな。俺はダンテだ」
 凛の内心など何処吹く風で、ダンテと名乗った男は不敵な笑みを浮かべた。
「お名前は、お嬢さん?」
「……遠坂凛よ」
「遠坂と言えば冬木市のセカンドオーナー、だったか」
「ふん、下調べはばっちりみたいね。じゃあ、アンタ……」
「ん? ああ、聖杯戦争に参加するマスターだ」
 あっさりと告げられた言葉は、凛を二重の意味で絶望させた。
 一つは、目の前の男がすでにサーヴァントを手にしたマスターである事。
 世界最大の神秘であり、時として守護者としても働く英霊。その強さは知識でしか知らないが、人間など問題にならない程の力を持っていることは確かだ。そのサーヴァントを目の前の男は持ち、凛は今だ召還さえしていない。もうこの時点で雌雄は決したようなものだった。戦えば凛の死は絶対だ。
 そしてもう一つは、目の前の男がサーヴァントではなく<マスター>である事。
 サーヴァントの力は人智を超えている。それを直接見た事はないが、凛の学んだ知識にある限りそれは絶対と言っていい事実だった。
 だが、目の前の男もまた人智を超えていた。発せられる桁違いの魔力と凛の直感がそれを確信させている。それでいて、目の前の男はサーヴァントでもない、マスターだと言うのだ。これに更にサーヴァントが付く。もう最悪と言っていい組み合わせだった。魔術師とは言え、ただの人間である凛には毛ほどの勝機も残されていない。
 凛は歯噛みしながら、それでも挫けずに相手を睨みつけていた。どれだけ絶望的な状況であろうと、決して心までは折れない。それが、今凛に出来る最大の抵抗だった。
 そんな緊張した凛の様子を見て、男は苦笑する。
「落ち着けよ、別に今から戦争をおっ始めようなんて気はないぜ。まだサーヴァントは揃っていないんだからな」
「……余裕のつもりかしら? 今のうちに私を叩いておいた方がいいんじゃない? 私は今回の戦争で最強のサーヴァントを呼ぶわよ」
 うおー、私のアホー。不敵な笑みを浮かべながら凛は心の中で自分の馬鹿さ加減に泣き叫んだ。勝ち目がないのに挑発してどうする。今回ばかりは、自分の勝気な性分を呪った。
 しかし、そんな凛の葛藤を吹き飛ばすように、目の前の男が笑い声を上げる。
「ガッツのあるお嬢さんだ。やっぱり暇つぶしに偵察に出て正解だったぜ」
 本当に愉快そうな笑みを浮かべながら、男は組んでいた腕を解いた。リラックスしていた体勢を正し、フェンスから離れて対峙する。凛は一瞬緊張したが、その真っ直ぐな視線を受けて不意に体を支配していた恐怖が薄れた。
「こっちも事情があって今は自由に動けないんだが、強い魔力を感じたんでね。今日はただ挨拶に来ただけだ」
 その鋭い視線には、はっきりと意味を込めて。
「戦争が始まったら、また会おうぜ」
 何の小細工もない宣戦布告。
「トオサカ・リン」
 『お嬢さん』ではなく、はっきりと目の前の少女の名を口にする。凛の中の恐怖は、それで完全に吹き飛んだ。
 不気味だった男の雰囲気が拭い去られる。緊張感は未だに彼女の体を支配していたが、それはまるでスポーツの競技を始める前のような高揚感を含んだものだった。
「ええ、楽しみにしてるわ」
 知らず、凛の顔にも不敵な笑みが浮かんでいた。
 凛は自らの認識を改める事にした。目の前の男は<敵>だ。自分を一方的に狩る死神ではない、互いにぶつかり合う戦意を持った強敵なのだ。
 そう考えた途端、凛の中にあった恐怖は氷解した。もうあるのは目の前の真正面から好戦的な視線をぶつける男に対する高揚、恐るべき強さを持つ敵を打倒する意欲だけだ。
 その視線に、男は満足げに頷くとおもむろに屋上から飛び降りた。強化の魔術も使わずに、自分の身長ほどもあるフェンスを飛び越える。
 凛は静かに男の立っていた場所に歩み寄った。まさしく人間ではありえないジャンプ力だったが、もう男の異常性は嫌と言うほど実感している。今更驚くこともなかった。
 フェンス越しに眼下を見下ろせば、グラウンドには屋上から飛び降りたにも関わらず平然と佇む男がいた。
 真紅のコートを揺らし、屋上の凛を見上げて軽く手を振る。そして、朝と同じような軽い足取りで学校を去って行った。
 緊張から解放された凛は大きく息を吐いて、フェンスにもたれ掛かった。
 魔術師としての覚悟も、戦争に参加する決意も固めていたはずだが、やはり実際にこうして対峙すると感覚が違う。知らぬ間に全身にかいた汗が冷えて、酷く気持ち悪い。とんだ前哨戦を味わってしまった。
 これが実戦。命を取るか取られるかの状況。
「いい勉強になったわ……」
 先ほどまでの自分を笑い飛ばす。
 もはや恐怖はない。凛は、改めて聖杯戦争に対する覚悟を決めた。
「やってやろうじゃない―――」
 この場にはいない男の背中を見据え、凛は不敵に呟く。









 この夜、遠坂凛は赤い弓兵を召還した―――。









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