ACT28「壊れかけの幻想」



 一人の男がいた。
 その男が望む者は唯一つ。『誰も彼もが笑顔でいられる世界』―――。
 誰もが夢見る理想郷。それを体現するものは何か?
 多くの不幸を防ぎ、多くの涙を止め、多くの悲しみを掬い、多くの悪を殺す。そういう、夢物語に出てくるような<正義の味方>だ。男はそう理解した。
 自分がそうであると、おこがましくも自覚したわけではない。むしろこの身が宿す凡才を、彼は誰よりも理解していた。
 故に、鍛える。
 なまくらの刀に過ぎぬ自らの身を、炎で焦がし、打ち据え、錬鉄する。それがどれ程の痛苦を伴うものであろうと、彼は躊躇わなかった。
 そして彼は気付く。自分に出来る事を。
 この身は、多くの不幸を防げるか?
 ―――否。
 この身は、多くの涙を止められるか?
 ―――否。
 この身は、多くの悲しみを掬えるか?
 ―――否。
 地獄の業火の中で死に、砕けた欠片のまま生まれ変わった歪な存在である■■■■■■はあまりに不完全な存在。あまりに無力な存在だ。
 故に、彼が出来た事は一つ。
 <悪>を倒す。
 悲しみを生み、幸せを殺す、この世に蔓延る腐敗を切り捨てる事を彼は選んだ。
 時に、悪は同じ人間であった。内戦渦巻く異国へと彼は訪れ、どの勢力にも付かず、ただ戦乱に巻き込まれる牙無き人々の剣となった。
 時に、悪は人間を超越した存在であった。<死徒>と呼ばれる者を代表とした、多くの人に仇成す異形の怪物達を駆逐する為、彼は剣となった。
 傷ついた一を癒す事は出来ない。奪われた一を取り戻す事も出来ない。そんな彼に許された、多くの人々を救う方法は『一を切り捨て、九を救う』悲しい選択以外に在り得なかった。
 彼は殺す。悪を。
 彼は切る。救えぬ者を。
 自らが積み上げた、<屍>と<剣>と、そして<罪>で出来た丘の上。
 彼は一人。



 その体はきっと、剣で出来ていた―――。









 そこに鏡写しの存在があった。
 月明かりの下、邂逅する二人の男。
 一人は少年。炎のような赤毛に、一房の銀髪を混じらせた少年だ。彼は、滲み出る汗を拭う事も出来ないほど追い詰められていながら、ただ視線を目の前から外す事だけはせずに、静かに佇んでいた。
 一人は青年。色あせた鉄のような銀髪、錆にも似た赤銅色の肌を持ち、血のように赤い外套に身を包んだ青年だ。彼は、自分を見据える目の前の少年に対し、完全な敵意と殺意を抱いて厳かに佇んでいた。
 髪の色も、肌の色も、体格も、纏う雰囲気さえ異なる二つの存在。それはこの世界においてごくごくありふれたモノである筈だった。この世に、自分と違う存在などそれこそ溢れるほど存在する。
 ―――しかし、違う。
 この対峙は、二人の男の出会いではない。『一人の男』の、過去と未来の邂逅なのだ。
 彼らの名前を<エミヤシロウ>と言った。
「……なんという顔だ、衛宮士郎」
 双剣を構えたまま、アーチャーが苦虫を噛み潰したような表情で呟いた。沈黙する士郎。
 そんな二人を見守る、セイバー、凛、バゼットの三人。だが、実際に彼女達はほとんど部外者と言ってもよかった。
 二つの同じ存在が邂逅する、この奇妙な空間には誰も立ち入れない。
 その暗黙の掟を、一番理解しているのはバゼットだった。彼女は一度、こんな光景を見ているのだから。
「眼に迷いが無い。表情に躊躇いが無い。自らの信じる道を歩み抜く事に、何の疑いも持たない決意を宿した顔だ」
 アーチャーは、心底嫌悪した表情で吐き捨てる。
 見る者が心打たれる士郎の顔を、迷い無き者だけが持つ決意の瞳を、それが酷く禍々しいものであるかのように彼は嫌った。
「あれだけの<現実>を見ながら、貴様はまだその表情を浮かべるか。未だ幻想を抱き続けるか―――!」
「……っ!!」
 斬り殺される。士郎はその瞬間確信した。
 もちろん、現実にはそうならない。ただ、アーチャーが何かを噛み殺した低い声を張り上げただけに過ぎない。
 しかし、その瞬間アーチャーは確かに目の前の存在を殺していた。実際に剣を振るいはせずとも、彼は心の中で一片の躊躇いもなくもう一人の自分を殺していた。そこから溢れ出た殺意が、士郎に死のイメージを抱かせたのだ。
 彼の抱く<憎悪><怒り>そして<絶望>を、おそらく誰も知らない。誰も理解出来ない。
「……貴様は学びはしなかったのか? いや、気付いたと言うべきか」
 一人、アーチャーは言葉を紡ぐ。
「お前には、誰も、救えない」
 そんな、自らを否定するような悲しい宣告を。








 遠坂凛は悲しかった。
 彼女は、視界の中で士郎と対峙する自らの赤い従者の過去を知っていた。
 夢を見たのだ。一人の馬鹿な男の夢を。
 その男の在り方を表す言葉は、哲学的に分析するなら小難しいのが幾らでもあるが、凛にとっては一言で十分。
 どうしようもない<お人好し>
 その男は、誰かが悲しむのが我慢ならなかった。誰かが涙を流すのが我慢ならなかった。
 だから男は戦った。テレビの中のヒーローみたいに、誰かを泣かせる許せない何かと戦い続けた。
 そうして、得た結末。
 それは、いくつもの剣に貫かれて幕を閉じた生涯だった。
 その剣の中には、彼の味方であった者たちが握っていた物も混ざっている。つまり、そういう事。
 男は最後の力を振り絞って呟く。
 血で溢れた彼の口から洩れ出たもの。それは後悔や呪詛ですらなく。
『世界よ、契約する―――』
 潰えた命を差し出してまで、人の笑顔を守ろうとする愚直なまでの誓い。
 そして、一人の男の物語は終わる。此処から先は、英雄のお話。
 誰も彼も救いたいと願った、大馬鹿野郎のお話―――。
 救えない話だと、凛は思った。
 馬鹿な話だと、凛は思った。
 血も肉も、魂さえ捧げて人を助けようとした、男の結末がこんなもので。それでもあの馬鹿はまだ懲りない。
 だから、救えないと。
 だから、馬鹿だと。
 だから―――限りなく愛しいと、凛は思った。
 そんな彼が、今目の前で自分の人生を自ら否定している。自分の歩んだ道を否定している。
 遠坂凛は、それがどうしようもなく悲しいと思った。
(―――違うでしょ)
 右手を握り締める。
(―――胸張りなさいよ)
 左手を握り締める。
(私が認めてあげるから。本当に見てて苛つくし、ムカつくけど―――アンタのやってきた事は立派なんだって、それは確かなんだって認めてあげるから)
 歯を食い縛って、凛は滲む視界で睨みつける。
(だから、胸張って顔上げて、ちゃんと前見てもう一度歩きなさいよ、この馬鹿―――!)
 叫びたいのを堪えて、凛は言葉を飲み込んだ。
 たくさん言いたい事はあるけど、説教はしない。文句も言わない。皮肉屋で嫌味なあの赤い弓兵には、たった一言だけ言わせてもらう。
 凛は自分の右手の裾を捲り上げた。そこに刻まれた令呪は、残すところあと一回分のみ。
 そうだ、だから一言だ。
 遠坂凛は決意した。
(だって、彼の抱く理想は―――決して、間違いなんかじゃないんだから)








 アルトリア=ペンドラゴンは苦しかった。
 目の前に、自分と同じような存在がいる。
 多くの人々を救いたかった。多くの人々の笑顔を守りたかった。理想を胸に抱き、自らの痛みを殺し、体を刃へと変えた。
 ―――だが、届かなかった。
 それは未来ではなく、もう変えようも無い過去(げんじつ)に他ならない。
 後悔と罪悪を乗り越え、その果てで潰えた一人の人間の人生。
 やり直したい。償いたい。全ての罪を消し去りたい―――そう願わずにはいられない。昨日の事さえ、無しには出来ないのに。
(彼は…………私だ)
 <王>になど、なるべきではなった―――。
 <正義の味方>になど、なるべきではなかった―――。
 道は違えど、出した結論は同じ。
(私も、あの通りだったんだ……っ!)
 だから、分かる。彼の気持ちが、痛いほど良く分かる。
 やり直しを求めた。
 リセットを求めた。
 聖杯に。
 自らの過去の死に。
 対峙する赤い弓兵と、自らのマスターである少年の姿を見て、セイバーの胸にかつて無い葛藤がせめぎ合っていた。
 理性が訴える。
 ―――間違っている。アーチャー、貴方のその結論は間違っているのだ!
 感情が反論する。
 ―――ならば、そう言ってみろ。彼に対して、お前の鏡像に対して、自分を棚に上げてその言葉を叫んでみろ!
 出来ない。
 彼と自分と何が違う? 自分のやってきた事を否定する想いにどんな相違がある?
 彼が自分と同じような妄念を抱く事が、何故か胸に痛い。
 もう何が正しいのか分からない。
 何を信じればいいのか分からない。
(シロウ、私は―――)
 噛み締めた歯が軋みを上げる。セイバーの心を、あらゆる激情が駆け巡り、息も出来ぬほど締め付けていた。
 目の前の光景は、自分が行おうとしていた事。
 セイバーは聖杯に望み、アーチャーは自らの手でそれを為そうとしただけの違いだ。
 マスターの危機に、セイバーは動けない。動けば自分の決意を否定する事になる。しかし、心の何処かが訴え続ける。
 <答え>が見つからない。
 心も体も、何一つ動かすことが出来ない苦悩の中で、セイバーはただ目の前の光景を凝視していた。
 この光景を、認める事も、否定する事も出来ないのならば、せめて見ろ。眼を逸らさず、その結末を見届けろ。
 迷い続ける自分に許された、それが最低限の責務であると自らに信じ込ませるように。
(―――私は、どうすればいい?)
 セイバーは、ただ見続けた。









「―――ッ」
 何の前触れも無く、アーチャーが駆けた。
 夜が明けるまで続くとも思われた停滞は、しかしあっさりと崩された。問答無用。彼の行動は正しくそれ。自らの言葉を紡いだ瞬間、何者の口も挟ませず、自らの意志のまま行動を起こす。
 両手に握る双剣を振るい、彼は文字通り状況を切り出した。
「く―――っ!!」
 見開いた眼で、士郎は振り下ろされる白い死を捉えた。霞んで見える剣の軌跡の前に、咄嗟に右手を差し出す。
 そして、夜空に響き渡る金属音。体内に浸透する痛烈な衝撃。
 アーチャーの白刃を、士郎はいつの間にか右手に握り締めた全く同じ白い湾刀で受け止めていた。
「―――投影か。そうだな、貴様にはそれしかあるまい」
 重なり合う刃越しに睨み付け、アーチャーは冷淡に呟いた。その氷のように冷め、炎のように殺意を滾らせた彼の瞳を士郎は睨み返す。
 こうして間近で見ると、もはや疑いようも無くはっきりと気付く。この男が、衛宮士郎の細胞の一片に至るまで殺し尽くす事を望んでいるという妄執に。
 英霊の力に必至で対抗する傍らで、黒い死が奔るのが見えた。横一文字に襲い掛かる黒の湾刀。その軌跡は士郎の胴体を両断せんと、弧を描く。
「ぐぅ……っ!!」
 噛み締めた歯を更に食い縛る。渾身の力を込めて、士郎は左腕を迫る斬撃に合わせた。鉄の激突音。またも刃は、無手の中に生まれた同じ刃によって受け止められる。
 本当に、それは奇妙な光景だった。
 過去と未来。同じ人間が、同じ神秘を行使し、同じ武器を持って拮抗し合う戦い。
 ―――だが、その力までが同じというわけではないようだった。
 ガラス細工にヒビが入るような音を立てて、士郎の編み出した幻想が軋みを上げた。
「何……っ!?」
「たわけめ」
 動揺する士郎の隙を突き、アーチャーが蹴りを繰り出す。全くなす術も無く鳩尾へ一撃を食らい、士郎は後方へと吹き飛んだ。砲弾を受けたと錯覚するような衝撃が五臓六腑を撹拌する。
 亀裂の走った双剣を地面に突き立て、膝を付くと、士郎は遅れてこみ上げて来た胃袋の中身をぶちまけた。少し血の混じった吐瀉物が地面を汚す。
 内臓を絞られるような痛みを堪え、士郎は必死で顔を持ち上げた。
 そして、視界に捉えた物は―――剣。
「ふむ、先の戦闘で予想以上に消耗したようだ。数ばかりで名も無い駄剣だが、まあ貴様の死には相応しいだろう」
 剣剣剣剣剣剣剣剣剣―――!
 総数20を超える刃がアーチャーの頭上に出現していた。
 投影魔術によって錬鉄された剣。刀身に魔力を帯びてはいるが、それ以外に目立った神秘を宿しているワケでもない、ごく普通の刀剣とその多重コピーの群れだった。
 アインツベルン城でこの眼に焼き付いた、あれこそが彼の持つ本当の<矢>だ。
 一本一本が大した事の無い剣ではあっても、数があれば脅威となる。何より生身の人間に過ぎない衛宮士郎にとっては、単なるナイフ一本でも命を奪う武器となり得るのだ。
「では、死ね」
 宣告は、剣の雨と共に。
「あ―――」
 間抜けな声を漏らして、士郎は確信した。
 あの剣は避けられない。自分は全身を刃に埋め尽くされて絶命する。それはおそらくこの世で最も確信できる予測だ。
 あの剣は防ぎきれない。両手から零れ落ちた双剣を持ってしても、あれ程の量の剣群を防ぐなど不可能だ。
 ならば、どうする?
 ―――簡単だ。『同じ事』をすればいい。
「投影、開始(トレース・オン)―――」
 剣を作る。
 そっくりそのまま、飛来する剣と同質同数の贋作を即興で作り出す。
 加熱する魔術回路。高速で駆け巡る神経。編み込まれる幻想。心臓の打つビートが加速する。時間は無い。錬鉄に与えられた時は、まさに刹那。
 しかし、それは決して不可能ではない。衛宮士郎にとって、その無茶は決して無理ではない。
 この身はそれを為せる。何故なら、アーチャーが既に行った事なのだから。
 あの男が自分の未来の姿だと言うのならば、奴に出来て自分に出来ない道理など無い。奴が可能にした事を、自分が為せない事など在り得ない。
 迫り来る死の群れ。それが士郎の命に到達するより、早く。
「――投影、完了(トレース・オフ)――――全投影連続層写(ソードバレルフルオープン)――――――!!」
 全く同じだけの数の<剣>が、飛来する<剣>を撃ち落とした。
 鋼の砕ける爆砕音と共に、魔力で編まれた物質が消滅する余波が突風となって吹き荒れた。
 英霊の放った攻撃を、人間である士郎が相殺する。なかなか痛快な結果だ。
 もちろん、その代償は大きかった。たった一度の投影で、すでに魔術回路は焼き切れる寸前にまでダメージを受けている。心臓が破れる程激しく鼓動し、冷たい汗が全身から吹き出て止まらない。状態は、戦闘開始たった数分で既に最悪だ。
 だが、気分だけは悪くなかった。
 砕けて消えていくかりそめの鋼の欠片の向こうで、必殺であると確信してた表情を驚愕と怒りに変えて歪ませたアーチャーの顔が見える。
 自分を殺す為の標的としか見ていなかった眼に焼き付けてやる。気付かせてやる。俺が<敵>であると。
 アーチャーは顕わにした感情をすぐに普段の鉄面皮の奥に押し込むと、小さく舌打ちした。
「城で力を見せすぎたな。<エミヤシロウ>ならば、同じ事を為せるのも道理か」
「アーチャー……」
 英霊エミヤを呼ぶ声。それは目の前の士郎からではなく、横合いから聞こえた。
「出来ればあの一撃で終わらせておきたかったが。ここからは私にも賭けになるからな」
 自分を呼ぶ主。そちらへ、アーチャーはようやく視線を向ける。
 遠坂凛。彼の気高いマスターが、淡く輝く令呪の一画を眼前に掲げ、静かに見据えていた。
「そう、記憶している。君の令呪はあと一回、残っていた」
 衛宮士郎に向けていた殺意を霧散させ、アーチャーは諦めたような苦笑を凛に向けた。
 彼女は、自分が衛宮士郎を殺害する事を良しとはするまい。
 自らが認める最高のマスター。あらゆる障害に対して、ただの一度も諦めを知らなかった彼にも、彼女が放つ令呪の力に対して抗い切れる自信はなかった。何故なら、彼女は磨耗した自分の記憶の奥底で尚消えぬ輝きを放ち続ける大きな存在なのだから。
 令呪の力は、魔力だけでは無い意志の力。そして彼女こそ、この歪んだ身が憧れた強さの一つ。
 だが、それでも―――。
「凛。令呪を使用するのならば、私の動きを制限するのではなく、停止させる事を薦めよう」
 この身を止めたいのならば自害を命ぜよ、と。
「決死の覚悟で命じたまえ。私は全力で抗う」
 凛から視線を逸らし、再び士郎を殺意で縛りつけてアーチャーは淡々と告げた。
 幾千幾億もの絶望の果てに手にした結論。
 自己の抹消。
 無限に存在する平行世界の中で、無限に存在する<エミヤシロウ>という人間は、ただの一人だって必要ない。
「<エミヤシロウ>は死ぬべきだ―――」
 その悲しい確信と共に得た覚悟は、硝子の心の中で唯一つ、鋼のように固まっている。
 断言するアーチャーの横顔を、セイバーが苦しそうに見つめる傍らで、凛は揺ぎ無い視線のまま真っ直ぐに見据えていた。
「……言いたい事はそれだけ?」
「ああ、マスター」
「なら、命令するわ」
 死刑宣告のような厳かな声。凛は、自らの右手に残された令呪に意識を集中する。
「令呪に告げる」
 決死の覚悟で命ぜよ、と彼は言った。
 ―――上等だ。
「我が、サーヴァント・アーチャー」
 想いの強さが力となるならば、この世界を動かす程の意志を込めて、凛は告げた。ただ一言。


「―――『頑張って』」


「……なんだと?」
「『頑張って』って言ったのよ」
 それまでの緊迫感を全く無視して、ため息を吐くようなリラックスした調子で凛は答えを返した。力なく下ろした右手に刻まれた令呪から最後の一画が消滅していく。令呪は確かに使用されていた。
 凛の視線の先には、おそらくこれまで見た事も無いだろう狼狽した間抜け面を晒した赤い従者の姿があった。普段の澄ました鉄面皮を崩してやれた事に痛快さと可笑しさを感じて、凛は堪えきれず笑みを漏らした。隣でセイバーも、彼女の意外な言葉に眼を丸くしている。ただ一人、完全な傍観者であるバゼットだけが面白そうな笑みを浮かべていた。
「凛、君は……正気か?」
「失礼なサーヴァントね。この戦いが終わったら、一度主従についてきっちりと教育しなきゃいけないわ」
 数秒間の思考整理を経て、正気に戻ったアーチャーがかろうじて口に出した言葉に、凛は軽口を返した。
 アーチャーはこれ以上凛のペースには乗るまいと、動揺を押し殺し、心を速やかに鎮めて、今の状況を冷静に飲み込んだ。
「……いや、失礼した。これは私の予想外だったよ。遠坂凛は、私の認識よりも愚かだったようだ」
 嘲るような笑みを初めて、アーチャーは自らの認めた主に向けた。
「君を過大評価していたよ。最初に教えたはずだ、令呪の縛りは範囲や内容を限定するほどに効力が強まる。逆に範囲を広げ、内容を曖昧にするほどその力は弱体化する、と。ちゃんと聞いていたのかね?
 確かに君の魔力は絶大だが、先ほどの曖昧すぎる令呪の内容ではこの身に及ぼす影響はあまりに微々たるものだ。そもそも何を『頑張れ』と? 全く、時折君の思考は理解に苦しむ。実に未熟だ」
 捲くし立てるようにアーチャーは言葉を続けた。
 それまで皮肉は言っても、凛をマスターと認め、その信頼と背中を守り続けていた忠義ある彼が、手のひらを返したように侮蔑の言葉を投げ掛ける。失望と嘲笑。それらの視線を受け止め、しかし凛はただ黙って佇んでいた。
「ああ、それとも『頑張れ』とは、衛宮士郎を殺す事に対する賛成の意だと受け止めて良いのかな? だとすれば、評価を改めよう。君もようやく冷静に現実を見据えるようになれたというワケだからな」
 大げさな含み笑いを浮かべて、アーチャーは饒舌に喋り続ける。
 普段は要点しか告げない彼の口が、あまりに軽い。まるで、何かに恐れる心を誤魔化しているように。
 自分を見据える静かな視線。凛と、つい先ほどまで動揺していたセイバーも。そして相対する士郎さえ、嘲るアーチャーに怒りも何も抱かず諭すような視線を向けてくる。
 それがどうしようもなく煩わしく、何故か苦しい。
 まるで道化の気分だった。自分だけが、先ほどの凛の言葉の本当の意味を理解していない。いや、理解しているのに拒絶している。
「―――違う」
「何がだ、衛宮士郎」
 表情だけは余裕の笑みすら浮かべているアーチャーに対して、士郎は呟くように告げた。
 その声には、相対する自分と同じ存在が持つ殺意と敵意に反した静かな確信を込めて。
「遠坂は、お前を助けようとしてるだけだ」
 アーチャーの形相。道化の仮面が剥落し、無残なまでの激情が顕わになった。
「―――ッ、黙れ!!!」
 凛の言葉をきっかけに、心から湧き上がる感情の渦が、体の中で死に絶えたはずのナニカを次々と蘇らせていく。痛みを伴うその変化が、自分の決意さえ変えてしまうと悟ったアーチャーは、絶望的な叫びを上げて士郎に襲い掛かった。
 獣のような踏み込み。投影した双剣を、血が滲まんばかりに握り締め、全力で斬りかかる。一片の緩急さえ無い、力み過ぎた一撃。彼の腕を動かすのは剣術ではなく、心を壊すほどの殺意と怒りだった。
 磨き抜かれた技の鋭さは、もはや無残にも消え、ただ力任せの斬撃が士郎の首を狩ろうと迫る。それを亀裂の入った同じ双剣で受け止めた。
 凄まじい殺気と共に体に浸透する金属的な衝撃。切れ味を失った太刀筋は、代わりに酷く重い。続けざまに迫る一刀一刀が纏うこの重さは、アーチャーがこれまで味わってきた絶望の重さに思えた。
 士郎はそれを辛うじて捌いていく。
 刀身がぶつかり合うごとに、士郎の剣に奔る亀裂は大きくなる。綻びかけた幻想で、アーチャーの完成された幻想を受け止め続ける現状こそが一種の奇跡と言えた。
 アーチャーは一向に自分の思い描いた結末が訪れぬ事に苛立つ。
 まだ残っている冷静な思考が、原因となる要素を把握していた。
 そもそも人間とサーヴァントの間には純粋な身体能力においても決定的な差があるが、黒いセイバーに砕かれた両腕の傷がまだ癒えていない今の彼は力が半減していた。魔力不足もまた然り。乱された思考、押し寄せる苦悩。精神面でも万全ではない。
 しかし、何より目の前で必死に自分の攻撃を受け続ける衛宮士郎という少年に、要因はあった。
 元々、<エミヤシロウ>という人間に戦いの才能は無い。凡才しか持たぬ身では、自らの鍛錬する事で得られる力など微々たるものだ。
 彼に与えられた才能は、ただ<贋作>作り出す事だけ。作り出す武器を解析し、その担い手の経験さえ理解して、自らに憑依させる。技術さえ模造する贋作者(フェイカー)―――それが<エミヤシロウ>の力の本質である、筈だった。
 ―――では、目の前で壊れかけた武器を手に英霊である自分と拮抗する存在は一体何なのか?
 同じスペックならば、経験を積んだ者の方が優れているのは道理。過去は未来に追いつかない。自分に出来ない事は、過去の衛宮士郎にも出来ないのは当然の事。
 しかし、その事実を否定するのは、目の前で自らの必殺の一撃を士郎が尽く打ち払っていく現実だった。
 戦いながら、アーチャーの持つ剣技を士郎は身に付けていっている。学べるのは当然だ、同じ存在であるのならば身に付ける技術が合うのも道理。だが、士郎の発揮する力は予想以上だった。
 根本的な地力の違う自分に対して、恐ろしい程の勢いで追従していくその姿に、在り得ぬ畏怖を抱く。
 かつて、自分はここまで強かっただろうか。
 かつて、脆弱な半人前以下の魔術師であったエミヤシロウは、この衛宮士郎ほどの力を持ち得ていたであろうか。
 避けれぬと判断した筈の一撃を、彼は避ける。受け切れぬと思った筈の一撃を、彼は受ける。
 想定から完全に抜け出した士郎の力。
 今回の聖杯戦争に召還され、『この世界』の衛宮士郎を初めて見た時から、記憶と僅かにズレた状況にずっと小さな違和感を抱いていた。
 彼をここまで強くしたのは一体何なのか? 一体、何が違う? コイツと自分、一体何が違うというんだ。何故、かつての自分はこの強さに至らなかった。微々たる物かもしれないが、この力があれば届いた命がある筈だ。なのに、何故?
 一体、何が足りなかったというんだ―――!?
「貴様ぁああああああああっ!!!」
 勝手に言葉が溢れる。理不尽な想いが、どす黒い心の闇となり全身を蝕んでいく。
 『俺』は精一杯やった筈だ。無力な手では届かぬ命を、一つでも多く救い為に一部を切り捨て、殺し、出来得る限りの事をやり尽くした。
 それでも、わずかに手の届かないものがあるとしたらそれは<エミヤシロウ>には不可能であった事。そう確定された運命だ。自分に出来ない事は、過去の自分にも出来ない。それが道理。それが当然―――その筈なのに。
 あの時、あと一歩進めていたら。あの時、あと一センチ手を伸ばせていたら。そう嘆いた瞬間が幾つもあるのに、目の前の男は其処に届くだけの力を手にしている。
 おかしいじゃないか。
 足りなかったのは、自分だったのか?
 間違っているのは、自分なのか?
 だとしたら、これまでの苦しみは、この決断は、一体何だったというんだ―――。
「私は、認めんぞ!!」
 剣に込めた湧き上がる怒りと妬みを振り下ろす。豪風のような一撃は、ついに士郎の持つ壊れかけの幻想を砕いた。










 人を超越した力が、士郎の投影した夫婦剣<干将・莫耶>を打ち砕く。元より致命的な亀裂の入っていた二本の刀身は、その一撃で粉々に粉砕された。
 まあ、仕方が無い。十分な過程を踏まず、見様見真似で投影したこの剣には最初から無理があった。元々この体には悠久の時を経て鍛え続けたアーチャー程の投影技術は備えられていないのだ。そんな未熟な自分が一足で彼の領域に到達しようなどおこがましい事。
 だが、それを考慮すれば生み出した双剣は充分過ぎるほど持ち堪えてくれた。亀裂の走った不完全な、壊れかけの身で、幾度も受け切れぬ筈の攻撃を防いでくれた。
 それは、まるで自分だ。
 不完全で歪な存在でありながら、だからとてその身が無意味なガラクタなワケではない。
 折れた剣は何も出来ないか? ―――否、残された刀身で刃を防ぎ、柄を以って敵を打てる。
 砕けた盾に意味はないか? ―――否、砕けた欠片を投げ、残された鉄で矢を弾ける。
 出来る事など幾らでもある。やりようなど幾らでもある。それがどんなに無様で、みっともない、諦めの悪い姿であっても。
 諦める事こそが本当の終わり。
 上等だ。やはり、こういう生き方のほうが俺には合っている。衛宮士郎には合っている。さあ、やろうぜ。格好悪い<正義の味方> 無様に這いずって、形振り構わず喚き散らして、往生際悪く足掻きまくってさ!
「投影、開始(トレース・オン)―――!」
 武器を失って、アーチャーが次の攻撃を放つ刹那の空白。完全に無防備となってその時間で、士郎は守りも避けもせず、ただ自己の内に没頭した。
 剣を作る。今、この戦いの場で最も相応しい剣を。
 アーチャーが持つ夫婦剣。あれが現状では理想的だ。二人は同じ存在。ならばその戦闘スタイルが噛み合うのも道理、武器の相性も同じ筈。投影の負担も最小限。人を斬る為剣が、今最も手に馴染む。
 ―――しかし、それは状況から選び出した場合の話だ。
 そうじゃない。さっきは咄嗟にそれで応戦したが、本当に必要な剣はそれではない。
 ようやく分かった。必要なモノは、威力でも硬度でも秘められた神秘でも、ましてや蓄積された経験でも無い。
 ―――それは、<意志>だ。
 絶対に曲げられないもの。奴が、<エミヤシロウ>を殺すという絶対の意志を抱いているのなら、衛宮士郎はそれに相対する意志で戦う。
 自分と戦う。比喩的な表現だが、人間はいつだって自分と戦う必要性に迫られている。何かに迷った時、何かに挫折した時、人はまず自分と戦う。今、この状況はそれが現実において形となっているだけに過ぎない。
 他人に負けるのは仕方が無い。だけど、過去だろうと未来だろうと、自分に負ける事だけは出来ない!―――それは衛宮士郎がずっと抱き続けてきた意地だった。
 だから、作る。剣を作る。何よりも、その刀身に二千年もの間一つの<信念>を刻み続け、そして遂に折れる事の無かった一本の剣を。
 その剣の名は<リベリオン>―――。
 再び幻想は士郎の手の中に編み込まれた。数度の投影を経て、完全な姿となって模造された反逆の剣。
 この凡なる鉄の身に、人が抱く畏怖。士郎はその感情の理由をようやく理解した。
 それは無限の悪魔を断ち、永劫の地獄を切り開き続けた刃に宿る滅魔の概念から来るものではない。その絶望と痛苦の中で、無数の傷を抱えながらも一本の剣として在り続けるこの剣と、何より担い手の気高い<信念>が宿っているからなのだ。
「はぁああっ!!」
 疲労を知らぬ、力強い気合一閃。大質量の刀身を体全体で振るう一撃が、襲い来るの刃を弾き返す。四散する金属的な火花。
 初めて、赤い弓兵が完全に押し負ける。士郎が一歩前に踏み込み、逆にアーチャーは舌打ちと共に一歩退いた。
 その姿と、一歩だけ踏み出せた自分のつま先を見て、士郎は小さく呟く。
「……一回」
 言葉の意味が分からず、僅かに眉を寄せるアーチャーに対してしっかりと顔を向けてやる。口の端を持ち上げ、僅かに歯を剥いた笑み。
 傍観している者達は共通して感じた。ぶら下げるように構えたリベリオンも相まって、士郎の笑みがあの小憎らしい悪魔狩人の不敵なそれと重なって見える。
 苦々しく睨み付けるアーチャーを見据え、士郎ははっきりと告げた。
「アンタは、今一回負けた」
 自らの意思で前に進む一歩、後ろに下がる一歩。その僅か一歩の意味を知る。
 既に崩壊したアーチャーの仮面に最後の亀裂が走る。耐え難い屈辱と憤怒の感情を刻み、彼は絶叫した。
 間合いを離し、鋭く投擲される白と黒の湾刀。恐ろしい回転の唸り声を上げ、闇に紛れて弧を描く。二本の刃は鋏のように、士郎の首を挟み切らんと迫り来る。
 人間には避けられない速さ。衛宮士郎には避けられない死。それを、士郎は躊躇いもなく迎え撃った。
 今宵、最高の幻想。人の身に、<伝説の魔剣士>が宿る―――。
 下手に構えた剣を振るう瞬間、息を止める。左右の死角から迫る二本の刃の風切り音。捉えられぬ死に対し、しかし恐れなど欠片も無く、士郎は大剣を風のように振るった。
 理想的な太刀筋を描いて、長い刀身がまず白い死を捉えた。『打ち落とす』を超えて、『粉砕する』
 恐るべき威力と速度を保ったまま、剣は車輪のように円を描いた。黒い死が、その軌道に自ら飛び込む形となった。そして、まるで予定されていたかのように、黒い湾刀は完膚なきまでに粉砕された。
 全身を使って、自身の身長程もある大剣を操る。剣に宿る経験を、自らの未熟な肉体で最大限に活かした、今出来る士郎の最良の戦い方。
 静寂と共に対峙する二人の<エミヤシロウ>
 迷い無く見据える士郎の瞳を、アーチャーは憎々しげに睨み返した。
「……その力。貴様のものでは、あるまいっ!」
「ああ、そうさ。だけど、どんな力でも使う事には意味がある」
 だから、迷いは無い。贋作だろうと模造だろうと、それを卑下する前に断ずるべき事がある。
「必要なのは、その力の使い方が正しいか、間違ってるかだけだ!」
「知った口を利くな、小僧ぉッッ!!」
 堪え切れぬ激情に激昂するアーチャー。無尽蔵に湧き上がるのは、かつての彼には全く縁のなかった、限りなく黒い怨嗟の泥。それに全てを委ねる。目の前の現実から逃れるように。
 衛宮士郎、貴様が何を知る。理想の果てに辿り着いたこの身が経た道を、まだ一歩も進まぬうちにお前は何を語る。
 絶望を知らぬなら、希望を口にするのは容易かろう。
 挫折を知らぬなら、夢を語るのは容易かろう。
 ―――この手が届かない無力を知らぬなら、理想を信じるのは実に容易かろう!
 ならば、教えてやろう。現実というものを。この身が刻み続けた、全ての<記録>を以って圧倒してやろう。
 <エミヤシロウ>が辿り着く先は、此処だ―――。


「“I am the bone of my sword”(体は剣で出来ている)」


「“Unknown to Death.Nor known to Life”(ただの一度も敗走はなく、ただの一度も理解されない)」


「“■■■―――unlimited blade works.”(その体は  きっと剣で)」




 ―――知れ。ここは全ての果てに剣となった者の領域。










「……悪夢か幻想か。まさかたった一晩で在り得ざる神秘を二つも見る事になるとはね」
 口調は普段通りの平静さを保ちながら、その心中聖職者が神の声を聞いた時のように動揺で打ち震えているバゼット。
「冗談。あのバカ、隠し事が多いと思ったらこんなモノまで黙ってたなんてね」
 一変した周囲の光景を睨み付けながら、悪態を吐く凛。
「これは……この<世界>は一体…………?」
 変貌した<世界>に、嗅ぎ慣れた死と鉄の匂いを感じ取り、心が凍りつくのを感じるセイバー。
 傍観者である彼女らと衛宮士郎を含む全員が、英霊エミヤの<世界>へと取り込まれていた。
 衛宮宅の屋敷や土蔵、周囲の民家や果ては空の月すら消えうせ、周囲に広がるのは錆付くような赤銅の荒野。担い手の存在しない剣の亡骸が、墓標のように無数に並び連なっている。まるで其処は剣の墓場。
 死んだ大地の空に浮かぶのは、非現実的に廻り続ける巨大な歯車の群れ。それは動き続ける。この世界を動かす部品であるように。心臓が鼓動するように。機械的に、金属の音を立てて。
 人造の力で動き続ける<世界>―――其処が本来の理に従う<世界>である筈が無かった。
「<固有結界>―――」
 凛が、その<世界>を言葉にした。
 魔術師達の世界においては最大級の奥義であり、禁忌であり、魔法に限りなく近い魔術。
 基本的に元から存在している物に手を加える事によって形成される通常の結界と異なり、使い手の心象風景を形にして現実を塗りつぶし、世界その物を作りかえる。言うなれば特定の空間を丸ごと別の空間と入れ換えてしまうような代物だ。
 世界を侵食する。それがどれ程馬鹿げた事か、世界を知る魔術師ならば嫌というほど分かる事。
 ―――だから、目の前の男は<それ>に到ってしまった。
 自らの身の程を超え、犠牲の中で築かれていく世界で無謀な理想を抱き続けた馬鹿は、とうとうその境地へと辿り得た。
 並び立つ剣の群れに連なるようにして、自らの世界で静かに佇む赤い男の姿。


 ―――彼の者は常に独り。


「アーチャー……」
 セイバーの胸が痛む。
 剣の丘の上でたった一人。それは彼女が到った場所でもある。
 なんて、悲しい姿なのだろう。
 なんて、寂しい姿なのだろう。


 ―――剣の丘で勝利に酔う。


「―――<無限の剣製> それが、この世界の名だ。衛宮士郎」
 英霊エミヤは宝具を持っていない。
 宝具とは、一人の英雄が一つの武器を担い、究極にまで昇華した<伝説>の事。故に、凡才たるエミヤシロウには宝具を得る事など出来なかった。彼に出来た事は模造する事だけだ。
 だから、この禁呪こそが英霊エミヤの持ち得る唯一の宝具。
「この世界には、<エミヤシロウ>の知り得た武器が全て記録され、また全ての剣を形成する要素が内包されている。<エミヤシロウ>の持つ投影魔術は、この固有結界から零れ出た副産物に過ぎん」
 文字通り世界に呑み込まれ、圧倒される士郎に冷たさを取り戻した視線を向けながら、アーチャーは荒野に立つ一際小高い丘の上に突き刺さっていた剣を、無造作に引き抜いた。
「ここが、<エミヤシロウ>の辿り着ける究極だ」
 引き抜かれた剣は、黄金の装飾を纏う神秘の宝剣。<エミヤシロウ>という存在の根底に焼き付いた、最も気高い刃。
「馬鹿な、あれは……っ!?」
 失われた筈の剣を見つけ、セイバーの瞳が驚愕に見開かれる。声に滲み出る憧憬と畏怖。
 その剣は、士郎の握る反逆の剣とはあらゆる意味で正反対。
 担い手の意志の下、何の変哲も無い鋼が、敵の刃を受け、返り血を浴び、幾つもの地獄を潜り抜けて鍛え上げられたものではなく。
 その刃は、生み出された時より既に尊かった。
 お伽噺に語られる、脆弱な人間を英雄足らしめる伝説の剣。
 勝利すべき者を選び、彼の者に力と栄誉を与える神秘の宝剣。
 その剣の名は<カリバーン>。
 かつて自ら王を選び、騎士王<アーサー=ペンドラゴン>に勝利と栄光を与えた選定の剣。
 ―――その模造品。
「その剣は……」
「私と貴様が持つ、唯一の相違だ」
 剣の丘に立つ者、二人。
 赤い偽りの騎士はその手に、黄金の剣を。未だ至らぬ少年はその手に、悪魔の剣を。
 同質でありながら、相対する存在。二つ。
「時間はあまりない」
 アーチャーは士郎を見据えたまま静かに告げ、剣を持っていない方の手を気だるげに持ち上げた。たったそれだけの動作で、彼を理とするこの<世界>は現象を発生させる。
 傍観するセイバー達三人を包囲するように、周囲の剣が浮遊し、瞬時にその刃を喉下に突き付けた。
「―――ッてめえ!?」
「勘違いするな、人質などではない。ただ、彼女達には動かないでいてもらう。貴様を完全に抹殺する刹那の間だけ」
 黄金の剣を無造作にぶら下げたアーチャーの言葉と殺気に、士郎はむしろ安堵したようにため息を吐いた。決着を付けるのは、こちらとて望むところなのだ。
 その仕草に、アーチャーは不快そうに眉を顰める。
「……私の残された魔力では、この固有結界も維持できて数分だ。コレは大量に魔力を食う。魔力が尽きれば、サーヴァントたるこの身も消滅するだろう」
 アーチャーは自らが窮地に陥っている事を淡々と告白した。
 だが、と彼は付け加える。
「―――此処に立つ以上、より死に近いのは貴様の方だ」
 天に向けて掲げる腕。その意のままに、大地に突き立つ無数の剣が群れを成して浮遊した。命無き刃の軍団が、全ての剣先を士郎一人に向ける。
 かの英雄王ギルガメッシュを髣髴とさせる、圧倒的にして絶望的な光景だった。
 それを士郎は冷や汗を滲ませた苦笑いで、かろうじて笑い飛ばす。
「剣を握っといて、結局それかよ」
「私はアーチャーだ、文句はあるまい? それに―――確かに貴様の首は、この手で断つ」
 堪え切れぬ怒気を含んだ、硬い声。壊れかけた仮面を取り繕っても、衛宮士郎に対する殺意の炎だけはまるで義務感のようなものに煽られて消えはしない。ただ轟々と燃え滾り続ける。
 この状況において、未だ諦めを知らぬ彼の瞳がかつての愚直な自分を思い起こさせ、耐えようの無い不快感を湧き上がらせる。
 あの眼が、あの疑いを知らぬ信念が、多くの人間の命を奪うのだ。
 だから存在してはならない。あんな間違った存在は抹消しなければならない。
 アーチャーは決意を改めて固めた。
「シロウ……」
「ふむ」
「……」
 マスターを案ずるセイバーに対して、動揺を見せず、ただ静かに黙するバゼットと凛。三者三様の心境で、三人は再び二人の男の戦いを傍観する。
 ―――一瞬の油断も許されない。
 士郎はかつて無いほど集中していた。
 自らの不利は重々承知している。人間とサーヴァント、比較する事がどれ程馬鹿らしいかはこの戦争で身に染みて理解した事だ。
 だから、油断も、慢心も、侮りも、僅かな気の緩みも許されない。そして何より―――そういう<覚悟>が、相手にもあるという事が最も重要だった。
 目の前の男は<エミヤシロウ> ならば自らの凡才もよく理解している筈。それでも尚自らを鉄のように鍛え上げ、剣と化した男にとって、油断や慢心という言葉は最も縁の無いものだった。
 戦いはいつだって窮地。要求される力はいつも限界。それでも届かない領域に手を伸ばそうと、あらゆる手段、あらゆる力、自らに出来る範囲を総ざらいして行い続けてきた。
 ただの一度として敵を侮らず、逆に自分の力を100%引き出す戦いを続けてきた。
 それが、何よりも恐ろしい。
 あの男は油断しない。衛宮士郎という、未熟な魔術師の抹殺を成し遂げる為に、許される力は全て行使してくる―――!
 だから、油断などもっての外。一瞬の気の緩みさえ、致命的になる。
 眼前に居並ぶ剣の群れを、瞬きすら忘れて見据え、士郎は死の射撃に備えた。ほんの少しでも気の緩みを見せれば、彼はその針の穴のような隙目掛けて、怒涛の死を流し込む。
 極度の緊張で、リベリオンを握り締める手のひらに汗が滲み出た。鼓動が静寂の中、やけに響き。奴にも聞こえてはいまいか、この恐怖を刻む不規則な音が。
 圧倒的な姿を現しながら、ピクリとも動かない鋼の剣群。無機質な剣先が、何もしなくても士郎の精神を削り取っていく。
 限界が近い。いや、もう限界だ。
 何度目かの唾を飲む。乾き切った喉を僅かに潤す。今だ、来る。いや来ない。何時。今か。今か。
 緊張の糸は張り詰め、切れかけ、遂に湧き上がる衝動を抑え切れなくなった士郎は充血した眼を見開き―――。
 ザクッ。
「―――あ」
 肉を斬る嫌な音。同時に左足の太腿に潜り込んだ冷たい感触と、そこから湧き上がる酷く熱い痛みに、士郎は間の抜けた声を漏らした。
「あ……が……ぁ、っ」
 視線を落とせば、太腿から突き出た無骨な剣先が見える非現実的な光景が広がっていた。刺された。背後から。握る者のいない剣に。
 ―――ッ、馬鹿か俺は!?
 食い縛った歯の奥で悪態を吐き散らす。ここは、アーチャーの世界だ。周囲に突き立つ無数の剣が、ただの残骸であるはずが無い。全ての剣はアーチャーの意志のままに動く。ならば剣に囲まれたこの状況は、最初から自分が包囲されていた絶望的窮地に他ならないではないか。
 それなのに、自分はただ目の前にだけ集中していた。間抜けにも程がある。
「がっ、ぐ……っ!!」
 急げ、意識を前に戻せ。来るぞ。死の津波が来る。鋼色した殺意が一瞬でやって来る。
 ―――来た。
 絶殺のタイミングで放たれた、無数の<矢> 空を覆うように飛来する。その眼を標的を捉えるだけの照準と化したアーチャーの狙いは、限りなく正確だ。
「投影、開……っ!」
 『開始』?
 ……今から始めて間に合うものか。
 詠唱を用いる必要のない、瞬間発動する<無限の剣製>の投影に士郎の魔術が追いつける筈など無い。絶望はあっという間に彼の元へと到達し―――そして彼を飲み込んだ。









 人間という肉袋など瞬く間にミンチに変える刃の嵐は、しかし士郎の命を奪う事は無かった。
 檻のように周囲に突き刺さった剣に囲まれ、うつ伏せに倒れた士郎は、全身を誤って剃刀で切ってしまったような無数の傷を抱えながら、しかし息をしていた。
 直接体に食い込む事を避けて、尽く地面に激突した剣の巻き上げる土煙がゆっくりと消えていく。何本目かの剣を撃ち落した後、遂に手から零れ落ちたリベリオンが彼の傍に転がっていた。
「アーチャー、貴様……っ!!」
「後ろを突く事が卑怯と罵るなら、好きにするがいい。もどきの英霊に品位を求められても困るがね、セイバー」
 無残な士郎の姿を見て、怒りを滾らせるセイバーをアーチャーが嘲笑と共にあしらう。だが、その一方でただ静かに傍観を続ける凛の様子に、僅かな苛立ちと意味不明な後ろめたさを感じていた。
「―――さて、衛宮士郎。聞こえているなら動かない事だ。気絶しているなら、手間が省ける」
 ピクリとも動かない士郎に対し、アーチャーは冷めた殺意を向けたまま告げた。
 あの剣群が士郎の命を奪わなかったのは、ただ一つアーチャーの意思があっただけに過ぎない。最初に宣言した『衛宮士郎の首を自らが切り落とす』という言葉を、彼は実行したに過ぎないのだ。
 未だ無造作に握ったままの剣をぶら下げ、アーチャーは士郎との距離を縮めた。数々の戦場で勝利という栄光を担い手に捧げてきた黄金の剣が、まるで薄汚れた処刑刀のように見える。
 数歩手前の所で、アーチャーの足が止まった。不愉快そうに顰められる眉。
 這いずるようにして、士郎が立ち上がろうとしていた。
 全身から噴き出す血の泥沼の中で足掻く姿。痙攣するように手足を動かし、立ち上がろうとして負傷した左足から再び倒れ込む憐れな様相。痛みと出血で焦点の定まらぬまま、それでも前を見据えようとする瞳。その全てが、アーチャーの不快を煽った。
「貴様が立とうとするのは、<正義の味方>を目指すからか?」
 これまでのアーチャーの激昂を覆すような、静かな問い。
 僅かな侮蔑と怒りを滲ませた声に、もがいていた士郎の体が硬直した。
「胸に抱いた<理想>が貴様を支えるのか?」
 問い続ける声。強く、悲しく。
「誰も彼もが笑顔でいられる為―――貴様が本当に望んでいるワケでもないのに」
 その言葉は、どんな剣よりも鋭く<エミヤシロウ>の心に突き刺さった。


「貴様が<正義の味方>を目指すのは、それしかないからだ。全てを失くした<エミヤシロウ>には、もうその理想しかないからだ」


「……そうだ、誰かを助けたいという願いが綺麗だったから憧れた!」


「故に、自身から零れ落ちた気持ちなどない。これを偽善と言わずなんと言う!」


「この身は誰かの為にならなければならないと、強迫観念につき動かされてきた。
 それが苦痛だと思う事も、破綻していると気付く間もなく、ただ走り続けた!」


「だが所詮は偽物だ。そんな偽善では何も救えない。否、もとより、何を救うべきかも定まらない―――!」


 <エミヤシロウ>を責め立てる叫び。血を吐くようなそれは、だけど何よりも言葉を吐き出す彼自身の心を抉り取る。
 糾弾でも、罵倒でもなく、それはアーチャーの慟哭だった。
 誰もがその悲痛な叫びに痛みを感じる。
 誰もがその悲痛な嘆きに眼を背ける。
 遠い日の誓い。遠い日の約束。その為に、ひたむきに前へと進み続け、遂に己の究極にまで到った男が、しかし悠久の時間の中で折れてしまった、その悲しみと絶望。
 理解できる者などいない。反論できる者などいない。手を差し伸べてやれる者など、居はしない。
 自分達が手も口も出せぬ事を悟る傍観者の少女達。鉄の仮面を被り直したアーチャーに激情の影は無く、しかし嘆きは未だ止まずに聞こえている。
 慟哭の後には、痛みを伴う沈黙が続いた。
 それは、僅か数秒の時間ではあったが。
 動きがあった。顔を伏せたまま横たわる士郎が、再び立ち上がろうとする。
 アーチャーが眼を見開いた。彼自身が良く分かっている、先ほどの言葉は衛宮士郎にとって心を抉る致命傷の筈だ。根幹に根ざす信念を、根こそぎへし折る現実の筈だ。<エミヤシロウ>が受け入れたこの絶望を、衛宮士郎が心に刻まぬ筈が無い。
 だが、士郎は立ち上がった。
 自らの血溜りを靴底が踏み締める僅かな水音が響く。今にも途切れそうな呼吸は静かに、幽鬼のように弱り果てた気迫のまま、両腕は力なく垂れ下がり―――しかし衛宮士郎は立ち上がっていた。
 アーチャーは何度も立ち上がるその姿に飽きぬ怒りを覚えた。他人の理想に縋りつくように見える、かつての自分に憎悪を覚えた。
「貴様、まだ―――!!」
「分かってるよ、アーチャー……」
 激昂するアーチャーの叫びを、士郎のはっきりとした声が遮った。
 垂れた頭が持ち上がる。無数の切り傷を刻んだ頬と、特に深く裂けた額から流れる血が彼の赤毛を更に赤く染めている。その中に紛れて揺れる白髪は間違いなくアーチャーのものと同じ。
 だが、決定的に違うものがあった。
 士郎は、僅かに―――本当に小さく、笑っていた。
「正直、アンタの言う事はキツイ。いちいち心を抉ってくる。酷い気分だ」
 疲れたようなため息が洩れる。疲労し尽した体だと、自分にも他人にも良く分かる姿だ。
 それでも、彼の右手は取り落とした剣を再び握っていた。
「確かに、アンタの言う通り俺の理想は借り物かもしれない。10年前から、ずっと罪悪感が続いている。あの時、俺の周りで死んでいった人間の数だけ報いなきゃいけないって、ずっと考えてる。それは本当だ」
 彼は認めた。その通りだ。アーチャーの言葉は、自分の言葉だ。
「―――だけど、俺は思うんだ。
 町を歩いてる時、横断歩道の前で立ち止まっている足の悪いお爺さんを、小学生くらいの子が支えて連れて行ってあげるのを見た。
 公園の前で、転んで泣く子供を、母親が自力で立ち上がるまで見守って、そして立ち上がったその子を笑顔で抱き締めるのを見た。
 これまでの日常の中で、俺はそんな光景を何度も見てきた。そして、その度に思うんだ。あの光景を守る為なら、俺自身が少しくらい無茶をしても構わないって。あの一瞬を守る事だけでも、命を賭ける価値がある。
 そう思う事は、きっと間違いじゃない筈だ。例え俺自身が間違っていても、そう願う事は、その理想は―――絶対に、間違いなんかじゃない」
 言い切った士郎の表情には、清々しさがあった。
 ボロボロで、所々を血に染めながら、だけど衛宮士郎は揺ぎ無い意志で佇んでいた。
 アーチャーはその姿を睨み付ける。その姿に、相変わらずの殺意と、怒りと、嫌悪と、そしてほんの少しだけ抱いた羨望を感じて。
「……そうやって続けていくつもりか? 現実に裏切られ続けながら、腹に括り付けた理想も手放せず、延々と果てまで歩み続けるつもりか? 明日も、明後日も」
「―――ああ。だから俺がそうして疲れた時は、抱き締めてもらう事にするよ。誰かに。そしたら、きっとまた頑張れる。また歩ける。そうさ、明日も、明後日も……」
 穏やかに答える言葉。士郎の声に揶揄や皮肉はなく、真剣な瞳が本気である事を告げていた。
「…………なんだ、それは?」
 理不尽を感じる。
「そんなものが、貴様の<答え>か」
 <エミヤシロウ>に付き纏う不安定な絶望に対して、そんな本気とも冗談とも取れないような気楽な言葉を返せる、自分と同じ筈の存在に、どうしようもない苛立ちを感じる。
 認めたくはなかった。目の前の存在が、自分とは『違う』のだと認めたくはなかった。
「ふざけるなっ!!」
 だから叫んだ。無様に喚き散らした。
 ずっと抱え続けてきた、疑い続けていた、<自分>という存在を<自分>が肯定する。そうする事で、本当に逃げ場を失くしてしまう事が恐ろしかった。
 否定するように踏み出す足。過去に続く筈の道を、脇目も振らずに駆け抜けていく。視線の先で迎え撃つのは<エミヤシロウ>の筈だ。そして、この刃が殺す者も、その筈だ。
 剣戟が始まった。
 悪魔の剣と黄金の剣。二本の刀身が嵐のようにぶつかり合い、金属的な闘争の旋律を奏でていく。飛び散る火花が、二人の意志の激突までも表しているようだった。
 状況は拮抗する。不可解な事に。
 人間とサーヴァントという、傾いて当然の筈の勝敗の天秤が均衡を保ったまま。先の戦闘では明らかに押していたアーチャーの猛攻を、しかし今の士郎は完全に押し留めていた。
(おかしい……)
 アーチャーは自問する。
 武器の違い。それもあるだろう。魔力の減退。それも原因の一つだ。
 しかし、何よりも優先して、ただ単純にアーチャーの力が制限されているという事実があった。引き出せるはずの全力が、徐々に低下していっている。魔力量の減少で力が低下しているのではない、何らかの枷が自分の力を抑えようとしているのだ。
 その原因が第三者の魔術による干渉などではない、と。アーチャーは既に察している。
 これは、<令呪>の力だ。
『アーチャー、頑張って―――』
 主の声が頭の中に響く。
(よせ、凛)
 あの時使用された、意味を持たないの令呪の命令が、徐々に力を持って自らを縛るのを感じる。衛宮士郎を殺す為の行動を、否定しようとする。
 在り得ない事だ。あんな意図を明確にしない命令に、何故自分の意思がこうも揺るがされるのか。そうだ、あの言葉の意図など分からない。
 分からない、筈だ。
『頑張って』
『遠坂は、お前を助けようとしてるだけだ』
 また、声が響いた。彼女と、彼の。
(やめろ……っ!)
 絶え間なく続く剣戟の音の中で、その声は耳を閉ざす事を許さぬように、はっきりとアーチャーの心に響き渡る。
 不快感を持って、拒絶できればよかった。だが、何よりも自分がその言葉を欲しているかのように声は響き続ける。それがどうしようもなく苦しい。
『頑張って』
 その言葉を、理解などしたくない。
『頑張って』
 その言葉を、認めたくなどない。
『頑張って』
 その言葉に、従いたくなどない。その筈なのに―――!
「やめてくれ……っ!!」
 かつて自分の憧れた尊い少女の言葉が、潰えたはずの意志を奮い起こそうとする。
 やめてくれ、とアーチャーは懇願した。『頑張れ』などと言わないでくれ。もうこれ以上俺を励まさないでくれ。この身はどうしようもない愚劣。歪んだ心に理想を抱いて走り続け、その足元に屍を築き続けてきた偽善者に過ぎない。そんなどうしようもない奴なのだと、存在する意味などないと、ようやくそうやって諦める事が出来たのに。
 ―――君の一言が、こんなにも自分を蘇らせる。
 前だけを見ていればよかった。そうして延々と続く果ての無い過酷な道を眺め続けていれば、いつか諦める事が出来た。留まる事の無いこの歪んだ願いに、終止符を打つ事が出来た。
 しかし、振り返ってしまった。
 この聖杯戦争に、自分の原点となる時間で、今再び自分は多くのものを見てしまった。
 最も身近で支えてくれた、淡い少女。原初の誓いを掲げた、誇り高い剣の騎士。失った筈の姉の温もり。そして、揺ぎ無く立つ少女の赤い背中を―――。
 それらが再び自分を蘇らせる。忘れかけた夢を思い起こさせる。
 ―――『やめてくれ』
 もう俺を立ち上がらせないでくれ。希望など抱かせないでくれ。重いんだ。すごく重いんだ。とても耐えられない……!



『その願いは、決して間違いなんかじゃない。だから頑張って、アーチャー』



「やめてくれぇええええーーーっ!!!」
 絶望と希望がせめぎ合う痛みに血の涙を流し、アーチャーは喉が裂けんばかりの絶叫を上げた。











 アーチャーの絶叫が響き渡る。その声に、視界の隅で凛が苦しげに歯を噛み締めるのが見えた。彼女は自分が彼を苦しめているのを分かっている。
 だからこそ、気に入らない。
 眼前で怒涛の如く斬りかかる、血の涙を流す剣の鬼。その苦悩がどれ程のものか、自分には理解出来ない。しかし、その姿がどうしようもなく情けないモノである事は、悪いがはっきりと断言させてもらう。
 <エミヤシロウ>なら、彼女を苦しめるな。自分の弱さで彼女に痛みを与えるな。堪えろよ。堪えてみせろよ、それくらいの意地は残ってるはずだ。
 それくらいの事はしてもらわなければ、幾度も対峙した絶望の前で揺ぎ無く佇んだその赤い背中に、ほんの少しとはいえ憧れた自分があまりに滑稽じゃないか―――!
「アーチャーァァァアッ!!」
 渾身の力を込めて剣を薙ぎ払う。同じく振り抜いたアーチャーの剣と正面から激突し、かつてない力が一点で爆発した。
 そして、遂に士郎の持つリベリオンが砕け散る。
 元々の剣が持つ強度の限界ではない。如何に精巧な贋作とて、根源的には士郎の魔力と意志で編み込まれたかりそめだ。刀身に神秘を宿すカリバーンとの激突に、悪魔の魔力に支えられているワケでもない贋作が耐えられる筈もない。存在に綻びを生み、いつか消滅する。
 激突を押し切ったのはアーチャー。振り抜かれた剣の力は衝撃波となって士郎を吹き飛ばした。
 無様に転がりながら、それでも立ち上がる。まだ戦いは終わっていない。
 そうして諦めない士郎を、アーチャーは視界から掻き消すように否定する。
「終わりだっ! 此処で終わりだ、衛宮士郎!! ここが貴様の辿り着く果てだっ!!!」
「終わり? ……なんでだよ?」
 剣だけが並び立つ荒野を見回し、士郎は苛立ったように呟いた。
 ずっと抱き続けてきた<剣>というモノへの奇妙な親近感。なるほど、そんな自分の究極がこの場所ならば理解出来る。
 だが、納得など出来るか!
「なんで、此処で俺が終わるなんてお前が決めるんだ?」
 過去は未来に逆らえない。
 未来のエミヤシロウに出来ない事は、過去の衛宮士郎にも出来ないのが道理。
 過去とは、もう変えようもない現実に他ならない。
 ―――だが、それがどうした!?
「俺が此処で膝を着くなんて、お前が決めるんじゃねえ―――ッ!!!」
 立ち止まる場所を決め付けて、あの理想に届くものか。
 挫折する事を決め付けて、あの夢に辿り着けるものか。
 どんな馬鹿げた願いでも、自分が信じなければ実現する発端すら起こりはしない。無理かもしれない、無駄かもしれない。それでも、愚かしく信じ続けなければ、どんなものにだって手が届く事はない。
「俺は越えてやる! この丘を越えてやる! 此処から先に行ってやる! 此処より一歩でも先に進んで、未来(オマエ)を超えてやる! 何処で膝を着くなんて、俺自身も決めてないっ!!」
 鋼の背中を眺め続けてなどいられない。憧れ続けてなどいられない。どんなに先に進んでいても、絶対についていく。そして、その背を追い抜く。だから、アーチャー。
「てめえの方こそ、ついてきやがれ―――!」
 自らを否定せんと迫り来る赤い剣の獣に、士郎は真正面から言い放った。
 さあ、剣を手に取ろう。あの男の眼を覚まさせる剣を手に掴もう。
 アーチャーの持つ黄金の剣に対抗出来るだけの剣を投影する魔力は、もう士郎には残されていない。限界はとっくに超えていた。リベリオンも、干将莫耶も投影出来ない。作れるものはせいぜいナマクラ。どれだけ決死の覚悟を持っても、覆せないのが現実だ。
 ―――しかし、今この瞬間、この場所でだけはそれは当てはまらない。
 二人の立つ<世界>はアーチャーの作り出した固有結界。エミヤシロウの心の中だ。だから、きっと在る。アーチャーの意に従う無限の剣の中で、たった一本だけ。今の彼に反逆する剣が。
「―――投影、開始(トレース・オン)」
 共通する詠唱を以って、その剣を世界から引き抜く。
 そして士郎の目の前に、剣が喚ばれた。
「な……っ!?」
 アーチャーが驚愕のあまり足を止める。
 士郎の目の前には、アーチャーの前に立ち塞がるようにして一本の剣が突き立っていた。
 刀身の半ばからへし折れた、何の変哲も特徴もない壊れた剣。この剣の丘で、自分ではなく衛宮士郎の意に従う在り得ない筈の剣。
 士郎は、その剣を引き抜いた。
「―――同調、開始(トレース・オン)」
 作り出すのではない。この剣を補強する。この意志を持って鍛え直す。
「―――構成材質、解明」
 分かっている。この剣の事は誰よりも自分が理解し尽くしている。
「―――構成材質、補強」
 今一度、この刃に命を吹き込む。これは自分の意志と、奴の誓いの残滓が混じり合った、世界でたった一本だけの剣だ。


「――――全工程、完了(トレース・オフ)」


 そして、全ての過程は滞りなく完了した。
 士郎の手の中で、折れていた筈の剣が完全な形を取り戻して鈍い輝きを放っている。
 その剣に名などない。刀身に宿る神秘や魔力など欠片も感じず、不純物の混じった鉄のように脆い材質は剣として致命的な弱さ。美しく飾り立てる装飾も持たない、ただの無骨な鉄の塊。名剣に成り損なった、ただの駄剣。
 アーチャーはそう解析した。そしてそれは正しい筈だった。
 だけど、それなのにあの剣から眼が離せない。
 尊さも憧れも抱かないあの剣に、何故かどうしようもない懐かしさと輝きを見て取れる。
「なんだ、その剣は……っ!」
「アンタが忘れた剣だ」
 苦しげに喘ぐアーチャーに士郎が答える。
 士郎はその剣を構えると、真っ直ぐアーチャーに向けて駆け出した。進む先に塞がるモノなど何一つないと、信じ切った瞳で。
 その瞳に、その剣に、アーチャーが抱いたのは殺意でも怒りでもなく、恐れだった。
 あんな物では、弱っているとはいえサーヴァントであるこの身に傷一つ負わせる事など出来ない―――そうである筈なのに。
 アレで斬られたら終わる。自分の中の何かが終わる。それが恐ろしくて、アーチャーは必死の覚悟で士郎に向けて剣の矢を撃ち出した。
 ―――それを士郎は尽く打ち砕いた。
「馬鹿な……っ!!」
 驚愕する。士郎は文字通りの意味で、アーチャーの攻撃を粉砕していた。
 飛来する宝具級の威力を秘めた剣の矢を、自らの持つ剣で片っ端から斬り飛ばし、一切の停滞なく駆け続ける。
 士郎の剣と激突した太陽剣<グラム>が為す術もなくへし折られ、破滅の魔剣<ダインスレフ>が剣先と触れ合っただけで粉砕される。何の変哲もないナマクラの剣の前に、あらゆる聖剣・魔剣が敗れていった。
 在り得ない。
 こんな事は在り得ない。
「うわぁあああああああっ!!」
 既に眼前まで間合いを詰めた士郎に、錯乱したアーチャーがカリバーンを振り被って斬り付けた。それを振り上げる士郎の剣が迎え撃つ。
 乾いた音を立てて、刀身が宙に舞った。
 尊い幻想を込めた黄金の剣が、折れていた。打ち合う事もなく、ただ士郎の持つ剣の刀身とわずかに触れ合っただけで、ぶつかり合う事を拒むように自ら折れた。
 消滅していく剣を見ながら、振り上げたまま返す刀で斬りかかる衛宮士郎の姿を呆然と見つめる。
 そうして見ると、目の前で繰り広げられていた理不尽な光景が何故だか当然のように思えた。
「……そうか、勝てる筈がない」
 振り下ろされる剣を見て、ようやく理解したように苦笑する。
 どれだけ精巧に作り出しても、どれだけ元の剣が強力な神秘を持っていても、『エミヤシロウの作った剣』がこの剣に勝てる筈がない。
 だって、この剣はエミヤシロウが唯一作り出せるたった一本の<本物>の剣。
 彼の持つ、信念の形に他ならないのだから。
「ああ、そうか」
 だから、この剣が此処に在った。
 だから、この剣が自分ではなく衛宮士郎に従った。
 だから、あれ程までに凛の令呪(ことば)が自分の行動を縛った。
 ―――結局、諦め切れなかったのは自分だったのだ。
 そしてアーチャーは、振り下ろされる剣を自ら受け入れた。








 固有結界は解除された。下は石畳の地面、上は月の出た夜空、そして周囲は見慣れた土蔵と屋敷の立つ衛宮宅に間違いはなかった。
 凛達を囲んでいた剣も消え失せ、解放されたセイバーと凛は急いで士郎の下へと駆け寄る。ただ一人、バゼットだけは部外者である事を自覚し、安堵のため息を吐いて静かに煙草を咥えた。
「やれやれ、たった一晩でとんだ戦いを二つも見る事になってしまった……」
 一人苦笑すると、四人の輪の外でバゼットは様子を最後まで傍観し続ける事にした。
 アーチャーは士郎の剣に斬られた。
 それは確かだったが、その一撃が彼の肉体を傷つける事はなかった。やはり、アーチャー自身の解析通りあの剣はサーヴァントの身を傷つけられるような代物ではなかったのだ。
 剣はアーチャーの肩口に食い込む寸前、彼の体とぶつかった瞬間に衝撃に耐え切れず脆くもへし折れた。剣としては、やはりその程度のナマクラに違いなかった。
 だが、確かにあの剣はアーチャーを斬った。
 間違いなく、彼の精神を、そこに巣食う<諦め>を斬って捨てた。
「アーチャー……」
 剣を振り抜いた途端、力尽きて今度こそ本当に倒れた士郎に駆け寄り、その数歩手前で立ち止まったセイバーがアーチャーを見る。膝を着いた彼に対し、警戒の色はない。ただ、どういう言葉を掛ければいいのかも分からなかった。
 その不安げな表情に、戦いの前には決して見られなかった、穏やかで何処か疲れた苦笑を返すと、アーチャーは立ち上がると共に士郎の肩を掴んで持ち上げた。
「凛、セイバー、この男を頼む」
「……ええ」
「はい……」
 ぞんざいだが静かに差し出された士郎の体を二人で支え、凛とセイバーはアーチャーを向き合った。
 あの激しい戦いの中で乱れたのか、彼のかき上げていた白髪は前髪が下りていた。その顔は、何処か幼さと衛宮士郎の面影を残している。
「……セイバー、すまない。いつか、君ではない君を叱った事があった」


 ―――その道が。今までの自分が、間違ってなかったって信じている

 聖杯なんて要らない。俺は―――置き去りにしてきた物の為にも、自分を曲げる事なんて、出来ない。


 そう言ったのは、自分だった筈なのに、今の今まで忘れていた。
「君の苦しみを、俺は分かっていなかった」
「……では、今の私にアナタは別の言葉を言いますか?」
 答えの分かっている問いを、セイバーは困ったように微笑みながら呟く。
「……いいや。きっと同じ事を言うよ」
 アーチャーも笑って、そう返した。
「そうでしょうね……シロウなら、きっとそうです」
 そうだ、もう迷いはない。
「これから、どうするの?」
 本来の姿を取り戻した彼に、凛が尋ねる。あの戦いの中で一度も負の感情を見せなかった彼女が、少しだけ悲しそうに見ていた。
「……分からない。
 もう、衛宮士郎を殺す気はない。<答え>は得た。大丈夫だよ、遠坂。俺も、これから『頑張って』いくから。ただ―――」
 奈落の底から救われたような笑顔を見せて、それでもほんの少しだけ滲み出る疲れに彼は言い淀む。
「少し、疲れたから……ちょっとだけ頭を冷やしてくる」
 そう言って、彼は背を向けた。
 立ち去る彼の後姿が、あまりに小さく見えて、それでも彼を癒す事が出来るのは<この世界>の遠坂凛でもセイバーでもない事を悟ると、二人は無力感に唇を噛み締めた。
 だけど、黙って行かせる事も出来ない。
「―――ッ、アンタはアーチャーよ! 絶対に戻って来なさい! アンタは魔術師<遠坂凛>のサーヴァント、アーチャーなんだからっ!!」
 男は一度だけ、自らの主である少女を見遣った。言葉は無い。二人の少女は、振り返る事のない背中が小さくなるのを無言で見送る。
 途切れていく靴音。男の影は、夜の闇へと吸い込まれて行った。
 消え失せたアーチャーの後姿。ただ、凛の右腕に刻まれた三画の色を失った令呪だけが、未だ彼とこの世界とを繋ぐ唯一の、細い糸だった。










 その時、横たわる少女の頬を一滴の涙が流れた。
「サクラ……?」
 部屋に篭る薄暗い闇の中、眠り続ける主を傍らの従者が気遣う。
「セ……ン、パイ……」
 長く眠り続けて擦れた喉で紡がれる言葉。その意味をライダーは知らないが、込められた想いは理解出来た。
「夢を、見ているのですね。サクラ」
 安らかな眠りを。穏やかな夢を。不憫な主の為に、そう祈らずにはいられない。
 流された涙は、きっと痛みを伴うもの。
 だが、決して悪夢などではない。
 流される涙は、それまでの自分を洗い流すように、ただ一滴だけ何処か悲しげな彼女の寝顔を伝って落ちていく。
 間桐桜の見る夢。
 きっとそれは激しくて、悲しくて、切なくて―――そして少し優しい夢なのだろう。






「……そっか、そうだったんだね」
 生まれ変わろうとする少女が眠る、すぐ隣の部屋で、白い少女は眼を覚ましていた。
 彼の消えていった方向が窓から見える。月の浮かぶ夜空を、包帯で覆われた見えぬ視界で眺め、困ったように笑う。
「ありがとう、キャスター。わたしに見せてくれて」
 小さく呟く感謝の言葉。それはこの誰もいない部屋の中ではなく、自分の中に向けられたもので。
 イリヤは憎んで、そして愛した一人の少年の為に、一つの決心を固める。














 何人もの傍観者がいた、その夜の決闘。
 戦いの決着は一人の少年の行く末を決め、一人の英雄の妄執に終わりを告げた―――。












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