ACT24「英雄の挽歌」



 気がつけば、この体はテラスから飛び出していた。
 幾度もの戦場を越えて構築された脳内の戦略、戦術、そこから導き出す的確な判断。全部吹き飛んだ。迷いもなければ躊躇もない。それは愚直なほど真っ直ぐに。
 本来なら助けに行く必要などない事だった。イリヤスフィールという少女が<聖杯>ならば、それを守るよりも破壊した方が早い。その方が現状では確実な手段だ。聖杯が悪しき者の手に渡って被害が拡がるのを防ぐ、九を守る為に一を切り捨てる判断だ。アーチャーがこれまで下してきた決断なのだ。
 だが、そんな考えなど既に頭から失せていた。血を流す白い少女に向けて、真っ直ぐに飛んでいく。理屈などなく、理由など消え失せた。ただ、今の彼を動かすのはかつてこの手に残った虚しい後悔への反発だった。
 アーチャーはあの瞬間、全てを思い出していた。
 まるで電撃が走り抜けるような閃光が、鮮明に影の掛かっていた記憶を照らし出す。かつて自分が<衛宮士郎>だった時に手放した、尊い記憶の一つ一つを。そして、英霊<エミヤ>となった道の全てを―――。
(まったく、とうに失くしたはずの感情に引き摺られ、否定したはずのあの男と同じ行動を取る……)
 ひどく矛盾している。自分自身に皮肉を呟き、それをすぐ一笑に伏した。
(いや、自分は最初から矛盾だらけだったんだ―――)
 諦めたように呟き、アーチャーは眼前に並ぶ破壊者と鋼の軍団を睨み付けた。
「……何がおかしい?」
 無数の武具を従えたギルガメッシュは、アーチャーの顔に浮かぶ表情を見て不愉快そうに吐き捨てた。
「何、ごくごくつまらん事だ」
 剣先、矛先、矢じり、あらゆる種類の鋼刃が強大な神秘と殺意を秘めて一つの標的を捉えている。死に直結するその光景を、驚くほど静かな視線で見据えて、アーチャーは一人涼しげな笑みを浮かべていた。
 恐れもしないその反応が不快なのか、ギルガメッシュは僅かに目元を歪め、無造作に手を突き出した。
「消えろ」
 冷酷な指揮者の命令に従って、兇器の波が怒涛の如くアーチャーに押し寄せる。
 迫り来る形を持った破壊の力を前にして、アーチャーはギルガメッシュを真似るように片手を持ち上げた。
「―――投影、開始(トレース・オン)」
 初めに宣告のような詠唱があった。次に響いたのは鉄を鍛える錬鉄の音。そして次の瞬間には衝撃と共に轟音が響き渡り、最後に砕けた無数の鋼が撃墜され、地に落ちる乾いた音が続いた。
「な……?」
 その驚愕は誰のものだったか。少なくとも士郎は自分が漏らしたものだと自覚していた。
 眼前で巻き起こった現象。迫る武具と同数の鋼を瞬時に作り出し、打ち鍛え、撃ち出す事で相殺した。ギルガメッシュの放った宝具と同質同数。すなわち、完璧に同じ宝具による迎撃。
 衛宮士郎のそれと全く同じでありながら、桁違いのレベルにまで昇華された<投影魔術>だった。
「なんで……っ」
 自分と同じ詠唱を使い、自分と同じ魔術を行使する、その赤い弓兵の姿が眼に焼き付く。どこまでも衛宮士郎を否定し、どこまでも正義の味方と反発する、あの男が何故自分と<同じ>なのか。
 士郎は視線をその鋼の如き背中から離す事が出来なくなっていた。
 鋭い舌打ちが響く。自らの宝具が思わぬ方法によって防がれた事に、怒りと焦りを感じたギルガメッシュが次弾を放つべく更なる宝具を引き出した。その前に、アーチャーが変わらず立ちはだかる。
 そして、壮絶な撃ち合いが始まった。
 剣には剣で、槍には槍で、矢には矢で。全く同じモノ同士が空中でぶつかり合い、同じタイミングで壊れ合っていく。アーチャーがどれだけ宝具を作り出しても、ギルガメッシュは自らの財から宝具を引き出す。ギルガメッシュがどれだけ新しい宝具を取り出しても、アーチャーが全く同じだけ贋作を作り出す。10は10で打ち消され、100は100でゼロになる。単純な計算式、完全な拮抗がそこにあった。
 まるで歯車が噛み合って動き続けるような、永劫の光景を士郎と凛は半ば呆然と見詰めていた。
「―――っ、何をしている衛宮士郎! 早くイリヤを助けろ!」
 眼を奪われていたのはどれくらいの時間だったか、唐突に響いた切迫した声に士郎は我に返った。依然、迫り来る宝具の嵐を迎撃し続けながら、アーチャーがこちらを睨みつけていた。そうして向けられる眼光に、初めて殺意以外のモノが込められているのを士郎は気付く。
 イリヤを助けろ。あの男はそう言ったのだ。
 士郎は全く同意した。決してソリの合うことが無いと思っていたあの赤い弓兵に、今この瞬間だけ完全に同調していた。
 弾けるように足が動く。傷ついた体の痛みも忘れて、士郎はイリヤに駆け寄った。間断なく放たれるギルガメッシュの<砲撃>の射線に自ら入り込むなど正気の沙汰ではなかったが、彼に向かう攻撃の全てはアーチャーが防いでいた。かつて殺されかけた男に守られるなど全くの皮肉だ、と士郎は無意識に苦笑する。たぶんアーチャーも同じように笑っているだろうと、その背を一瞥して思った。
 力なく倒れたイリヤを抱き起こすと、顔に刻まれた無残な傷痕が目に入り、士郎は歯を噛み締めた。その姿が、あの時のキャスターと重なる。湧き上がった絶望をかろうじて消してくれたのは、抱き上げた手から感じるイリヤの体温だった。まだ間に合う。まだ。
「……大丈夫、まだ生きてるわ」
 士郎の気持ちを代弁するように、同じく駆けつけた凛が冷静に呟く。だがすぐにも治療が必要だと、その切迫した表情が暗に語っていた。
 しかし、その為にはまずこの場から脱出しなければならない。
「アーチャー……」
「ここは私が足止めする。イリヤを連れて逃げろ」
 何かを決意した凛が告げるより早く、背を向けたままその男は言った。
「議論の余地は無い。今、あの男を足止め出来るのは私だけだ」
 ギルガメッシュに視線を固定したまま、捲くし立てるようにアーチャーが告げる。主である凛の意見さえ無視した、有無を言わせぬ張り詰めた強さがあった。だが、それが現状ではベストであり、凛が下した判断も同じものだった。
「セイバーも連れて行け。今後の戦いに彼女の力は必要だ」
「……わかったわ、後をお願い。アーチャー」
「ああ、了解した」
「おい、いいのかよ!? 遠坂!」
 淡々とした二人の会話に、士郎は思わず反発していた。
 セイバーは今も黒いセイバーを相手に劣勢の戦いを続けているが、彼女まで戦線から抜ければ一人残るアーチャーと敵との戦力比は2対1になる。
 どちらを取っても常軌を逸した強敵だ。その二人を同時に相手にすれば、アーチャーには勝機どころか生還する可能性すら無い。凛は確定した結果を見越した上で、アーチャーに捨て駒になれと言っているのだ。
「ふん、感情でモノを語るな。だから貴様は未熟者なのだ」
 しかし、士郎の反論に対して、アーチャーはむしろ不快そうに吐き捨てた。
「冷静に状況を見ろ。これは貴様の望んだ展開だ。
 聖杯であるイリヤスフィールを『殺す』のではなく『守る』。理想論者が好みそうな、なんとも甘い判断だ。だが、経過はどうあれ現状はこうなった。ならば貴様は結果を掴む為に行動しろ」
「お前……っ」
「貴様の為ではないっ!! ……ただの気運だ、儲けものと思え!」
 アーチャーの決意を込めた鋭い叫びが、士郎の最後の迷いを完全に断ち切った。ぐっ、と歯を食いしばりその背から視線を引き剥がす。
 凛の方を向けば、小さく頷きが返って来る。無言の決意だった。イリヤを抱き上げると、士郎は最後に一度だけアーチャーの方を振り返った。鋼の背中は一度も振り返らない。士郎はその光景を目に刻み込んだ。
「セイバー、来てくれ!」
 城の奥へと続く扉へと、斥候の凛を先頭に駆け出しながら士郎が戦闘の音に負けぬ渾身の声でセイバーを呼ぶ。
 眼前に迫り来る黒い剣閃を必死で受け流していたセイバーは、その声に一瞬だけ意識を逸らした。その隙を突いて、黒いセイバーが大きく剣を引き、そのまま横薙ぎに薙ぎ払う。咄嗟に差し出した風の刀身を激しい魔力の衝撃が打ち据え、溜まらずセイバーは後方へと後退った。そこへ黒いセイバーが一気に畳み掛けんと踏み込む。致命的な状況に陥った中で、セイバーは視界の隅に一瞬だけ床に転がったソレを捉えた。
 その一瞬で、まるで閃きのように脳裏に蘇る鮮烈な記憶が体を動かした。
 突進する敵の首筋に向けて、セイバーはソレを蹴り飛ばした。まったく予想だにしなかった方向から飛来する巨大な剣先に眼を見開き、黒いセイバーは咄嗟に体を捻ってそれを回避する。髪を一房切り裂き、頬を掠めて飛んでいったそれは、士郎が投影したリベリオンのうちの一本だった。
 突進の勢いは萎え、僅かに体勢を崩した敵に向けてセイバーは渾身の一撃を振り抜く。必殺の一撃は敵の未来予知にも似た勘に捉えられ、防御される。しかし、不利な体勢でその剣圧までは完全に押さえ込めなかった。先ほどとは逆に、今度は黒いセイバーの方が圧されて後退する。反してセイバーは迷わずそのまま離脱を選んだ。
 士郎達と合流するべく背を向けて駆け出すセイバーに、黒いセイバーが逃がすまいと追い縋る。それを見開いた眼で捉え、アーチャーが裂帛の気合いを込めて叫んだ。
「――投影、完了(トレース・オフ)――――全投影連続層写(ソードバレルフルオープン)――――――!!」
 鋼を打つ乾いた音の大合唱。これまでと同じギルガメッシュが放つ宝具を解析して模造した贋作の投影。ただ違うのは、投影したものがそれぞれ二つずつである事だった。単純に数は倍。自らに向けて放たれる宝具を同じ数の宝具で迎撃し、一方で同じく同質同数の宝具を黒いセイバーに向けて発射する。何度も繰り返したように同じ宝具が同じ宝具で相殺され、黒いセイバーが飛来する宝具の群れをあるいは回避し、あるいは剣で撃墜した。その隙にセイバーは無事士郎達と合流し、絶望的な戦場を後にする。
 そしてようやく、全ての音が止んだ。
 静寂を取り戻した広間の中心で、拮抗を続ける状況とアーチャーに対する苛立ちを募らせたギルガメッシュが憎々しげに睨みつけ、攻撃を回避し終えた黒いセイバーが無機質な眼光で見据える。その二つの視線を受け止め、赤い弓兵が変わらず立ち塞がっていた。
「そこを退け。たかが弓兵風情が我の侵攻を妨げるな」
「アナタ一人で、我々を足止め出来るつもりですか?」
 業火のような殺意と氷河のような威圧が波となって押し寄せる。強大なカリスマを備えた二人の王の言葉には、無意識に平伏してしまうよな『頂点に立つ者』が持つ特別な力があった。
 しかし、その威光を前にして、一介の弓兵は普段と何も変わらない冷笑で不遜にも笑い飛ばす。
「さて、月並みな台詞ではあるが言わせてもらおうか……」
 ここから先は神も悪魔も、如何なる者も通しはしないと、羅刹の如き非情の決意で仁王立ちする。
「―――ここを通りたくば、私の屍を越えてゆけっ!!」
 鋼の牙を剥き、赤い騎士は轟と吼えた。









 背後の閉ざされた扉の向こう側から、城全体を揺るがすような一際大きな爆音が聞こえた。その凄惨な戦闘の音に後ろ髪を引かれる思いで、士郎達は廊下を駆け抜ける。
「士郎、イリヤスフィールの様子はどう?」
「気絶してる。出血はそれほど酷くないけど……」
 抱きかかえた少女の体温が僅かな安堵を与えてくれた。呼吸も弱々しいがちゃんとしているし、落ち着いている。
 生きている。確かに。だけど。
「ああ、だけど……っ。くそっ、畜生っ! イリヤの目が……!!」
 怒りに顔を歪ませ、士郎は食い縛った歯からこの惨たらしい現実に対する呪詛を洩らした。そしてすぐに空しさと悲しみを感じて泣きそうな顔になった。
 イリヤの顔を切り裂いた刃の傷は酷いものだった。おびただしい血が河となって頬を伝い、少女の白い肌を染めている。傷が熱を持ち始めたのか、イリヤの頬は上気し、呼吸も徐々に荒くなり始めていた。
 幸いな事に出血の方は既にほとんど止まっていた。あれだけ大量の血を流しながら、この短時間で何の処置も施さず止血が行われるなど、自然治癒の領分を超えた現象だったが、幸か不幸か動揺した士郎はそれに気付かない。何より、血が止まったからといって安心出来るような状態ではないのだ。
 死ぬような傷ではないのかもしれない。だが、もうイリヤの眼は完全に潰れてしまっている。彼女は永遠に光を失ってしまったのだ。
「……」
 士郎の悪態を背中で聞きながら、凛は無言で足を進めた。
 答える術を持たなかった。魔術とて万能ではない。完全に破壊された眼球を修復し、再び見えるように神経を繋ぎ直す事がどれほど困難な事か彼女にはよく理解できていた。治癒魔術に長けた者でも、果たしてそれは可能なのか。少なくとも自分には無理だ。
 湧き上がる無力感を、拳を握って耐えると凛は前を見据えた。何度となく味わってきた気分だ、だが慣れる事など出来ない。魔術師という人とは違う存在になり、人とは違う力を身につけたが、自分が手に入れたものより失ったものの方が多い。それでいて伸ばした手はいつだって届かない。今もそうだ。
 だが振り返り、悔いる事はしても立ち止まる事だけはしたくなかった。
「……セイバー、状態はどう?」
 士郎にはイリヤを任せる事にして、凛は振り返らず殿のセイバーに尋ねた。
「少々魔力を消耗しましたが、ダメージはありません」
 僅かに疲労した様子を見せ、苦々しくセイバーが答える。それは先の戦いが防戦一方の消極的な戦いであった事を示していた。要は逃げ回っていただけだ。
 完全な敗走だった。そして、今はその逃走すらもうまくいくかどうか分からない。広間の戦闘の音は、大分離れた今もまだ聞こえているが、状況を考えればアーチャーとていつまでも足止めは出来ないだろう。
「あんまり奥に行くのもまずいわね。適当な所で窓でも破って外に出るか……」
 凛は呟きながら、周囲を見回す。
 広間から外へ出る退路は敵に塞がれていた為城の奥へと進んだが、最終的にこの場から脱出出来なければ意味が無い。別の出口を探索している暇もなかった。しかも、外へ出てもまだ広大な森が残っている。帰りのルートさえはっきりと確保出来ていないのに、加えて外はもう日が落ちて夜となり、木々の間には闇が満ちている。視界の確保も満足に出来ない夜の獣道を不用意に歩くのは危険だ。何よりそうやって時間の掛かる帰路の間、怪我人のイリヤの体力が持つのかどうかも懸念の一つだった。
 冷静な思考が頭を悩ませる問題を次々浮かび上がらせるのを故意に無視して、凛は萎えそうになる意思を叱責する。
 諦めは人を殺す。窮地で足掻く者こそが先に進めるのだ。弱気を封じ、決意を新たに凛は顔を上げた。
 そして、そこに至ってようやく凛は、通路の先の曲がり角に白い人影が佇んでいるのに気付いた。
「……誰?」
「―――お待ちしておりました」
 酷く静かな対面だった。
 待ち構えていたその人物に対して、凛は驚くほど落ち着き払って問い、同じく平坦な返答が返って来る。
「……メイド?」
 セイバーが無言で前に出ようとするのを手で制し、相手を観察していた凛が小さく呟く。白いドレスのような衣服に身を包んだその女性は、それに頷いて答えた。
「はい。イリヤスフィールお嬢様御付きの従者、セラと申します。時間がありません、こちらへ」
「……わかったわ」
 セラの端的な言葉を聞き、凛はほんの僅かだけ躊躇って、頷いた。
「リン、いいのですか?」
「敵じゃないって言ってるわ。それを、今は信じるしかない」
 目の前の白い侍女が自らの身分を明かした意味を、凛は正確に受け取っていた。少なくとも彼女はイリヤの味方だ。
 凛の返答に、セラは無言で踵を返すと曲がり角を曲がってすぐの部屋へと入っていった。それに三人も続く。
 中は何の変哲もない、普通の部屋だった。簡素なベッドと家具が整然と置いてある。書斎と言うほど物は置いていないし、寝室と言うわけでもない。特に目的を持たない私室だった。そのベッドの傍には、セラとはまた違う侍女が立っている。だがその服装から容姿に至るまで、セラとまるで鏡に映したかのようにそっくり同じだった。セラがベッドの傍に歩み寄り、二人が並ぶとそれが顕著に表れる。『似ている』というより『同じ』と表現した方がしっくり来るほどだ。ただ、一部の身体的特徴を除いては。
「私、リーズリット。時間がない、手短に説明する」
 セラと比べても尚いっそう抑揚の無い口調でリーズリットが話す。凛が彼女の案内に促されるように部屋の一角へ歩み寄り、セイバーが若干警戒しながらそれに続いた。
「お嬢様を渡して下さい。応急ですが、治療を施します」
「あ、ああ、わかった。頼む……」
 一方で、突然の流れに混乱していた士郎は、いつの間にか目の前に迫るセラの迫力に圧されて焦ったように何度も頷いた。
 差し出した腕の中からひったくるようにセラがイリヤを抱き寄せる。そして、何故か睨まれた。困惑する士郎を無視して、セラはイリヤの体をそっとベッドに横たえ、手元の救急セットで傷の応急処置を始めた。
 テキパキと早く正確に、目の前で作業が行われる。しかし、それを行うセラの横顔には初めて見た時の能面のような無表情ではなく、ほんの僅かだけ隠し切れない悲痛な色があった。それを見て士郎は唐突に理解した。彼女が主である少女を自分から引き離した時に見せたあの怒りは、親鳥が雛を奪い返す時の感情と同じものだったのだと。それを理解して、思わず安堵の笑みが浮かんだ。
「―――この部屋、緊急時の避難所になってる」
 部屋の隅ではリーズリットが凛達に説明をしていた。
 手前にある本棚に並んだ本のうち、赤い表紙の物を引き抜くように傾ければ、本棚がスライドしてその向こう側に薄暗い通路が続いていた。オーソドックスな隠し通路だ。
「古い手ね」
「お約束」
 呆れたようにため息を吐く凛を、リーズリットの言葉が更に呆れさせる。狙っているのか、これが素なのか。
「この通路、外の納屋まで通じてる。でも実際、そこは外出用の車を停めて置く場所。それで逃げて」
「車ね……この際仕方ないか」
 大昔の人間であるセイバーはもちろん、未成年の凛や士郎も車の運転免許など持っていない。だが素早くこの場から離れる為の足は必要だ。徒歩で逃げるよりはずっとマシだろう。一応、凛には乗用車を運転する為の知識があった。高校卒業後には免許を取る予定だったのだ。
「森の外までの道は整備してある。魔術で隠してあるけど、もう解除されてる」
「わかったわ」
「―――こちらの処置は終わりました」
 応急処置を終えたセラがイリヤを抱き上げて言った。傍らでは自分が運ぼうと手を伸ばしていた士郎がスルーされて手持ち無沙汰に頭を掻いている。
 セラがリーズリットの隣に並んで立つ。二人の、無感情だが真摯な視線が士郎達三人を見据えた。
「……エミヤシロウ、アナタの事はお嬢様から聞き及んでいました。どうか、お嬢様を宜しくお願い致します。ダンテという方にも、そうお伝えください」
「イリヤ、意地っ張りでわがままだけど、すごく寂しがりや。シロー、守ってあげて」
 二人が同じように頭を下げる。淡々としたその動作の中には、しかし確かにイリヤを案ずる想いが込められていた。
「……何言ってるんだ、ここはもう危険なんだぞ? あんたたちも一緒に逃げるんだ!」
「私たち、一緒には行けない」
「私達には、ここでやるべき事が残っています」
「そんなの……っ!」
「シロウ、時間がない。彼女達の意思は固いようです」
 セイバーが、ついさっきとは一変して人形のように頑なに佇む二人のメイドを見て言った。城が崩れようとテコでもここから動かないと言わんばかりに、彼女たちは微動だにしなかった。
 口論している暇は無い。士郎は尚も口を突いて出そうになる言葉を歯を食い縛って飲み込むと、有無を言わさぬ視線で二人を睨み付けた。
「……っ、じゃあ約束しろ! そのやるべき事ってヤツを終わらせたら、絶対に生き延びてイリヤの前に戻って来いよ!? イリヤが無事なら自分はどうでもいいって理由で残るんなら、引き摺ってでも連れてくからな!!」
「……」
 セラとリーズリットは、初めて互いの顔を見た。それぞれの相手の顔には、珍しい困惑の表情が浮かんでいる。
「……わかりました。約束しましょう」
「うん、シローもイリヤに似て頑固。でも、ありがとう。セラの分も」
「リーズリット、余計な事は言わなくていいです」
 二人の返事を聞き、その言葉に生きる意思を感じると、士郎はようやく納得したように力強く頷いた。イリヤを受け取るべく、手を差し出す。
 セラは、それにほんの一瞬だけ躊躇し、最後に一度だけ腕の中のイリヤを強く抱き締めた。大切なものを心に仕舞い込もうとするような、優しく切ない抱擁だった。眠り続ける愛しい少女の小さな鼓動を三回だけ聴く。それが区切りだ。
「―――ご無事で、イリヤ様」
 祈るように囁き、セラはイリヤを士郎に差し出した。多くの想いと共に。頷き、それを確かに受け止める。
「行くわよ」
 見届けた凛が、セイバーを先頭にして隠し通路の奥へと駆け出していった。
 士郎はその背を追い、最後にもう一度だけ振り返る。二人の白い従者は何も変わらず、人形のように佇んでいた。
「……お願いします」
「ああ」
 託された願いを受け止めて、士郎は踵を返し、凛達の後を追って駆け出した。
 薄暗い通路の向こうへと消えていく三人の背中を、セラとリーズリットは最後まで見送っていた。
「―――シローっていう人間の事話す時、イリヤ嬉しそうだった。ダンテっていう悪魔の事話す時、イリヤ嫌そうだった。……でも私たちと話す時、これまでイリヤはあんなに表情変えなかった」
 もう暗闇しか見えない通路の先を見据えたまま、凍った仮面を被り続けるセラの横顔を見ずにリーズリットが淡々と呟く。
「きっと、あの人たちなら大丈夫」
「…………そうですね」
 ぽつりと、漏らしたリーズリットの言葉にセラは空っぽの返答を返した。空っぽ。それは人形である自分に相応しいものだと思ったが、この胸に去来する喪失感は確かに、かつて自分を『満たしていた』ものを失った反動だった。失って、ようやく理解したのだ。自分にとって、あの少女は主以上の存在であったのだと。
「……セラも結構寂しがり屋」
 やれやれ、といった肩を竦める仕草を無表情で行うリーズリットのため息を聞いて、セラは我に返った。
「誰が寂しがり屋ですか」
「妹はツンデレ」
「誰がツンデレですか。あと、いつ私の方が妹になったんですか」
「質量の差から」
 視線をセラが持つ軽量級の胸に送りつつ、自分の胸元にある重量級のそれを指さす。リーズリットは無表情の鉄仮面で隠したまま、自らの片割れに一瞬本気で殺意を覚えた。
「元気、出たね」
 リーズリットは、労わるようにして肩をぽんぽんと叩くと親指を立てて、唇の端をつり上げた。嘲笑などではなく、悪戯に成功した子供のような笑み。それを見て彼女が自分を励まそうとしていた事を理解すると、セラの溜飲は下がり、全身を襲っていた虚脱感がなくなって、逆に自分のやるべき事を見出した使命感が湧き上がってきた。
 なるほど、確かにこれでは妹だ。先ほどまでの気弱な自分を笑い飛ばし、いつも通りの『堅物』な自分を取り戻す。
 やるべき事がある。その為にここに残ったのだ。
「―――行きましょう、リーズリット。<アレ>を城から運び出します。お嬢様がどのような道を選ぶにせよ、<アレ>は必要になります」
「うん、私たちにしか、出来ない事」
 二人の白いメイドは互いの使命を確認するように頷き合うと、未だ断続的に広間の轟音が揺るがす城の奥へと、ゆっくり歩み進んでいった。









 広間での戦いは平行線上を辿っていた。それも酷く危うい均衡の上で。
「ええい、埒が明かぬわ!」
 ギルガメッシュが苛立たしげに悪態を吐き捨てる。それと同時に彼の背後に潜む<蔵>が宝具の嵐を吐き出した。刃が文字通りの雨となって、無作為に降り注ぐ。その圧倒的な数には誰もが死を連想するだろう。
 だが―――。
「そう、それが『良い』んだ……」
 アーチャーは微笑さえ浮かべて、一人呟いた。
 ギルガメッシュと黒いセイバー。いずれも単体の戦闘力ではアーチャーを上回りながら、それを二人同時にも相手をして尚拮抗を維持できる理由がそこにあった。
 ギルガメッシュは黒いセイバーを単なる<戦力>として見ている。そこに仲間意識やチームワークなどと言うものは存在しない。加えて黒いセイバー自体もそれに無頓着だ。ただ淡々と己の倒すべき標的に攻撃を仕掛けている。
 一方が遠距離(アウトレンジ)から射撃を加え、もう一方が近距離(クロスレンジ)において敵を圧倒する。本来ならこういった局面には、二つの異なる攻撃を組み合わせる<連携>が必須となるのだが、互いの意思疎通すら行われない無作為の波状攻撃は、ギルガメッシュの宝具が敵に接近する黒いセイバーを背後から巻き込む形で放たれ、回避や迎撃の間隙を衝かれてアーチャーの投影掃射との挟み撃ちにすら陥るという最悪の展開となっていた。連携(コンビプレイ)などという結構なシロモノは薬にしたくともカケラもなく、二人の強大な戦闘力が逆に互いの足を引っ張る結果を招いていた。大いなる自我を備える王と自我を持たぬ泥人形の相性が生んだ必然だった。
 ―――だが、どれだけ捏ね回してもそれは所詮理屈だ。
 現状で、この戦いがアーチャーにとって絶望的な事は確認するまでも無い。自らの持つ有限な魔力を怒涛の如く消費して贋作を作り出し、ひっきりなしに撃ち出しているのだ。アーチャーは鉄面皮の下で徐々に底を見せ始めた自らの力を冷静に計算していた。いかに冷静だろうと尽きるものは尽きる。そして、その瞬間が彼の最期となるだろう。そうなる前に、凛達がこの城から遠くへ逃げ出してくれる事を祈るしかない。
 とにかく、今自分に出来る事は一秒でも長く敵をこの場に縫い止めておく事だ。
「投影、開始(トレース・オン)―――」
 そして、気の遠くなるほど長い時間紡ぎ続けた自らの呪文を口にする。
 ギルガメッシュが<蔵>から宝具を取り出す一過程の間に自らがそれを投影し、全く同時に解き放つ。同数の<矢>は正反対の軌道を辿って直進し、激突して相殺される。そして、その射線に巻き込まれる形となる黒いセイバーが回避する為に間合いを―――詰めた。
 アーチャーが息を呑む。黒いセイバーは正面から迫るアーチャーの攻撃の回避のみに集中して、そのまま臆す事無く前へと踏み込んでいった。当然のようにその背中へギルガメッシュの流れ弾が襲い掛かる。黒い甲冑を砕き、数本の刃が突き刺さり、貫いて胸から剣先を現した。しかし、彼女はその衝撃にほんの僅かだけたたらを踏み、後は何事もなく体勢を整えて次なる一歩を踏み出したのだ。
「な、に―――っ!?」
 肉を斬らせて骨を断つ、と言うにはあまりに非常識な決断。
 彼女が姿形だけでなくその力までセイバーを模したものだというのならば、多少のダメージは驚異的な治癒力によって無しに出来る。黒いセイバーは計っていたのだ。二つの射線を突破出来るチャンスではなく、行動に支障の無い程度のダメージで抑えられる瞬間を。
 そして、黒い騎士はついにその恐るべき剣の射程へと赤い弓兵を捉えた。身の竦むような殺気とプレッシャーに襲われながら、アーチャーは両手に馴染んだ双剣を掴んで身構える。決死の覚悟と力を以って、迫り来る絶望的な斬撃を迎え撃った。


 ―――次の瞬間、両腕を伝って全身に駆け抜けた凄まじい衝撃と共に、アーチャーの意識は一瞬ぶつりと音を立てて途切れた。


「……が、ぁ……ッ!?」
 一秒も経たずに意識は活動を再開する。明滅する視界で自分のいる位置を把握。立っていたはずの場所が随分遠い。パラパラと頭に降り注ぐ石の破片に気付いて周囲を見渡せば、自分の体が壁を抉っているのが分かった。ここまで吹き飛ばされたのだ。眼前に立つ、見慣れた少女の顔を持つ黒い怪物の一撃で。
 握っていたはずの双剣は両方とも柄から先が砕け散って無くなり、やがて残った部分すらも霧のように消滅した。両腕は完全に破砕され、ピクリとも動かない。叩きつけられた背骨が軋み、アーチャーは血を吐いた。それと同時に力の抜けそうになる両足を叱責する。壁に背を預ける形で、それでも彼は膝を着く事を拒否した。
 だが、所詮それだけだった。黒いセイバーの攻撃力はバーサーカーに匹敵か、あるいはそれを凌ぐほどだ。身に染みて分かった。致命傷ではないが、この状況では致命的なダメージを負ってしまった。
「小賢しい時間稼ぎも、これまでのようだな」
 刃を納め、既に勝者の笑みを浮かべたギルガメッシュがアーチャーを見下ろす。もう彼が手を下す必要などない、目の前に立つ闇色の騎士が処刑の刃を振り下ろすからだ。
 両腕は砕かれ、残された魔力は雀の涙ほどしかない。アーチャーは抵抗の意思だけを明確に宿した瞳で、歩み寄る黒いセイバーを見据えた。一歩ずつ、死が迫る。それは彼にとって恐怖ではなく、生前に何度と無く感じたものだった。かつても、そして今も、振り上げられる死神の刃に対して諦めなどなく、しかし無情にも今立ち向かうだけの力はない。
 闇に染められた聖剣の刃を見上げ、アーチャーは自嘲の笑みを浮かべて呟いた。
「悪い、遠坂。俺はここまでだ……」







 ―――その時、沈黙を保っていた白い少女の忠実なる巨人が目覚めた。



 張り詰めた静寂を突き破るようにして、鎖に縛られた戦士が怒りの声を露にした。狂気でも憎悪でもない、勇ましい雄叫びが猛るように響き渡る。自らを締め付ける何重もの鎖を、内側から脈動する鋼の筋肉が押し上げると、ついにその拘束を断ち切った。
 その悪夢のような奇跡、諦める事無く鎖へと力をぶつけ続けていた功か、あるいはギルガメッシュの油断が生んだものか。ただ今は、押さえ込まれ続けていた狂気が怒涛の如く溢れ出し、嵐となって飛び出した。バーサーカー、偉大なる大英雄ヘラクレス、力の権化が。
「馬鹿な、貴様……っ!!」
『■■■■■■■ーーーーッ!!!』
 自らの持つ宝具の中でも絶対の信頼を寄せる鎖を断ち切った彼者に対する驚愕を露にする王を尻目に、解放された巨人は斧剣を大きく振り被って、次の瞬間引き絞られた矢を放つように投擲した。
 巨大な刃が車輪のように回転し、凶悪な唸り声を上げながら一直線に空間を薙ぎ払う。その射線上にいた黒いセイバーは慌ててその身を翻し、その場を跳び退った。アーチャーの眼前を刀身が床を抉りながら通過し、一瞬遅れてソニックブームのような突風が吹き抜ける。剣はそのまま砲撃のように城の壁をぶち抜いて反対側へと消えていった。
 一瞬の破壊を見送った黒いセイバーの頭上で風が唸る。見上げれば、投擲と同時に跳躍したバーサーカーの巨体が敵に狙いを定めて落下している最中だった。武器など必要ない、この身に宿す力こそ絶対の武器だと、吼える。剛力招来。岩のような拳を振り上げ、身体そのものを砲弾と化して飛来する姿に、迎撃は不可能と判断した黒いセイバーは素早く離脱を図る。一瞬遅れて、隕石が落下するような衝撃と共にバーサーカーの拳が床を抉った。
「狂犬が、鬱陶しいわっ!!」
 自らの力の象徴である宝具を破った戦士に対する怒りと苛立ちを含め、ギルガメッシュが腕を薙ぎ払った。号令を受けて刃の軍団が行進する。その攻撃に対して、バーサーカーの持つ防御が意味を成さない事はこれまでの事で明らかだ。まともに受けるワケにもいかず、その必要も今は無い。回避だ。
 だが、鋼の巨躯はその場を動かなかった。
 攻撃の射線上、自らの後方に力尽きた弓兵がいる事を一瞥して悟ると、彼は大声を張り上げて宝具の群れを素手で迎え撃ったのだ。
「なっ、馬鹿な! 何を―――っ!?」
 雄々しくも無謀な判断にアーチャーが驚愕する。いや、自らの主でもない者を庇うなどという判断を、彼の狂った思考が下した事が信じられなかった。
 自らの腕を盾として急所への攻撃を受け止め、最小限のダメージでバーサーカーは刃の嵐を耐え抜く。しかし、それでも押し寄せる宝具の物量には対しては無謀だったか、彼はその攻撃で二つの命を失った。ついに、<十二の試練(ゴッドハンド)>の持つ命のストックも切れる。バーサーカーに残された命は、正真正銘あと一つきりだ。
「バーサーカー……。君は、何故……?」
 幾つもの刃が突き刺さり、針の山のようになったバーサーカーの背中を呆然と見つめて、アーチャーは無意識に呟いていた。
 岩のような肩越しに、彼は振り返る。その顔に刻むのはアーチャーと同じような鉄の沈黙。しかし、見下ろす赤い眼光に宿っていたものは狂気などではなく、真の戦士だけが持つ強烈なまでの意思だった。
(―――往け)
 ただ一言、視線がそうと告げる。アーチャーには何故かはっきりとその言葉が聞こえた。わずか一瞥。ただその一瞬だけで全ての意思を受け止めて、アーチャーは眼を伏せ、そして次に開いた瞬間決意を新たにした。
「……すまない。この命、拾わせてもらう!」
 その返答を聞き、失ったはずの理性は理解したのか、バーサーカーは顔を背けて視線を眼前の敵二人へと戻した。
 傷ついた体を持ち上げ、アーチャーは踵を返して霊体化しようとする。それを見咎めたギルガメッシュが叫んだ。
「逃がすか、贋作者(フェイカー)!」
 背を向けた標的に向けて、霊的な力を纏う突撃槍を放つ。ミサイルのように高速で飛来するそれは、しかし寸前で振り下ろされたバーサーカーの拳に叩き落とされた。同時に、受け止めた宝具の威力で拳から二の腕にかけてが吹き飛ぶ。隻腕となったバーサーカーは、お前たちの相手は俺だと言わんばかりに猛々しく咆哮を響き渡らせた。
 アーチャーがまんまと逃げ果せた事を悟ると、ギルガメッシュは舌打ちを吐き捨てて立ち塞がる狂戦士の巨躯を睨み付けた。
「狂った獣が……身の程を知れ!」
「―――待ってください」
 腕を振り上げ、いざ粉砕してくれようと蔵の扉を開こうとしたギルガメッシュを、黒い手甲に包まれた腕が制した。闇に染まった騎士王が一歩前に踏み出す。
「アレは丁度良い。この剣が、どれ程<最強の幻想(ラスト・ファンタズム)>に近しく再現されているか、試し斬りをさせていただきましょう」
 一切の感情を廃した冷たい殺気を含み、黒いセイバーは自らの闇に堕ちた聖剣を掲げた。ギルガメッシュがその漆黒の刃を一瞥して、興味を失くしたように腕を下ろす。
 黒いエクスカリバー。人々の"こうであって欲しい"という想念が星の内部で結晶・精製された神造兵装。聖剣というカテゴリーにおいて最高クラスに位置する剣を模したその刃は、しかし剣の名が持つ<善>の性質とは全く真逆の<悪>を刃鉄に内包して、黒い光を放ち始めた。
 禍々しい輝きが鼓動するように瞬き、甲高い悲鳴にも似た魔力の収束音が鳴り響く。
『■■■■■■■ーーーーッ!!!!』
 バーサーカーがその呪われた剣の叫びに正面から対立するように雄叫びを上げた。自らの首に添えられた死神の鎌を恐れもせず、彼は足を踏み出す。彼は目の前に指し示された死への道筋を理解している。
 ならばこそ、故に、その道は自らの意思、自らの足で歩み抜いて見せよう。恐れはしない。この身に残ったものならば、魂さえ燃やし尽くし<力>となって宿れ。さあ、征くぞ!
 超力招来。風を切り、床を砕き、粉塵を上げ、勇ましき戦士が最後の突撃を開始した。
「来るか―――!」
 轟、と風が唸った。莫大な魔力の唸りが生み出す暗黒の嵐。その中心で、腰溜めに剣を構え、迫り来る狂戦士を黒い騎士王が迎え撃つ。
 それは闇なのか、黒く染まった光なのか、ただ『黒い閃光』としか表現できないものが周囲の大気(マナ)を蹂躙し、一本の剣となって荒れ狂う。刀身に刻まれた血脈のような赤い刻印が明滅を繰り返す。噴き出す闇に向けて恐れを知らぬ狂戦士は駆けた、一直線に。


「―――約束された(エクス)」



 発動される瞬間を今か今かと待ち構える凶暴な黒い牙へと、その穢された真名が紡がれる。
 大きく踏み出す。剣技では無い、人の技を超越した最凶の一閃を放つ為に。
 そして激突する。今。


「勝利の剣(カリバー)―――!!」



 一筋の流星と化した、雷鳴にも似た暗黒の輝きがついに放たれた。
 所有者の魔力を光に変換後収束・加速させて運動量を増大させ、神霊レベルの魔術に匹敵する破壊の閃光となって直進する。闇の斬撃は津波となってバーサーカーに押し寄せ、飲み込んだ。止まらない。光によって形成された断層が通過する線上の全てを切断する。黒い烈光は床や壁を貫き、薙ぎ払って、ついに城そのものを貫いて虚空へと消えていった。
 剣を振り抜いたままの姿勢で、黒いセイバーは射線上を確認する。『何も無い』 充分な結果だった。
 エクスカリバーの一撃は、バーサーカーの身体を完全に消滅させ、アインツベルン城に大穴を空けて夜空へと消えていた。その惨状を見たギルガメッシュが、純粋な感嘆を漏らす。<エア>に匹敵する程の威力だ。本家のエクスカリバーに至っては、破壊力だけなら既に超えているだろう。
「なかなかの物だ。内包する魔力量の違いもあるだろうがな」
「はい。宝具自体の再現度は100%に及びませんでしたが、所有者の魔力量の差からオリジナルを凌駕出来ます」
 淡々と黒いセイバーは頷いた。だが真に恐るべきは、コレを模造とはいえ造り出した魔帝だろう。
 凄惨な破壊の爪痕だけを残し、静寂を取り戻した城の広間を見回して、ギルガメッシュはつまらなそうに口を開いた。
「<聖杯>には逃げられたな。セイバーもか……全く、鬱陶しい小物が多いわ」
 ギルガメッシュは足元を憎々しげに見下ろした。胴体を吹き飛ばされたバーサーカーの首が無造作に転がっている。命を全て使い尽くしたその肉体は、もうただの残骸に過ぎない。消滅し始めたそれを忌々しそうに踏みつける。
 一方、黒いセイバーの方は変わらず無を宿したままの瞳を虚空に向けていた。
「聖杯の器は手に入りませんでしたが、バーサーカーが消滅した事により、英霊の魂が『二つ』送られました。もはや、孔となる<聖杯>は必要ありません。<大聖杯>の生誕は間近です」
「ふん、全て想定内と言う事か?」
「そうです」
 淡々と答える表情のない横顔に苛立って、ギルガメッシュは舌打ちした。だが、まあいい。全ての過程が終わる時が近いという事は、全てが始まる時も近いという事だ。何が起ころうと、あらゆる事象を支配するのが王たる自分である事に変わりはない。絶対の自信と自負を持ち、英雄王は笑みを浮かべた。
「―――魔界か。人の世を支配した我が、次に支配するのもまた一興だな」
 生まれついての王のみが許される大胆不敵な、宣告に似た呟きを漏らす。その瞳には一片の迷いも恐れも無く。
 崩れ始めたバーサーカーの首を、靴底で勢い良く踏み潰すと肉片が床に四散した。その欠片が煙のように消滅していくのを尻目に、黄金の王と闇の人形は踵を返して城を後にした。










「―――音が聞こえなくなったな」
 エンジン音のノイズを聞き分けながら、士郎は車の窓を僅かに開いて外に耳を傾けていた。アインツベルン城から、静寂に満ちた森にまで響いていた戦闘の轟音が、気がつけば今はもう聞こえない。
「大分走ったからね、とりあえず城からの距離は離せたみたい」
「だったらさ、遠坂……」
 努めて素っ気無く返答を返す運転席に座った凛の横顔を覗き込んで、後部座席の士郎は神妙に口を開いた。
「何?」
「……っ頼むから、スピード落としてくれぇー!!」
 闇に紛れて林立する木々が怒涛のように流れていく外の光景を見ながら、士郎はほとんど悲鳴に近い叫び声を上げた。
 フロントガラスの先に伸びる整備された道をヘッドライトの強烈な光が照らしている。とは言っても、街灯一つ無い夜の森において唯一の光源がそれだけでは、視界を確保できる範囲などほんの目先十数メートルほどだ。いつ目の前に大木が腰を据えて現れるとも限らない状況で、車のスピードはほとんど最大時速のまま衰えない。轟々と風を唸らせながら、凛の運転する車は道を進んでいく。木々を切り倒して道を拓いたワケではない、まるで車が通る部分だけ木が道を譲ってくれているかのような不可思議な道だった。だがそれは木々の隙間をギリギリですり抜けるような、スピードだけではない恐怖感が付き纏うものだった。おまけに整備されていると行っても所詮は森の中、高速道路でも出さないスピードで走り抜けるような場所ではない。時折激しくバウンドする車内の状況は最悪だった。
「遠坂、聞こえてるか!? スピード落とせって、オイ!」
 視界の先にある景色が瞬きする間もなく後ろへと吹っ飛んでいく。士郎は身を挺して我が子を庇う母親のような悲壮な覚悟で腕の中のイリヤを抱き締めながら、運転席の凛に訴えかけた。
「うっさいわね、一秒でも早く森を抜けて街に戻らなきゃいけないんだから! 悠長にしてる暇は無いわ、男ならピーピー騒がないでっ!!」
「それで事故ったら意味無いだろうが、このスピードで運転ミスったら死ぬぞ!? 怪我人もいるんだ……って、おい……。お前笑ってないか? 楽しんでないか!?」
「黙って! 運転に集中できないわ! ―――っつーか、何コレ? ハイヤーのクセに、なんでこんなにハンドル重いのよ? 切りにくいわ」
「だったらアクセルベタ踏みするなよ!?」
 士郎のツッコミはもう絶叫になっていた。
 ちなみに<ハイヤー>とは車種の名前ではなく、公官庁や大企業などが主に使用する貸切の高級乗用車の事である。タクシーなどと違い、契約した客側が一定期間を専属の車両として利用出来るもので、テレビやニュースでよく見る国会周辺や高級料亭に横付けされている黒塗りの高級車はほとんどこれに該当する。アインツベルンから派遣されたイリヤたちの背景を顧みれば、使用する移動手段として至極適切な物だった。
 アインツベルンが手配し、今現在凛が運転している大型ハイヤーはメルセデスのベンツである。言うまでもなく高級車であり、間違っても森の中を走る事など想定していない。進路上に突き出た木の枝が高そうな漆黒のボディを容赦なく引っ掻いていく。だが所有者でない凛には何ら関係のない事だった。むしろこれまで宝石魔術の出費と財産のやりくりに身を削っていたストレスを解消するかのごとく、この高そうな車を後先考えず走り回す快感に酔いしれていた。
 衝突事故の危機感など夜空の彼方に飛んでいった最悪のドライバーの一例と化した凛は、悪魔のような笑みを刻んでアクセルを踏み抜いた。
「セイバー、何か言ってくれ!」
 頼みの綱は君だけだ、と士郎は助手席に座る騎士王を見た。
 先ほどからずっと沈黙を保っていたセイバーは、口を真一文字に引き締め、その内で歯を食い縛り、真っ直ぐに前を見据えている。強張った表情は血の気が失せて蒼白に染まり、目尻に涙が溜まっていた。早い話が半泣きだった。乗馬時代の人間に、この凶悪な乗り物は堪えたらしい。その誤解を解きたい。
 残された士郎は精一杯不条理を喚く。
「無免許! スピード狂! 止めてくれぇー!!」
「私、高校卒業したらすぐ免許取るわ。そして赤い車を買うの。オープンカーがいいわ、映画の『48時間』で二ック・ノルティが乗ってたようなヤツ……」
「せめて前見ろ、前ぇ!」
 恍惚とした表情でトリップする凛に士郎が涙目で訴える。そして眼前に続く木々の隙間から、蒼白い光が溢れたかと思うと、次の瞬間車は勢い良く森の外へと飛び出していた。
 月光が黒い車体を鈍く照らす。
「……っく、森を抜けた!?」
 着地の衝撃がイリヤに響かないよう足を踏ん張って、士郎は急に広けた視界に思わず安堵した。凛がハンドルを切り、目の前を横切る今度こそしっかりと整備された道路へと車を乗り上げる。街灯が見え始めた、光の導く先にはまだ明かりを灯す街並みが見える。その光景が、何故か酷く懐かしく思えた。
「…………助かった」
 士郎が心の底から呟く。それがギルガメッシュ達から逃げ切った事に対するものだけでないのは誰の目にも明らかだった。凛以外は。
「……私の国で一番の暴れ馬でも、これほど酷くはありませんでした……」
 同意するように、セイバーが呟いた。無事を噛み締めている。
 だが生憎、二人の意図せぬ抗議を交えた言葉は一変して真面目に運転する凛には聞こえていなかった。まだ周囲に森の名残があり、走行車両のない道を傷だらけの車が走り抜ける。スピードも大分抑えられていた。
「とりあえず、このまま士郎の家に向かうわよ。待機しているバゼットなら、イリヤスフィールの傷をなんとか出来るかもしれない」
「ああ、そうだな……」
 元の冷静な凛に戻った事にほっとため息を吐き、士郎は腕の中で眠る少女を見下ろした。腕に感じる体温と呼吸が、まだ生きている事を知らせてくれる。眼を覆う白い包帯は、僅かに赤く滲んでいたがそれ以上広がる事はなかった。
「血も止まってるみたいだ。良かった……」
「……待って、それ本当?」
 安堵交じりの呟きを聞き、前を見たまま凛が僅かに訝しむような声を上げる。その反応を不思議に思いながら士郎は顔を上げた。
「ああ、それがどうした?」
「そんな筈無いわ。あれだけの傷、魔術的な治癒も無しに―――」
「―――っ、ぁあああ!」
 不意に、凛の言葉を遮り、甲高い悲鳴を上げて腕の中のイリヤが大きく痙攣した。
「どうした、イリヤ!?」
 顔色を変えて、士郎がその身を案ずる。イリヤは応えず、胸を掻き毟るように掴んで、震えながら身体を丸めていた。痛みか、あるいは別の何かの感覚に耐えるように歯を食いしばり、その隙間からか細い呻き声を漏らす。
 動揺した士郎にはどうする事も出来なかった。凛の代わりに様子を伺っているセイバーを見ても、戸惑った視線しか返って来ない。はっきりとした外傷や、ダメージによるものには見えなかった。
「……っ、ァ……、が……!」
「なんだって? イリヤ、なんて言ったんだ……?」
 意識を取り戻したイリヤが、掠れた声で、それでも何とか言葉を紡ごうとする様子に士郎は耳を傾けた。やがて落ち着いてきたのか、強張った体から幾分力を抜いたイリヤが深呼吸をして口を開いた。
「バー……サーカーが、消え、た…………っ」
 言い終え、少女は唇を噛み締める。それが胸の、心臓を蝕む鈍痛のせいだけではないと、彼女自身も理解していた。包帯の奥で、流せぬ涙を流す。これは、悲しみだ。
「わかるのか?」
「わたしは、聖杯……だから…………分かる。さっき、サーヴァントが二人、消滅したわ……」
「……そうか」
 あの場に残った赤い騎士の背中を思い出して、士郎は自分でもよく分からない激情を飲み下した。あの男を嫌っていた筈だが、ならば今自分の胸を去来する感情の理由が分からない。いや、そもそもあの時自分が見たもの聞いたものが間違いないならば、あの男は―――。思考が混乱してうまく纏まらない。
 漂う重い空気の中、唐突に凛が口を開いた。
「―――ちょっと待って、アーチャーの反応は消えてないわよ?」
「え……?」
 思わず間の抜けた声が漏れた。
 確かめるように視線を凛の右腕に落とせば、そこには残り一回分の令呪が未だ消えずに残っている。それはアーチャーの生存を意味していた。
「どういう事ですか?」
 セイバーの呟きが、全員の心を代弁していた。士郎は身を起こしたイリヤに視線を戻す。胸を押さえ、まだ整わぬ呼吸で彼女はさらに言葉を紡いだ。
「違う……消滅したのは、アーチャーじゃない。消えたのは、バーサーカーと……」













「『アサシン』よ―――」











―――第五回聖杯戦争。クラス「バーサーカー」 真名「ヘラクレス」 脱落。残り5人(イレギュラー+1) 

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