ACT23「誰彼」



 それはセラにとって、あまりに唐突な出来事だった。
 セラはイリヤに従う従者にしてメイドである。聖杯戦争中の約二週間という短い期間ではあるが、彼女ともう一人、不肖のグータラメイドことリーズリットは拠点となるアインツベルン城の管理を任されていた。
 セラとリーズリットの役目は、主の世話をする事。それはもちろん、イリヤ本人の健康管理や食事、その他もろもろの世話の他に、生活環境の管理も含まれている。城の管理もその一環だった。
 とは言え、城内は無駄に広大である。おそらく冬木市の都心にもこれほどの規模の住宅はあるまい。しかも、そこで暮らしているのは実質イリヤ、セラ、リーズリットの三人のみだ。メイド二人では全ての部屋を掃除する事も困難だし、何より使っていない部屋が圧倒的に多いのだから意味が無い。
 結局、妥協―――というのはメイドとして酷く屈辱的だが―――をして、実際に使っている生活空間のみに手を加えていた。
 そして、セラはというと別室でイリヤの遊び相手を任せているリーズリットとは別に、実直に従者の職務を果たしていた。玄関ホールの清掃である。
 城の正面口から入ってすぐにあるこの空間。豪奢な置物やシャンデリラに出迎えられ、二階の吹き抜けになった広い空間が広がっている。
 はっきり言って、一人で掃除をするにはかなり手間の掛かる場所ではあるのだが、セラは特に苦など感じなかった。手伝わないリーズリットに別段不満もあるわけではない。むしろ適材適所だと思っている。
 セラにとって、手順の決まった『作業』は得意なものだった。それがどんなに複雑なモノでも、次に何をすればいいか決まっているのだ。
 逆に、イリヤの話し相手や遊び相手などといったモノにはすこぶる苦手意識がある。どうすればいいのか判らないのだ。
 セラはそんな自分を『悲しい』と思った。
 信愛する主に自然体で接する事が出来る。それはどんなに綺麗に掃除が出来る事より、どんなに美味しい料理が作れる事より、従者として優れた能力なのではないかと。メイドとしての勤務態度にムラのあるリーズリットを、この場合だけは羨ましく思っていた。
 玄関ホールを彩る芸術品のうち、値打ちものの巨大な壷を拭き終えたセラは、清掃用具を乗せた台車を押して次の置物に向かった。一つ一つ備品を磨いていくのを細かいと言うなかれ、訪問者を最初に出迎える玄関はそれ自体がアインツベルンの威光を現す芸術品だ。手抜きは許されない。
 既に大小数十個の備品を磨き上げ、額の汗を軽く拭いながらもセラはそこはかとなく満足そうに周囲を一瞥した。



 そして、唐突に―――。
 それは本当に何の前触れも無く、衝撃と爆音を伴って巨大な玄関のドアをブチ破った。









 それが爆発だと気付いたのは、一瞬の気絶から覚めた時だった。立っていたはずの自分の体は木片や埃の散りばめられた床に横倒しになっていた。耳鳴りがする中で、折角掃除した床が汚れた事に嘆息する。その思考が馬鹿らしいと気付くまでに、またしばしのタイムラグがあった。
「これは、何、が……」
「―――ここの従者か? 出迎えがなっていないな」
 麻痺しかかった聴覚が嘲笑混じりの声を捉え、セラは痛む体を起こして声の方を向いた。
 そこには、本来ならば玄関と大きな扉があるはずだった。だが今や、そこにあるのはぽっかりと空いた巨大な穴だけだった。爆発の中心となったその場所は壁が砕かれ、扉など跡形もなく消し飛んでもうもうと煙が漂っている。そして、その中で悠然と佇む黒い人影が一つ。
「答えよ、<聖杯>は何処だ―――?」
 圧倒的な威圧感と、眩暈を起こしそうな神気を纏う男が一人、血のように赤い視線でセラを見下ろしていた。
「……っ」
 セラは答えられなかった。突如現れた侵入者に対して答えるワケにはいかなかったし、同時に答える事も出来なかった。常日頃、どんな不祥事にも平静を保ち続けた精神が、今目の前に立つ男のプレッシャーを受けてあっさりと悲鳴を上げている。
 次元の異なる存在を感じた。アレは、自分を人とも標的とも思っていない。
「どうした、早く答えぬか。我が問うているのだぞ、無礼者」
「……アナタは、何者ですか?」
 必死の思いで言葉を返せば、その声は意図せず震えていた。これまで感じた事の無い<恐怖>を、今は感じる。そして悟った。
「―――貴様」
 自分はここで死ぬ、と。
「我の『問い』に『問い』で返すな、たわけが!」
 不快さを隠す事無く吐き捨て、男はパチンッと指を鳴らした。響いた音は思いのほか軽快だったが、次の瞬間放たれた宝具が一変して凶悪な唸り声を上げた。
 それは一瞬の事。アインツベルン城の玄関を吹き飛ばした神秘の砲撃が、セラに向かって殺到する。
 目の前に迫る無数の武具の雨を見据え、身動きすら出来ず、セラはただ静かに自らの死を見つめた。瞬きする間もなく肉片すら残らない赤い霧と化すであろう、自分の末路を。
 しかし―――。
「バーサーカァーッ!!!」
「っ!?」
 死を与えた男にとっても、死を受け入れたセラとっても、予想外の結末が訪れた。
 凛と響き渡る少女の叫びに呼応して、降り注ぐ宝具の雨よりも早く灰色の巨人がセラの前に舞い降りる。そして主の命ずるまま、狂戦士は己の剣を以って攻撃を迎え撃った。激しい金属音と共に獣じみた咆哮が響き渡り、火花を散らして宝具の矢と鋼の大斬撃が激突する。
 その刹那の光景に見入る間もなく、セラの体は強い力に引っ張られてその場から引き離された。
「セラッ!」
「……っ、お嬢様!?」
 自分を抱える不相応に小さな腕と、耳元で響いた鈴のような声を聞いて、セラは思わず驚愕していた。
 セラの言葉に応えず、イリヤはその小さな体で自分より大きい彼女を抱え上げ、風のように疾走してギルガメッシュの傍から離脱した。小柄な体格をはるかに凌駕した運動能力だ。
「バーサーカー、下がって!」
 充分な距離を取ると、イリヤが自らの従者に向かって叫ぶ。それに応えるように、バーサーカーはそれまで受け止め続けていた宝具の攻撃から素早く離脱した。
 二つの強大な存在が、互いの戦意を持って対峙する。
「お嬢……様……?」
 自分を救ったイリヤの行動に対してセラは動揺を抑えきれず、男と対峙した時よりも掠れてうまく出せない声を絞り出した。やはりイリヤはそれに応えず、敵を見据えた横顔を苦悶に歪めながら片腕を押さえる。
「……っ痛〜、やっぱりこの体で強化の魔術なんて使うものじゃないわね。肩が外れちゃったみたい」
「お、お嬢様! なんという無茶をなさるのですかっ!?」
 額に脂汗を滲ませて、自嘲の笑みに口元を歪ませるイリヤを見て、ようやくセラの思考が動き出す。
「うるさいなあ……こんな時まで口喧しく騒がないで、セラ。骨に響くわ」
「なんという……っ。何故、このような軽率な行動を取られたのですか!?」
「いいから、セラはさっさと下がってよ!」
 珍しく取り乱したセラの様子に驚く余裕もなく、イリヤは張り詰めた声で叫んだ。傍らでバーサーカーが敵に向けて牙を剥き、嵐のような斬撃を伴って襲い掛かる。それを黄金の騎士が宝具の軍団で迎え撃つ。
 始まる戦いの音に負けじと声を張り上げ、セラがイリヤに詰め寄った。
「良くはありません! お嬢様は我々の使命を、アインツベルンの目的をお忘れになったのですか? これまでの我が侭とは違います。私の命などで自らを追い込む状況に陥るなど、道理が―――!」
「仕方ないでしょ、わたしにもよく分からないんだからっ!!」
 感情をむき出しにした、ヒステリックなイリヤの叫びを聞き、セラは息を呑んだ。自分でも分からぬ動揺に強張ったイリヤの表情を、彼女もまた初めて目の当たりにしていた。
「お嬢様…………」
「……分からないよ、わたしにもワケが分かんない。でも、セラが死ぬと思った時、勝手に体が動いたんだから」
「そのような事を……困ります。私は……っ」
「……いいから。私の勝手には違いないの。もういいから、下がってて。邪魔」
 互いに口にするべき言葉が分からず、イリヤはセラの視線から逃れるように顔を背けた。
 戦闘を見据える自らの主の小さな背中を見つめ、セラはかつてない激情が胸の奥から湧き上がるのを感じた。その感情の名前を、彼女は知らない。喜びのようでもあるが、それ以上に苦しく、痛い。主従の関係を超えた、狂おしい程の愛しさをイリヤに感じる。胸が締め付けられるような感覚を押さえ込むように、セラは唇を噛んで、胸元に手を当てた。
 何かを伝えたいのに、喉が引き攣って何も喋れない。セラは無意識に一歩、イリヤに歩み寄ろうとして、不意に肩を掴まれ後ろに引き戻された。
「……っ、リーズリット!」
「下がって。ここからは、もう、私たちの領分じゃない」
 自分の片割れである彼女が、普段のような平坦な口調で、幼子に言い聞かせるように静かに告げた。
「しかし……っ!」
「イリヤの戦争。だから、口は出さない。それが、私たちの間で決めた、ルール」
 いっそ冷酷なほど淀みなく突きつけられる宣告は、セラの心を凍りつかせる。それに反して思考は過熱する。
「その覚悟があるから、イリヤ、戦える」
 そう言って、見据えるリーズリットの視線は有無を言わせぬ強さが含まれていた。ひどく冷徹な言葉なのに、胸を締め付ける。
 従者としての責務と、アインツベルンに属する者の使命と、自分の抱く未知の感情が混ざり合って混沌とする心を抱き、セラはただイリヤの戦う姿を必死に凝視するしかなかった。






 胸が痛い。心臓を中心に体の中が沸騰するような熱を感じる。イリヤはその熱い痛みを押さえ込むように、胸元を握り締めた。
 自分の取った行動が、今でも理解できなかった。自分の意思を離れて早鐘のように鳴り続ける心臓。そこから自分でもわからない何かが溢れてくる。ついさっき、セラを助ける為に自分を突き動かした衝動も、そこから来ていた。
 そして、そんな不可解な熱を苦しくも心地よいと感じる自分に戸惑う。イリヤはその意識を振り払うように軽く首を振ると、正面を睨み付けた。今は戦闘に集中するべきだ。
 その眼前で、世紀を越え、神話の時代に語り継がれた大英霊の闘争が展開されていた。
『■■■■■■ーーーッ!!!』
 恐るべき威力を誇る斧剣の一振りが、迫り来る無数の武具を叩き落す。
 イリヤの信じる最強の僕。バーサーカー。しかし、その狂戦士の力を持ってしても、戦いはこちらの防戦一方へと傾いていった。
「何なの……っ?」
 その戦いの異常性は、イリヤにもすぐ理解できた。
 この場に駆けつける前、結界の破壊を感じた時から抱いていた不安が目の前でどんどん膨れ上がっていくのを、イリヤは我が眼を疑いながら見つめていた。
 呟きは震え、背筋いは冷たい汗が伝う。飛び交う破壊音と爆音の如き咆哮の前では、イリヤの存在などあまりに小さく儚いものだった。
「あ―――あなたは、一体何なの!?」
 堪えきれない恐怖と不安に、イリヤは声を張り上げる。咆哮する巨人を前にして、その声を聞き取る余裕すら失わない黄金の男は、イリヤを一瞥し、口の端を吊り上げた。
「貴様が知る必要はあるまい。我はただ、マスターの命令で聖杯を持ってくるよう命令されただけだ」
 真紅の眼光を前にして、凍ってしまいそうな心臓を震えながら押さえる。
「面倒をかけるな。来い、『聖杯』よ―――」
「……誰なのよ。わたし、あなたなんて知らない。わたしが知らないサーヴァントなんて、いちゃいけな……っ!」
 人ではなく、物を見るような冷め切った視線を受けながらも、イリヤは精一杯の虚勢を張った声で、搾り出すようにして言葉を紡ぎ―――その途中で体の中に響いた『声』を聞いて、それを途切れさせてしまった。
「……え?」
 自分を押し潰そうとする真紅の恐怖。その中で、たったひとつ、響いた声。
 イリヤはそれを確かに聞いた。聞き漏らすはずがない、その『声』は自分の体の内から発せられたものだったのだから。
 それが何なのかはわからなかった。たった今、何かが自分に触れていったような気がした。その瞬間、何もかも理解しそうになったが、すぐに忘れてしまった。だが、ただ一つだけその『声』は教えてくれていた。
「ギルガ、メッシュ―――?」
 小さく、無意識にイリヤが呟くのを聞き取り、男は―――ギルガメッシュはカッと眼を見開いた。
 何か信じ難いモノを見るように、自身の言葉に呆気に取られるイリヤを凝視し、次の瞬間初めてその冷徹な顔に愉悦の感情を浮かばせて、声高く笑い出した。
「は―――っ! ははははははははははっ!! そうか、『そこ』か! 『そこ』に自ら留まっていたというのか!? 面白い、面白いぞ『魔術師』よ!!」
「え……?」
「はっ! 楽しませてくれるわ、道化が。<器>は生かしたままの方が都合が良かったが、もう構わぬ。もう貴様自身に興味は失せた。代わりに、その心臓だけ戴いていくぞ」
 明らかに、ギルガメッシュの様子が変化した。それまで自らに課せられた作業を淡々とこなすだけだった彼の瞳には、明確な意思が宿り、それに伴って放たれる威圧感が増大する。イリヤは、もはや意識すら相手の迫力に呑まれかけていた。
『■■■■■■ーーーッ!!!』
 震える自らの主を守るようにバーサーカーが一際大きく吼えて、ギルガメッシュに飛び掛った。
「遊びは終わりだ、畜生めが―――」
 迫り来る圧倒的な死の具現を前にして、ギルガメッシュはただ優雅に指を一つ鳴らす。
 次の瞬間、それまで打ち出していた有象無象の宝具とは一線を画す程の強大な神秘を秘めた一本の剣が、狂戦士の額を一直線に貫いていた。
 甲高い少女の悲鳴が響き渡り、その中で狂戦士は一度死んだ。










「なんてこった……」
 士郎はその光景を見て、息を呑んだ。
 森に入り、響く轟音を辿って、変化の判らない風景を幾度も切り開いて走り抜けること数刻。既に日は完全に落ち、暗闇の満たす森を月明かりと先導するアーチャーとセイバーの背中だけを頼りに追いすがる。
 そして森を抜けた一行の前に現れたのは、時代錯誤も甚だしい、巨大な城だった。
 あれほど果てがなかった森はあっさりとなくなり、まるでそこだけが巨大なスプーンで切り取られたかのように、円形に広く森が消失している。それは広場というより、地中深くに陥没した王国のようだった。
 しかし、士郎達の眼を奪った光景はその城の巨大さでも威厳ある佇まいでもなく、城の入り口となる部分を根こそぎ吹き飛ばした侵入者の凶悪な爪痕だった。
 ぽっかりと空いた大穴から、城への来訪者を迎え入れる広間に響く異常な音が溢れ出て、今でははっきりと全員の耳に届いている。響いてくる音は、紛れもなく戦いの音だ。
 剣と剣が打ち合う音。いや、それすら越えた嵐のような剣戟。<戦争>の音だった。視界を奪うように、穴の中で舞い上がる粉塵がそれを証明している。
 そして、このイリヤスフィールの城で戦いが起こるとしたら、それはバーサーカーが侵入者を迎え撃つ時に他ならない。
 現状を理解した士郎達は、すぐさま二手に別れた。凛はアーチャーを伴い、壁際に生えた木を素早くよじ登って、城の二階の窓から内部に侵入する。士郎とセイバーはそのまま正面入り口へ。交戦地点である広間で落ち合う予定だ。
 全員で正面から乗り込むよりも、遠距離攻撃に秀でたアーチャーは死角からの援護が可能な配置にするべきだという凛の意見だった。
 凛とアーチャーが侵入したのを確認して数分、その間も全く絶えない、爆撃にも等しい剣戟の音と、時折響くバーサーカーの雄叫びを聞きながら、士郎とセイバーは行動を開始した。可能な限り気配と足跡を殺し、侵入者の通った経路を辿って、静かに穴から内部を覗き込む。
 その途端、士郎とセイバーは同時に声を押し殺していた。
 想定する内で最悪の敵である、あの夜出会った黄金のサーヴァント<ギルガメッシュ>がバーサーカーと対峙している。恐るべき狂戦士を前にして、その威厳と不遜に満ちた笑みは全く変わらず、自らが相手の巨躯を見上げる形でありながら、その実犬畜生の如く見下していた。
 最悪な相手には違いない。しかし、あの狂戦士を前にしても揺ぎ無い男の自信と態度を見て、士郎は思わず感嘆すら覚えてしまった。
 この聖杯戦争において士郎が知り得る中で、最強のサーヴァントであるバーサーカーと、最悪のサーヴァントであるギルガメッシュ。いずれも人智を超越した、底知れぬ存在だ。その二つのぶつかり合いなど、想像すらつかない。
 しかし、現に目の前ではその戦いが展開されていた。
 響く巨人の咆哮と、それを引き裂かんと迫る無数の武具の唸り声。交差する戦いの音の中で動き続ける戦況。それは―――。
「……やだ、やだよう、バーサーカー」
 飛び交う破戒音と爆音の如き咆哮の中、少女が怯えながら呟いたその言葉は虚空へと掻き消されて行く。
 戦いの流れは明らかだった。
 バーサーカーの絶望的な劣勢、ギルガメッシュの圧倒的な優勢だ。
「本物の、化物だ……っ」
 士郎は知らず恐怖に震える声で、悪態に似た呟きを漏らしていた。そのすぐ傍で、セイバーも表情を固くしている。
 もう何度目になるか分からない魔弾の一斉射撃が奔る。その全てが、宝具に匹敵する強力な神秘を秘めた武具。ギルガメッシュは自らの財と威光を見せ付けるが如く、惜しみも無く湯水のように掃射する。
 飛来する宝具の半数をバーサーカーは剣の一振りで薙ぎ払った。何本もの宝具が、大理石で磨かれた床へと転がり落ちる。彼の握る斧剣が、ただ頑強さにのみ優れているという事を考えれば、そのパワーは想像を絶するものだ。しかし残りの半数は迎撃を免れ、バーサーカーの全身へと突き刺さる。
 どれだけ打ち落そうが、絶対的な数の差がある。『数の多い方が勝つ』 単純な戦争の図式が、そこに成立していた。どんなに優れた兵士でも、物量には負けるのだ。
 既にバーサーカーは五度死んでいた。そして、死は現在進行形で続いている。例えバーサーカーが十二の命を持つとしても、万を越える武器の軍勢を相手にする物量戦では大海の小波に等しい。
 そして、本来ならば戦況の不利を覆す為の<策略>も、思考や理性を戦闘力につぎ込んだバーサーカーでは備える事が出来なかった。
 唯一許された純粋な暴力を振るい、目標を自らの剣の間合いに捉えるまで進み続けるしかない。
 愚直な前進を嘲笑うかのように、ギルガメッシュがアーチャーの特性で無力なバーサーカーを狙い撃つ。撃たれると判っても進む。進むしかない。頭を潰され、心臓を抉られ、それでも倒れることなく蘇生しては、退くことなく前へと進み続ける。
『それしか知らない』のではない。『それしかない』と彼は知っているのだ。
 ―――自らの背後に残した、小さな主を守る為に。
 少女を傷つけぬ為に射線を体で遮り、少女を悲しませぬ為に眼前の<敵>へと臆す事無く進んでいく。それがどれ程愚かで、僅かな歩みであっても止めない。
 諦めなどない。それは確かに、はるか昔に称えられし<英雄>の姿だった。
「頑張れ……っ!」
 堪えきれず、士郎は激励の言葉を押し殺した声で叫んでいた。口にこそ出さないが、セイバーとて同じ気持ちだろう。
 鉛を貫く音と共に、また一本バーサーカーの体を刃が埋めていく。だが、その場にいる者全員が気付いていた。激しい剣戟の音に混ざり、床を踏み抜く低い音が定期的に、しかし確実に響いている事を。
 バーサーカーは前進していた。少しずつだが、迫り来る宝具の群れを最小限に押さえ込んで、自らの命を犠牲にして、確実にギルガメッシュとの間合いを詰めていたのだ。
「ちっ―――」
 初めてギルガメッシュの顔から笑みが消えた。
 士郎は思わず息を呑んだ。剣の間合いに入れば、バーサーカーのあの苛烈な防御は一変、恐るべき攻撃へと転じて敵に襲い掛かる。そうなれば、身体能力では劣っている事を認めざるえないギルガメッシュに、逃れる術はないだろう。攻守交替と同時に、一方的な形勢も逆転する。
 あの黄金の怪物を、倒してしまうかもしれない。そんな期待感が湧いてきていた。
「……面倒だ」
 だがその僅かな光明を、ギルガメッシュは一笑に伏した。
「獣は鎖で繋ぐに限る」
 パチンッ、と軽快な音を立てて、彼の指が何度目か弾かれる。その動作一つが、目の前の標的への死刑執行の合図だ。だが、此度その合図で彼の宝物庫から引き出された物は、剣でも槍でも矢でもなかった。
「<天の鎖(エンキドゥ)>よ―――!」
 瞬間、光り輝く神気を纏った鎖が、宝具の嵐の前にも止まる事のなかったバーサーカーの前進を完全に引き止めた。巨大な鋼の肉体を雁字搦めに縛り上げ、二重三重にと狂える巨人の狂気ごと拘束していく。
 かつて伝説において、天の牝牛を捕えたその鎖は神格の高い対象に対して効力を発揮する。完全に五体を封じられたバーサーカーの抵抗など意に介さず、逆に鎖は鋼の肉体に食い込み、ギリギリと締め付けてきていた。彫像のように縛り固められたバーサーカーは、もはや唸り声を上げる事しか出来ない。
「ふん、さすがの化け物もこうなってはただの木偶の棒か。しかし我にこれを使わせたのだ、その狂った脳に少しでも自尊心というモノがあるのならば誇ってよいぞ」
 灼熱の殺意を乗せたバーサーカーの眼光を前に、ギルガメッシュは傲慢な笑みを返す。
 終わってみれば、結果は圧倒的だった。傷つき、その身を封じられたバーサーカーに比べて、ギルガメッシュの体には傷一つ、汚れ一つ無い。一方的な幕切れだ。あのバーサーカーの戦闘力を前に、それをやり遂げる彼の力がどれ程反則染みたものなのかは、確かめるまでもないだろう。
 士郎は、もう言葉もなかった。内心の驚愕と絶望を誤魔化す為に、忙しなく視線を動かす。傍らでは同様にセイバーが口を一文字に引き締めて、歯の根が鳴らぬよう堪えている。広間を覗き込んでも、広がる現状は変わらない。二階のテラスにちらりと見えた赤い人影を凝視すれば、息を殺して眼下の様子を見守る凛の姿があった。その表情は、おそらく霊体化して傍にいるであろうアーチャーと同じように、切迫して張り詰めている。意思の強さ、プライド、虚栄。多くのモノで隠してはいるが、それははっきりと<恐怖>を映していた。
「さて、下僕は黙らせた。これ以上手を煩わせてくれるな?」
 半歩、立ち位置をずらし、ギルガメッシュは巨人が必死になって守り隠していた少女の顔を見据えた。それを見て、士郎は我に返る。
 これからどうなるか、想像する事など容易だった。自らのサーヴァントを封じられた小さな少女が、あの無慈悲な黄金の王にどう扱われるかなど。
「あ―――」
 殺される。
 目が合っただけで、少女はそう予感した。その場の誰もが確信に似た結末を予測した。
 ただの視線一つで身動きを封じられたイリヤの体を、ギルガメッシュは値踏みするような目で嘗め回すように見ていく。
「成程。さすがによく出来ている。紛い物とは違い、聖杯としての機能は完全ということか」
(なんだと……?)
 ギルガメッシュの呟きを聞き取った士郎には、その言葉の意味が理解出来なかった。
 アインツベルンの持つ聖杯の器について交渉しに来たのがそもそもの目的だったが故に、それはあまりに意味深げな内容だった。凛ならば何か判るかもしれないが、今の状況では聞きようも無い。
「あ、あ……あなた、は……っ?」
 固唾を呑んで見守る中、無意識に後退るイリヤに向けてギルガメッシュは微笑を浮かべたまま片手を差し出した。その手の中に、一本の短剣が出現する。
「煩わせるなと言っている」
 それをごく自然な動作で振り抜いた。
 グシュッ、と肉を裂く音が小さく響いた。真横に振られた剣先は、少女の柔らかい二つの眼球を一切の抵抗なく切り裂く。ゆっくりと飛び散る鮮血を最後に、瞳に走った熱い痛みと幕を下ろしたように黒く染まる視界。それから思い出したように、一拍子送れてイリヤの悲鳴が上がった。
「―――っ!!」
 士郎は自分の心臓が凍り付いて止まったのを感じた。そして次の瞬間には再開する鼓動と共に飛び出そうとした自分の体を、セイバーに押さえつけられた。
 煮え滾る怒りの感情のままに、強い抗議を込めてセイバーを睨みつければ、そこには悲痛な表情で肩を抑えつける彼女の姿がある。
 飛び出して行ったところで何も出来ない。この状況では全員の命取りだ。早まってはいけない、向けられる沈黙と視線が頭に血の昇った士郎にそう訴えかけてくる。
 士郎はギシギシと鳴る歯を噛み締めて、それでも自制し、決死の思いで視線だけを元に戻した。
 だがその言葉以上に、激情に反して自分の体は無意識の鎖によって完全に拘束されていた。迂闊に動けば、また自分は致命的なミスを犯してしまいそうで、これまで経験した多くの挫折と無力感が、士郎の足を竦ませてしまう。
「あっ、あっ……あっ、ああっ……っ!!」
 切り裂かれた両眼を覆い、血溜まりの広がる床に倒れこむイリヤの口からは、悲痛な声が途切れ途切れに漏れる。それを見下ろすギルガメッシュの顔に、憐れみも罪悪もありはしない。
『■■■■■■ーーーッ!!!!!』
 バーサーカーが叫ぶ。狂気だけではない、小さな主を傷つけた敵に対する憎悪と殺意を込めた、怒り狂った獣の咆哮が響き渡る。それをうるさそうに横目で睨むと、ギルガメッシュは鎖の力を一段と強めた。山の如きバーサーカーの身体ですらバラバラにせんばかりの締め付けに喉の動きすら封じられ、声は途切れる。
「主を守れぬ負け犬が、よく吼えるわ」
 蹲るイリヤへと歩み寄り、ギルガメッシュは肩越しに動けぬバーサーカーを嘲笑した。
 苦痛に蹲って震える少女の傍まで歩み寄ると、彼は無造作に白い髪を掴んで持ち上げた。小柄な体が宙に浮き、血涙の如く流れる血に頬を真紅に染めたイリヤを、愉悦すら含んだ笑みで覗き込む。
「あ……あぁ……っ」
「ふん、存外しぶといな。それだけ血を流せば死ぬと思ったが」
 弱々しいイリヤの言葉に、ギルガメッシュはさして面白くもなさそうに吐き捨てる。
 士郎は息を殺し、眼を剥いてその光景を凝視していた。
(何を待っているんだ、俺は―――?)
 驚くほど平坦な疑問が心を支配する。それは嵐の前の静けさに似ていた。
「いや……い、やだよ……」
「命乞いか」
(一体何をしているんだ、馬鹿か俺は……? あの時と同じ後悔を、お前はまたしたいのか?)
 そうだ。何を忘れていたんだ、自分は。抑える必要などないじゃないか。堪える道理などないじゃないか。目の前で。この衛宮士郎の目の前で。あの時と同じように、あの女性(ひと)のように、苦しみ消えようとしている命があるというのに。
「だ……れ、か……」
 弱々しく、それでも確かに『助け』を求めているというのに。
 ―――ある訳がない。
「黙って死ね、人形風情が」
 黙って見ているなどという選択肢が、<正義の味方>にある訳がない―――!
 士郎を縛る鎖に、音を立てて亀裂が入る。
 考える事をやめろ。理論、理屈で無い頭をグルグル回して、この世の真理や悟りを開いてから行動するつもりか? 例え正しい答えが出ても、そこに手が届かなければ意味が無い。その瞬間を逃しては、誰も助けられない。やめろ。いちいち考えるな。そんなお利口な行動倫理など、衛宮士郎は持ち合わせちゃいない。
 そうだ。結局それが結論なのだ。
 さあ、体よ動け。竦むな。怯えるな。動かなければ、結果は掴めないのだから。



「その手を離しやがれ、テメエッ!!!」
 鎖が弾け飛ぶ。それまでの硬直が嘘のように体が動いた。そして迷いなくセイバーの手を振りきり、士郎は城の広間へと勢いよく飛び込んだ。









 広間に足を踏み入れると同時に、投影を開始する。相変わらず魔術回路が軋みを上げる痛みを感じるが、極度の集中を必要とする作業も何度も繰り返せばそれは慣れ親しんだ物となる。何より、この身は■を作り出すのに特化したものだ。ならばそこに失敗は有り得ない。
 瞬時に、腕の中に現れた巨大な悪魔の剣を握り込み、士郎はギルガメッシュに向けて一直線に駆け抜けた。迫る士郎の姿を、敵は僅かに驚愕で見開いた眼で捉える。
 相手の意表を突く形にはなったが、奇襲と呼べるほど有利な状況ではない。それでも、士郎は立ち止まるわけにはいかなかった。万に一つも勝ち目は無いが、接近戦に持ち込めば、少なくともあの絶望的な宝具の掃射を受けずに済む。
「うおおおお……っ!」
「―――吼えるな、雑種」
 眼を細め、僅かに強さを増した眼光。それを受けた、その瞬間士郎の中で猛っていた闘志が凍りつき、背筋に悪寒が走り抜けた。
「く……っ!?」
 急ブレーキを掛け、その場から逃げ出すように横跳びする。コンマの差で、士郎が走り抜ける予定だったコースを無数の宝具が貫き、粉砕した。
 そのまま走っていれば、射線に身を晒す事になっていただろう。文字通り、一睨みでこの世から消えるところだった。
 咄嗟の回避を成功させた士郎を、不愉快そうに一瞥するだけに留めると、ギルガメッシュは近づく羽虫を鬱陶しがるような調子で手を振り払う。それだけで、十数本の宝具が魔弾となって飛来してきた。
 まずい。接近戦ならば、という考えそのものが甘かった。そもそもそういった対等の立場に立たせてくれるほど甘い相手ではないのだ。士郎は迫る凶器の群れを瞬時に解析する。一撃でも食らえば致命傷は免れない。いや、そもそも原型を留める事すら怪しい。かわせるか、それとも打ち落すか―――いや、数が多すぎる。こちらの手数も技量も全く足りない。
 ならば、どうする?
 思考と判断は一瞬だった。
 やるしかないなら、やるしかないだろう―――?
「……っ投影、開始(トレース・オン)!」
 決死の覚悟で叫ぶ。
 魔術回路が火花を放ち、ショートする感覚をダイレクトに感じ取る。視界が一瞬真っ白になるほどの激痛を、やはり一瞬で一気に味わい、食い縛った歯の隙間から血を吐く。無茶だ、無理だ。だが、そう考えるより先に全てのツケを後回しにして体がそれを成した。
 士郎の左腕に、もう一本の、全く同一の剣が錬鉄され、生み出される。この世に存在する筈のない、二本目のリベリオンがその手の中に投影された。
 自分でも理解できない、獣染みた雄叫びが喉の奥からあふれ出す。腕の筋肉が脈動し、士郎はスパークした思考のまま、剣に引き摺られるようにしてそれを振るった。
 剛剣が唸り、飛来する魔弾を叩き落す。剣閃が自らの奔るべき軌道をなぞるように動き、刀身が火花を放つ。一つの打ち漏らしもなく、放たれた宝具は嵐のような士郎の二刀斬撃によって弾き飛ばされた。
「なにっ―――?」
 ようやくそこに至り、ギルガメッシュは驚愕らしい声を漏らした。
 全てが一瞬の出来事だったが、その代償は大きかった。奇跡的に攻撃を凌いだ士郎は、剣を振り抜いたまま全身を襲う脱力感と腕の筋肉が裂ける激痛に呻いて膝を付く。手の中から二本のリベリオンが零れ落ち、床の上で乾いた音を立てて転がったが、敵の次の攻撃に備える為に手を伸ばすだけの力がもう士郎には残っていなかった。限界を超えた力の燃焼、火事場のクソ力もいいところだった。
 それでも、ギルガメッシュの放った宝具の速度やランクが低かったからこそ得られた幸運の結果だ。士郎を侮っていたのだ。
 そして、その一瞬の奇跡を、単なる幸運で終わらせない為に彼女は飛び出した。
「ッハァアアアアアアーーーッ!!!」
 魔力を噴射させ、ジェットエンジンのように加速して白銀の閃光が標的へ一直線に飛び掛る。二度目の乱入者に、今度こそ驚愕を露に振り返るギルガメッシュ。その顔を睨みつけ、セイバーが不可視の剣を振り被る。
 同じ不意を突いた攻撃なれど、先ほどとは状況が異なる。セイバーのスピード、攻撃力、相手に与える動揺、全てが上回る。あとコンマでギルガメッシュと肉薄する程の距離まで急接近したセイバーの攻撃を、防ぐ手段などもうない。
 振り下ろす不可視の刃には最大出力の魔力を込めた、会心一撃が唸りを上げて迫る。
「もらったぁ!」
 斬りかかるセイバーを含むその場にいる全員が、そう確信した。
 ―――そして確信は、金属のぶつかる乾いた音によって裏切られた。
「な……っ!?」
 その時、大小の違いはあれど驚愕に捉われなかった者はいなかった。斬りつけたセイバーや、ギルガメッシュでさえ。
 セイバーが振り下ろした見えない斬撃は、ギルガメッシュの影から飛び出した黒い剣によって受け止められていた。
 闇よりも尚暗いその刀身は、同じく黒い篭手に包まれた細腕一本に支えられ、セイバーの渾身の一撃を完全に止めている。その腕はギルガメッシュの影からヌッと突き出ていた。
「くっ、馬鹿な……っ!!」
 一瞬我を失っていたセイバーは、しかしすぐに脅威を感じてその場から跳び退った。士郎の所まで瞬時に駆け寄り、ギルガメッシュと得体の知れない黒い存在に向けて警戒を向ける。あるいはアレもギルガメッシュの持つ宝具の一つによるものかと思ったが、いずれにせよこちらの不意を突いた会心の一撃を防いだ脅威である事に変わりはない。
 ギルガメッシュへの不意打ちは失敗し、真っ向から対峙する最悪の状況に陥ってしまった。セイバーと士郎の表情も張り詰めたものになる。今は凛達の存在まで相手に知られていない事を祈る他なかった。
 だが、そんな懸念を嘲笑うかのように、視線の先では更に不可解な状況に動きつつあった。セイバーの攻撃を受け止めた黒い剣の主が、影の中からゆっくりと浮き上がるようにその姿を現したのだ。
「…………そんな、馬鹿な」
 ソレを視界に確認して、セイバーが掠れた声を漏らした。それが精一杯だった。士郎に至っては声も出ない。
 ギルガメッシュの、文字通り影から現れ、その傍らに佇む人影。
 それは<セイバー>だった。
 比喩でも何でもなく、あるいは聖杯戦争のクラスが示すものではなく、ソレは士郎の傍らで剣を構える白銀の騎士と全く同質の存在だった。
「……ふん、貴様か。余計な手出しを」
 ギルガメッシュが不服そうに吐き捨てる。その言葉を受けて、<セイバー>は俯かせた顔をゆっくりと持ち上げた。
 セイバーの肌も色白で美しいが、『彼女』のソレはより病的なまでの白さだ。焦点の合わぬ瞳は禍々しい金色の輝きを宿し、色褪せた金属的な金糸の髪が揺れている。よくよく見ると、細部は士郎の傍で未だ呆然と佇むセイバーと若干異なる。しかし、顔の作りや背格好は鏡に映したかのように同じだった。
 その身には闇の波動を放つ暗黒の甲冑を纏い、白銀の甲冑を着たセイバーとは見た目も性質も全く相反している。その手に持つ聖剣さえ、闇に堕ちたかのように黒い光に包まれていた。
 混乱する頭で、士郎は二人のセイバーを交互に見つめた。同じでありながら、あまりに違いすぎる二人。
「……誰だ?」
 セイバーが呆然と呟いた。見開いた瞳が、相手の虚ろな瞳を見据え続ける内に、徐々に険を持って尖っていく。不快を超えて、殺意すら含む怒気が湧き上がり、セイバーの顔を歪ませた。
「お前は、誰だ!?」
 目の前に佇むソレが正視に堪えない、何か間違ったものであるかの如く、セイバーは怒号と共に斬りかかった。黒いその姿が、まるで堕落した自分を表しているかのようで、耐え難い不快感を感じる。
 凄まじい速度で迫るセイバーを目前にして、黒いセイバーがのそりと動いた。緩慢な動作のまま自らの黒い剣を持ち上げ、そして次の瞬間振り下ろされた不可視の刃と激突する。
「お前は、一体誰だ!?」
 全く同じ太刀筋。自分ならこう斬り返したであろう、という軌道を寸分の違いもなくなぞった目の前の『自分に似たナニモノか』に対して、セイバーが激情も露に叫ぶ。
「―――ワタシは、オマエ。オマエは、ワタシ」
 澄んだ声で、呪いのような言葉が返って来る。
「……っふざけるなぁ!!」
 怒号と共に剣に魔力を叩き込む。魔力を瞬間的に噴射させるジェットエンジンのような圧力に対し、それと全く同じ技術で黒い剣圧が跳ね返ってきた。凄まじい魔力の衝突によって、バーサーカーの豪剣を超える風の波紋が起こり、広間に大気の唸り声が響く。
 同じ技。同じ力。同じ顔。同じ体。同じ声。
 全てが癇に障る。セイバーの胸の内で、目の前の存在に対する度し難い嫌悪が湧き上がった。
 互いに譲らぬ激しい激突。しかし、拮抗した状況はすぐに終わりを見せた。
 黒い閃光が、衰える事を知らぬとばかりに更なる輝きを放つ。
「くぁ……っ!」
 渾身の力でありながら、天井知らずに上がり続ける敵の魔力に耐え切れずセイバーは小さく呻いた。徐々に圧倒し始める剣圧に、小柄な体が軋む。
「無駄だ」
 冷徹に言い放ち、黒いセイバーが一気に剣を振り抜いた。
 これまでの戦いで見た中でも最大級の魔力の放出によって、セイバーが吹き飛ばされる。無尽蔵とすら思える黒いセイバーの魔力放出量に対して、マスターからの供給も受けていないセイバーでは当然に分が悪い勝負だった。
 床を削るように踏ん張りながら、セイバーは無事に着地する。直接攻撃を受けたわけではなく、単に魔力放出で吹き飛ばされただけなのでダメージはない。しかし、純粋に筋力で勝るバーサーカー以外の相手でセイバーが力負けしたのは初めてだ。黒いセイバーのスペックが今のセイバーを圧倒している事は明確だった。
 魔力の消耗で荒い息をつくセイバーと、絶句する士郎を見据え、黒いセイバーが静かに構えを取る。やはり、セイバーと同じ剣術に基づく構え。違いは剣が見えている事だけだろう。
 互いに二対二で対峙する状況に戻る。しかし、その実戦力の天秤がどのように傾いているかは明白だった。
「……一体何者ですか?」
 不利な戦況を理解し、幾分冷静さを取り戻したセイバーが自分に似たダレカに問い掛ける。
「アナタが例えサーヴァントだとしても、『私』として召還される筈は無い。私は、今この場にいる『私』が唯一の筈。私は未だ正規の英霊と成り得ていないのだから」
 自分自身を確認するように、一人語るセイバー。しかし、返答は返って来ない。
「……ああ、そうだ。違う。奴はセイバーなんかじゃない」
 代わりに、傍らの士郎が強張った表情で口を開いた。既に相手の持つ剣の解析を済ませ、震える声で真実を紡ぐ。
「奴の持っている剣はエクスカリバーじゃない。
 サーヴァントの体がエーテル体で構成されていると言っても、その骨子は原型と同じものじゃなきゃいけない筈だ。だけど、あの黒い剣は違う。確かにエクスカリバーと酷似しているけど、微妙な違いがある。丁度、ギルガメッシュの持つ宝具と他の英霊が持つ宝具みたいに、あれはセイバーの持つエクスカリバーを模したレプリカみたいな代物だ」
 士郎は一気に言い切った。断言できる。何より、あの黒いセイバーから感じていた異様な雰囲気に心当たりがあったのだ。ただ見るだけで心に恐怖を巣食わせる、あの生々しい瘴気は、この聖杯戦争において何度も感じた事がある。
「なかなかやるではないか、雑種。如何にも、コレは我のセイバーとは違う」
 士郎の分析に素直な賞賛を抱いて、ギルガメッシュが笑みを浮かべた。
 セイバーに向けるものとは違う、何の情熱も感じない冷めた視線で傍らの黒いセイバーを一瞥し、つまらなそうに吐き捨てる。
「コレはセイバーを模して、聖杯の泥から創られた泥人形よ。精巧だが所詮心も魂も持たぬ虚ろな自我に過ぎぬ」
「創られた……?」
「サーヴァント召還のシステムは知っておろう? サーヴァントは英霊の座より送られる英霊の情報から、聖杯の魔力がエーテル体として再現するコピー品のようなものだ。現にセイバー自身もそのように召還されている。その過程を同じようになぞったに過ぎん」
 あっさりとギルガメッシュは言い切ったが、それがどれ程困難な事かは士郎でも分かった。英霊という規格外の存在を召還する聖杯の強大さは凛からしっかりと教わっている。そして、その聖杯に干渉し、セイバーの偽者を生み出す事が出来る者など限られていた。
「やっぱり、その<セイバー>は悪魔と同類。じゃあ創った奴ってのは、<魔帝>って奴か……?」
「ほう、もうそこまで掴んだか」
 士郎の憶測に、ギルガメッシュが感嘆を漏らし、暗にそれを肯定してくれた。目の前の黒いセイバーから感じた、悪魔に似た気配にも合点がいく。
「魔界の王とやらは、自身を創造主か何かと勘違いしているようですね」
「ああ、悪趣味な事だ。だが、安心するがいいセイバー。我はコレに興味など無い、人形で自らを慰めるような悪癖は持ち合わせておらぬからな」
 吐き捨てるようなセイバーの言葉に対して、ギルガメッシュが意味深げな視線で応える。セイバーはまた違った嫌悪感で顔をしかめ、黒いセイバーは何の反応も返さなかった。
「さて、古城での逢瀬と言うのも、王たる我らには相応しい場ではあるが」
 ギルガメッシュは芝居がかった口調で両手を広げるが、傍らの黒いセイバーが向ける一瞥を受けて、皮肉げに一笑した。
「コレが出てきた以上目的を果たすのが優先だ。セイバー、お前が我と共にこの世に留まるのに必要な受肉の準備も必要だしな。我の物になるのは、今しばらく待つがいい」
 既にセイバーを手に入れる事が決定事項であるかのように振舞うギルガメッシュに対して、士郎は義憤と違う個人的な怒りを抱いたが、さすがに迂闊には飛び出さなかった。
 ギルガメッシュのすぐ傍では、うつ伏せに倒れたイリヤが横たわっている。床には傷から流れる血溜まりが広がり、一刻も早く止血しなければ命に関わる事が伺えた。いや、それよりもギルガメッシュの手に掛かる方が早い。状況は切迫している。追い詰められているのはこっちだ。だが、イリヤを見捨てるという選択肢はない。
「……セイバーは、あの偽者を足止めしてくれ。その間に俺がイリヤを助け出す」
 士郎が小声で端的に話す。その提案にセイバーは視線を動かさずに異を唱えた。
「何を馬鹿な。ギルガメッシュもいるのですよ、この場から脱する事すら難しい状況です」
「遠坂がきっと援護してくれる。どっちにしろ、このままイリヤを見捨てるってのは無しだ」
「……っ、ええい、本当にアナタはどうしてそう……!」
 セイバーが抗議の声を上げかけた、その不意を突くようにして黒いセイバーが爆音を上げて床を踏み抜いた。恐るべき踏み込みで、一気に間合いを詰めて迫る。気付いたセイバーが悪態をつく暇もなく黒い斬撃が振り下ろされ、それをかろうじて受け止めた瞬間魔力の激突によって衝撃が巻き起こった。
「うわ……っ!」
 その風圧に、至近距離にいた士郎は踏み堪え切れず、吹き飛ばされる。姿勢を立て直して顔を上げた時には、すでに視界の先で白と黒の騎士二人が無数の剣閃を交わしているところだった。
 黒いセイバーの圧倒的な剣圧を、本家のセイバーがかろうじて捌いているように見える。分かりきった事だが、劣勢だ。
「泥人形風情にやられてくれるなよ、セイバー。興が削がれる」
 繰り広げられる激しい戦闘を愉快そうに一瞥すると、ギルガメッシュはここを訪れた目的を果たすべく、ピクリとも動かないイリヤに歩み寄った。
「クソッ、やめろ! テメエ!!」
 必死で動こうとするバーサーカーの傍を悠々通り抜けるギルガメッシュの姿を捉えて、士郎は近くに転がっていたリベリオンの一本を手に取り、駆け出した。
「まだいたのか、雑種」
 それを見て、ギルガメッシュは本当に今気付いたとばかりに意外な声を上げ、そのまま士郎に向けて軽く手を振り上げた。背後の空間から宝具が一本だけ射出され、そのただ一撃で咄嗟に受け止めたリベリオンごと士郎の体が後方に吹き飛ぶ。消耗した体では満足に踏ん張りも効かない。
 無様に床を転がる姿を一瞥し、士郎の無力を嘲笑うかのようにギルガメッシュはイリヤの髪を無造作に握って再び持ち上げた。その手にはいつの間にか短剣が握られている。
「やめろ! やめろって言ってんだろ、このクソ野郎ぉ!!」
 口の端から流れる血を無視して、士郎がギルガメッシュにガムシャラに斬りかかる。腕の一振り一つで、再度士郎は吹き飛ばされた。
 短剣の剣先がイリヤの心臓を抉り出すべく、胸元に近づいていく。鎖の中で暴れるバーサーカーと、決死の反撃を試み続けるセイバーと、絶望的な叫びを上げる士郎。何もかもが致命的に間に合わない。
「……た、すけて…………『おとうさん』」
 それは無意識にか、今にも消え入りそうな声でイリヤがそう呟いた。









「ああ、もうっ。どうなってるのよ、この状況!?」
 凛は押し殺した声で心底悪態をついた。手の中の宝石を持て余すように強く握り締める。
 眼下の広間では凛を悩ませる混迷した戦況が広がっている。
 やはりと言うべきか、イリヤの窮地に飛び出してしまった士郎とセイバーに対峙する、二つの強大な存在。前回のサーヴァントでありながら、何故か受肉して現存するギルガメッシュと、唐突に現れたギルガメッシュ以上に不可解な黒色のセイバー。おまけにソレは例の魔帝とやらが創ったものだと言う。
 この際、その詳細云々は一旦隅に置くとして、とりあえず状況が自分達にとって絶望的以外の何ものでもない事だけは、凛にもしっかりと理解できた。
 どうするべきか。何がベストか。巡廻はそれほど長くはなかったが、その思考の間に眼下ではもう戦闘が始まってしまっていた。襲い掛かる黒いセイバーを本物のセイバーが迎え撃つ。
 それがあるいは性質の悪い模造品ならば、あの気高い騎士王が敗北するはずが無い。だが、その相反する黒い存在は正しく騎士王の影そのものだった。圧倒的魔力と、それに裏打ちされた剣術でセイバーを防戦一方に追い込んでいく。
 凛は歯噛みしながら士郎の方を伺った。やはりと言うべきか、彼は残ったギルガメッシュと対峙してその場から逃げようとはしない。
 彼はイリヤスフィールを見捨てはしないだろう。
 わかりきった事だった。衛宮士郎は『そういう奴』だった筈だ。森に入る前に見た、あの横顔を見てこの展開をなんとなく予想していなかったと言ったら嘘になる。あれに秘められた決意は、『そういう事』なのだから。
(ったく、本当に厄介な奴と組んじゃったもんだわ)
 諦めを多分に含んだため息を内心で吐く。
(―――でも、これはこれで仕方の無い状況かもしれないわ。あの金ぴかが言った事が本当なら、イリヤスフィールは……)
 ギルガメッシュの言葉を思い出して、凛は顔を顰めた。
 イリヤスフィールが<聖杯>だと、彼は言ったのだ。おそらくそれを聞いた士郎には何の事か理解できなかっただろうが、魔術師としての知識を充分に備えた凛には理解できた。
 つまり、彼女こそが此度の聖杯戦争で用意された聖杯の器そのものなのだ。サーヴァントの魂を蓄える器、それが文字通り器の形をしていなければならない事は無い。
 当初から疑問に思っていた、バーサーカーを御する程魔術師として桁違いの魔力を帯びた、あの少女の異常な在り方を。魔術によって生み出された人工的な存在。人間ではない、あの少女こそアインツベルンによって創られた<聖杯>だったのだ。
 人としての道徳観が義憤を湧き上がらせる中、魔術師としての凛は冷静に判断していた。彼女自身が聖杯だというのなら、ギルガメッシュに渡すわけにはいかない。
 凛は冷静に様子を伺った。ギルガメッシュが魔術に対して、ほとんど絶対的な防御を持つ事は前回の戦いでわかっている。この手の中の宝石はあの男に対しては無力に等しい。よって他の手段を模索する。
 ギルガメッシュの宝具に縛られたバーサーカーは全く身動きが取れないようだ。だが、あの巨人を解放出来れば状況は変わるかもしれない。彼は必ずイリヤを守ろうとするだろう。
「……アーチャー、バーサーカーを縛っているあの鎖はどういう物かわかる?」
 武器の分析と知識に長けている傍らのアーチャーに問い掛ける。
 しかし、アーチャーは何の反応も示さなかった。
「アーチャー?」
 傍らを見ても霊体化したアーチャーの様子は伺う事が出来ない。だが契約のラインを通じて、彼の心境は僅かに感じ取れた。
『……』
 それは動揺。
 焦燥感にも似た心の震えが、ラインを通じて凛に流れ込んでくる。それは普段冷徹とも取れる自らの従者には珍しい感情の発露だった。
「ちょっと……」
「やめろ! やめろって言ってんだろ、このクソ野郎ぉ!!」
 明らかに様子のおかしいアーチャーを訝しむ凛の言葉を、引き攣ったような叫び声が遮った。視線を眼下に戻せば、イリヤに歩み寄るギルガメッシュを止めるべく士郎が必死の突撃を繰り返している。しかし、それは英雄王の前ではまるで児戯であるかのように、容易く弾き飛ばされていた。
 無慈悲な怪物が、イリヤの体を持ち上げる。ぐったりと力を失った小さな体は、裂かれた瞳から流れる血で泣いている。その姿はどうしようもない悲壮感を感じさせた。
「くっ、アーチャー行くわよ……!」
 迷っている暇は無い。短剣の鋭利な刃が、少女の心臓にゆっくりと近づけられる様を見て、凛は覚悟を決めたように立ち上がった。応答の無い従者の様子を訝しがる暇もない。
 無駄だと分かっても、その手に持った宝石に詠唱を紡いで投擲しようと振り上げる。だがその前に、イリヤのか細い声が聞こえた。
「……た、すけて…………『おとうさん』」
『―――っ、イリヤ!!』
 ―――その時凛が聞いたのは、ラインを通じて響き渡る赤い弓兵の声無き叫び。









 その少女の事を知ったのは、何時だっただろうか。
 激動の夜から生き延び、家族となり、毎朝顔を合わせ、微笑み合った。その目の前の平穏だけを事実だと受け止め続け、ある日唐突に―――その少女の<真実>を知ったのは、一体何時だったのだろうか。
 イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。その少女が、あの運命の夜、何故一方的にこの■■■■■■という名前を知り得ていたのか、もっと深く考えるべきだったのだ。
 その白い少女を最後に見たのは、痩せて、小さな体を更に儚く横たえて眠る姿だった。
 かつて父の使っていた寝室で、浅い呼吸のまま眠り続ける少女はまるで絵本の眠り姫のようで、そのまま永遠に目を覚まさないかのように思えた。
 美しい銀髪をかき上げ、そっと額を擦る自分の無骨な手。それが心の底から無力に思えたのは、あの時が初めてだった。
「―――■■■、なの?」
 少女が眼を開ける。体を寝かせたまま、こちらを見上げるように向けられる視線。だが、半分だけ開いた瞼の下にある瞳がもうほとんど何も映さない事を、自分は知っていた。
「また、そんな顔してる」
 まったくもう、そんな困ったようなため息をついて彼女は儚く笑った。自分も賢明な努力をして、なんとか顔を笑みの形に持っていこうとしたが、それが成功に終わったかはわからなかった。
 いたたまれなくなって、立ち上がろうとする不甲斐ない自分の手を、その小さな手が引きとめる。
「リン? 呼ばなくていいよ。それよりも、傍にいて■■■。せっかく、目が覚めたんだから」
 あの時、その言葉が引き止めてくれていなかったら、自分は自分を逃げ出した腑抜けとして一生軽蔑して生き続けただろう。
 家族になって、彼女が本当の家族だと知って、いつも守ろうと、幸せを与えようと頑張り続けていた自分だったが。結局、守られ続けていたのは最後までこの身の方だった。
 それを悟ると、彼女の前では見せまいとしていた涙が瞳から溢れた。
「……もー、なんで■■■が謝るの。いっつもそうなんだから」
 いつも自分を見る時に浮かべる、困ったような表情。そのいつもと変わらない様子に、一瞬でも平穏を錯覚しそうになった。
 だが、もうわかっている。この一月で、彼女が眼を覚ましたのは三回だけ。そして、次が最後だと、信頼する赤い魔術師から聞いていた。
「……寒いね。雪でも降ってるのかな?」
 見なくても分かる。外は春の訪れを告げ、桜の花が咲き始める頃だ。冬は過ぎた。もう雪は溶けて消える季節なのだ。
 寒がる少女を抱き起こし、そっと自分の腕の中に閉じ込める。彼女の体が、こんなに小さかったなんて、今更になって初めて知った。
「あ、んー。あったかーい。ちょっとごつごつしてるけど、なかなか快適なイスね」
 胸に頬を摺り寄せてくる少女。
 まだ、体温を感じる。
 まだ。
「……キリツグも、こんなに温かかったのかなあ?」
 純粋な問い。残酷な問い。答えてやるべきだったのか、今でもわからない。
「■■ウは、あたたかいね……」
 ■で出来たこの体を、温かいと言ってくれた。
「わたしは、きっと雪みたいに溶けて、消えてなくなっちゃうって思ってた。そうすれば、きっと痛くもないし、寂しいとも感じないって」
 でも……、と腕の中で少女は続ける。
「何も感じないで死んでしまうより、こうやって■ロウの傍にいる安心と、消えてしまう不安を感じている方が、ずっといいって思うよ……」
 そう言って、彼女は笑った。たぶん、それが最後だと、力を失っていく声と下りてくる瞼の様子で、痛いほどわかった。
 きっと、彼女をこうして抱く腕は衛宮■■■ではなく衛宮切継の腕であるべきだったはずだ、と。そうして自責する自分を見て、また少女は困ったように笑う。
 最後まで笑顔だった少女。初めて知った死の恐怖に、ほんの僅かな涙を浮かべて、だけれど幸せそうに微笑んだ、衛宮■■■の尊い人。


「……ねえ、シロウ。最後に、お姉ちゃんって、呼んでくれないかな?」


 そう言って、静かに瞼を閉じたイリヤへ、呟くように告げた言葉は果たしてちゃんと届いたのか。
 もう、確かめようなど無い。
 今でもその時の悔いだけが、はっきりと残っている。









「ぅおおおおおおおっ!!」
 赤い疾風が両手に白と黒の剣を握り、雄叫びを上げてギルガメッシュへと斬りかかる。
 舌打ち一つで受け止められた左の一撃から、流れるように右の一撃をイリヤを掴む腕に向けて振り下ろす。さすがに三度目の不意打ちには虚を突かれたか、予期せぬ攻撃にギルガメッシュは慌ててイリヤを放り出し、その場から後退した。
 アーチャーが倒れたイリヤを守るように立ち塞がる。鉄を塗り固めたような表情は変わらず、しかしこれまでと違いその瞳には確固たる決意の炎が宿っていた。
 士郎は呆気に取れて、突如乱入した赤い弓兵を凝視した。
 ギルガメッシュと一対一で対峙する、最悪の形。あの英雄王と真正面から対決する事の愚かさは前回の戦いで分かりきった事だ。そのような愚を、あの冷静沈着な弓兵が犯した事に純粋な驚きを覚えていた。
 何より初対面では、強大なバーサーカーと敵対していたとは言え、不意打ちやイリヤの命を奪う事そのものにさえ躊躇わなかった男が、何故ああも決死の覚悟を露に少女を守ろうとしているのか不可解でならなかった。
 その無謀、その無茶―――まるで■■■■■■のようではないか。
「く……っ、雑種の次は贋作者(フェイカー)か。コソコソ這い回りおって、小賢しいわ」
 不快も露にギルガメッシュが宝具を呼び出す。バーサーカーを一方的に虐殺し続けた神秘の刃が軍勢となって背後に現れた。その圧倒的な絶望を前に、アーチャーは微動だにせず佇む。
 次の瞬間、数十本の剣の群れが発射された。
「アーチャー!」
 遅れて飛び降りた凛が叫ぶ。
 同じ弓兵のクラスでありながら、彼にはあの攻撃を押さえ込む<矢>がない。既に敵の宝具は眼前。一呼吸の間もなくアーチャーはハリネズミのような鉄塊に成り果てる。
 それは誰もが確信した結末だった。
 しかし―――。
「―――■■■■・■■」
 厳かな詠唱と共にアーチャーの<矢>が発射された。
 同じだけの数、同じ力を持ったモノ同士が空中で激突する。続けざまに起こる轟音。砕け散る宝具の群れ。十が十によってゼロになる。そんなごく単純な引き算のように、ギルガメッシュの攻撃はアーチャーが放った全く同質の宝具によって完璧に相殺された。
 突然の出来事に、辺りは静まり返る。
「……アーチャー、あんた……?」
 誰もが言葉を失う中、凛がかろうじて声を絞り出した。
 鋼鉄の横顔は振り返らず、眼を見開くギルガメッシュを静かに見据えている。
「……なんだ、それは」
 不快を越して憎悪すら滲み出す声を押し殺し、ギルガメッシュがアーチャーを睨み付けた。
「何の真似だ。贋作者(フェイカー)風情が王の真似事など、我を愚弄する気か―――!」
 度し難いモノを見たかのように、ギルガメッシュが怒号を上げた。その怒りに応じて、背後からは百を越えようかという多種の武器が出現する。それはもはや個人の戦いに用いるものではなく、戦争の為の<武力>だった。
 だが、それを目の当たりにしても赤い弓兵は動じない。士郎達がいつも見ていた、あの冷ややかな笑みを浮かべたまま仁王立ちしている。
「だ……れ?」
 その背後で弱々しく声を漏らし、イリヤはもう見えない眼で自分を守るダレカの背中を見上げた。痛みと寒さで、もうはっきりとしない意識の中、それでも何故か大きなものに守られている安心感を感じる。
「シロウ……なの?」
 殺すべき少年。何故、その名前が出たのか、彼女自身にもわからなかった。
 その呟きにアーチャーは振り向く。
「―――ああ、そうだよ。姉さん」
 小さく頷いて、彼はこれまで見た事もないほど穏やかに、優しく微笑んだ。
 その一言に、この場にいる誰もが驚愕に言葉を失う中、アーチャーは冷ややかな視線をギルガメッシュに戻す。
 そして、今度こそはっきりと紡いだ。その呪文を。












「―――投影、開始(トレース・オン)」














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