ACT22「彼方の夢」



 美綴が眼を覚ますと、まず視界に入ったのは『半分だけの白い天井』だった。
 あれ? と呟こうとして、ただモゴモゴと口から意味不明な音が洩れる。何が何だかわからない状態で、不審に思いながら体を起こしたところで、ようやく自分の顔が包帯でグルグル巻きにされている事に気がついた。
 持ち上げた右手にも大仰なギプスがはめられ、親指、人差し指と中指だけがかろうじて出ている。他は完全に固定されていた。その出来損ないのロボットアームのような手で違和感のある顔を探ると、頭から顎にかけて包帯で埋め尽くされている事がわかった。視界の半分が黒いのは、左目がガーゼと包帯で覆われているからで、それはそのまま口まで完全に隠してしまっている。
 なんだこりゃあ? と呟こうとして、またモゴモゴと口から意味不明の音だけが零れた。とりあえず、ひどく息苦しいので口の周りを覆った包帯だけを慌てて毟り取る。
「……っぷはぁ!」
 解放された口でしっかりと呼吸すると、ようやく美綴はひと心地つくことが出来た。
 大げさに包帯が巻かれているものだから、口が一体どんな惨状になっているのか不安だったが、呼吸しても発声を確認しても痛みや違和感は感じない。歯が欠けている、などという事もなかった。
「一体、どういうつもりなんだ……?」
 ミイラのような体を見回し、包帯の意味がない事にぼやきながら、美綴は改めて周囲を見渡した。
 小狭い部屋に白いベッドが一つ。自分はその上に横になっていたらしい。それ以外で部屋を埋め尽くしている物は、定期的な電子音を鳴らす大なり小なりの医療器具。ベッドの脇に立てられた点滴のチューブは、自分の腕に繋がっている。
 病室だ。それもこの大仰な設備は、どう見ても重傷患者の為にあるような物だ。
 そこまで考えて、美綴は別の意味で混乱した。自分の置かれた状況と自分の状態の繋がりは理解できたが、そこまでの経過が全く分からない。一体自分はいつの間に重傷など負ったのだ?
 そして、自分が意識不明の重傷患者であったとして、今こうして意識を取り戻し、大層な治療の跡に比べて大した痛みも感じないのはどういうことだろう?
 その疑問は現実として、顎から鼻まで包帯で覆われていたガーゼの下が全くの無傷であった事が証明している。もっとも、ギプスの方の腕を持ち上げた時激痛が走ったのを確認した限りでは、決して無傷というわけでもなさそうだが。それでも、治療と実際の状態とのギャップはあった。
「まいったねえ……」
 美綴は他人事のように呟き、半ば呆然としながらポリポリと頭を掻いた。
 そこに至って、ようやく気付いた。ギブスで固められた右手と違い、軽く包帯が巻かれただけの左手の中にある異物感。知らず固く握り締めていた手のひらを、ゆっくりと開いて覗き込んで見る。
「……宝石、か? コレ」
 そこに握られていたのは、何故か輝きを失い、安っぽいアクセサリーのように変わり果てた小振りのルビーだった。
 不可解な要素がこれでまた一つ。重傷患者で、これほど大げさな処置を受けて安置されていた自分が、何を如何して宝石など握っているのか。もはや美綴の思考は混乱の極みに達していた。
「あー、ワケ分からん」
 お手上げだとばかりにベッドに倒れこむ。その衝撃で肋骨辺りに痛みが走り、改めて自分が入院患者であると理解した。しばし、その事実を噛み締めながら蹲って呻く。
 自然と未だ手の中の宝石を握り締める。
 それは気のせいか。宝石を強く握り締めるだけ、不思議と傷の痛みが引いていくような気がした。
 しばらく息を殺して、ただひたすら痛みが退くように祈る。
 数分後、疼くような痛みが治まり、脱力した体でぼんやりと掲げた宝石を眺めた。
 果たしてこの宝石が本当に痛みを和らげてくれたのか、定かではないが、なんとなくありがたみと愛着が湧いた。美綴はそこに至ってようやく安堵の微笑を浮かべたのだった。
 そうして、ぼうっと宝石を眺めてしばらく経った頃、唐突に病室のドアが開いた。
「―――よ、傷はどうだ? 美綴」
「…………は? 衛宮?」
 それは全く予想だにしなかった面会人だった。







 そこを『揺り籠』と『死の牢獄』のどちらに見えるかはそれぞれの主観によるものだろう。
 市内の病院の集中治療室がある病棟。簡素な長椅子が並べられた廊下には、その椅子が設置された壁と反対側に部屋の中を覗きこめるガラス窓がはめ込まれていた。ガラス越しからは小狭い部屋に数多くの医療装置を設置した集中治療室が一望できる。それが長椅子一つとセットになって、廊下の突き当りまで幾つも並んでいた。
 重症患者が安置されるこの病棟は、どの部屋も等しく面会謝絶であり、一般人は許可なしに立ち入る事も許されていなかった。そこを行き交う人達は例外なく白衣を身に着けている。それが通行証の代わりであるように。
 だからその白い光景の中を歩く一点の赤はひどく映えていた。
「あら、貴女」
 すれ違った年配の看護婦が、その赤い人影を見咎める。
 その少女は異彩を放っていた。炎のような真紅のコートを白衣代わりに翻し、一般人立ち入り禁止の廊下をさも当然のように歩いている。揺れる黒髪は美しく、整った横顔は異性でも同性でも眼を惹くほど整っていたが、加えてそれを覆うような無骨な黒いサングラスが一層人目を引き付けていた。
 その少女は、その白い空間で文字通りあまりに異色だった。
「ちょっと、待ちなさい。ここは一般人は立ち入り禁止よ」
 うっかりその不思議な少女を見過ごしてしまいそうになった看護婦は、慌てて呼び止めた。
 彼女が何処からこの病棟に侵入して、尚且つどうやってここまで誰にも見咎められずに歩いていたのかも疑問に思った。
「面会なら、一般病棟に移って……」
 意外にも素直に立ち止まった少女に歩み寄りながら、必要な事項を説明するその最中に、少女が不意に振り返った。
 視線と視線がぶつかる。看護婦はサングラスに遮られた少女の視界を覗き込んだ。
 真っ黒な壁。色彩の付いたプラスチックのフィルターを透過して、少女の視線が看護婦の眼球に入り込む。そしてそれがまるで物理的な存在であったかのように、眼を通して頭の中に侵入してくる形のないイメージを感じると。
 次の瞬間、その看護婦の記憶は数秒だけ消し飛んだ。




 立ったまま意識が飛び、夢遊病者のようにそこに佇む看護婦を置いて、凛は躊躇なく開いたばかりのエレベーターに滑り込んだ。中に人はいない。同じようにこのエレベーターを使ってこの病棟に入った時、人払いの結界を張っておいたからだ。
 閉まるドアの隙間から、ようやく我に返って周囲を見回す先ほどの看護婦の様子を確認すると、凛は小さくため息を吐いて無意識にサングラスを指で押し上げた。
 今頃、あの看護婦は自分が何故そこに佇んでいたのか思い出せずに不思議に思っている事だろう。だがそれも一瞬の事だ。ただあの場で『立ち止まっていた状況と理由』を忘れ、その一瞬の空白を『ぼうっとしていた』だの『気が抜けていた』だのといった適当な解釈で記憶の隅に片付け、後はもう雑多な日常の中に忘れていくだろう。
 そして、ドアは完全に外と中を隔絶した。
「―――便利ね、このサングラス」
「忘却の魔術を仕込んだ物だろう。視線の合った前後数秒間の記憶を消失させる。映画にも在ったな」
「……アンタ、本当に何時の英霊?」
 いつの間にか背後に出現した仏頂面の従者に、凛は呆れたようなため息を吐く。アーチャーはふふんと口の端を持ち上げるだけだった。普段の皮肉交じりの嘲笑もムカつくが、この明らかにからかってますと言った笑みもいただけない。だがもう慣れた。
「バゼットもいい物持ってるわね」
「封印指定の魔術師を捕縛する仕事に就いているのだろう? 世界中を飛び回る必要がある場合、そういった小道具は利用価値が高い」
「経験?」
「似たような物を生前使っていた記憶がある」
 本当は記憶、全部戻ってるんじゃない? 凛は口を突いて出そうになったそのぼやきを呑み込んだ。
 エレベーターがゆっくりと上昇していく。
「……よかったのかね?」
「綾子を治療した事?」
 主語のない従者の言葉を正確に読み取って、凛は背後のアーチャーを振り返らずに尋ねる。
「それもある。彼女の怪我は重傷ではあったが、命に関わる程のものではなかったのだろう? かなり高価な宝石を使ったように見えたが」
「えー、まったくとんだ散財だわ」
 凛は大きくため息を吐いた。しかし心底気落ちした感情が滲み出てはいるが、後悔した様子は微塵もない。
「でもね、見たでしょ? 片目は眼窩底骨折で失明しかかってたし、何より前歯が全部折れてたのよ? 体の傷はともかく、嫁入り前の女の顔が。……同じ女として、見過ごせるわけないじゃない」
 答えて、凛は肩を竦めて見せた。
 内心、どうしようもなく甘さを捨てられない自分に呆れ果てる。学校で士郎を助けた時といい、魔術師としてはムラのある行動だ。
 アーチャーの問い掛けは、その魔術師として冷徹になりきれない欠点を指摘するようなものだったが、凛は知っている。自分の返答に、きっとあの赤い従者は背後で何処か満足げな苦笑を浮かべている事を。遠坂凛の行動パターンを理解した上で、あえて聞いてくるのだ。
「ふむ、確かにその通りだ」
 その証拠にほら、苦笑交じりの言葉が返って来る。
 凛は僅かに頬を膨らませて、エレベーターのドアを睨むように凝視した。
「それで、もう一つなのだがね」
 チンッと音を立てて、エレベーターの移動が停止する。
 凛はアーチャーの言葉の続きを待たずに、外へ踏み出した。すぐ近くにあるドアを開くと、そのまま病院の屋上へと出る。
 学校のそれよりも広い屋上を見渡し、誰もいない事を確認すると頭上に広がる青空を仰ぎ見る。心地よい快晴だ。
 凛は念のため、入り口のドアに人払いの結界を張ると、フェンス越しに街を一望できる位置へと歩み寄った。
「……士郎を残した事?」
 しばらくの間眼下を見下ろしていた凛は、思い出したかのようにアーチャーの言葉の意味を尋ねた。
「そうだ。面会だとしても、奴がいる事は不自然だろう。彼女に要らぬ疑惑を持たせるだけだと思うが?」
「まあね、一応綾子の記憶は消しておいたけど……まさかあんなに抵抗力があるとは思わなかったわ。魔術師としての潜在的な資質は士郎以上よ、綾子ってば」
 凛が呆れ半分感嘆半分のため息を吐く。なんだかここしばらくため息が増えて、めっきり老け込んでしまったような錯覚がする。
 頭が痛い事ばかりだ。朝一番に級友が入院先で意識不明の重傷を負ったという連絡から始まり、昨夜の出来事との関連性からそれが慎二の仕業だという推測が出て一悶着。容態を確認するまで悶々とした時間を過ごし、あげく貴重な宝石がまた一つ消えていった。
 思い出すと更に気分が落ち込み、凛はまたため息を吐いた。
「『気絶する少し前までの記憶』っていう曖昧な対象だったし、うまく忘れてくれてるかどうか、ちょっと不安だわ」
「ならばこそ、衛宮士郎と会わせる事は得策ではあるまい。アレの事だ、何かしくじって思い出すきっかけを作ってしまいかねん」
 アーチャーの険のある口振りに、凛はわずかに顔を顰める。前々から感じていた事だが、アーチャーは士郎に対して、相性の相違以外の個人的な恨みや嫌悪を持っているような気がしてならない。昨夜の戦いで、士郎に襲い掛かった時の鬼気迫る様子を見れば、自然と気にもなる。
 それでも凛は、今はその疑念を表情に出さないよう努めた。
「アイツ、綾子の事でショック受けてたみたいだから。状況的にも犯人は慎二の線が濃厚だし、二重の意味でね。
 キャスターの事も、まだ吹っ切れるには早すぎるっていうのに、これ以上は致命的よ。士郎って自分を責めるクセがあるし」
「奴が責めなければ、私が責めている。
 間桐慎二を生かした結末がコレだ。美綴綾子は奴の甘い考えの犠牲者だ。いい加減、あの男もそれに気付くべきだろう」
「……でも、綾子はちゃんと生きてるわ」
「それは結果論だ」
「それを言うなら、慎二が綾子を襲ったのも全部結果論よ。アイツがあんな力を手に入れて桜を狙うなんて、誰にも予測できなかった」
 後ろを振り返らず、静かに街並みを見つめて話す凛の言葉を聞いて、背後のアーチャーがわずかに苛立っているのを感じる。契約のラインが通じている以上、サーヴァントの感情の起伏を感じ取る事も出来るのだ。ただ、これまで凛にそれを悟らせない程平静を通していたアーチャーが、これほど心を乱すのは珍しい事だった。やはり彼と衛宮士郎の間には自分の知らない何らかの確執があるらしい。
「……意外だな。君があの男の弁護をするとは。理想を見上げるばかりで現実を直視しようとしない、自分の身もわきまえない、愚かな男だ。無知の理想論。奴の世迷言に毒されたかね?」
 はき捨てるようなアーチャーの言葉に、凛は初めて振り返る。その言葉には、これまでの皮肉や嫌悪以上に、はっきりと憎しみを感じた。
「―――ねえ、アーチャー。私は魔術師よ。状況は解析するもの、判断は最善を選ぶもの、決断は切り捨てるものだと思ってる。私は、私が出来うる限りでベストの方法を模索する。これまでも、これからもそうよ」
 真っ直ぐとアーチャーの瞳を見据え、凛ははっきりと告げた。
「私は状況で助ける人を選ぶ。助けられる人を判断する。
 でも、きっと士郎は人も状況も選ばないんでしょうね。それはとても愚かしい事だけれど、そうやってがむしゃらに伸ばした手が一人の人間に届いた瞬間を、私は昨夜見たわ」
 それが誰の、何を意味するのか、あの場に居合わせた者ならばすぐに分かる。
 もはや独白にも近い凛の言葉を聞き流しながら、アーチャーはかつてない程動揺していた。顔に張り付いて揺るがない鉄面皮の下で、自分の中で大きなウェイトを占める目の前の少女が告げる言葉の一つ一つに、心を抉られる思いだった。
「桜は、その<奇跡>に助けられたのよ」
 何故、彼女の言葉がここまで痛みを伴うのか。
 何故、聞く度に耳を覆いたくなるのか。
 ―――何故、こんなにも酷い後ろめたさを感じてしまうのか。
 彼にもわからなかった。いや、本当は理解していた。ただ認めようとしなかっただけだ。
 あの時、目の前で起こった出来事を。自分には決して達する事が出来ない事を。凛が言うように、余分を切り捨てベストの判断を模索する自分では決して到達し得ない奇跡を、あの衛宮士郎が起こしたという事実を。
「……私には、士郎みたいな生き方は出来ないわ。結果論だと言うなら、桜を助けられた私は、彼を否定も出来ないのよ……」
 遠くを見つめる凛の瞳。そこに映っているのは、かつて見た夕焼けと、その中で決して届かないハードルに向けて跳び続ける一人の少年だ。あの時、魔術師である遠坂凛が感じた敗北感を、今もまた同じように感じて―――それでも、自分でも気付かない穏やかな笑みを凛は浮かべていた。
「…………そうか」
 かろうじて、アーチャーはそれだけを返す。
 認めるわけにはいかない。しかし、認めないわけにはいかない。
 彼は初めて、自らに迷いを見出していた。







 外は快晴だ。晴れ渡った空は驚くほど青く、窓から仰ぎ見る光景は不思議な感動を与えてくれる一枚の絵画のようだった。
 だが、それを眺めるのもいい加減飽きた。
「……なあ、衛宮」
 美綴は「見舞いだ」と言って病室に入ってきて以来、ベッドの傍に腰掛けて一言も喋らない級友に声を掛けた。
「ん?」
「何か、話があるんじゃないの?」
 尋ねたい事は山ほどあった。
 何故、自分がこんな所で眠っていたのか。自分に何が起こったのか。何故来たのか。そして、そんな数多くの疑問に全て答えられる、というような空気を何故彼女の知る限りただのお人よしな学生でしかない彼が持っているのか。
 しかし、結局美綴が尋ねたのはそれだけだった。
「…………ごめん」
「いや、謝られてもワケがわからないんだけど」
 美綴の視線から、まるで逃げるように顔を俯かせ、士郎が弱々しい声を絞り出す。
 その反応に、美綴は呆れると同時に少しだけ焦った。俯いた士郎の表情が、これまで見た事もないほど沈んでいる。まるで自分が意図せず目の前の彼を糾弾でもしているかのようだ。
「……美綴が怪我をしたのは、俺のせいなんだ」
「あー、あのさ。アンタの性格はわかってるつもりだけど、そりゃ悪い癖だよ。なんでもかんでも自分の責任に……」
「違う、そうじゃないっ!」
 士郎が激しくかぶりを振って声を荒げる。その激しい反応に、美綴は思わず身を震わせた。
「…………そうじゃ、ないんだ」
「……」
 裁判官を前にしたような一方的な罪の告白に、美綴はやはり沈黙するしかなかった。
<衛宮士郎>という人間を、美綴はそれほど知っているわけではない。
 同じ弓道部に所属し、唯一自分が敵わないと認めた人間で、そして勝ち逃げのようにあっさりと退部した掴み所のない男。学校で知る彼の行動は、大して知りもしない同級生や上級生などの頼み事を何でもかんでも引き受ける。良く言えばお人よし、悪く言えば他人に利用されてばかりの馬鹿だった。自分よりも他人を気に掛ける、そんな奴なのだ。
 吐き出すように言葉を発したまま、再び黙り込む士郎の頑なな横顔を一瞥して、美綴は居心地悪そうに頬をポリポリと掻いた。
 何度も思うが、正直ワケが分からない。士郎が自分にこの怪我を負わせたというのか、それともこの怪我に何か関節的に関わっているのか。例えば、意図せず自分を大型トラックの前にでも突き飛ばしてしまったとか。ただ、これまで見た事もない程悲壮な表情で告げる士郎の言葉なのだから、きっと彼の言った部分だけは紛れもない事実なのだろう、と美綴はそれだけははっきり理解した。
「……衛宮、正直あたしには何が何だかさっぱりわからないんだけどさ。何でもかんでも自分の中で決め付けるのは、良くない事だと思う。アンタみたいな性格だと、特にね」
「……」
「だからさ、話して欲しい。なんで衛宮が悪いのか、何があったのか」
「……」
「…………衛宮、黙ってちゃわからないよ」
 それでも、士郎は口を噤んだままだった。
 何度も視線を上げようとして、また降ろし、口から言葉を出すのを躊躇うように頬の筋肉を何度も震わせる。
 分かりやすい奴だと、常々思っていた。言いたくても言えない。そんな内心を全力で表現しているように見える。もちろん、本人にはそんな意図など全くないだろうが。
 衛宮士郎は不器用な奴だ。それは美綴がはっきりと分かっている事だった。これまでの付き合いと直感でほとんど確信している。
 部活を辞めた時もそうだった、何もかも自分の中で解決して、全部抱えて出て行ってしまった。そして、このまま彼を放っておけば、きっと同じように自分の前から去って行ってしまう。そんな確信がある。
 美綴は全力で思考を巡らせた。正直、状況が突飛過ぎる上に、それが一体どう士郎に繋がるのか全く分からなかったが、役に立たない頭の中の情報の中でただ一つだけ当てはまるパーツがあった。非常識なものは非常識なものと繋がっているものだ。
「…………魔術師同士の争い」
「えっ!?」
 探るようにぼそりと呟いた言葉に、士郎は眼を見開いて顔を持ち上げた。ようやく初めて視線が交じ合う。驚愕に染まった表情と声を聞いて、美綴は手応えを感じた。
「<ダンテ> <キャスター> あと、変な眼帯を付けた人間じゃないっぽい美女。街の裏で起こってる、変な戦い。なんか、心当たりある?」
「あ、え……なんでさ!? いや、だって……っ!」
「そっか、やっぱりソレが関係してるんだ」
 絶対に嘘がつけない級友がうろたえる様を無視して、美綴は一人感慨深げに呟く。ショックよりも奇妙な納得の方が心を占めていた。日常の裏にある非日常に、衛宮士郎が関わっていると事実に対する。
「詳しくは知らないよ。でも、大枠は掴んでる。ちょっと前に、実際に巻き込まれた事があったから」
「そんな…………あ、いやでも……」
 美綴の言葉に士郎は一瞬熟考し、やがて何か納得できる要因に思い当たると、一層気まずげに彼女から視線を逸らした。
「……それ、ちゃんと覚えてるのか?」
「そういえば、普通は記憶を消すものだって言ってたっけ? ああ、そうか。だから今回のは覚えてないのか……」
 あの日の夜、吸血鬼の美女に襲われ、異人の悪魔と魔女に助けられた時の事を思い出して、美綴は一人納得するように何度も頷いた。
 士郎はこれ以上美綴に何も悟らせないようにと、必死で口を閉ざした。沈黙が降りる。分かりやすい士郎からは、明らかに拒絶するような壁を感じ取れたが、しかし美綴は糸口を見つけたように口を開いた。
「……衛宮、お前は魔術師だったんだな」
 その言葉は完膚なきまでに、士郎が作り出した壁を破壊していた。
 必死になって作り上げた、日常と非日常を隔絶する壁。美綴をこれ以上関わらせまいとした士郎の努力は徒労に終わった。
 絶望的な気分に陥っていた士郎は、のろのろと顔を持ち上げて美綴を見つめた。真っ直ぐな視線が射抜いてくる。それが何故か、どうしようもなく恐ろしく感じた。
 何がそんなに怖いのか。事実を知られ、彼女に自分の犯した罪を糾弾される事なのか。
「話してよ」
 静かに美綴は告げる。その催促を、もう士郎に断る術はない。
 目の前の彼女が、今の自分に対して命すら左右する絶対的な命令権を持っているような気がして、士郎はただ言われるままに口を開いた。神の前で罪を告白する迷い子にも似た、蒼白な表情で。
 そして、ようやくこの恐怖の理由が理解できた。
 自分はきっと、罪を許される事が怖い。
「俺は、間違ってたんだ―――」
 この重圧から解かれる事など、例え神が許しても自分が許しはしないのだから。







「眠っているだけだ。正真正銘」
 抉じ開けていた瞼から手を離すと、バゼットは横たわった桜の体に布団をかけ直しながら診断結果を告げた。傍らのライダーがそれを聞いて珍しくそれと分かるほど安堵の表情を浮かべる。
「専門家ではないから何とも言えないが、彼女の体に施されていた間桐の魔術も確認できない。体内に視えた異物はおそらく蟲だろうが、全て冬眠状態のように活動停止しているようだ」
「今の内に取り除く事は出来ないでしょうか?」
「難しいな、言ったように私は治癒魔術の専門家ではない。言峰あたりでないと無理だ」
 言って、口にした名前の人物を思い出すとバゼットは悔いるように小さく舌打ちした。あの男の存在は心に出来たシコリだ。
 バゼット達が衛宮宅を訪れて、既に半日が過ぎようとしていた。日は昇り、時間的にはもう昼だ。それでも、桜とダンテは眼を覚ます事はなかった。それだけ二人の消耗が激しいのだ。
 ダンテは負傷と疲労で、桜はキャスターの宝具の影響が原因だった。
「心配はないだろう。キャスターの宝具の効果で、彼女に関わる魔術は全て破戒されている。まるで体の中を洗い流されたようだ。魔力の枯渇はその後遺症だが、それも回復を待てば、間桐桜は完全な状態で目覚める」
 凛や士郎が出かけている間に、ライダーの頼みで桜の容態を診察していたバゼットは、なるべく正確に診断結果を説明した。楽観や希望的観測などない、純然たる事実だ。
「キャスターのおかげだよ」
「そうですね」
 笑って呟くバゼットに、ライダーは相槌を返す。そっけない反応だったが、内心少々の戸惑いがあった事は否めない。
 昨夜の話は聞いていた。キャスターは桜を助ける為に消滅したようなものだ。
「……借りを返せないのが残念です」
「そうだな」
 本心を告げるライダーに、バゼットは苦笑する。
 顔を合わせたのは二、三度だったが、お世辞にも良好な関係であったとは言い難い。一度は完全な敵だった。お互いに相性が合わない事は確認済み。正直、聖杯戦争において敵同士ならばこれほど違和感はなかっただろう。
 だが、結局結末は全く違ったものになった。彼女が何を思って桜を助けたのか、それはもう知る事は出来ない。ライダーの心境が複雑だったのは仕方がないだろう。
 ただ、今は素直に感謝していた。大切なマスターを、自分の代わりに救ってくれた彼女に。
「それより、彼女の状態ばかり気にしていたが、ライダーの方はどうなんだ? 彼女との契約まで一緒くたに切られたんだろう?」
「それに関しては問題ありません。アナタの持つ偽臣の書に令呪が残っています」
「アレは独立しているのか……」
 傍に畳んで置いたコート。その中に包むように置いてある本を一瞥して、バゼットは感嘆の呟きを漏らした。大した技術だ。
「さしづめ偽装したチケットのような物ですが、聖杯のバックアップを受け続ける事は可能です。アナタからの魔力供給もありますし、状態は変わりません」
「だが、それはベストではないという事だろう。やはり、彼女と正式な契約を結び直した方が……」
「いいのです」
 あくまでライダーと桜の関係を気遣うバゼットに向けて穏やかな微笑を浮かべる。
「私は桜と自分を重ね見ていたのかもしれません」
「……召還されるサーヴァントは、主と何処か似通った者が呼ばれると言うからな」
「そうです。サクラに呼ばれ、彼女の置かれている環境を知って、私は彼女を守ろうと思った。そこに主従や聖杯は関係なかった。ただの個人的な感傷に過ぎないのかもしれません」
「それはつまり彼女が、『好き』という事だろう?」
「……そうでしょうか?」
 悪戯っぽく笑うバゼットに対して、その言葉を噛み締め。
「……そうですね」
 一人納得するように頷いて、ライダーは苦笑した。
 一通り二人で笑い合うと、バゼットは腰を上げた。
「まあ、君が納得しているのならそれでいい」
「どちらへ?」
「野暮用だ、家には居る。君は彼女についていてあげるといい」
 そう言って、バゼットは桜の眠る和室を後にした。
 考えてみれば、仕事で世界各国を飛び回っても日本に来たのは初めてだった。特に純和風の建物の中など旅行のパンフレットでしか知らない。
 バゼットは少々戸惑いながら、昨夜の内に可能な限り把握した衛宮宅の廊下を歩いていく。
 目指す先は、幾つもある部屋の一つ。
 戸惑いながらも迷うなどという無様なミスは犯さず、目的の部屋までたどり着くと、バゼットはノックもせずにドアを開けた。
 そこはたった一晩だけだが、キャスターの使っていた部屋。
「……」
 部屋に入って、注意深く見回す。
 驚くほど何もなかった。最初から部屋にあったと思われるテーブルやクローゼットの家具以外、何もない。本当に人が足を踏み入れていたのかさえ疑問に思う。もちろん、たった一晩、しかもロクに居る事もなかった部屋に痕跡が残っている筈もないのだが、キャスターがここを使った以上そこは魔術師の工房となった筈だ。
 だが、その名残さえ全くない。文字通り、消滅してしまったのだ。
 在る筈のない存在。それがサーヴァントだ。霊が現世に残せる物などない。キャスターの消滅と共に、彼女がここに築いた<陣地>もその為の魔術具も、何もかも世界の修正によって『無い物』とされたのだ。
 これが本当の消滅。文字通り跡形もない。残されたモノと言えば、彼女の行動によって得た<結果>と、あるいは既存の道具で作り上げられた唯一の魔術具、つまりバゼットが使うキャスター製の義手ぐらいのものだ。
 バゼットはその事実に対して急に虚しさを感じると、諦めたようなため息を一つ吐いて部屋の中を物色し始めた。空のクローゼットや机の引き出しを探って回る。
 それは仕事で自分の知り合いや仲間が死んだ時、いつも彼女が行っている事だった。遺品、遺書、何でもいい。ただ、死んでいった者が確かに存在したと、自分の記憶の中に具体的な形として留める為に必要な物を探していた。その感傷が彼女の消せない甘さであり、自ら背負うと決めた痛苦を伴う生き方だった。
 あらかた部屋を探し回り、諦めが出始めた頃、一度探したクローゼットの奥に黒い布で包まれた塊をついに見つけた。
 布を解いてみると、中に包まれていたものは義手だった。左腕である事とサイズから見ても、バゼットの為に造られた物だ。
「キャスター……」
 それまでの感傷が吹き飛んで、バゼットは関心とも呆れともつかない苦笑を漏らした。
 相変わらず用意がいい。その先を見越すような抜け目の無さは、彼女そのものだ。何処かでキャスターが、あの不敵な微笑を浮かべているような錯覚さえ感じる。
「もっと、それらしい遺品を残して欲しいものだよ」
 虚空に向けて呟く。その時になってようやく、バゼットはキャスターにちゃんとした別れを告げる事が出来たような気がした。







 全てを語り終えた後、二人の間には沈黙が漂った。
 一般人の面会がないこの病棟は酷く静かで、美綴と士郎はどちらともなく感慨に耽って口を噤む。
「…………そうかあ。お前、今までそんな事してたのか」
 美綴は慎重に言葉を探るように呟いた。
 士郎が語った事は聖杯戦争における全てではないし、魔術に関して全く知識を持たない美綴がその話の中で理解できた内容も多くはなかった。依然、日常の裏で展開されている異常な戦争に関する謎は明かされぬままだし、魔術師が具体的にどういうものなのかも分からない。ただ、重要な部分だけは理解できた。自分が怪我をした原因とその経緯、そしてその結果まで。
 その感想は、一言で言えば『安堵』だ。狙われた間桐桜も無事保護したようだし、実際に「戦った」という士郎は目の前でピンピンしている。自分の怪我も命を落とすほどでもない。終わってみれば、何の事も無し。結果オーライというやつだ。正直、間桐慎二に襲われて自分が重傷を負ったという部分だけは、どうしても記憶や感覚がぼんやりとぼやけて現実感が湧かないのだが。
「しかし、あたしともあろうものが間桐に良いようにやられるなんて、納得できないなあ」
「……ごめん」
「……冗談だって受け止めろよ」
 冗談交じりの軽い口調で呟く。それは暗に、怪我の事を気にさせないという配慮だったが、士郎は強張った表情をより悲壮なものにしていた。
 美綴は疲れたようなため息を吐いた。怪我人の方が気を使うなんて、本当にこの男はやっかいな性分だ。
「まあ、言っても納得しないんだろうけどさ。あたしはお前を恨んでなんかいないし、誰が見てもそれはお門違いって奴だよ」
「だけど……」
「だけど、は無し。一旦自分で考えを否定したら、あとはぐるぐる犬みたいに同じ場所を回る事になる。言いたい事は言えばいいけど、反論は無し、だ」
 持ち前の性分か、竹のようにスッパリと士郎の言葉を切り捨てると、美綴は真摯な瞳を向けた。
「衛宮、お前は凄いよ。あたしが思ってるのはそれだけだ。普通だったら逃げる状況で、アンタは自分から向かっていった」
「美綴、それは……」
「お前は凄い」
 有無を言わさず、美綴は繰り返した。
 聖杯戦争なんて知らない。だが、その戦いが生み出す死に満ちた異世界を経験している。だからそれがどれ程狂った空間で、その中で恐怖に押し潰されそうになる不安と苦痛がどれ程強大かを知っている。目の前の男は、その中へ自ら赴いたのだ。殺し合いの場へ、『誰も死なせたくない』という単純で愚かな願いだけを抱いて。
 なんて、馬鹿。愚か者。世間知らずの大馬鹿野郎だ。士郎の話を客観的に聞くだけで、そんな悪態が苛立ちと共に湧いてくる。
 だがそれが妬みであると、美綴は気付いていた。
 きっと、衛宮士郎以外の誰にも出来ない事だ。自分は良識のある人間だと思うが、それでもアカの他人を救う為に自ら危険に飛び込むなど、しかも常軌を逸した殺戮の世界に身を挺して乗り込むなど出来はしない。親しい人の為、自分の信念や命の為、戦うには覚悟の為の理由が要る。
 しかし目の前の、自分と年変わらぬ、同じ学び舎にいた筈の男は―――ソレをやった。
 彼にとって、人類全てが命を賭けて救うに値するモノなのだろう。それはとても愚かしいが、きっととても尊い。だから、この静かに自覚する苛立ちは、きっと妬みと羨望なのだ。人が誰しも憧れる、尊い心。自分はあんな風に綺麗に生きる事は出来ない。
 どれだけ悪態を吐いても、『偽善者』という言葉が出てこないのはそのせいだった。本当に、この衛宮士郎という男は、ただ『人を助けたい』と願っているだけなのだ。それが痛いほど分かる。
 それはまるで―――<正義の味方>みたいに。
「……俺は―――」
 士郎は否定の言葉を言いかけ、見据える美綴の真摯な視線に気付くと小さく頭を振る。そして静かに、心の内を吐き出し始めた。
「俺は、何も分かってなかった。出来ない事を出来ると思い込んで……いや、出来ないとわかってるのに、無謀を繰り返して、その結果俺はたくさんのモノを取りこぼしていったんだ」
「あたしの事か?」
「全部だよ。桜も、美綴の怪我も」
 そこで一旦、息を呑んで。
「―――キャスターが、死んだのも……」
 喉の奥から溢れそうになるあらゆる叫びを押し殺した声が、震えて洩れた。
「……頑張れば、何もかも救えると思ってた……」
 無言で聞き入る美綴に懺悔するように、士郎は独白を続ける。
「でも、俺は結局何もわかってなかった。何も知らない、何の力もない無力なガキのままで俺は、ただ理想だけを高く掲げていたんだ。そこに手も届かないのに、ただ盲信して突き進んで……キャスターはその犠牲になった……!」
 言葉の最後は、ほとんど糾弾になっていた。自分自身に対する。
 昨夜、アーチャーが士郎に叩きつけた言葉が鮮明に蘇り、鋸のように何度も心を切り刻んだ。
『その男を助ける事で、もし失われる命があったなら、貴様はどう責任を取る!?』
 そう言った。そして、現実はその通りになった。なっていた。あの時、屋上で間桐慎二を逃した選択が、この結末を辿ってしまったのだ。
 一つ一つの判断に付き纏う、圧倒的な重さ。救う為の選択は重い。明確な答えも、それを考える猶予もない。それを、今の今まで知らなかった―――。
「……ふん。で、後悔に押し潰されそうってワケだ」
 舌打ちするように吐き捨てる美綴の言葉は、士郎の耳には実際よりも冷淡に響いた。今は何を聞いても自分を責める糾弾に聞こえる。
「馬鹿だね。他人の運命は自分が左右してるとか思ってるの?」
「そういう……っ、ワケじゃないけど……」
 流石に反論する士郎を一瞥すると、美綴はつまらなそうに鼻を鳴らしてベッドにもたれ掛かった。
「……いろいろ考えすぎなんだよ。人間一人に出来る事なんてたかが知れてるし、誰も彼もアンタにそれほど期待なんてしちゃいない。皆、自分のケツは自分で拭くさ」
「美綴、女の子がケツなんて言っちゃいけない」
「うっさい、馬鹿。アンタはあたしの親か」
 美綴は骨折していない方の足で士郎の座る椅子を小突いた。
「魔術師だかなんだか知らないけど、つい最近まであたしと同じ学校に通う同じ平凡な学生だった思春期のガキに、何もかも助けられるヒーローみたいな力なんて手に入るわけないだろ。最初から何でも出来る力を持ってたり、何でも知ってたりする人間なんていやしないよ。届かないから手を伸ばそうとするし、その為に力をつけようとするんじゃない?」
「……だけど、戦いの中で力がないっていう事は、誰も助けられないっていう事だ」
「そりゃそうだ。自分の命を守るのだって精一杯なのに、他人にまで手が回る余裕なんて、普通ない」
「でも―――」
「でも、衛宮は助けたい。それが理想なんでしょ?」
 士郎の言葉を遮って捲くし立てるように尋ねる美綴の言葉を、力なく肯定する。まだ、その問いに頷くだけの力は残っていた。
「だったら、しょうがないさ。そういう厄介なモノを、衛宮は背負っちゃったんだから。間違いや挫折なんて、誰でも経験してる。逃げ出したい事がない奴なんていない」
「……ああ」
 少し躊躇って、士郎は頷く。
「でも、衛宮が選んだ生き方でしょ?」
「ああ、そうだよ」
 今度の躊躇いはずっと短く、そして少しだけ強く士郎は頷いた。
「やめとけば良かったって、後悔してる?」
「―――そんなの、考えた事もないよ」
 今度は、しっかりと美綴の眼を見据えて答える事が出来た。
「だったら……やるしかない。どれだけ考えを突き詰めて、悟りや真理なんて開いても、結局出来る事は『やる』か『やらない』か、なんだからさ」
 士郎はそのまま黙り込んだ。きっと心の中では自分に対する文句の一つや二つでも抱えているのだろう、と美綴は思った。ただ彼の性分ではそれが口から出ないだけだ。
 理不尽な事を言っている、と美綴は自覚していた。何時だって、他人の悩みの答えはシンプルなものだ。ただし、他人にとっては。
 答えが出てても、どうしようもない時がある。それが現実だ。その現実の壁は悩む本人にしか分からない。
 頑張れ、なんて気休めだ。諭すなんて傲慢だ。士郎はおそらく昨夜からもう何度も考え、自らの無力を痛感し、出した答えに首を振って苦悩し続けている。
 けど手を差し伸べてはやれない。
 美綴は、ただ黙って士郎を見守っていた。
「……俺には、分からない。どうすればいいのか……」
 何を、とは言わない。それはおそらく彼の背負う多くのモノに対してだろう。
「とりあえず風呂でも入って、寝ろ」
 美綴はなんでもない、と言う風に気軽に答えを教えた。
「……なんだよ、それ」
「煮詰まった時に出来る事なんて、たかが知れてるモンだよ。少なくとも、あたしはそうしたぞ。これまでの人生で、どうしようもない時っていうのは何度か経験したからな」
 素っ気無く返す美綴の言葉に、肩透かしを食らいながら士郎は恨みがましそうな眼で見つめた。
「大層な事なんて思いつかないよ。あたしは衛宮ほど善い人間じゃない。意地とかこだわりとか、頑張る理由はそれくらいさ」
「……美綴は、憎いとか思わないのか? 慎二や俺の事」
「実感が湧かないっていうのが本音だけどね。でも、結局人っていうのは、誰かを憎まないと生きていけないし、同じように許さなきゃ生きていけないんだと思う。月並みだけど、失恋とかと同じように、時間が助けてくれるよ。いつまでも同じ感情を引き摺り続ける事なんてない」
 美綴の言葉を、士郎は噛み締めるように聞いた。昨夜から心にわだかまっていた混沌とした感情にそれは驚くほど浸透し、澄んだ水へと変えていく。
 士郎はため息を漏らして、小さく笑った。それは士郎がこの病室を訪れて、初めて見せた笑顔だった。
「……なあ、なんだか学校の授業よりも良い事を聞いたような気がするよ」
「あ、いや、褒めてもらって嬉しいけど……やめてよ、あんまり深く考えて話してるわけじゃないんだから」
 美綴はほんの少し頬を赤くして、少女らしい恥じらいを見せながら視線を逸らした。
 だが、彼女の言葉が何よりも士郎の心を救ったのは確かだった。絶対に晴れる事がないと思っていた暗雲が消えていくような、つい先ほどまで想像も出来なかった清々しい気分が胸に満ちてくる。
「見舞いに来たのに、俺の方が悩みを相談する形になっちゃったな」
「あんな陰気な表情じゃ、見舞いにもならないよ」
「キツイなあ」
 士郎は苦笑しながら立ち上がった。
「―――でも、また頑張れるよ」
「……」
「持つべきものは友人、って本当だな。現金だけど」
 士郎の顔には、入って来た時にはなかった生気が宿っていた。その眼には、強い意志の光が宿っていた。
 彼はまた往くだろう。ほんの少しの励ましだけを糧に、完全には癒えぬ傷を抱えて、それでも自ら戦いに向かっていく。自分の信念の為に。
 そこから先は美綴が踏み入れない世界だ。
 そして、また傷付くのだろうか? 大きすぎる理想の重さに、また苦しむのだろうか? 打ちのめされて、倒れて、それでもまた衛宮士郎は立ち上がるに違いない。
(この、馬鹿―――)
 そう思うと、自然と怒りが湧いてきた。そして次に感じたのは悲しみと虚しさだった。自分はさっき士郎に向かって偉そうに言った、叱咤にも近い激励とは矛盾した考えを抱いている。
 シーツを強く握り締めると、美綴はドアに向かおうとする士郎を無意識に呼び止めていた。
「衛宮、ちょっと来て」
「ん?」
 首を傾げて無防備に近づく士郎を射程内に捕らえると、美綴はおもむろにその頭を胸に抱え込んだ。
「な、ああぁっ!?」
「アレ? 衛宮、前髪染めてる? っていうか白髪か、コレ? 若いのに」
「な、なにを、するだぁ!?」
「あー、はいはい落ち着けって。男なら素直に胸の弾力を堪能してなさい」
「ばばばば馬鹿! そんな事出来るか! ちょ、離せって!!」
「む、聞き捨てならないね。ひょっとしてサイズに不満でもあるのか? 確かに間桐には及ばないが……」
「違、だから……ぁああー、もうっ!!」
 叫びながら、物理的な抵抗は全く出来なかった。固くも強くもない、柔らかな抱擁。包み込まれた顔に美綴の体温を感じる。体を覆っていた気だるさや疲れなど、今度こそ本当に跡形もなく吹き飛んで、士郎の頭の中は真っ白になった。
「……っ、頼む。美綴、離してくれっ」
 逃げられなくなる。
 士郎は唐突に不安を感じた。この心地よい抱擁に、心が和らいでいくのが解る。この優しい時間に溺れて、縋り付いてしまいそうになって、士郎は必死で鋼鉄の意志を奮い起こした。
 だが、それはあっさりと拒否された。
「嫌だね」
「美綴……っ!」
「あたしの役目じゃない事は分かってる。でも、アンタにはこうしてくれる人がいないんだろ」
 俺にはこんな安らぎを感じる資格なんてないんだ! 叫ぼうとして、それは包み込まれる感触に呑まれて消えてしまった。自分への不甲斐なさと罪悪感と感じながら、それさえ吹き飛んでしまいそうな安心感と圧倒的な力が湧き上がって来るのを感じた。なんという事だろう、その抱擁はどんな魔法よりも魔法のように心を癒してくれる。
 思えば、10年前に全てを失った日から、誰かに抱き締めてもらう事などこれが初めてだった。
「本当は、恋人だとか、母親だとか、そういう人達にしてもらうんだ。一人で生きられる人間なんていない」
 美綴は微笑んで、士郎の耳元にそっと囁きかけた。
 何もかもが優しい。衛宮士郎から多くのモノを奪い、多くのモノを守らせてもくれない厳しい世界が、今はこんなにも慈悲深く自分を包み込んでくれる。
 何故か、泣きたくなる。士郎は必死に湧き上がって来る嗚咽を押さえ込んだ。
「ここを出たら、衛宮はまた一人になるんだろ?
 ―――衛宮が選んだ生き方なら、それでもいい。でも、どんなに疲れても誰にも寄りかからないアンタが、あたしはすごく気に入らないんだ」
 言葉の最後は少しの怒りと寂しさを滲ませて呟く美綴に、士郎はもう何も言い返せない。
 しばらくの間、病室には完全な沈黙が漂った。時計さえない部屋の中には、何の音もない。ただ士郎の耳にだけ、美綴の心臓の鼓動がわずかに聞こえていた。
 人がもっとも落ち着く音は、心臓の音だという話は本当だな、と思った。静けささえ心地よい。
 やがて体がぐっと押し返されて、今度は美綴も抵抗せずに士郎を解放した。お互い顔が赤くなっている。特に、士郎の頭は完全に茹で上がっていた。恥ずかしくて視線を合わせる事も出来ない。
「……ありがとう。もう、大丈夫だ」
「堪能したか?」
「……っ! からかうなよ!」
「おんや、顔が赤いな衛宮。いやはや、朴念仁だと思ったけど、流石に棒切れか何かじゃないみたいだね」
「美綴!」
「冗談だって」
 からかいながらも、それが美綴の照れ隠しである事は目の前の朴念仁以外には明白な事実だった。
 士郎もまた、これまで経験した事のない異性との接触にのぼせながら、驚くほど軽くなった自分の体と心を感じていた。
「効果あった?」
「…………ああ」
 士郎の返答に、美綴は満足そうに微笑む。
「ま、今度は遠坂にしてもらいなよ」
「な、なんでそこで遠坂が出てくるんだ?」
「アレ、そういう関係じゃないの?」
「違う!」
 屋上の件を指して言う美綴に対して、士郎が全力で否定する。だが、赤くなる顔は隠せなかった。その反応に少しの落胆を覚える。
 士郎は今度こそ、病室のドアの前に立ってドアノブを握った。
「……行くの?」
「ああ、答えは出てたんだ。最初から」
「『頑張れ』ってのは月並みだし、アンタは無駄に頑張ってるから、もっと周りを頼りなよ」
「充分助けられたよ。本当にありがとう、美綴」
 そう言って笑う士郎の表情は、子供のように無垢で、戦士のように凛々しかった。
 ドアが閉まり、士郎が病室からいなくなる。出た先の廊下で幽霊を見るような眼で自分を見ている年配の看護婦に会釈し、何事もなかったかのように士郎は病棟を出た。
 一人残された美綴は、ドアの向こう側で看護婦が何やら騒いでいる声を聞き流しながら、ベッドに背中を預けた。
 誰も居なくなった空間で、一人ごちる。
「性分じゃないって、ばーか」
 恥ずかしそうに自嘲して、美綴は小さく苦笑を溢した。








 そして、夕日が地平線の向こう側に沈む頃。
 凛、士郎、セイバー、アーチャーの四人は郊外の森の前に佇んでいた。
「鬼が出るか、蛇が出るか……ってところね」
 黄昏の空に屹立する木々の異様なシルエットを見上げ、凛は小さく呟く。
 鬱蒼と生い茂る木々が森という形を成し、それがまた真紅の光と吹きすさぶ風の影響を受けて、月並みだが怪物のように蠢いている。冬木市郊外の森は、その入り口に立つ凛達を招くように禍々しい呻き声を上げていた。
「バゼットの話だと、この森の先にあるのね。アインツベルンの移築した城が」
「ふむ、さすがにここからでは木が邪魔して見えんな。魔術的な目晦ましもあるかもしれん」
 凛の背後に控えるアーチャーが、鷹の眼を駆使して冷静に告げた。既に武装したセイバーは誰よりも先頭に立ち、森の入り口を睨みつけている。
 士郎はここまでの足に使ったタクシーが無事に去っていくのを確認すると、改めて森の方を見据えた。
 不気味な静寂と共に待ち構えているであろう、アインツベルンの城を視線の先に幻視する。そしてその先にいるであろう、あの銀白の少女と鋼色の巨人の姿を。
 たった一度の邂逅と戦闘で心の奥まで焼き付いた鮮烈な衝撃と恐怖を噛み締め、士郎はここに来た目的とそれに至る経緯を昨晩の記憶と共に思い出していた。



『コトミネの話によると、聖杯戦争における聖杯は二種類存在するらしい』
 衛宮宅の居間に集った凛達に対し、魔術協会の魔術師と言うバゼットは講義でもするように、手元の紙に簡易的な図解を書きながら話し出した。
『マスターの選択や英霊の召喚等をはじめとする聖杯戦争のシステムそのものを司る「大聖杯」と、敗れたサーヴァントの魂を内側に留め、外に出る為の儀式の際に大聖杯の炉心として機能する「聖杯」の二つだ』
『ちょっと、サーヴァントの魂を留めるって?』
『そのままの意味だ。聖杯は無から機能はしない、強大な神秘であるサーヴァントの魂という燃料を吸収して稼動する人工の魔術具というわけだ。しかも、桁外れのな』
 早速飛び出す凛の質問に、バゼットは冷静に答える。
『じゃ、じゃあ、聖杯戦争で生き残った一人の前にしか聖杯が現れないっていう話は……』
『それも間違いではないだろう、説明が故意に抜けているだけでな。聖杯を満たすのに必要な魔力はサーヴァント6人分の魂。必然的に、自分以外の参加者6人を倒さなければ聖杯は現れない』
 絶句する凛の代わりに食って掛かる士郎に対しても、バゼットは平然と答えを返してみせた。しかし、その瞳には確固たる怒りの感情が滲み出ている。
『けど、それじゃあまるで……っ!』
『まるで生贄だ。この聖杯戦争自体が蟲毒じみた、殺し合いの魔術儀式と言ってもいい』
『くそっ! そんなの馬鹿げてる!!』
『同感だな』
 激昂する士郎の傍らで、凛もセイバーも不快感を露にしていた。自分たちが儀式の為の餌も同然と分かれば、当然の反応だ。言峰から真相を聞き出し、幾ばくか時間を経て心を落ち着けたバゼットでさえ、いまだ湧き上がる怒りを感じている。
 そこに『聖』杯などという神秘的なイメージなど欠片もなく、禍々しい黒魔術の歴史が重ねてきた血塗れのおぞましさしか存在しない。
 一人を除いて今はもうこの世にいない、この悪趣味な戦争を仕組んだ過去の魔術師達に怒りを滾らせる一同を見回して、バゼットは静かに言葉を続けた。まだ話は終わっていないのだ。
『簡単だが聖杯戦争の仕組みについては理解できたと思う。そして、これからが此度の第五回聖杯戦争における異常事態の真相だ』
 全員が口を噤んでバゼットに視線を集中させた。
『発端は、今から約70年前の第三回聖杯戦争において、アインツベルンが切り札として召還したイレギュラーサーヴァントの存在だ。サーヴァントのクラスは<アヴェンジャー> 真名は<アンリマユ> 詳しくは判らないが、コトミネの話では「この世に存在する全ての業を背負った反英霊」だと言う話だ』
 反英霊。
 呪われる対象でありながら、奉られる事になった救世主の事だ。言い換えれば必要悪である。悪を以って善を明確にする存在であり、この場では神話の怪物メデューサであるライダーが、完全ではないがコレに該当する。
『結論から言えば、これは見事に失敗したらしい。アンリマユは召還と同時に形を持てずに消滅したそうだ。
 だがそれが全ての始まりだった。確固たる存在を持たぬアンリマユだったが、奴の<悪>としての呪いとも言える信仰は、留まった大聖杯を汚染してしまった。清浄な水は、黒く濁った泥へと変質してしまったワケだ』
『じゃあ、その時点でもう聖杯はまともじゃなくなってたっていう訳?』
『そうだ。第四回聖杯戦争……10年前の大火災は、その歪んだ聖杯の力が生み出したものらしい』
 凛の問いにバゼットが頷く。その言葉を聞いて、士郎は知らず骨が軋まんばかりに拳を握り締めていた。
 10年前、<衛宮士郎>となる前の自分から全てを奪い去り、多くの人間の命を燃やし尽くした忌わしき炎は、聖杯から零れたものだったのだ。あの悲劇に聖杯戦争が関わっている事はすでに知っていたが、改めて真相を聞くと、士郎の心にどす黒い憎しみの感情が湧き上がって来る。ともすれば噴き出しそうになるそれを、士郎は必死に飲み込んだ。
『ここまでで、もう聖杯戦争のシステムは異常をきたし始めていたワケだが……それに上乗せするように、異常が起こり始めた。もう、全員が出会っていると思うが―――悪魔の存在だ』
 バゼットが紙とペンから手を離す。
『<魔帝ムンドゥス>が聖杯に宿っている―――。コトミネはそう言った』
『何なんだ、そのムンドゥスって奴は?』
『悪魔を支配していた王の名前よ。少なくとも、絵本の中ではね』
 士郎の疑問に答えたのは凛だった。スパーダについて描かれていた絵本を指して、彼女は告げる。
『スパーダの伝説を綴った禁書にも、その名は載っている。間違いない』
『その悪魔の親玉が、今回の聖杯戦争で沸いて出た悪魔や、アサシンを呼び出したって言うの?』
『言峰もコレに関してはほとんど話さなかったが、その可能性は高い』
『でも、スパーダの伝説では、悪魔は全員倒されたんじゃなかったのか?』
 以前の話の記憶を辿って、士郎が自信なさげに呟く。バゼットはそれに頷いた。
『そう、二千年前の戦いでムンドゥスは魔界への撤退を余儀なくされた。そしてこれは公式には明らかになっていないが、数ヶ月前に再び魔界の門を開こうと画策したムンドゥスは、スパーダの息子であるダンテによって同じように倒されている』
『……うわっ、それが本当なら歴史的大事件じゃない?』
『本人にも確認済みだ。記録には残せないがな』
 凛が思い浮かべる真紅の男。軽薄な笑みと不敵な笑み、そして凍りつくような悪魔の微笑を持つ、掴み所のない悪魔狩人。そこまで考えて、凛は小さく唸る。彼の強大な力は何度も眼にしているが、陰ながら世界を救ったヒーローだとはとても想像できなかった。少なくとも英雄の器じゃない。
 バゼットはその様子に苦笑する。
『でも、それが本当ならおかしいわよ。数ヶ月前なんてすぐ最近よ。どれほどやられたのか知らないけど―――』
 凛は言いかけて、ダンテのこれまでの性格を思い出すと訂正した。
『いや、きっと半死半生まで追い詰められたはずよ。それなのに、そんな短期間でどうやって、何より一体何を考えて聖杯に宿ったっていうの?』
 悪魔の力。それも王様クラスとなれば、一体どれ程のものかもはや凛の常識では計り知れないが、ダンテもまたその悪魔と戦う事が専門のハンターだ。彼が『倒した』と言うのなら、相応のダメージだった筈である。それが短期間で完全に回復出来る筈がない。スパーダの時は、再び活動を開始するまでに二千年もの時を必要としたと記載されているのだ。
 凛の当然の疑問に、バゼットはしばし熟考し、やがて静かに口を開いた。
『―――私もそれが疑問だった。この世界において存在を持たぬ悪魔が聖杯に宿るのは、そう難しい事ではないかもしれない。だが聖杯に宿る事で、ムンドゥスが得られる意味は何か?
 残念だが、憶測程度にしか思い浮かばん。聖杯に集まる魔力を利用して、何か企んでいるのか。あるいは魔界の扉をここで今一度開こうというのか。少なくとも、ムンドゥスの存在が此度の聖杯戦争の異常を引き起こしている可能性は、限りなく高いワケだ』
『なんだか、ますます聖杯戦争を続ける余裕がなくなってきたわね……』
『というより、もうこの戦いに勝ち残っても願いを叶えられる可能性は少ないだろう』
 張り詰めていた空気を払うように呟く二人の言葉に、それまで無言で聞き入っていたセイバーが表情を強張らせたのを、士郎だけが気付いていた。
 掛ける言葉が見つからない。王の最後の責務として、自分ではなく民の為に聖杯を求めたセイバー。それが今、目の前で潰えたのだ。その落胆は計り知れない。
『故に、私は君達に同盟を持ちかけた。悠長に戦っている暇はない。悪魔が暗躍する以上、これは人類そのものに対する危機なのだ』
『…………オーケイ、話はわかったわ。この状況じゃ、信用するしかないわよね』
 真摯な瞳で見据えるバゼットの視線を受け止め、しばし黙考して、凛は肩の力を抜きながら頷いた。士郎達にも異存はない。皆、凛と同じ考えだった。
『ありがとう。では、差し当たっての目的だが―――』
 バゼットはわずかに安堵した笑みを浮かべ、すぐに真顔に戻って告げた。
『大聖杯の端末となる聖杯の確保が最優先事項だと考えている。これまでの聖杯戦争において、聖杯の器となる物を用意する役割はアインツベルンだった。そして、おそらく今回も器を所持しているであろう。
 よってアインツベルンからの参戦者であるイリヤスフィール・フォン・アインツベルンに、同盟を結ぶ、あるいは一時的にも協力関係に持ち込めるよう交渉する』



「士郎」
 不意に名前を呼ばれ、士郎はハッと我に返った。思いの他、深く考え込んでしまっていたらしい。
 いつの間にか、周囲は木々に囲まれた薄暗い場所へと変わっていた。
「なんだ、遠坂?」
「なんだ、じゃないわよ。ぼーっとして。言っとくけど、今回の『話し合い』の要になるのは士郎なんだからね」
 ジト目で士郎を睨みながら、凛は森を進んでいく。どうやら一行は既にアインツベルンの城に向けて進み始めていたらしく、士郎は無意識に最後尾を歩いていた。横に並ぶ凛の前には、警戒態勢に入ったセイバーとアーチャーが先頭となって獣道を進んでいる。
「いや、ごめん。ちょっと頭の中、整理してた」
 我ながら気が緩みすぎだと、顔を叩いて正気に戻す。
「……ま、いいけど。これまでとは違う、アンタの望んでた和平交渉に行くんだから、もうちょっと気合い入れなさい。あの小悪魔は私たちの言葉じゃ聞き入れないだろうし、逆になんでかアンタには興味を抱いてるみたいだから」
(ダンテでもいいけど、それだとますますギャンブル要素が高くなるのよね)
 凛は内心で付け加えた。イリヤスフィールの興味という点では、ダンテも士郎に劣らず彼女の気を引いているだろう。ただし、第一印象からして正反対の悪い方向に向けてだが。
 ダンテは未だに眠りについたままであり、万が一の場合に桜を護衛するバゼット達と共に衛宮宅に残っている。彼がいなくて良かったのか悪かったのかは、まだ判らない。
「下手したらそのままバーサーカーとの戦いに突入する可能性もあるんだから、話し合いの区切りはきっちり見極めてね?」
「でも、戦うつもりで行くんじゃ、まとまるモノもまとまらないぞ」
「わかってるわよ。だから小細工せずに、真正面から乗り込んでるんでしょ。本当にバーサーカーと戦うつもりなら、奇襲作戦を考えてるわよ」
「そうか」
「アンタも、戦う覚悟は決めておきなさいよ?」
 凛が真面目な顔で、士郎の眼を見据えた。その視線は厳しく、逸らす事を許さない。
 しかし、士郎は力強い笑みを浮かべて頷く。
「ああ、戦いになったら徹底的に戦うよ。それから『もう一度』話し合いに持っていく」
「……」
 迷いなく、はっきりと言い切った士郎の返答に、凛は思わず呆気に取られてしまった。
「戦争をする必要性はもうなくなったんだ。だったら、殺し合いなんて絶対にさせない」
 前を見据え、自ら噛み締めるように呟く。それは彼が聖杯戦争に巻き込まれたから、何度となく口にした決意の言葉だったが、その時のひたむきさと揺るぎ無い意思の光が士郎の横顔に戻っていた。
「…………ん、どうした? 遠坂」
 自分を見つめる視線に気づいた士郎が訝しげに訪ねる。決意した者が見せる凛々しい横顔に思わず眼を奪われていた凛は、我に返って慌てて視線を逸らした。その頬はほんのりと薄紅色に染まっている。
「な、何よ。随分はっきりと言い切るじゃない? 昨日の夜からずっとヘロヘロだったクセに」
「ああ、うん」
 士郎は恥ずかしそうに頬を掻く。
「いろいろ悩んでても仕方ないなって、思ってさ。今まで忘れてた、キャスターが言ってくれた言葉を思い出したりしてる内に、もう一度頑張ってみようかなって……」
「…………ふーん。それにしては、急に立ち直ったわよね? やけに前向きだし」
 士郎が変わった要因を考えている内に、一つの事に思い当たり、凛は急に表情を不機嫌にさせて横目で睨み付けた。
「―――綾子と何かあったわけ?」
「え゛っ!? あ、いや……特には……」
「ふーーーん」
「いや、ちょっとだけ励ましてもらったかなー……って、なんで遠坂がそれで怒るんだよ!?」
「別にぃ」
 徐々に顔が<あかいあくま>のソレへと大魔神変化してきた凛に対して、士郎は後ずさりながら必死で弁解する。そんな喧騒を先頭のサーヴァント二人は我関せずとばかりに進んで行った。
 しかし、不意にセイバーとアーチャーが立ち止まる。互いに違和感を感じたような表情で、訝しげに歩みを止めた士郎と凛を振り返った。
「どうしたの二人とも?」
「奇妙です。私達は確実にアインツベルンの城へと接近しています。なのに、全く『違和感がない』」
 真剣な顔付きで告げるセイバーの言葉に、その意図を読み取った凛は急に表情を強張らせた。
「その通りだ。森に足を踏み入れた時もそうだったが、結界の……いや、魔力の気配がまるでない。仮にもマスターの拠点となる領域でありながら、あまりに無防備すぎる」
 セイバーの言葉を、アーチャーが更に詳しく説明した。ようやく士郎もその異常に気が付く。凛はすぐさま周囲を見渡し、意識を集中させた。
「……これは、結界が最初から無かったわけじゃないわ。魔力の残滓は微かに残っているもの」
「どういう事だ?」
「簡潔に言うと、あったはずの結界が破られているのよ。それも二度。二度目は残滓が濃いから、たぶんついさっきまで結界は張られていたはずよ。
 そもそも、バゼットから事前に聞いてたわよね。以前ダンテが偵察に向かった時、結界の気配を感じたって。つまり誰かが最近ここを通ったという事になるわ、結界を破壊して」
 凛の説明で、誰もが一層身体を強張らせる。
 真っ先に浮かんだのは悪魔の存在だった。キャスターの陣地の結界さえ破壊して、ダンテ達を襲った話は聞き及んでいる。同じ時間にイリヤ達が襲撃を受けていてもおかしくは無い。
 だが、同時にもう一つの可能性も浮かんでいた。彼らは一度、遭遇してしまったのだから。
 結界は二度破られているという。一度目は、士郎達が襲撃を受けた時間のものだとしても、二度目も同じ悪魔の襲撃があったというのか。その可能性も低くは無いだろう。だが、全く別の敵の仕業という可能性もある。それは例えばこの異常事態に陥った聖杯戦争において、全くのイレギュラーとして活動していた黄金のサーヴァント―――。
「まさか……っ!」
 全力で、嫌な予感が士郎の脳裏を駆け抜けた。それは果たして悪魔に対する不吉か、それとも後者の可能性に対するものか。少なくとも、どちらが最悪かと自問すれば答えは決まっている。
「みんな、急ぎましょう!」
 凛の号令に全員が頷く。
 森の暗さも、不気味さも、静けさも、今は嵐の前に漂うそれと同じような気がして、士郎達の足は自然と全力で駆けていた。
 根拠の無い焦燥感が急き立てる。士郎の中で、それはあまりに具体的な形の闇となって心を蝕んだ。キャスターが消滅する時に手のひらで感じた、絶望的なまでの喪失感が、徐々に大きくなっていった。もう二度と、あんな思いは―――!










 そして不意に、駆ける一行の耳へ、森の静寂を破る凄まじい爆発音が届いた―――。












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