ACT21「夜を越えて」



 すり抜けていく。
 伸ばしたこの腕、この手に、掴めたモノは何もない。
 正義の味方を目指し、高みに伸ばすこの手は―――あまりに無力だ。
「ぁああああ……あああ…………っ!」
 消滅したキャスターの残滓を抱き締めるようにしてその場に蹲った士郎の口から、弱々しい嗚咽が洩れる。その傍らで表情を鉄のように固まらせたダンテが、何かの重みに踏ん張るようにして仁王立ちで佇んでいた。
「シロウ……」
 セイバーは小さくなった主の背中を痛ましげに見下ろし、何かを言いかけて、そして自分に何も掛ける言葉がない事を悟ると強く口を噤んだ。
 自分に出来る事は剣を振るう事だけだ。戦う事しか出来ない。誰かを救う為に剣を持つ事はしても、手を差し伸べる事はした事がなかった。
「怯えた子供が上げるような叫びだったな。なかなか『らしい』ぞ、雑種」
 嘲るような笑みを浮かべるギルガメッシュの言葉に、反射的に殺意を滲ませて睨みつける。
「……私のマスターを笑うか、<アーチャー>」
「ほう、お前の此度のマスターはそいつか。以前に反して貧乏くじを引いたな、セイバー」
「貴様っ!」
 バーサーカーの圧倒的なソレとはまた違う、磨き抜かれた刃のように鋭い殺気を発するセイバー。その鬼神のような眼光に晒されて、しかしギルガメッシュは不遜な態度を些かも崩す事はない。
 そしてセイバーもまた、主を侮辱された怒りを抱きながらも不用意に飛び掛かれずにいた。目の前の男はそれだけ警戒に値する存在なのだと確信しているのだ。
「……どういう事? セイバー、あの『金ぴか』が何者か知ってるの?」
 眠ったままの桜を背後に庇いながら、状況を見守っていた凛がセイバーに問い掛ける。士郎とダンテの状態も気になったが、それ以上に今眼を向けるべきは、視線の先にいる金色の甲冑に身を包んだ正体不明の敵の事だった。
「彼は……あのアーチャーは、前回の聖杯戦争に参加したサーヴァントです」
 セイバーの口から搾り出されるように告げられた真実。それに凛が大きく息を呑む。
「そんな……まさか、どうやって?」
「それは私が聞きたい。答えなさい、アーチャー。何故、貴方が現界しているのです? 今回の聖杯戦争ではアーチャーはこうして召喚されている。貴方が召喚される余地などないはずです」
 セイバーは傍らに、主である凛を守る為鉄壁の如く佇む赤い弓兵を一瞥しながら言った。こちらのアーチャーはこれまでと同じように、ただ冷静に鉄のような横顔を向けて黄金のサーヴァントを見据えている。
「やれやれ、意外と物分りが悪いのだな。我は初めから召還などされてはおらぬ。10年前からずっと消えずに現世に残っているだけの話だ」
「馬鹿な! それこそありえない。あの時、私は聖杯戦争が終わり、役目を終えて戻った。それなのに貴方だけ現世に残っているなど……」
 ギルガメッシュの嘲笑交じりの返答に、セイバーは現状を把握しきれず混乱する。在り得ない事が目の前で在り得ている。
 しかし、混乱する頭の中でただ一つだけ確信を持って理解している事があった。
 それは目の前にいるのが紛れもない、セイバーの知る<アーチャー>であって、彼がこうして目の前に立っている以上、今自分達は最強の敵と対峙しているのだという事実だ。
「ふん、理解できんか? キャスターは我の真名すら言い当てたものだがな。あの女を失った事で、お前たちは近づくはずだった此度の聖杯戦争における多くの<真実>から、再び遠ざかってしまったわけだ」
「今回の聖杯戦争の……真実?」
 凛が訝しげに呟く。
 キャスターがこの聖杯戦争をどれ程先まで見越していたのかは、おそらくマスターであるダンテですら知らないだろう。それだけに、目の前の10年前から現界し続けているという、その存在自体が規格外の正体不明のサーヴァントの言葉が引っ掛かった。
 聖杯戦争の最中で、突如現れた悪魔の群れ。召還される筈のない悪魔のサーヴァント。今回にのみ起こる異常に関する全ての真相が、その言葉の中に隠されているような気がしてならない。
「さて、それももう無意味な事だ。あの魔女はもう消えた。存外、舞台の筋書きを狂わせる良い道化となると思ったが……」
 傲慢にして不遜なその言葉。
「何の価値も無くなった小娘一人を残して逝ったな。少々、興醒めだ」
 キャスターの<死>を軽視するその言葉。
「―――犬死に等しい」
「……ふざけるな」
 それがどうしようもなく癇に障った。
「ん?」
 全員が、はっきりと感じ取れるほど感情の篭もった声を聞いて視線をその一点に集中させた。
 打ちのめされた体と心を投げ打っていた士郎が、その拳を硬く握り締めて立ち上がっていた。俯かせた顔から表情は見えないが、彼の発する気配から感じ取れる。それははっきりと―――怒り。
「ふざけるなよ、お前……」
「何だ貴様。雑種の分際で王たる我に話しかけるか」
 明らかに不服と不機嫌さを露にするギルガメッシュ。心臓を射抜く槍のような眼光を叩きつけられ、しかし士郎は内に燃え上がった黒い炎でそれを凌駕した。
「キャスターが、道化だって……?」
 いろいろな事があまりに短い時間の中で起こり過ぎて、頭はぐちゃぐちゃ混沌としている。この手を擦り抜けて行った多くのモノに対する悲しみと、あの時「何か行動していれば」という後悔と、同時に「もう何もするな」という己への無力感が交互に襲ってくる。
 もう何が正しくて何が間違っているのかわからない。
「犬死だって……っ?」
 だが、はっきりと言える事がまだ一つだけ在る。
 それは、今目の前で桜を助けて消えていったキャスターの<死>を誰かが笑うというのなら、それを絶対に許すわけにはいかないという事だ。
「ふざけんじゃねえっ!!」
「シロウ……」
「ほう、雑種の分際で我に逆らうとは」
 初めてギルガメッシュの瞳に士郎が映し出された。氷のような殺気が肌を突き刺し、血液を凍らせる。それでも退かない。
「士郎、熱くなっちゃ駄目よ。アイツが何者かは分からない。でも並の相手じゃない事は確か」
 ダンテと士郎に加えて味方陣営にサーヴァントが2人もいるが、凛は決して強気にはなれなかった。目の前に立つアレからはバーサーカー以上の底の知れなさが感じ取れる。ここにいるメンバー全員でかかっても倒せるかは分からない、嫌な予感が頭を離れなかった。
 しかし、その凛の声さえ届いていないかのように、士郎は肩を怒らせ、セイバー達の前に進み出た。
 引き止めようとするセイバーの腕を無意識に強く振り払う。それは士郎が初めて見せた、はっきりとした拒絶。
 頭の中は真っ赤に燃え滾っていた。
「キャスターはお前の為に死んだんじゃない!」
「何を言っている。この世にある物は全て我の所有物だ。人も財も国も、それこそ貴様がどうこう言えるものなど何一つ無い。そんなことも分からんか」
 当然の事を口にしていると言わんばかりの、淀みのない答え。それはいっそ清々しい程に、張り詰めた士郎の理性を断ち切った。
「そう、だからこそ犬死だ。我を楽しませる事も無く、我の為に死ねなかったあの女に意味などないのだ」
 そう言って笑った。キャスターの死を、無意味だと、憐れだと男は一笑に伏した。
「―――そうかよ」


「つまり殺していいんだな、テメエ―――!!」


 頭の中でタガが音を立てて外れる感覚を覚えると同時に、士郎は全力で駆け出していた。
「いけません!」
「バカ、士郎……っ!」
 セイバーの警告と凛の悪態を無視して、赤毛を逆立てた獣が月を背に佇む黄金のサーヴァントへと猛り狂って突進する。
 その時士郎は初めて、戦いの目的や勝算を忘れ去り、ただ目の前の敵を殺す明確で単純な殺意だけを抱えて動いていた。
「投影、開始(トレース・オン)!!」
 絶対唯一の呪文を叫ぶ。既に今夜行った数度の投影魔術によって消耗した魔力の残りでどれだけ出来るのかわからない。だがそれを計算する事も、不安に思う事も忘れた。ただ望み、そして幻想がその手に編みこまれた。
 右手の中に出現したリベリオンを下手に構え、石畳を剣先で削りながら一直線に駆け抜ける。
「うおぁああああああーーーっ!!」
 絶叫にも似た雄叫びと共にギルガメッシュへと飛び掛り、唐竹割りに剣を振り下ろす。唸りを上げて迫る刀身を、赤い瞳がつまらなさそうに見上げる。
「耳元で騒がしいぞ、雑種」
 乾いた金属音。渾身の一撃はギルガメッシュの左手に握られたままになっていた氷の魔剣によって容易く受け止められていた。
 魔剣の放つ冷気がリベリオンを霜で覆い、刀身を伝って士郎の腕まで侵蝕し始めた。凍傷を起こし始める腕の痛みを無視して、士郎は蒸気のように白い息を荒く吐く。刃を噛み合せたまま退く事すらしない。
 堰を切ったように目の前の男に対する憎しみが凍りついた細胞全てに注がれるのを感じる。睨み付ける士郎の眼光を、ギルガメッシュが不快そうに受け止めた。
「気に入らん。疾く死ね」
 何もないギルガメッシュの背後の空間が水面のように波紋を起こし、その中心から生え出るようにして何らかの武器の柄が出現した。
 眼を見開く士郎と凛達の反応を無視して、さも当然の如く柄を握り締め、空間から引き抜く。凄まじい神気を放つ鋼鉄の大槌が姿を現した。
 士郎が持つリベリオンとの対比もそうだが、ギルガメッシュと彼の握った大槌との対比もまた不釣合いなものだった。美しい装飾を纏いながらも、凶悪なまでの巨大さを誇るハンマーがギルガメッシュの片腕に軽々と納まっている。その全身からは圧倒的な神々しさと、ほとばしる紫電が放たれていた。
「雷神の槌(トール)―――っ!」
「神話の武具か!」
 誰もがその武器の存在感に圧倒される中、アーチャーと士郎の声が重なった。一目でその武器の正体を看破した事に、ギルガメッシュは笑みを浮かべる事で賞賛を与えた。
 そのまま血のような視線を士郎に向ける。
「死ぬ気で守るが良い―――」
「……っ!!」
 一際大きな雷のほとばしりと共に、神の大槌が雷鳴を轟かせる。それで士郎は全てを察した。このままでは死ぬ。
 片手で軽々と薙ぎ払われる雷神の槌。鍔迫り合いをしていた剣を翻して両手で支えると、士郎はその軌道上に刀身を割り込ませた。
 轟音と炸裂する白光。剣と激突した瞬間、大槌は蓄えた雷のエネルギーを核爆発のように破裂させた。常識を超えた放電現象の中心で、衝撃と共に後方へ吹き飛ばされる士郎。その手の中で盾となったリベリオンが跡形もなく砕けて消滅していった。
 数瞬前の巻き戻しのように凛達の元へと士郎が戻ってくる。煙を上げながら地面に叩きつけられた士郎の両腕はもう凍り付いてはいなかったが、鋼鉄製の刃を伝播した電撃によって爪が弾け、逆に黒く焼け爛れている。
「くそっ!」
 悪態を付きながら傷を負った事に気付いていないかのように立ち上がる。ギルガメッシュへの萎えぬ敵意を秘めた、何かに追い詰められた士郎の横顔に凛は異常を感じ取った。
「ちょっと、士郎! 落ち着いて……っ」
「止めるな!」
 肩を掴む凛の手を驚くほど容赦なく打ち払って、士郎は自らの傷ついた手のひらに意識を集中させた。
「投影、開始(トレース・オン)……ッ!」
「っこの、バカ! そんな魔力で魔術行使なんてムチャよ!!」
 加熱した魔術回路を更に焼き切るような酷使に気付いた凛が士郎を押さえつける。
「離してくれよ! アイツは……アイツだけは許せないんだっ!!」
「シロウ、どうしたのですかっ!?」
 言葉を受け入れられず、冷静さを失った士郎は暴れて抵抗する。慌ててセイバーが凛と協力して腕を押さえ込み、それでも尚ギルガメッシュに無謀な突撃をせんと暴れる士郎を横目で見てアーチャーが小さく悪態を付いた。
 いい加減、今の状況で構っている暇はないと、アーチャーが当て身の為に拳を握った時。もう一人の鉄砲玉が赤い豪風となって飛び出した。
「今度は俺と遊んでけよ!」
 口の端を引き攣ったように持ち上げ、歯を剥いて壮絶な笑みを刻んだダンテが、その怒りに呼応して雷電を放つアラストルを片手にギルガメッシュへと突撃する。
「ふん、次は悪魔か」
 迫る闇の魔力と殺意の塊を一瞥して、興味なさげに吐き捨てる。無造作に片手を掲げれば、その瞬間ギルガメッシュの背後から無数の種類の剣の柄が出現した。選り取り見取り、無作為に浮かび上がった柄の一本を引き抜き、その手に納めると眼前に迫る斬撃に向けて突き出す。
 鉄槌のように振り下ろされるアラストルの巨大な刀身を、剣としては標準的な両刃の刀身が受け止める。
 太陽剣<グラム> 傍で見ていた士郎は熱に浮かされた頭で瞬時に解析した。その剣もまた『栄光と破滅の剣』と呼ばれる伝説に在る武具だった。
 怒涛の如く振るわれるダンテの剣技を、ギルガメッシュが強引に剣で捌いていく。刀身を痛めつける力任せの受け方は、魔剣グラムの強靭な神秘によって支えられていた。
「ファック!」
 鉄壁の如く一刀も許さない魔剣の防御に、ダンテが汚く悪態を吐く。剣のキレが普段よりも鈍いと感じたが、その原因がアサシンとの戦いで負った傷に在る事を理解できていなかった。彼もまた自覚無く、逆上していた。
 渾身の袈裟斬りを完全に受け止められると同時に、ダンテの苛立ちはピークに達した。コートの下からショットガンを引きずり出し、顔面に向けて引き金を引き絞る。銃口から噴き出す炎と弾丸。しかし、コンマ速く、その進路上に金の手甲に包まれた手のひらが割り込んだ。
「―――っ!」
 凶悪な散弾は放たれたが、遅い。弾丸を左手で包み込んで受け止める。握られた手のひら越しには、ギルガメッシュの不敵な笑みが浮かんでいた。
 指の隙間から硝煙を上げる拳を開き、受け止めた弾丸を無造作に投げ捨てると、剣を手放して再度その手に雷神の槌を握り締めた。武器が出現する位置を選ばない以上、ギルガメッシュはどんな状況、どんな体勢でも素早くあらゆる武器を持ち出す事が出来る。
 ようやく自分が敵の必殺の間合いに入っている事を悟ると、ダンテは一変表情を険しくさせて剣を掲げた。
 猛烈な勢いで薙ぎ払われる大剣と大槌。奇しくも互いに<雷>の力を持つ、似通った二つの重量級武具が正面から激突した。
 稲妻と稲妻が竜の如く噛み合い、吼え、二人の間で発生した電光の炸裂が夜の闇を一瞬にして白に染める。離れた士郎や凛達にさえ、痺れるような電気の感触が伝わる程の人知を超えた放電現象だ。
 二つの同質で異質な力のぶつかり合いは拮抗していた。
「ほう、悪魔の武器か。さすがに我が<蔵>にもない代物だな。なかなかの力だ」
 眼を眩ます電光の嵐の中心で、ギルガメッシュが涼しげな表情のまま、ダンテの持つアラストルの刀身を眺めて呟いた。
「―――しかし、どうやら我の持つ神具の方が少々格が上だったようだな」
「何っ!?」
 ギルガメッシュの言葉を証明するように、雷神トールの使っていたと言われる神の大槌がその真価を発揮する。槌の放つ雷撃が徐々にアラストルの放つ雷を侵蝕し始めた。蛇の如くうねり、紫電を飲み込んで刀身に絡みつく。
 そしてついに、金属質な乾いた音が響いてアラストルの刀身に僅かな亀裂が走った。
「ぐぁ……っ!!」
 瞬間、ダンテは頭の中に直接響く悲鳴を聞いたような気がした。魔剣アラストルは悪魔の魂が変化した剣、決して幻聴などでないだろう。それは正しくアラストルが苦痛に悶える叫びだった。
 そして、その一瞬の怯みが拮抗した力のバランスを崩壊させた。一気に押し寄せる雷撃がダンテの体に容赦なく襲い掛かり、振り抜かれた大槌の衝撃を腹に受けて骨の砕ける音を聞きながら後方に吹き飛んだ。奇しくも士郎と同じように。
「アイツ、強いなんてもんじゃない……っ!」
 飛んできたボロボロのダンテを傍らのアーチャーが受け止めて、凛は視線の先で平然と佇む黄金のサーヴァントに戦慄した。
 正体の謎や、幾つもの宝具を無尽蔵に扱う特性もそうだが、何より驚くべきはその単純な戦闘力の高さ。互いに本調子ではないとは言え、士郎とダンテの二人を赤子のようにあしらってしまったのだ。
 不測の事態の中で得られた情報は全てが絶望的なモノばかりだった。
「まずいわね。何者か知らないけど、あれだけの宝具を扱えるなんて反則もいいトコだわ」
 魔力の残存量と手元の宝石の数を確認しながら、この窮地を如何にして脱出するか考えを巡らせる。相手との交渉も考慮に入れて、今出来る範囲で最適の手を探す。
 背後に横たわる桜の息吹。今、ここでやられてしまうわけにはいかないのだ。例え地を這ってでも生きて帰る。
 そんな凛の悲壮な覚悟と苦悩も知らない男が二人、ボロボロの体を引き摺って夢遊病者のように前に進み出た。
「士郎! ダンテ!?」
 眩暈を起こしそうな流血の中で、ただ眼だけはギラギラと敵意を燃やして二人一緒にギルガメッシュを睨みつける。
「こんなもんじゃ、死なないね……!」
「へっ、ラスベガスまで吹き飛ばしてやるぜ! 金メッキ野郎!」
 ダンテが亀裂の走った剣を構え、士郎が魔術行使の為にボロボロの魔術回路を稼動させ始める。凛とセイバーの制止の声など耳にも入っていない。
 アーチャーとセイバーがギルガメッシュに対する警戒を解けない代わりに、凛が士郎の腕を掴んで外部から強制的に魔力を打ち消した。魔力が枯渇した状態での魔術行使は命に関わるものだ。
「遠坂、邪魔するな!」
「あぁー、うるさいっ! 頭を冷やしなさい、この馬鹿っ!!」
 食って掛かる士郎の腕を捻り上げて、強烈なボディブローを叩き込む。怪我人に鞭ならぬハンマーを打ち込むような容赦のない一撃に、士郎は悲鳴すら漏らせずに一瞬意識を飛ばしかけた。胃液を撒き散らして倒れ込む。
 その惨状には冷めた眼で傍観していたアーチャーも顔を顰めた。
「リン、やりすぎです」
「セイバーもうるさいっ! そうやって甘やかすから、コイツがつけ上がって馬鹿やるんでしょうが!!」
 状況が状況だけにキツクは言えず、おずおずと申告するセイバーを凛は切り捨てた。「甘やかしてなど……」と一人落ち込むセイバーを尻目に、凛は腹を押さえて蹲る士郎の胸倉を掴み上げ、厳しい視線でその瞳を覗き込んだ。
「士郎、アンタは引っ込んでなさい。今のアンタじゃ無駄に死ぬだけよ」
 血の上った頭を凍りつかせるように、冷たい声で凛が平坦に告げる。
「俺は、キャスターの仇を……」
「そんな事、キャスターが望んでると思ってるの?」
「キャスターが死んだのは俺の『尻拭い』をしたせいだっ!!」
 二人の温度は正反対だった。苦々しく叫び散らす士郎を凛の冷めた視線が冷静に観察している。
「キャスターが何を望んでるのか、望んでいたのかなんて俺には分からないさ! 俺の行動が結果的に彼女を殺した。俺はもう何もするべきじゃないのかもしれない! だけど、俺は……俺は何か、何でもいいから彼女の死に報いたいんだ!!」
「―――だとしたら、ますます見当違いよ。アンタはこれまでで一番馬鹿をやってる」
 それは静かな声だった。
「それで満足するのは自分だけでしょ」
 凛の言葉はそれまで士郎を支えていた胸の内の業火を一瞬にして鎮火させてしまった。冷や水をぶっ掛けられたように頭の熱が冷め、濁っていた視界がクリアになる。同時に体中から力が抜け落ち、凛が手を離すと士郎はその場に力無く尻餅をついた。
「何の意味も結果も残さない、アンタのそれはただの自棄よ。キャスターじゃない、『士郎』が望んでるだけ。気の済むまで暴れて、自分を傷つけて、後は『何もない』」
 一語一句、全てが今の士郎を叩きのめした。凛はもう一度殴る代わりに威圧するような鋭い眼光を叩きつけて、背を向けると、ギルガメッシュと対峙するアーチャーとセイバーの一歩手前に足を踏み込んだ。
「もう一度言うわよ。士郎は下がってなさい。今のアンタじゃ役に立たない」
「ああ、そうだ。坊やは引っ込んでな」
 凛は背を向けながら少し優しく繰り返したが、その台詞に割り込むように歩み出たもう一人の鉄砲玉の存在に、凛はこめかみをひくつかせた。
「あのクソ野郎には俺が一撃くれてやる」
「―――人の話を、聞けぇ!!」
 ダンテは頭の中でアドレナリンが垂れ流しになったままの笑みを浮かべて、当然のように凛の傍を横切ろうとしたが、次の瞬間振り返り様唸りを上げて放たれたシャイニングウィザードがゴム鞠のように彼を元の位置に叩き返した。
 頬にめり込む衝撃に意識を薄れさせながら、ダンテは何故か懐かしい感覚を覚えた。
「アンタにも言ってんのよ、この単細胞! 今、この状況で必要なものは『そんなモノ』じゃない。私達が今しなきゃいけない事は、この場を全員で生き残ることでしょうが!!」
 凛が苛立ったように吐き捨てたが、血反吐を吐きながら昏倒したダンテにはもう言葉は届いていなかった。母親にこっ酷く叱られた子供のように、すっかり静かになった二人を一瞥して大きく鼻を鳴らすと、凛は改めて敵と向き直る。
「あの金ぴかの相手は私たちでする…………何よ?」
「いえ、別に」
「なんでもない」
 訝しげな表情を浮かべる凛に対して、視線を向けていたセイバーとアーチャーは何処か恐縮するように眼を逸らした。
 アーチャーがもはや見慣れた二本の湾刀を、セイバーが吹き荒れる嵐を刃に変えた不可視の剣を構える。パチンッと自身の意識を切り替えるスイッチのように凛が軽快に指を鳴らした。
「待たせたわね」
「何、気にするな。なかなかおもしろい喜劇を見せてもらったぞ」
 小馬鹿にしたの笑みを浮かべて、凛の言葉に答える。それは酷くぞんざいな態度で、彼の意識がほとんどセイバー以外の存在を無視している事を示していた。眼中にないのだ。
(喜劇ね……)
 ギルガメッシュの態度に外面は無反応を示しながら、内心凛は怒りを抱いていた。目の前の巨大な存在にとって、キャスターの消滅も士郎の苦悩も取るに足らない喜劇に過ぎないという事らしい。
 彼がどう受け止めようと構わないし、実際に士郎が馬鹿をやってる事は認める。相手の反応にいちいち腹を立ててもしょうがない。この切羽詰った状況で、感情を割くだけ無駄だ。だがそれでも―――。
「……ムカつく野郎」
 凛は嫌悪と共に吐き捨てた。
 士郎の想いも、ダンテの苦しみも、何も知らないで笑うアイツが気に食わない。
 抜き撃ちのように振り被られた右手の中には、今持つ中で最高の魔力を込めた宝石。出し惜しみする場面ではない。凛は詠唱と共に解き放つ。


「よかろう、戯れだ。せいぜい足掻いて見せよ、雑種共―――!」





 凛が魔術を放つ発光と同時にアーチャーは駆け出していた。魔弾の軌跡を追うようにして疾走する。
 放たれた赤熱の魔力弾がギルガメッシュの体を包み込む、その直前。全ての魔力が正確に来た道を戻るように弾け飛んだ。寸前で進路を阻むように出現した鏡の盾による反射だった。
「セイバー、頼む!」
 魔弾の軌道を沿うように走っていたアーチャーは、跳ね返ってきた破壊の光を飛び越えるように避けて、そのまま振り返らずにギルガメッシュへ斬り掛かった。魔力弾とすれ違い様、後方に向けて鋭く叫ぶ。
 その言葉に応えて、セイバーは飛来する魔力弾と放った凛の間に割り込んだ。セイバーの纏う絶対的な対魔力が魔力弾をただのそよ風にまで無力化する。小さな背に守られながら、凛は自分の攻撃が目晦ましにもならなかった事に悪態を吐いた。
 消えていく光の向こうで、火花と共に剣戟の音が響き渡る。
 アーチャーの双剣と、ギルガメッシュがいつの間にか手にした、また新しい宝剣が高速で激突を繰り広げる。奇しくも互いに<アーチャー>のクラスでありながら、磨き抜かれた凡才の剣技と強力な神秘を秘めた斬撃によって展開する激しい接近戦。
 そこに更なる一押しを加えるべく、セイバーが踏み込もうとして―――凛の手がそれを遮った。
「リン?」
「セイバーは控えてて」
「正気ですか? アナタがアーチャーを信頼しているのは分かりますが、あの男の力は底が知れない。一対一の正攻法で挑める相手ではありません」
「そんな事、わかってるわよ……」
 視界の中で弾ける鋼の火花を見つめ、凛は苦々しく答える。
 見たところ、敵の剣技は実戦を経て磨かれた鋭いものだったが、決してアーチャーのようにただそれだけを極限まで突き詰めた<業>に昇華された程のものではない。だが一方で、二人の持つ<エモノ>には歴然とした差が在る。
「でもセイバーは色んな意味で、こっちの切り札なのよ。あの金ぴかは得体が知れないけど、セイバーに執着している事は確か。それは以外は眼中にない。アイツにはアーチャーを『侮って』もらわなきゃいけない」
 数度打ち合っただけで、アーチャーの双剣がギルガメッシュの名も知らぬ宝剣の纏う神秘に圧倒されて砕かれた。消滅していく剣の破片が散る中、本来ならば戦いは其処で決着だ。
 しかし、アーチャーはかつてランサーと戦った時と同じように、空になった手にいつの間にか全く同じ剣を握り、間断なく嵐のように斬りかかっていた。
 英霊にとって唯一無二の宝具を使い捨てる。その異常ゆえに拮抗する剣戟。
 アーチャーにはマスターである凛にも把握できない謎がある。しかし今は、その彼の引き出しの中に、あの黄金のサーヴァントに対抗できる手が隠されている事を期待するしかなかった。
「情けないけど、嫌な予感が止まらないのよ。『アイツ』には本気を出させちゃいけない。油断を突いて一気に決めるしかないわ」
 苦渋を滲ませた表情で告げる凛の心情を察し、セイバーは異議を唱えずに無言で頷いた。騎士の志には反するが、あの黄金のサーヴァントだけは例外だった。凛の言った通り、今優先すべきはこの場を全員で生き残る事だ。
「セイバーにはいざって時に宝具を使ってもらわなきゃいけない。どんな宝具か知らないけど、今の魔力量じゃ無駄使いは厳しいでしょ?」
「……気付いていましたか」
「召還されてこっち、セイバーの使う魔力の量は毎度半端じゃなかったからね。身に覚えあるのよ、その消費癖」
 そう言って苦笑する年若い魔術師の横顔を見据えながら、セイバーは静かに感嘆した。大した物だ。その優れた判断力、冷静さ。全てが信頼に足る。
 いずれ敵となるマスターである凛とこうして肩を並べて戦う事に、セイバーはもう違和感を覚えなくなっていた。
 一際大きな火花と金属音と共に、アーチャーの握っていた黒い短剣が夜空を舞った。黒い刀身が闇に飲み込まれるように消え、石畳とぶつかって暗闇の中の何処かで乾いた音を立てる。しかし、もう一方の剣を振り終えた次の瞬間には、再び新しい黒刀が握られていた。
 ギルガメッシュが小さく舌打ちする。先ほどから、アーチャーの振るう剣をあるいは砕き、あるいは弾き、失わせているが白と黒の二重奏のような剣戟は一時も途切れない。同じ事の繰り返しだ。
「いい加減、鬱陶しいわ。だが見抜いたぞ、そのカラクリ。貴様、贋作者(フェイカー)か!」
 贋作者。ギルガメッシュの嫌悪を込めた叫びは凛達にも聞こえたが、その言葉が何を意味するのかわからなかった。ただアーチャーだけが、その言葉に普段の皮肉を込めた笑みを浮かべる。
「いかにも。さすがは<英雄王>」
 呟き、アーチャーは詠唱する。
 ―――鶴翼、欠落ヲ不ラズ(しんぎ むけつにしてばんじゃく)
「ほう、我の真名を見抜いたな」
 ―――心技、泰山ニ至リ(ちから やまをぬき)
「私はお前も知らないモノを見、知らないモノを知っている」
 ―――心技、黄河ヲ渡ル(つるぎ みずをわかつ)
「そして、お前にもう少し私に注意を払う謙虚さが在れば、自らの陥っている状況に気付いていただろう」
 ―――唯名、別天ニ納メ(せいめい りきゅうにとどき)
「……何?」
 ガギンッとこれまでとは違った力任せの一撃が振るわれ、ギルガメッシュが掲げた刀身に叩きつけられた黒刀の方が衝撃に耐え切れず砕け散った。過剰な魔力を籠めた激突は己の武器を犠牲にしながらも、一瞬相手を圧倒する。その隙、金属が悲鳴を上げる音と共にアーチャーは間合いを離すように後退した。
「包囲は既に完了している。―――両雄、共ニ命ヲ別ツ(われら ともにてんをいだかず)……!!」
 それは詠唱であると共に詩の様でもあった。言葉を紡ぎ終えるのと同時に、アーチャーが残された白い湾刀を目前に掲げる。そして、まるでその白い刀身に呼び寄せられるようにして、ギルガメッシュの周囲の闇に沈んだ剣の全てが飛来した。
 陰陽一対の夫婦剣<干将・莫耶> 夫婦剣という特性が互いを引き合わせる。
 ギルガメッシュのミスは、この特性と、砕かれずに弾かれた剣の全てが陰の黒刀である事、そしてそれら全てが同質の剣である為アーチャーの手に残った一本の陽剣に全ての陰剣が引き寄せられるという事実に気付けなかった事だった。
 前方以外のあらゆる方向から飛来する風切り音。漆黒の刀身は闇に紛れ、例え視界に捉えても見極める事は難しい。駄目押しとばかりに目の前のアーチャーが手に残った白刀を鋭く投擲する。
 ギルガメッシュは舌打ち一つすると、両腕を掲げて耐える姿勢を取った。回避する暇はなかったが、彼の体は黄金の甲冑に包まれている。飛来する剣の威力は決して高くはなく、この鎧を砕く程の神秘は秘められていない。
 しかし―――。


「壊れよ幻想(ブロークンファンタズム)」


 激突する直前で、全ての剣が爆発した。
 連鎖的な爆発があっという間にギルガメッシュを包み込む。石畳の破片を巻き上げて荒れ狂う爆煙の中へ、更にアーチャーは最強の矢を番えて弓を引き絞った。


「―――偽・螺旋剣(カラドボルク)」


 捻れ狂った剣が恐るべき魔力を乗せて突撃する。螺旋状に煙を切り裂き、一瞬で爆心地に到達すると、その瞬間自らが新たな爆光となって弾けた。
 壊れていく幻想。干将・莫耶の爆発とは比べものにならない、溢れ出す業火の牙を剥き、爆発の咆哮が周囲に響き渡った。
「……ウソ」
 凛でさえ予想だにしなかった結果に、彼女は半ば呆然としながら炎を眺める己の従者の赤い背中を見つめていた。傍らのセイバーも驚愕に眼を見開いている。
「倒したのですか、あの男を……?」
「信じられない……」
 緩やかな夜風に乗って、一帯を覆っていた黒煙が晴れていく。あの<矢>の威力はバーサーカーとの戦いの時で実証済みだ。ヘラクレスのゴッドハンドを破る宝具級の破壊力。まともに受けては跡形すら残らない。
 決して油断などするつもりはなかったが、絶対の不安を抱いた強敵を打破したという安心感を隠す事は出来なかった。凛は爆心地を見据えて微動だにしないアーチャーの背中に声をかけようと、足を一歩踏み出し―――。
「凛、すまない。しくじった」
 初めて、自分の従者の恐々とした声を聞いた。
 煙が晴れていく。それはまるで、これから舞台を始める幕のようにゆっくりと左右に開いていく。
 その中から現れるのは、黄金の輝き。世界の王の如き威厳と力を備え、今更に灼熱のような赤い怒りを瞳に宿らせた鬼神の姿だった。
「貴様ぁ……っ」
 ギルガメッシュの顔からは余裕の色が消え、それを塗り潰して恐ろしいほどの殺意と憎悪が現れていた。
 彼を守っていた黄金の鎧は所々大きく陥没し、極上の美術品から今や見るも無残なスクラップの寸前にまで変わり果てていた。爆発のダメージは確実に甲冑の内部にまで浸透し、刻まれた亀裂や鎧の隙間から血が行く筋も流れ出ている。
 だがそれでも、彼は初めて対峙した時と同じ仁王立ちでその場に陣取り、傷を受けながら不倒の塔の如く揺るぎはしなかった。
 その姿に、どうしようもない畏怖を感じる。凛達の目に映る彼は確かに<不屈の王>だった。
「貴様が砕いた我の鎧と盾の代償、高く付くぞ」
 苦々しく吐き捨てながら、ギルガメッシュは右手に持っていた『取っ手』を放り投げた。その取っ手の部分とそこに付属した板のような鉄片から、それは原型を留めぬほど破壊されていたが、かろうじて『盾であった物』と判別できた。
 ただ一人、鷹の眼を持つアーチャーだけが状況を理解していた。あの干将莫耶が直撃する瞬間、ギルガメッシュは防御を解き、本命である次弾が来る事を見抜いて盾を引き出したのだ。咄嗟の直感力とそれを疑いもせず行動する絶対の自信。それが必殺の一撃を凌いで見せた。
 敵への戦慄と畏怖を鉄面皮で覆い隠して、アーチャーは対峙する。それは奇しくも、尊大に聳え立つ黄金の塔に対して、愚直ながらも佇む鋼の塔のように。
「―――そして、我に傷をつけた事は万死に値する」
 ギルガメッシュが空間に手を伸ばした。何もない空間へと右腕が吸い込まれ、すぐにまた戻される。引き抜かれた右手の先には、奇妙な武器が握られていた。
 円筒を三つ重ね合わせたようなその形。柄を持つそれは剣と言えばそうかもしれない。刃が無く、先端にかろうじて武器と機能しそうな穂先を備えたそれは槍と言えばそうかもしれない。 
 だが、明確にそれが『何だ』と聞かれたら、その場の誰にも分からなかった。
「何、アレ……?」
 凛が、ゆっくりとギルガメッシュの頭上に浮かび上がるその奇怪な<器物>を見て呟いた。疑問の声は何故か掠れている。まるで本能が何よりもアレの恐ろしさを知っているかのように。
「この剣はこの世界が創作された時に一緒に存在していたものでな。我にも名前は分からぬ。我は<エア>と呼んでいるがな」
 三つの円筒が回転を始めた。最初はゆっくりと、そして少しずつ速度を速めていく。
「凛、セイバー! 私の後ろにつけっ!!」
 声を荒げ、アーチャーが凛達を庇える位置にまで飛び退いた。これまでずっと鉄のように動かなかった彼の横顔が、初めて焦りと恐怖に歪んでいる。
 それは確信を得た顔だった。周囲の空気を巻き込み、急速に風を収束させていくあの恐るべき<魔剣>の威力に対しての。
 既に<エア>の起こす風は小規模な嵐にまで達していた。螺旋状に空間が撹拌され、ギルガメッシュとエアを中心とした全てを巻き込んで荒れ狂う。
 凛は吹き飛ばされそうな桜の体に必死でしがみ付き、気丈にも嵐の中心を睨み付けた。かつてない、馬鹿げた魔力の収束を感じる。巨大なミサイルの発射台の前に立っても、これ程の恐怖と威圧感は感じまい。セイバーでさえ、顔を強張らせて豪風の中士郎とダンテの体を支えているだけで精一杯だ。
「凛、援護を頼む」
 その中で、ただ一人。彼女の見慣れた、鋼のような赤い背中だけが微動だにせず佇んでいた。
「アーチャー……っ!」
「心配するな、凛」
 今にも破裂しそうな魔力の嵐を前にして、アーチャーは肩越しに微笑んで見せた。
「この身は君を守る剣となり、盾となる―――鋼だ」
 それは酷く場違いな、優しい笑顔だった。
 一歩も退かず佇むアーチャー。その目前で、一際巨大な嵐のうねりが起こり、魔獣の咆哮を上げた。
「丁度良い、セイバー以外のゴミは此処で一掃してくれる。失せよ!」
「アーチャーッ!!」
 ギルガメッシュがその<剣>を振るう。


「天地乖離す(エヌマ)――――」


 全ての風が逆流し、暴走し、ついに最悪の暴君がこの世に解き放たれる。その大きく開いた風の顎が全てを破壊しながら迫る世紀末の光景を前にして、アーチャーは静かに唱えた。
「―――I am the bone of my sword(体は剣で出来ている)……」


「開闢の星(エリシュ)――――!!」


 世界すら切り裂く螺旋の風。何者も阻めぬ、その<絶対>を前にしてアーチャーが手を掲げる。迫る刃に全身を引き千切られそうになりながら、それでも一歩も退きはしない。
 カッと眼を見開き、裂帛の気合いを込めて吼える。


「熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)―――ッッ!!!」


 世界を裂く暴君の風を阻むように、光り輝く薄紅色の花弁が広がった。敵の攻撃を防ぐ防御とするには、あまりに美しく儚い七枚の花弁は、しかし確かに<盾>だった。
 かのトロイ戦争で用いられた英雄アイアスの盾が、迫る嵐を抑える。一瞬で塵と化す筈だったアーチャーの身体は、二つの力の激突の最中でまだ五体満足生き残っていた。しかし―――。
「ぬぅおおおおおおおおっ!!!」
 普段の涼しげな表情など微塵も失くし、形振り構わずアーチャーが雄叫びを上げる。掲げた手の先に迫る、世界を切り裂く刃を受け止める。それがどれ程馬鹿げた事か計り知れない。
 しかし、アーチャーの決死の力と覚悟を持ってしても、<エア>の力を受け止め切る事など絵空事だった。
 文字通り、嵐に蹂躙される花のように、アーチャー達を守る七枚の花弁が一枚ずつ砕けて消滅していく。どれだけの魔力を注ぎ込んでも、それが徒労だと思えるように風の牙が盾を削り取っていった。
 あっという間に二枚の花弁が消滅する。もはや彼らを守るのは残された五枚の花弁のみ。
 その時。
「アーチャー、『守って』!!」
 唸りを上げる暴風に負けじと凛が叫んだ。その手に刻まれた令呪が発光して、一つ消滅する。
 瞬間、凶暴な風の牙を前に淡い光を放っていた四枚の花弁が一変して凶暴な発光を起こした。燃え上がるような赤い輝きが盾を包み込み、エアの力に対抗する。
 令呪は瞬間的な命令には強力な効果を発揮する。これが、今の凛に出来る最大の援護だった。
 放たれた瞬間、その先に在るものは世界でさえ切り裂く<エア>の力に、アーチャーの盾は尚も食い下がる。
 激突する二つの力の結末。
「……っ駄目だ、これではもたない!」
 セイバーの絶望を滲ませた叫び。その目の前で、守りの花弁がまた一枚散っていった。





 ほとんど目も開けていられないほどの突風が押し寄せてくる。アーチャーの盾の庇護下でありながら、士郎は嵐に怯える子供のように、その場で蹲って耐える事しか出来なかった。
 また一枚、荒れ狂う風の牙の前に散り行く花弁。それでも逃げることなく、いや、こうなってはもはや逃げられないからこそ最後の一枚が散るまで立ち尽くす赤い外套の弓兵の背中が、かろうじて開いた視界の中に見える。
 それがどうしようもなく悔しかった。
 この絶望的な状況で、諦めもせず、恐れもせず、ただ鋼の如く佇むその背中がどうしようもなく遠くて、士郎は震える手を伸ばす。嵐の中、魔力を消費し尽くして衰弱した体には、もはや残された力など無い。遠い背中と、そこに届かない自分の無力な腕が本当にどうしようもなく恨めしかった。
 凛の令呪の支援も虚しく、とうとう五枚目の花弁が消滅する。エアの猛攻も永遠に続くわけではないだろうが、このペースでは敵の攻撃が収まる前に盾は消滅し、次の瞬間には自分達がこの世から消え去る。
 足掻かなければ。抵抗しなければ。心の奥底に闘志が宿る。しかしそれは、これまで士郎を打ちのめしてきた多くの現実と、たった今も無力な自分の腕を見る事によってあっという間に形を失くしていった。
 何をしようというんだ。俺は何も出来ない、何も守れやしない。
 己への失望と絶望が体の力を根こそぎ奪っていく。そうやってただ蹲っている中で、不意に自分を支えていたセイバーの手の感触が無くなった。
 見上げた視線の先で、一歩前に進み出たセイバーが不可視の剣に魔力を集中させていた。
「セイバー?」
「シロウ、このままではもちません。宝具を使用して、あの剣を相殺します」
「それは……」
 何かを決意したセイバーの表情。その言葉の意味をはっきりと理解し、士郎は息を呑んだ。
 セイバーが宝具を使う。それがどういう結果を生むのか、はっきりとは分からない。士郎はセイバーの宝具を知らないのだ。しかし、ただ一つハッキリしている事は、放ったセイバー本人もただでは済まないという事だ。
 召還されてこっち、マスターである士郎からの魔力供給が全くないセイバーの体にどれ程の魔力が残されているのかは分からない。しかし莫大な魔力を備蓄できるセイバーをして『決して燃費の良い宝具ではない』と言う彼女の宝具が大量の魔力の喰うのは想像に難くなかった。それこそ、今のセイバーでは命取りになる程。恐ろしい程の決意を秘めた、彼女の横顔がそれを確信付けている。
「シロウは令呪による援護をお願いします。おそらく、私の宝具は撃てて一回でしょう。相殺するだけでは後が苦しい、何とか少しでもダメージを与えておきたい」
「セイバー……っ!」
 その悲壮な覚悟を聞いて、「やめろ」と叫びたかった。だが、その言葉がこの状況でどれ程無責任かを考えてしまい、結局喉の途中で飲み込んだ。止めて、どうする。奇跡を祈れとでも言うのか。自分の口が意に逆らうかのように、動いてくれない。
 何かをしなければいけないのに、このままではセイバーが犠牲になってしまうのに、何も出来ない。剣を構えるセイバーの小さな背中を、悔し涙で滲んだ目で見つめて、士郎は歯を砕けんばかりに食い縛る。
「―――待ちな」
 その時、いつの間に眼を覚ましたのか、嵐の中で立ち上がったダンテが士郎の代わりにセイバーを引き止めた。セイバーの小さな肩を掴み、空いた手で顎を擦っている。
「畜生、不覚にもマジで一瞬眠ってたぜ。とんでもねえ女だ。おふくろだって顎を蹴り飛ばすなんてしなかったぞ」
 軽口を叩いているが、ダンテが心身共に疲労の極みにある事は明白だった。アサシンとの戦いで負った瀕死の傷は未だ完全には癒えておらず、何より血を流しすぎた。人間である凛の蹴り一発で気絶してしまった事が、彼の体力の低下を示している。表に出してはいないが、パートナーのキャスターを失ったショックを最も受けているのもダンテに違いなかった。
 ダンテは嵐の中、アラストルを支えにして立ち上がった。その剣もまた刀身に走った亀裂が目立つ、満身創痍の状態だ。
 それでも立つ。
 その姿を見て、自分だけが膝を着いていられるのか。士郎は拳を握り締めた。それは思いの外強く、わずかだが力が戻ったのを感じる。
「何を止めるのですか、ダンテ? もう一刻の猶予もありません!」
「なぁに、命張るなら一人でやるより三人の方が分が良いと思ってね」
 構えは解かず、肩越しに尋ねるセイバーにもダンテは飄々として答える。その瞳には疲れ果てた体とは対照的に燃え上がる闘志が宿っていた。
「何を考えているんですか!?」
「ママにケツを叩かれていじけたままじゃいられないぜ。女が体張ってるのに、ベッドに潜り込んでガタガタ震えてるのは主義じゃないのさ」
 ダンテが膝をついた士郎を見下ろした。士郎の答えを尋ねるように。まるで『お祈りはすんだか、ヘタレ野郎?』と語っているように見える。少なくとも士郎はもう一人の自分がそう言う声を確かに聞いた。
「お互い情けない姿を晒した身だ、形振り構うのは止めようぜ。今度はキャスターに蹴られちまう」
 酒場で共に飲み明かす仲間に向けるようにダンテはにやにや笑っていた。この状況でそんな風に笑える彼の神経を疑ったが、どうやら自分の精神も疑う必要があるようだ。士郎もほんの少しだが、引き攣った笑みを浮かべていた。
 人間、追い詰められると笑うしかなくなるのだろうか。状況が状況だけに満面の笑顔などは出来なかったが、二人の目には笑みが浮かび、これから死ぬまで共有する事になるだろう『女にケツを蹴られた』ささやかな秘密を分かち合った。
「……ああ、そうだな」
 そうだとも。
 士郎は立ち上がった。相変わらず、この絶望的な状況下でちっぽけな自分に出来る事が何なのかは全く分からなかったが、少なくとも自分に絶望する事だけはやめた。今限られている、自分に出来る事を死ぬ気でやるしかないのだ。
 ダンテはそうするつもりだ。なら自分だけ蹲って震えている事など出来ない。
 自分には力がない。だが、意地がある。
「シロウ、アナタまで……っ!」
「……意地があるんだよな、男の子には」
 立ち上がった二人の男。ボロボロで、余力など無い。それでも、二人の目にはギラギラとした輝きが宿っているのを見て、セイバーは息を呑んだ。
「OK、議論してる時間はない。話を聞け」
 視界の端で六枚目の花弁が散り、ついに彼らを守るアイアスの盾が残り一枚になったのを見て、ダンテは早口に告げた。
「あの剣を止めるのは俺がやるが、それだと片道切符だ。だから、シロウ。お前は剣を作れ。俺の剣だ」
「リベリオンだな」
 士郎の言葉にダンテは頷いた。
「ああ、ただし完璧な奴をだ。一撃だけでいい、完全に俺の魔力を発揮できる『本物と寸分違わない』代物を作ってくれ。出来るか?」
「死んでもやるさ」
「死なないでやれ」
 士郎がはっきりと頷くのを確認すると、ダンテは支えにしていた剣を掲げて、セイバーと並ぶようにして荒れ狂う嵐に向かい合った。
「そんなわけで、プロセスの半分までは俺たちがやる。そしてお嬢さんは、俺たちがもう一度すり潰される前にあのラスベガス野郎を火星まで吹き飛ばす。いいか?」
 セイバーはため息をついた。
 異論など山ほど在るが、彼は、そして自分の主はそれを聞き入れはしないだろう。無茶な作戦ではあったが、それはセイバー自身が提案したものも同じだった。
 とにかく、言いたい事は山ほどある。しかし、それは全てが終わってからだ。
「私はお嬢さんではありません。セイバーです」
 結局、セイバーはそれだけ返してダンテに道を譲るように半歩下がった。それが返答だ。
 ダンテが獰猛に歯を剥いて笑う。そこにはもうキャスターを失った悲しみや怒りはない。士郎達が、そしてキャスターが、いつも見ていたあの不敵で不遜な笑みだった。
「花向けってヤツだ、キャスター! 派手にいくぜっ!!」
 そして嵐の中、最後の一枚が砕け散る。


 その瞬間、多くの声が響き、多くの人間が動いた―――。






 刀身に走った亀裂は、魂の亀裂に他ならなかった。その身を剣へと変えた雷の魔霊<アラストル>の体そのものに走った、小さな、しかし致命的な亀裂だ。
 握った柄から両腕を通して、ダンテの頭の中に直接アラストルの悲鳴が聞こえる。ほとばしる紫電が狂ったように喚き散らす。その暴走する力を押さえ込んで、ダンテは剣を叱咤した。
 貴様はそれでも悪魔か。そうやって少女のように泣き喚くのがお前か。腹をくくれよ、一緒に地獄へ行こうぜ―――。
『■■ォ■オオ゛オ■オ■■ォオーーーッ!!!』
 ダンテの雄叫びとアラストルの咆哮が重なり、今一度魔人の力が解放される。その身に雷の魔霊を憑依させたダンテは、迫り来る暴虐の嵐に向かって地を踏み砕いて駆け出した。
 凛を守るように仁王立つアーチャーの横を文字通り暴風となって駆け抜る。蒼白い稲妻を撒き散らし、黒金に覆われた体と獣の牙を剥き出しにして走り抜ける。その横顔には、もはや一片の人間味さえ残っていない。
 プラズマの塊となったダンテと、大気すら断絶する刃が激突した。
 アーチャーが持つ最強の防御を破り、尚その勢いを衰えない世紀末の嵐に向かってダンテが渾身の一撃を叩き付ける。
 性質は違えながら、根本が魔力で形成される雷と風が激しく干渉し合い、大気が甲高い悲鳴を上げて凄まじい発光現象を巻き起こす。真っ白な光の中心で、その光に身を焦がされながらなおも前に進もうとする悪魔の姿があった。
 凛が何かを叫んでいたが、その声はせめぎ合う力の雄叫びに完全に飲み込まれていく。轟音はその場のあらゆる音を支配し、ダンテは自分の上げる狂ったような叫び声にすら気付けなかった。
 嵐の中心を打ち据えたまま、鍔迫り合いをするようにアラストルの刀身がエアの力と拮抗する。ガクガクと震えて剣が安定しない。渾身の力を込めて剣を支えるダンテの両腕は風の刃に切り刻まれ、少しずつ削り取られていく。アサシンから受けた体の傷が開き、骨が砕ける音もリアルに聞こえた。目の前の光に、手の先から体が徐々に飲み込まれていくような感覚を覚える。
 もし、攻撃を防ぎきる前に剣の魔力が尽きたら? 一瞬だけそんな思いが彼の頭を掠めた。そしてすぐにそれを笑った。ここまで来て後の心配か、余裕がある証拠だぜ。自分自身を嘲笑し、ダンテは考える事を止めた。
 刀身がついに金属質な音を立てて、亀裂から砕け始め、破片を撒き散らす。それはアラストルの血肉そのものだ。
 ダンテとアラストル。二人の雄叫びが断末魔のように光の中心で一際高く響き渡り、剣が稲妻そのものになったかのように電光をほとばしらせる。
 そして、次の瞬間。
 ついに魔剣アラストルが粉々に砕け散った―――。






 全員がその様子を凝視する中、士郎はただ静かに自己の中に沈んでいった。
 荒れ狂う風の叫びが、眼を眩ます光が、そして時間さえも消えていく不思議な感覚を味わう。周りには何もない。味方も、敵さえも。だが、それでいい。衛宮士郎が戦うべきは自分自身に他ならないのだから。
 内に向けた全感覚の中で一つだけ外に向けていたモノが、ダンテの持つ魔剣が砕け散る様をスローモーションで捉えた。
 ギルガメッシュの放った強大な暴風を、アラストルの捨て身とも言うべき一撃はある程度相殺していたが、それでもまだこの風の刃を消滅させ、尚且つその先にいるギルガメッシュに手を伸ばすには足りなかった。天地を切り裂く嵐は、このまま先頭のダンテを初めとして射線上の全てを飲み込んでしまう。
 そうはさせない―――。
 剣を作る。今がまさにそうだ。今こそダンテに剣が必要だ。悪魔の為に作られ、悪魔を斬る為に振るわれた、あの<反逆の剣>が必要なのだ。だから作る。剣を失ったダンテに、俺が作ってやる。
 覚醒したばかりの魔術回路を使って、これまで何度も剣を投影し続けてきた。消費した魔力はそう簡単に回復するはずも無く、今の士郎に残された魔力は雀の涙程もない。こんなガス欠の状態で魔術を行使しようなど、無謀を通り越して無駄だ。
 しかし、そんな事は関係ない。<エミヤシロウ>には関係ない。
 この身が行使するものは<魔術>などではない。投影など■■■■の副産物でしかありえない。ならばこの身が行う事は魔力を練る事ではなく、ただイメージする事。本物と寸分違わないイメージを作り上げる事。そしてそれを形にする事だ。
 代価なしで結果を引き出す特異性。それは世界を敵にする。世界の原則を無視する。それをたった一人の人間が行う事が、どれ程馬鹿げた事か計り知れない。
「投影(トレース)……」
 空っぽの魔術回路が灼熱する。消費するものなど、とっくに出し尽くした。『無理だ無理だ』と本能が訴える。魔力の代わりに体の中を丸ごと抉って持っていかれるような痛みと喪失感を覚える。
 構いやしない。この体の何処でも勝手に持っていけ。その代わり、作らせてもらう。たった一本だけでいい、たった一振り耐えられるだけでいい。完璧な剣を構成し、錬鉄する!
「―――投影、開始(トレース・オン)!!」
 そして赤い悪魔の手の中に一本の剣が生み出された―――。






 ギルガメッシュの目の前で全てが終局に向かっていた。
 彼の放った<エア>が世界と共に、射線上に在るモノ全てを切り裂いていく様をただ眺める。立ち塞がった数人の小賢しい雑種達の足掻きがその侵攻を防ぎ、予想以上に威力を相殺していた事が気に入らなかったが、それも結果的には無駄だった。当然だ、これこそが王の中の王が放つ最強の一撃なのだから。
 必死の抵抗で力を出し尽くした、その小賢しい雑種達を消し去るのはエアの余波だけで十分だ。生身の人間はもちろん、高い防御力を持つセイバー以外は全て消滅する。彼にとって重要なモノ以外は全て消し去る事が出来るのだ。結果的に都合がいい。
 エアの侵攻を止めていた盾は消滅し、次に攻撃を受け止めた悪魔の剣も砕け散り、もはや最強の一撃を妨げるものは何もない。激突の光が収まり、ただ荒れ狂う風の刃だけが再び視界を埋め尽くす中でギルガメッシュは勝利の笑みを浮かべていた。
 だが、彼は気付かなかった。
 その身を切り刻む暴風の中、剣と共に砕けた悪魔の両腕に新たな剣が生まれた事を。錬鉄の火花と共に、伝説の魔剣士スパーダが振るい、遠い時代を経て彼の息子へと継承された、魔剣士ダンテの為の大剣が出現した事を―――。
『■■ォ■■ォォオオ■■ォーーーッ!!!』
 嵐を貫き、とうに途絶えたと思っていた悪魔の雄叫びが響き渡った。
「―――なに?」
 エアを放った時から既に勝利を確信し、王者の如く佇んでいたギルガメッシュの顔から笑みが消える。見開いた視線の先、エアの放つ刃の嵐の中から徐々に増大する血のような赤い光が現れた。
 それは炎でも雷でもなく、鋭い矢のように暴虐の風を貫いて奔る。
 アーチャーの力と凛の意思が絶対の一撃の先端を鈍らせ、悪魔の魂を捧げた一撃が勢いを止め、士郎の作り出した剣で道を切り開き―――そして悪魔は来た。
 巨大な刀身に纏った赤い靄のような輝きが軌跡を描き、暴風の壁を切り開く。その中から飛び出したダンテは、その身と同じ爛々とした赤い輝きを目に宿してギルガメッシュに向けて一直線に突撃した。
 嵐を切り裂く赤い閃光となり、自らに迫る悪魔の姿を黄金の王は瞳に焼き付けた。
 それは雷の魔人と炎の魔人、その力のどちらを憑依させたモノとも違う。針金のように逆立った銀髪と、背中から生えた禍々しい翼。硬質化した衣服は外皮となり、全身に亀裂のような赤い魔力の血脈を無数に走らせた、暗黒の生気が脈動するおぞましいその姿。
 それこそが、<魔人ダンテ>の真の姿だった。
 自分の体が自分以外のモノに支配されていくような凶暴な力の蹂躙を感じ、それに突き動かされながらも残された理性を総動員したダンテは、呆然とするギルガメッシュを嘲笑い、中指を立てて突きつけてやる。それがキャスターの死を踏み躙った、この最高に腹の立つ敵に対する最も痛快な反撃だ。
「『して』やったぜ」
 道を切り開く為に振り抜いたリベリオンに再度魔力を込め、大きく振り被る。
 ギルガメッシュはようやくそれを見上げ、憎々しげに睨み付けたがもう全てが間に合わなかった。
「おのれ、雑種が―――っ!」
 振り下ろされた真紅の斬撃が、ギルガメッシュの体を深々と切り裂いた。






ギルガメッシュの口から血が溢れた。自分の身に起こったことを未だ信じられないと言うように、瞳孔の開いた眼で自らの体を見る。甲冑ごと彼の体を切り裂いた剣の痕は肩から胸にかけて斜めに走り、噴き出した血潮が黄金の鎧を真っ赤に染めていた。
 自らの足元に血の池を広げながら、ギルガメッシュはよろめいた。しかし、膝は着かない。ダメージは大きかったが、余力は残っていた。
「馬鹿な……この我が、雑種ども相手に深手を負うだと……っ!」
 呪詛のように呟き、憎悪で塗り潰された眼でギルガメッシュは周囲を一瞥した。霧散したエアの余波を凌ぎ、疲労した凛とアーチャーがそれでも何とか足を踏ん張って立ち、その傍らでは一片の魔力すら絞り尽くした士郎がかろうじて意識を繋いでいる。そしてギルガメッシュの背後では、剣を振り抜いた直後に気絶したダンテが着地を誤り、派手に転倒して横たわっていた。たった一度の役目を終えた剣が傍らで霧のように消滅する。全てを投げ捨てた、文字通り渾身捨て身の一撃だった。
「貴様らぁ……っ! この我にぃ……っ!!」
 普段の優雅な立ち振る舞いなど消え失せ、ギルガメッシュの歯軋りの音が士郎達にまで聞こえてきた。その心には殺意と憎悪しかない。
「殺してやる! 貴様らの四肢を千に刻んでくれるわっ!!」
 裂帛の怒りに呼応するように、ギルガメッシュの背後から彼の軍隊が出現する。百を超える宝具が力尽きたその場の標的全てに狙いを定める。
 怒りに我を忘れたギルガメッシュは気付かなかった。彼がもっとも注意を払うべきサーヴァントの姿が消えている事に。
「―――そこまで。詰みです、<アーチャー>」
 凛と響いた、刃のような鋭い声にその場の全員が動きを止めた。
「セイ、バー……」
 朦朧とする意識の中、どんな結果であろうと最後まで見届けると誓った士郎は抉じ開けた眼で彼女を見据えた。
 ギルガメッシュの死角、士郎達やダンテを巻き込まないよう射線を計算した位置に佇むセイバーと周囲を舞う風。その騎士の手の中には、風の封印から解き放たれた、黄金の光を放つ剣が姿を現していた。
 その雄雄しさ、神々しさ、そして美しさ。初めて見たその剣は、士郎が今まで見た他のどんな宝具よりもその目に焼きついて離れない。
 あれが彼女の剣。選ばれし気高い騎士のみが扱う事を許される伝説の聖剣。
「エクス……カリ、バー……」
 掠れた声で無意識に呟いた士郎の言葉を、肯定するように聖剣が一際大きな輝きを放つ。その光を見たギルガメッシュは、それまでの激情を嘘のように納めてセイバーに視線だけを向けた。わずかでも体を動かせば、彼女は瞬時に剣を振り下ろすだろう。恐ろしい程微妙な拮抗の上に、二人の対峙は成り立っている。
「それが、かの名高き星の鍛えし聖剣か。なるほど、凄まじい力だ。我が<蔵>にも、その剣を受け止める事が出来る防具は存在せんな」
「そうです。最強の一撃を放った以上、もはやアナタにこの一撃を防ぐ手立てはないでしょう。終わりです」
「……そうかな?」
 今にも解き放たれんとする、星の輝きに匹敵する光を前にしてギルガメッシュは微笑を浮かべた。
「それほどの一撃となれば、今のお前にとっても命取りとなるのではないか?」
「……」
「それを放てば我は消滅する。しかし、同時にセイバー、お前も魔力を使い尽くして消えるしかあるまい? それで良いのか?」
「……今更私が、この身を案じるとでも思うか?」
 感情を感じさせないセイバーの冷たい言葉に、ギルガメッシュではなく士郎の方が強く反応した。違う、そんな捨て身をさせる為に自分は命を張ったんじゃない。セイバーを止めようとして、しかし士郎の体は意に反して動かなかった。もう声を出す力すらない。
 一方、固い覚悟を含んだセイバーの言葉を聞き流し、それでもギルガメッシュは笑みを崩さなかった。
「いや。だが聖杯はいいのか? そしてお前が消えた後、主の身はどうする?」
「何……?」
 耳に入った二つの言葉に、セイバーは一瞬動揺した。
「此度の聖杯戦争は根幹から狂い始めている。もはやこの戦い、普通には終わらぬ―――」
「それは、どういう意味か……っ!?」
 不意に、ギルガメッシュの身体の周囲に魔力の波動が巻き起こった。その場の全員に見覚えのある、空間を歪ませる魔力の形成パターンは間違いなく<空間転移>の前兆だ。
「逃げる気っ!?」
「そうだ。貴様らの足掻きを買って、ここは退いてやろう」
 眼を剥いて吼える凛に対し、ギルガメッシュは傷ついた体でこれまでと何ら変わりのない傲慢で不遜な笑みを浮かべて見せた。セイバーから体の影で死角となる左手には、いつの間にか奇妙な形の杖が握られている。空間転移がその宝具の力である事はすぐに分かった。
「く……っ!」
 セイバーが剣に力を込めるが、一度乱された集中力を再び纏め上げるまで僅かなタイムラグがある。既にギルガメッシュの半身は魔力の渦に飲まれ、消失し始めていた。もう間に合わない。
「また日を改めてお前を迎えに行くとしよう、セイバー」
 言葉だけを残して、瞬く間にギルガメッシュは空間ごと消え失せる。その不敵な笑みを睨みつけるように、セイバーは見届けた。
「……終わった、の?」
「そうらしい」
 静寂を取り戻した境内を見回し、半ば疑うように呟く凛の問いにアーチャーがため息と共に相槌を返した。
 周囲は散々たる有り様だった。地面は抉れ、石は軒並み砕かれ、まるで空襲でもあったかのように破壊の爪痕が刻み込まれている。その惨状の中で力なく倒れたままのダンテ。
 失われたモノも多かった。消滅したキャスターと、エアとの激突で砕け散り、同じように破片すら残さず消滅した魔剣アラストル。
 激戦が嘘のように静まり返ったその場で、凛は静けさに痛みを覚えた。沈痛な表情のまま、とりあえずこの場から立ち去る為に、倒れたダンテの様子を見に足を踏み出す。
 その瞬間、背後で士郎が力なく倒れこんだ。
「士郎!?」
 慌てて駆け寄って状態を見れば、完全な魔力切れによる意識の喪失だった。無理を通した結果の、当然の道理だ。
 ほっとしたのも束の間、今度は別の場所でガシャンッという金属的な音が響く。見れば、息を荒くしたセイバーが力尽きて倒れていた。もうその手からは剣は消えている。
「……急激に魔力を消耗した反動だ。宝具の封印を解いた事が原因だろう」
 こちらはアーチャーが診察し、端的に状態を説明する。士郎と似たような答えだった。
 凛は非常に嫌な予感を感じて、口元を引き攣らせた。そしてセイバーを診た直後、アーチャーまでもが「うっ」と軽く唸って膝を着く。こちらも魔力切れらしい。
 唯一、その場で立っていられる凛はギギギッと首を軋ませて辺り一帯の様子を確かめた。ダンテ、士郎、セイバーがノックダウンし、アーチャーも疲労の極みに達している。先ほどの死闘をすやすやと穏やかに寝て過した桜が足元に横たわっていた。
「…………私一人でどうしろっつーのよ、こん畜生ぉー!!」
 つわものどもが夢の跡。凛は夜空に向けて絶叫した。






 影絵のように黒く塗り潰された木々の間を慎二は駆け抜ける。
「はっ、はっ、はあ――はあ―――!」
 荒い息遣いのまま彼は柳洞寺の林を走っていた。山の上に立つ寺からこっち、右も左も分からず、ただ緩やかな傾斜を描く地面の感触から、とにかく下に向かって駆け下りる。
 地面を踏む足音は高く、その歩幅は一定しない。彼は前のめりに倒れそうになる体に引かれるように、ただ前へ前へと進んでいく。突き出た木の枝が何度も彼の肌を叩き、無数の切り傷を作っても、その痛みはそれを上回る体の熱にかき消された。
 ぎょろぎょろと周囲を見回す。夜の闇を落とした木々の間には動くものは見えない。明かりは頭上から差し込む月明かりだけである。
「あ―――はあ……は、あ―――!」
 乱れた吐息と定まらない目視。枯れ木のように震える四肢は逃走者のそれに近い。背後から見えない何かに追い立てられているかのように怯える。
 不意に、その『見えない何か』が具体的な形となって現れた。
 背後から響き渡る凄まじい豪音と眩いばかりの発光を感じて、慎二は血の気を凍らせながら振り向いた。彼の逃げてきた山頂の境内で何かとてつもない事が起こっている。それを確かめようなどと考えはしない。
 嵐のような風の唸りに混じって、恐ろしい獣の叫び声が聞こえた。慎二は恐れ竦みあがり、ついに足をもつれさせてその場に倒れこんだ。
 短い傾斜を二、三回転して無ように転げ落ち、湿った土を口に含む。口に広がる苦い味は、惨めな敗者の味がした。自分は負け犬以外の何者でもない。
「ひぃ、ひ……畜生! 畜生! 畜生っ!!」
 呪詛を撒き散らしながら、地に這いかけていた体を起こす。全てを呪う憎悪と殺意とは裏腹に、彼の体は本能に従っていた。一刻も早くこの場から逃げたい、と。
 食い縛った歯は、憎悪と恐怖の両方を抑えるものだ。慎二は膝の笑う足を叱咤して走り出そうとしたが、その動きは唐突に封じられた。
「ギャハハハッ! そう、その通りだ。しっかり腕振って腰振って逃げろ! ヒーローみたいに立ち向かう必要なんかない、ガタガタ震えて祈ってれば神様がケツに奇跡を突っ込んでくれる!」
 耳に届いたのは、よく聞き慣れた、あの悪魔のような笑い声と泥のように濁った声。
 それは一体いつの間に現れたのか。何処から現れ、何処へ去っていくのかも判らない。慎二がこの闇の坩堝に逃げ込んでくるのを最初から待っていたかのように佇む、奇怪な道化師が一人。
「お、お前は……っ!」
「こんばんわ、可愛い坊や。キスしてやろうか? 安心しろ、舌は入れねえ」
 以前見た時からずっと変わっていない、黄色い歯を剥き出しにした嫌悪感を煽る笑みを刻んでいたが、それに反して面白くもなさそうな声だった。
「な、なんでお前がここに? いや、そんな事はどうでもいい! 早く僕を連れて逃げろよ!!」
 夢中で口を開いた慎二のヒステリックな叫びに、ゴーマー・パイルは侮蔑するような視線を向けた。ピエロを象った派手に衣装に身を包んだ姿は、何故か周囲の闇と同化せんばかりに違和感なく其処に在る。
 暗闇の中に浮かぶ二つの赤い光。その不気味な眼光を正面に捉えて、慎二は思わず竦んだ。
「OK、お嬢ちゃん。パーティージョークはおしまいだ。答えな。お前、こんな所で何犬みたいに這い回ってる? 狂乱と混沌はどうした? 一人でも殺したか?」
「な、何言ってるんだよ……それどころじゃないだろ! やりたいなら一人でやれよ! 僕はあんな奴の所に戻るなんてごめんだっ!!」
「それどころじゃない? おぉい、この腑抜け。口から糞を垂らすのを止めやがれ!」
 ピエロは顔に張り付いた笑みの形のまま怒り狂うという器用な表情を見せた。
「俺はお前にスーパーマンの力をくれてやったが、世界を救えとも世界を滅ぼせとも言ってねえ! 『好きにしろ』だ。てめえの好きなようにやれって言ったんだ! 人殺そうが、女レイプしようが、勝手にしろ!
 ―――だが、ソレすら出来ねえとはどういう事だ? ここまでお膳立てして、自分の欲望すら叶えられねえってのかゲロ野郎!?
 大ミスかましやがって、おまけにこの世界を繋ぐ<裏口>まで塞いじまった! どうなってんだ、てめえ。生まれた時からクズか、それとも努力してこうなったのか!?」
 短い手足をバタつかせ、喚く滑稽な姿は子供の癇癪そのものだったが、パイルの怒りと共に滲み出る殺気は夜の闇を伝播するように広がり、一帯を冷たく覆い尽くす。汚く罵倒されて、慎二の憎悪の矛先は目の前の醜い男に向けられたが、喉が凍り付いてしまったかのように声を出せなかった。
 パイルを中心とした周囲の闇がそれまでと全く違った、異質なものに見える。気がつけば音さえ消えている。慎二は辺りを見回そうとして、唐突に心臓を蝕んだ激痛に胸を押さえた。
「え―――あ、がぁああ……あ……っ?」
 体内を何億という害虫が這い回る感触に、慎二はそれまで忘れていた痛みを思い出した。
「な、ん、だ……体がぁ……爆発、するぅぃぃい゛……っ!?」
「そりゃ変異だ。<契約>の期間が終わったのさ。夢見る時間はおしまい。オモチャの国よ、さようなら。ハロー、ウジ虫地獄」
 自分が倒れた事すら知覚できない。心臓から、末端の眼球に走る血管までの全てが膨れ上がって破裂しそうになる。激痛にのた打ち回る慎二を見下ろして、パイルは生まれたばかりの赤ん坊を見る親のようににたにたと笑っていた。
「何を、し、た……? お前、僕に何をしたんだぁっ!?」
「ナニだって? 悪魔の力を手に出来たのは、てめえが皆勤賞を取ったからか?
 悪魔との契約に使う代価はなんだ? ギャハハハッ、胡散クセエ黒魔術の本にも載ってるだろうが。粗末な魂で豪華なお買い物、後払いで結構だよ」
「た……まし、い……?」
『アナタは、悪魔との<契約>の際に一体何を捧げたの?』
 キャスターの言葉が鮮明に蘇った。絶望と苦痛が体の中で混沌とした渦を巻く。延々と耳鳴りのように響き渡る悪魔の哄笑に、気が狂いそうになった。
 助けを求めて見回した辺り一帯には、真っ黒な闇しかない。自分は何時の間にこんな場所まで来てしまったのだろう? ついさっきか。それとも目の前の悪魔に初めて出会った時から、もう既に足を踏み入れてしまっていたのか。
「だが予想『以下』だったのは、てめえ自身の使えなさに加えて、魔術師でもないてめえの魂は俺が毎朝ケツから捻り出してるヤツとびっくりするほど似てやがるって事だ! 腹の足しにもならねえ!
 だから、代わりに肉体を頂く事にしたのさ。悪魔の受け皿には死体や無機物よりも、生きた肉体の方がより適してる。てめえがどんなカスでも、主は平等に肉の体をお与えになるからな」
 笑いながら説明するパイルの言葉の後半を、慎二はもう聞いていなかった。体中の感覚全てが『痛み』だけに埋め尽くされて、思考さえ掻き消える。
 体の中に潜む無数の『何か』が自分の筋肉から骨格に至るまで、全ての構造を作り変えようと暴れ回っているのがわかった。<自分>が<自分>でなくなってしまう。
 必死に、とにかくこの場ではない何処かへと逃げようと這いずり、腕を伸ばして地面を掴んだ時、視界にソレが映った。
 霧吹きをかけたように血飛沫が舞う。伸ばした腕から、皮膚を突き破って何本もの赤錆びた<釘>が『生えて』きたのだ。
「あ……ひぁあああああっ!?」
 それははっきりと痛みを持ち、突き破った皮膚から血を流した、幻覚ではなく現実だった。自分の体から釘が生えてきている。
 それを機に、体中からぶすぶすと肉を裂く鈍い音のおぞましいコーラスが始まった。慎二の体から皮膚を破って無数の棘とも釘ともつかぬ突起が突き出てくる。それら一つ一つにしっかりとした痛みを伴って。
「ぶ、ぎ―――ぎ、びべぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」
 体中を襲う信じられない怪異と痛みに、慎二は今度こそ発狂した。
 甲高い悲鳴は呪詛に変わり、呪われた咆哮となって夜の闇に飲み込まれていく。
「よせよ、レイプされる少女みたいな叫びだぜ、ギャハッ! 悪魔パワーの豪華特典は<究極の痛み>だ。しっかり呪いと絶望を吐き出しなよ。お前は俺のパーティー用の衣装になるんだ、安物だが我慢してやる。
 グェヘヘヘッ! 考えようによっちゃ幸運だよ、お前。お前はもう何も見なくていいし、聞かなくていい。これから始まる地獄も何もかもな! ギャァッハハァハハハハハハハハーーーッ!!」
 呪いの咆哮と笑い声が狂ったように響き渡って、混ざり合い、地獄の歌を奏でていた。闇の中、揺れる木々が生き物のようにざわめき立てる。
 二人の姿は、その闇の中へと飲み込まれていった。






 ■■■■■は、今もまだあの木の下で横たわっている―――。
 サーヴァントは夢を見る事がない。だから、これは夢などではないのだろう。深い眠りに就く度に、■■■■■の魂はあの時間、あの場所へと戻ってくるのだ。
 木の幹にもたれるように力を失くした体。この命を奪う傷の痛みも、鎧の重さももう感じない。柔らかい地面と木漏れ日が、疲れ果てた体を優しく抱いてくれる。激動の時代を生きた小さな体に、せめて眠りは安らかなものを、と。
 落とした瞼の下、まだ息づいている意識で思う。ああ、またこの場所に戻ってきた。そして、この場所で<世界>に願った事を思い出すのだ。
 その願いは、まだ果たせない。
 眠りの中で眠りに誘われながら、彼女は思う。今日、あるいは<今>より先の未来、消えてしまった彼女の事を。
 キャスター―――。
 彼女の真名は知らない。その過去も、聖杯への願いも、何も。しかし、消え去る瞬間に浮かべたあの穏やかな笑みははっきりとこの眼に刻まれている。
 彼女はきっと<答え>を見つけたんだろう。本当に眠るような笑顔だった。次に眼を覚ました時に、何の悔恨もなく笑って往ける。そんな穏やかな笑顔だった。
 あの時の笑みが、頭から離れない。
 私も往けるだろうか。そうして笑みを浮かべて、後悔なんてきっとないって、笑ってこの場所に戻ってこれるだろうか?
 ―――無理だ。
 きっとキャスターと同じ<場所>へなど行けやしない。<答え>など見つかりやしない。悩む事に疲れ、苦しむ事から逃げ、全てを無しにしてしまおうと考えた自分には。その願いが、自分の為でも、誰かの為でも、言い訳になどならない。
『―――』
 草を踏む音に、■■■■■は重い瞼を持ち上げた。もう何もかも虚ろになってきているが、誰かに呼ばれたような気がする。
 僅かに開いた視界の中に、佇む誰かの足を見つけて、彼女は顔を持ち上げた。
 真っ黒な外套。闇の権化のような姿に、背中には巨大な鉛色の剣を担いでいる。黒一色の中で、宝石のように赤い瞳と、銀細工のように美しい髪。その静かに佇んだ悪魔のような様相の男は、記憶の中に鮮烈に刻まれて残っていた。
『―――ス■ーダ』
 その悪魔の名を呟く。
 ぼやけた視界では彼の表情がわからない。見下ろす視線は、自分を哀れんでいるのだろうか? あるいは嘲笑っているのだろうか? この結末に行き着いた自分を。
 そのどちらでも構わなかった。きっと、
『私の<答え>は、間に合わなかった―――』
 きっと、そうなのだ。




 セイバーが眼を覚ますと、視界の隅に覗いた窓の外はまだ暗かった。ぼんやりと光に滲め始めた空が、夜明けが近い事を示している。
「…………………はっ!」
 きっかり三秒。思考を完全に再起動させて、セイバーは跳ね起きた。
 周囲を素早く見回せば、そこは見慣れた衛宮宅の自分の寝室。ご丁寧に布団の中。自分の体を素早く調べ、魔力量の消費と服装が鎧ではなく私服である事以外さして異常がない事を確かめると、風のように立ち上がって隣の部屋に続く襖を開いた。
「……はあ」
 セイバーは安殿のため息を吐いた。
 隣は士郎の部屋。果たしてそこに、士郎はいた。
 ちゃんと自分の布団に横になって、死んだように眠っている。体が自然と、魔力の回復に努めて深い眠りを欲しているのだろう。セイバーが枕元に近づいても、気付くどころか身動ぎ一つしない。
 念のため、今夜の戦闘で負った筈の傷を調べてみれば、ほとんどが例の不可思議な治癒能力の為か回復しており、深いものにはちゃんと治療が施してあった。
 ただ一つ気になった事は、士郎の前髪の一部がメッシュをかけたように白くなっていた事だ。セイバーの気絶する直前までは、士郎の頭髪がこのように変化した記憶はない。訝しげに思いながらも、触った感触では普通の髪と変わりなく、ただ色素が抜け落ちただけのようだった。
 その些細な疑問を、とりあえず胸に仕舞ったまま、セイバーは静かに部屋を出た。
 冷静になると、心の内に焦燥感が蘇ってくる。
 自分がこの家に無事戻って来た以上、とりあえず事態は収まったのだろう。だが、問題は増えた。前回の聖杯戦争に参加したはずのサーヴァントが、今まで現界し続けてきたというイレギュラーが最も足るものだ。それに答えられるかもしれないキャスターを失った事もある。
 自然足取りは重くなり、セイバーは自分でも無意識に居間まで歩いていた。
「あ、おはよう」
「……」
 まるで自分が家主のようにテーブルに座り、勝手にご飯にありついている凛を見て、セイバーはしばらく停止した。
「セイバーも食べる? 多めに作ったけど」
 自作らしいチャーハンをスプーンにすくって口に運びながら、凛は普段どおりの口調で言った。
 テーブルには大皿に盛られたチャーハンの他に、春雨を使ったサラダと野菜炒めがこちらも大盛りで並べられている。大味で簡単な中華料理ばかりだが、量だけは凛一人では絶対に食べきれない程あった。
「え……何、が……?」
「何がって? もう5時過ぎよ。少し早い朝食と思えばいいでしょ?」
 思わず間の抜けた声を出すセイバーに対して、凛は奇妙なほど落ち着いて返した。一夜通して続けられた異常な戦闘の余韻など何も引き摺っていない、平坦な態度。その落ち着きように、セイバーは疑問すら抱いてしまう。
「あ、いえその……そうではなくて。アナタは、何故そうも……平然と、食事をとっているのか……」
 まさか、全部夢だったというか。そんなあり得ない事さえ考えてしまった。自分だけ混乱しているのが、ひどく滑稽に思えて、なんとか言葉を紡ごうとする。
「あの後、どうなったのか……シロウや、サクラや、ダンテとアーチャーの様子もどうなったのか……それに、あのもう一人のアーチャーも」
「ギルガメッシュらしいわよ」
「え?」
「うちのアーチャーによるとね、あの金ぴかの正体。人類最古の英雄で、都市国家ウルクの王<ギルガメッシュ> 彼の伝説は多くの神話の原型とも言われているし、あの大量の宝具が全ての宝具の原型(オリジナル)だっていうなら、話も合うわ」
 とんでもない情報を、凛は食事の片手間に伝えた。セイバーは新たに入った情報で、これまでの謎を整理しようと必死に頭を動かしていたが、視界の先で呑気に食事を続ける凛を見ると、急に不条理な苛立ちと戸惑いを感じた。
 アーチャーの分析が正しいのならば、自分達はとんでもない相手を敵に回している事になる。あのギルガメッシュが相手では、さすがのセイバーでも勝てる可能性が少ない。現にこうして、命辛々引き分けたのが精一杯なのだ。
 この状況下で、余裕を持てる要素など何一つない。
「あの、リン。アナタは何故、そうも平然と食事して……」
 セイバーは戸惑いと抗議の色を滲ませて言いかけ、そして口を噤んだ。
 ただ黙々とスプーンを口に運ぶ凛の姿は、とても穏やかに食事を楽しんでいるようには見えない。まるで戦いのように皿を睨みつけ、それが義務であるかのようにご飯を掻き込んでいる。
 鬼気迫る勢いで皿のチャーハンを平らげると、強引にお茶で飲み流して、凛はぶはぁっと息を吐いた。
「……士郎が魔力切れなのは言うまでもない。サクラはどういうわけか衰弱して、ずっと眠ってる。ダンテは重傷。彼が半分人間じゃないから、かろうじてもっているような怪我よ。アーチャーも思いっきり疲労して、頼りになるキャスターはもういない」
 凛は真摯な眼でセイバーを見つめながら、淡々と現状を説明した。
「悪魔とアサシン、バーサーカー、そしてギルガメッシュ。厄介なタネが増えてるのに、こっちの戦力は減少中。
 でも、負けるわけにはいかない。桜を助けてくれた、キャスターの為にも。絶対にね」
 彼女は、決して余裕などではなかった。あの時力尽きた自分達をここまで運び、治療し、ただ一人冷静に現状を把握して覚悟を決めていたのだ。戦い抜く覚悟を。
「とりあえず、今出来る事は食べて万全になること! 私が少しでも早く魔力を回復させれば、アーチャーも回復する」
 言いながら、凛は大皿から更にチャーハンを盛った。
「セイバーも。食事を取れば、少しは魔力も回復するんでしょ?」
「はい、ですが……」
「食べなさい。少しでも腹に押し込んで、力を取り戻さなきゃ」
 これまで自分を救ってきた直感が不吉なイメージしか捉えない。戦況は、おそらく自分達にとってひどく苦しいものだろう。どうしても不安が拭えない。悩む事は幾らでもある。
 だが、セイバーは凛の力強い意思を受けてその全てを吹っ切ると、轟然とした足取りで食卓に歩み寄り、どっかと腰を降ろした。
 スプーンを己が剣の如く引っ掴み、小皿は不要とばかりにチャーハンの乗った大皿を引き寄せる。
「―――いただきます!」
 そして猛烈な勢いでご飯を口に掻き込んだ。サラダと野菜炒めにも頻繁に手を伸ばす。
 真剣な表情は、凛と同じく戦いに挑むかのようだ。ただ皿の上の食事だけを見、それを食う事だけを考える。余計な不安や心配など後で悩めばいい。
 ある意味前向きになったセイバーの活力に溢れた様子を見て苦笑すると、凛は再び食事を再開した。
 食う。ひたすら食う。
 決して大柄ではない、互いに線の細い少女二人が鬼気迫る勢いで大量の食事を平らげていく。
 それが戦争であると言わんばかりに食う。
 カチャカチャと絶え間なく響く食器の音が、剣戟と錯覚するほどの勢いで食う。
 互いの手を交差する事が、命の取り合いであるかの如く食う。
 とにかく食う。
 そして―――。




「…………少し、調子に乗りすぎた。うっぷ」
 食い過ぎた。


「ごちそうさまでした」
「……セイバー、私より体小さいのに……」







「とりあえず、問題はこれからどう動くかよね」
 食後のお茶を飲みながら、凛が口を開いた。士郎やダンテは未だ目覚める気配がなく、アーチャーは霊体化して、いつも通りの見張りだ。
「この同盟もバーサーカーを目標として組んだモノだけど、やっぱり今一番のネックはイレギュラーのギルガメッシュだと思うわ」
 凛の言葉に、セイバーが表情を厳しくして頷く。
 この場にはセイバーしかいないが、前回の聖杯戦争でギルガメッシュと戦った記憶を持つ彼女ならば話し合うには持って来いだった。
「大量の宝具もあるけど、クラスの相性が最悪なのよねー。<セイバー>なら接近戦で勝機もあるけど、<アーチャー>の技能で遠距離から宝具の一斉射撃をされたんじゃ、近づく事も難しいわ」
「ええ、まさにそこです。前回彼と戦ったのは最終決戦の一度だけでしたが、結局あの時も引き分けました。あのまま戦い続けていれば勝てた、という自信はあまりありません」
 珍しく弱気なセイバーの発言だったが、誇張はせず、虚勢も張らない純然たる事実だった。改めて認識した戦況に、凛は軽く唸る。
「せめて、<鞘>があれば……」
「鞘? それってセイバーの宝具の事?」
「あ、ええ。そうです」
 思わず呟いた言葉を凛が正確に理解していたので、セイバーは一瞬動揺した。
 <鞘>の意味を理解する。それは自分の正体を知ったという事だ。
「そういえば、私の剣を見せたのでしたね」
「うん、うちのアーチャーが剣についてやけに詳しくて。さすがに<エクスカリバー>を持つ、かのアーサー王が女の子だなんて知った時はびっくりしたけど」
 なんでもないという風に、凛は苦笑した。他のサーヴァントの真名を知る、あるいは知られるという事は聖杯戦争において重要な意味を持っているが、今の状況ではそれも後回しにすべき事だ。話し合うべき要点ではない。
「アーサー王の<鞘>っていうと、やっぱり<アヴァロン>よね。どういう効果があるのかまでは知らないけど、それがあれば勝機はあるってワケ?」
「ええ、ですがあくまで『勝機』です。それに<鞘>は既に失われた宝具。単なる無いものねだりにすぎません。聞き流してください」
「ま、それもそうか」
 申し訳なさそうに俯くセイバーを気遣わせないよう、凛は軽い調子でその話題を切った。
 アーサー王の伝説における常春の土地、妖精郷の名を冠した鞘。アヴァロン。
 アーサーが聖剣エクスカリバーを手にした時『剣よりも重要なもの』と忠告された物で、一説には盗まれたともあるが、とにかく多くの伝説に共通して物語の途中で『失った』とある。彼女が生前振るっていた<選定の剣>と同じように。
「となると、具体的な案としては、他のサーヴァントやマスターと協力するっていうのがあるんだけど……」
 考える時のクセで、ぶつぶつと独り言を呟く凛。しかし口にしながらも、その表情は曇ったままだ。現実味のある案でない事は、少し考えればわかる事だった。
 頭を捻って悩む凛を見ながら、セイバーは唇を噛み締め、静かにスカートの裾を握り締めた。
「……申し訳ありません、リン」
「え、セイバー?」
「あの時、私が宝具を放っていれば……っ」
 自身の行いを悔いるように顔を俯かせ、肩を震わせて謝罪するセイバーの様子に凛は思わず焦った。それに気付かず、セイバーは懺悔のように言葉を続ける。
「……あの時、私は躊躇ってしまった。ギルガメッシュの言葉に、私が消滅した後の士郎の身を案じました。ですがそれ以上に、聖杯に未練を持ってしまった。あの後に及んで、私は自分の命を惜しんでしまったのです!」
「セイバー……」
 自分自身を嘆くように独白するセイバーを、もちろん凛は責める気にはならない。それは今後の展開を見据えた合理的な考えだけではなく、もっとそれ以前の感情だった。
 セイバーほどの騎士をして、そこまで聖杯に望む願い。形振り構わず、何よりも手にしたい願い。凛にはそれがなかった。
 セイバーの願いがどんなモノか知らないし、凛には凛の、この戦争に賭ける信念がある。だが、そんな事は関係なく、凛はセイバーの必死な姿に後ろめたさを感じてしまったのだ。聖杯に望むもののない自分が、ひどく気楽なものなのではないかと。
 そう思いながら、しかしそれを今口に出すべきではない。
「……セイバー、あの時はあの判断がベストだったわ。現にこうして、私たちはあの金ぴかと引き分けて生きてる。チャンスが広がったと思えばいいわよ、今度は全員が生きて勝ち残るチャンスがね」
 凛は苦しさを胸の内に隠して、それだけをはっきりと告げた。
 セイバーの返事は落ち着いたのか穏やかだったが、精彩を欠いている。どちらともなく言葉を発する事をやめた。居間に響くのは、カチカチという時計の針の音だけだ。
 何かを話さなければならない焦燥感を抱きながら、思いを気安く口に出来るほど凛は無粋な性格ではない。それぞれが今後の事を考えながら、しばらくの間、無言の時間が過ぎていった。
『―――凛』
 不意に、ラインを通してアーチャーの声が聞こえた。それは凛の沈黙だけを破る。
「アーチャー?」
『客が来た。ライダーを実体化して連れている』
 短い言葉を聞き終えると同時に、凛は素早く立ち上がった。それに釣られるように、セイバーが慌てて腰を上げる。
「リン、どうしました?」
「ライダーのサーヴァントを連れたマスターがこっちに向かってるって」
「ライダー!?」
 その名前に、セイバーは一瞬眼を見開き、次の瞬間明確な敵意を持って戦闘態勢に入ろうとした。しかし、魔力を編んで鎧を纏おうとしたセイバーは凛の手で制される。
「落ち着いて、セイバー。まだ交戦に来たと決まったわけじゃないわ。場合によっては、さっきのギルガメッシュ用の案をうまく交渉できるかもしれない」
「何を言っているのです、ライダーがシロウの学校で何をしたのか忘れたのですか!?」
 玄関に向かう凛の横顔に、セイバーが食って掛かる。
「セイバーこそ忘れないで。あの時の最後、ライダーはキャスターに支配権を奪われた状態だったのよ。今こっちに向かってるマスターが、キャスターやダンテと関係がある可能性は高いわ」
 冷静に告げる凛の言葉を聞いて、セイバーは口を噤んだ。まだ納得のいった表情ではないが、自分が早計だった事は認めていた。
 何より、この屋敷には対侵入者用の結界が張られており、その結界が反応しないという事は相手に敵意がない事を示している。
 それでも互いに警戒態勢だけは取りながら玄関までたどり着くと、ご丁寧にもチャイムが鳴らされた。
 奇襲を想定してセイバーが玄関の鍵を開けに向かう。ドア越しに感じるサーヴァントの気配に、無意識に湧き上がる敵意を抑えるのには労力が要った。
「失礼する―――」
 玄関を開き、それに応じて入ってきたのは、線の細いスーツ姿の麗人だった。
 今度は凛が湧き上がる警戒心を抑える。その身に淀みなく秘めた圧倒的な魔力と、油断のない鋭い瞳。並みの魔術師ではないと、彼女の直感が告げていた。
 何より、その美しさに呑まれていた。背後に神がかった美しさを持つライダーを従えた二人の姿は、まるで神話の戦女神を絵画に写したかのような神秘的で厳かな雰囲気を感じる。
「君は遠坂凛だな? 私は魔術協会から派遣された魔術師、バゼット・フラガ・マクレミッツ。現在はライダーの仮マスターをやっている」
 バゼットが冷静な声で告げる。その言葉には敵意などなかったが、気がつけば凛は如何にしてこの場を凌ぐかを考えてしまっていた。ほとんど確信にも近い直感で、目の前の魔術師が戦闘力において自分よりも上である事に気付いてしまったのだ。
 まるで銃を相手にしているような緊張感が消えない。ダンテと初めて出会った時とは違う、あいにくバゼットには相手を警戒させない気安さというものがなかった
「そう警戒する事はない。私たちは戦いに来たのではないのだから」
「……それじゃ何が目的なのかしら?」
 言った後で、凛は「しまった〜」と内心で悪態をついた。予想以上に険を含んだ言い方になってしまった。これでは相手を険悪にさせるだけだ。背後ではセイバーが武装化こそしていないものの、直立不動でライダーとガンをつけ合っている。
 しかし、バゼットは納得するように苦笑するだけだった。
「まあ、急な訪問では仕方がないか。
 だが、君達に危害を加えるつもりがない事は信じて欲しい。どうやら、君のサーヴァントは屋根の上から我々を監視しているようだしね。私達が君に危害を与えようとしたら天井ごと射抜いて殺す気なのだろう。キャスターの言うとおり、一番抜け目のないのはアーチャーのようだ」
「う゛……っ」
 知らず追い込んでいたのが自分達の方であると気付き、凛は気まずげに顔を顰めた。セイバーに注意しておきながらこれでは立つ瀬がない。
「私たちが信用できないのならば、ダンテかキャスターを呼んでくれ。出来ればキャスターがいい、我々の関係を証明できる」
 僅かに微笑を浮かべたバゼットの言葉を聞き、凛とセイバーまでもが僅かに表情を暗くした。
「……キャスターは、もういないわ」
「…………そうか」
 凛の静かな宣告に、その意味を理解し、バゼットはわずかに眼を見開いて沈黙した後小さく呟いた。その声には諦めのような色がある。
 いつだって、こんな唐突な別れは経験してきた。胸に去来する悲しみと痛みを、隠す事は出来ても消す事は出来ない。
 黙り込んでしまったバゼットの様子を伺いながら、凛は奇しくもその僅かに滲み出た人間味に安心してしまった。ゆっくりと警戒心が解けていく。
「……アーチャー、警戒を解いて。二人も上がって頂戴。交渉するにも、立ち話はやりにくいでしょ?」
 凛は自分の従者がいつものようにため息を吐くのを聞いたような気がした。プレッシャーから解放されたバゼットとライダーが凛の言葉に甘えて家に上がるのを見て、セイバーがわずかに身を硬くしたが、彼女も口を出すべきではないとわかっていた。
 居間に案内されたバゼットとライダーは、和室に違和感を覚えながらも正座して凛達と対峙する。
「それで、どういうことか説明してもらえるかしら、バゼット?」
 明らかに年上の女性だったが、凛は気にもせずに気安く名前を呼んだ。
「そうだな。まず、この屋敷を訪れたのはライダーが本当のマスターからのラインを感じ取れなくなったからだ」
「桜の事ね」
「分かっているなら話は早い。詳しい話は後にして、彼女は今ここにいるかね?」
「ええ、私達が保護してるわ」
 一瞬、目的は桜かと疑念を抱いた凛が強調すると、反してバゼットは穏やかな笑みを浮かべてライダーの方を見た。
「だそうだ、これで一安心だな」
「はい」
 無表情な仮面に僅かな安堵を滲ませて、ライダーが頷く。
「失礼。ラインの消失を感じたライダーがひどく動揺してね、慌てて心当たりの在る場所を探していたのだ」
「なるほどね」
 凛は納得した。契約のライン云々の現象は、おそらく桜の魔術回路が衰弱している事に関係しているだろう。キャスターが何らかの処置を、何らかの理由で施したという曖昧な事しかわかっていないが、その疑問にもバゼットは答えられるかもしれない。
「……それで、話はそれだけじゃないんでしょ?」
 内心の焦りを抑えながら、凛は冷静に話を促した。
「ああ。単刀直入に言おう、私は同盟を結びに来た」
 唐突な言葉に、凛とセイバーは硬直した。
 その様子を尻目に、バゼットは捲くし立てるように話を続ける。
「私は聖杯戦争の管理者に、此度の聖杯の真相を聞いた。アレはもう、我々が求める代物ではない。そして、その異常事態に関わっているのが悪魔だ」
 矢継ぎ早に告げられる驚愕の事実に、凛は必死で思考を追いつかせようとしながら口をパクパクさせた。動揺とバゼットの言葉から受ける衝撃で、会話に口を挟めない。
 そんな混乱の中で、バゼットは一人冷静に最も驚くべき事実を放った。









「此度の聖杯には二つのイレギュラーが宿っている。
 一つは、第三回聖杯戦争において召還され、聖杯の水を泥へと汚染したアヴェンジャーのサーヴァント<アンリマユ>
 そしてもう一つは、数ヶ月前に魔界でダンテによって倒され、三度復活せんとその聖杯に宿った悪魔の王。魔帝<ムンドゥス>だ―――」









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