ACT20「グッバイ・イエスタディ」




『俺は、誰も彼も救いたいんだ』


 あの時、違った形で一番欲しかった物が手に入ったのかもしれない。
 だから―――。






「雑種二匹に聖杯のガラクタ一つ。ゴミはあるだけで目障りだ、失せろ」
 まるで目の前にある蜘蛛の巣を払うように、男は掲げた手を無作作に振り下ろした。それを進軍の合図として、背後に漂う無数の武具がそれまでの静寂を破り、恐ろしい勢いで飛来する。それは確かに<矢>であり、桁違いの威力を秘めた砲撃だった。
 キャスターにははっきりと理解できた。故に我が眼を疑い、信じる事が出来なかった。飛来する剣や槍や斧など無数の種類の武具は、それら全てが例外なくサーヴァントの宝具に匹敵するだけの威力を持っている。
 古今東西、一つとして同じ物はない。ギリシャ神話に登場する、キャスターにとっても見覚えのある神代の武器さえその中に混ざっている。ありとあらゆる種類の武器の群れの中で、唯一共通しているのが、全て宝具級の神秘を秘めているという事だけだ。
「く……っ!」
 絶望的な力の進軍が迫る中で、キャスターは魔術を展開する。出現した巨大な水晶の盾がキャスターと、その背後の桜と慎二を守るように展開された。
 その盾はバーサーカーの守りに匹敵する程強力なものだったが、それでもあの無数の宝具の嵐を受け止めきるにはあまりに脆弱な壁だ。桜たちを守る為に、広範囲に展開した事も強度を落とす原因になっている。
 何故、こんな事をしたのか。この絶望的な状況下で他人を庇うなどという非効率的な事をした自分の行動に、しかし疑問を抱く暇もなく敵の<矢>は盾と接触した。
 硝子の砕けるような音共に盾は一瞬にして消滅する。キャスターが持ち得る最強の防御は、敵の攻撃をほんの一瞬遅滞させただけに過ぎなかった。
「―――っ!!!」
 キャスターの悲鳴が宝具の爆撃に飲み込まれる。一本一本が必殺の力を秘めた武具が、キャスターたちの居た場所ごと全てを抉り抜いた。砂塵と砕けた石畳の破片が舞い上がる煙の中で、ズタズタに引き裂かれたキャスターのローブが宙に舞い上がった。その本体と、彼女の周囲にいた人間は全て、一瞬で一拭きの赤い霧になってしまっただろう。
「……」
 地面に突き刺さった宝具の群れは、一瞬後には全て消え去り、ただ破壊の爪痕と土煙だけが残っている。それをつまらなそうに見つめながら、男は無作作にもう一度指を鳴らした。
 それが彼の持つ大砲の引き金であったかのように、何もない背後から再び剣が射出される。二本の豪奢な装飾を付けた短剣が、使い捨ての矢となってあさっての方向へ飛来した。それは一直線に、空中を漂っていたキャスターの黒いローブを貫く。
「ぁぐ……っ!!」
 その途端、今度こそ本当にキャスターの悲鳴が上がった。貫かれたローブの下から炙り出されるように、キャスターが実体化し、両腕に抱えた慎二と桜ごと地面に落下する。石畳に叩きつけられ、転がる彼女の肩には放たれた短剣の一本が突き刺さっていた。
「小賢しいフェイクが我に通じるか。無礼者が、我が失せろと言ったら疾く自害するのが礼であろう!」
 無残に突き刺さった短剣を必死の思いで引き抜き、激痛にその端整な顔を歪めるキャスターに対して、男の怒声と無情な追撃が襲い掛かる。
 瀕死の標的に対して力を出すまでもないと思ったのか、飛来する宝具のレベルは初撃に比べて低い物だったが、それでもサーヴァントの命を周囲の空間ごと抉り取るには十分すぎるものだった。
 痛がっている暇はない、冷静に思考する間もなく口が勝手に呪文を詠唱していた。<盾>では駄目だ。迫り来る宝具の群れに手を掲げ、『圧迫(アトラス)』と彼女は紡いだ。
 その瞬間、目の前の空間が一変した。まるでそこだけが異世界になったかのように、何倍にも収束した重力が発生する。その空間に在るもの全てを文字通り圧迫した。
 標的に向かって直進していた宝具が、その重力の檻に自ら飛び込み、地面に吸い付けられるようにわずかながら高度を落とす。強制的に軌道を下げられた<矢>は、全て標的に届く前にその足元へと突き刺さった。
 飛び散る破片と砂塵から顔を庇う。眼と鼻の先に突き刺さる恐ろしい宝具の群れに、キャスターは出掛かった悲鳴を必死で飲み込んだ。一か八かの賭けもいい所だ。後ほんの少し攻撃の勢いが強く、また使用された宝具のレベルが高かったら、その<矢>はキャスターを串刺しにしていただろう。
 痕跡だけを残して消えていく宝具の群れを見つめながら、抜けそうになる腰を叱咤した。
「ほう……」
 初めて、見下ろす男が顔を露にしたキャスターをその視線に捉える。それまで路端に転がる石でも見るような眼だったモノに火が灯り、感嘆の声すら漏らしていた。
「魔術師のサーヴァントとは陰でこそこそと姦計を廻らす小者だと思っていたが、お前は少々違うらしいな。造作も悪くない」
「それはどうも……」
 連続して使用した大魔術の反動で疲弊した体を支えながら、キャスターは男の賞賛を絶望的な気持ちで受け止めていた。先程の、文字通り塵を払うような一方的で問答無用の攻撃に比べれば、こちらを意識しただけまだマシだったが、依然状況は変わりない。
 無数の宝具を湯水のように放つ正体不明の男。その実態はサーヴァントかどうかすらも定かではなく、ただはっきりしているのはこの絶望的な戦力差だけだ。このままでは男の意思一つで自分は抹殺され、戦いにすらならないだろう。
 見上げるキャスターと、それを見下ろす男。その位置関係がそのまま二人の力の差を表していた。
「ひ……っ、ひぃぃいーっ!!」
 無言の対峙の中で、我に返った慎二がバタバタと奇妙な足取りで林の方へと逃げていった。一心不乱に、離れた位置で気絶したままの桜や自分を守ったキャスターには眼もくれず。
 男は赤い瞳で、その背中を一瞥する。それだけで、後はどうでもいい事のように記憶の中から慎二の存在を消去した。
「……追わなくていいの?」
「構わん。いずれ自滅するゴミだ、我が手を下すまでもない。刃の錆びにすらならんわ」
 慎二を囮にして逃げるという、キャスターの苦肉にして非情の策もあっさりと切り捨てられた。前言撤回しよう、男がこちらに興味を持った事は不運だった。先ほどまで視界にある物全てが無価値だった彼に、優先順位を持たせてしまったのだ。
「……質問してもいいかしら?」
 交渉は無駄。こちらの生殺与奪権は完全に相手が握っている。
 キャスターは努めて冷静に、丁寧な口調で、しかし媚びる色など欠片も見せず精一杯の虚勢を張って見下ろす男に尋ねた。月を背にした男の鎧が放つ黄金の輝きの神々しさと圧迫感に、眩暈すら起こしそうになるのを必死で堪える。
「よかろう、質問する事を特別に許す」
 その態度が、あるいは美しく整った容姿が気に入ったのか、美術品を見るような眼で見つめ、男は尊大な態度で頷いた。
「アナタは、何者なの―――?」
「何を言っている、貴様の良く知る<サーヴァント>に決まっているだろう」
「そんな筈はないわ」
 キャスターは断言した。
 既に聖杯に召喚される7人のサーヴァントは全員この眼で確認している。ならば、目の前の見た事のない黄金のサーヴァントは在り得ないはずの8人目という事になるのだ。
「仮にそうだとしても、アナタの持つ宝具の数は桁違いよ。英霊の中でも常軌を逸している」
「当然だ。我を雑種と一緒にするな。アレは全て我が生前集めた財宝、あらゆる宝具の原点でありオリジナルだ。他の英霊が持つ宝具など、全て我の持つ宝具のレプリカに過ぎん」
 自分の正体について、最初から隠すつもりなどなかったのか、男は饒舌に語ってくれた。その威厳と自信に溢れる態度を見れば理由はわかる。彼は真名を知られるリスクなど欠片も気にしていない。そんなもの、歯牙にも掛けていないのだ。
 同時に、キャスターにとって男の言葉の内容は絶望的な物だった。
 あらゆる宝具の原点を全て個人で所有する英霊。それに当てはまる存在を彼女は一人しか知らない。いや、歴史にただ一人しか存在しない。
「人類最古の英雄王<ギルガメッシュ>―――」
「その通りだ。流石に魔術師は博識だな、褒めてつかわそう」
 掠れる声で搾り出した言葉を、ギルガメッシュはあっさりと肯定した。
 勝てない。勝てるわけがない。改めて、絶望が全身を支配する。抗う力を奪っていく。英雄の中の英雄を相手に、一介の魔術師が勝てる道理など有りはしないのだ。
 蒼白となったキャスターの表情を一瞥し、満足に口の端を吊り上げると、ギルガメッシュは三度指を鳴らして自らの<宝物庫>から宝具を呼び寄せた。
 その全ての切っ先が、しかしキャスターではなく、離れた位置で横たわる桜に向けられている。
「格の違いを思い知ったようだな。しかし、我は分別に理解ある者が嫌いではない。特別に見逃してやろう。我の目的は『紛い物の聖杯』を消滅させる事だ。
 我が財の中でも低級の物とは言え、我の攻撃を魔術で凌いだ貴様は中々見込みがある。逃げ帰り、せいぜい我を楽しませる道化に徹するがいい」
 愉悦と侮蔑、そしてほんのわずかな期待の視線をキャスターに送ると、それっきり彼女を眼中から外して、ギルガメッシュは桜を見下ろした。
「どういう事かしら、彼女が『紛い物の聖杯』とは?」
「ふん、気になるか? そのままの意味だ。あの小娘の体の中には前回の聖杯戦争で砕けた聖杯の欠片が埋め込まれている。些か形は変えられているようだがな。このまま放置すれば、この娘は血肉を変質させて聖杯そのものとなるだろう」
 単なる気紛れか、それとも彼の言う<道化>を演じさせる為か、ギルガメッシュは隠す事無く真実を告げた。常人ならば衝撃を受けるであろう言葉の内容を、キャスターは淡々と受け止めていた。魔術に関しては膨大な知識を持つだけに、ギルガメッシュの言葉の端々からこの結論を全く予測していなかったわけではない。
 そもそも彼女はこの聖杯戦争という儀式の仕組みについても疑問を抱いていた。
 彼女は奇跡を欲していたが<全てを叶える万能の力>などという都合のいいモノを信望するほど夢想家ではない。
 魔術師としての最低限のルールは等価交換だ。その原則を曲げる事は何者にも出来ない、その現実は誰よりも優れた魔術師であるキャスター自身が良く知っている。
 ならば、一方的に呼び出された聖杯が、無償でパンを配る聖者のように無条件で願いを叶える訳がない。聖杯は現代における機械と同じだ。お金を入れて飲み物を出す自販機のように、ガソリンを入れて動く車のように、聖杯もまた何かを注入してその代価で発動する人工の奇跡に過ぎない。
 マスターとサーヴァントは餌だ。杯を満たす為の水であり血だ。
 そして更に、この街の地脈の流れとその収束する位置にあるモノの存在。それらを組み合わせる事で導き出される真実。全ての憶測が現実となり始めていた。
 問題は、その器となる物が一体どんな形をしているか、だったが―――。
「杯は無機物ではなかった。サーヴァントの魂を受け入れられるモノなら、なんでもよかったのね……」
「ほお、この儀式の真意に気付いていたか。ますます面白い。存外、貴様ならこの喜劇をより楽しめるものにする良い道化となるであろうな」
 圧倒的な威圧感はそのままに、敵意を薄れさせて愉快そうにギルガメッシュはキャスターを一瞥した。格下の者を見下す視線と、傲慢に満ちた不遜な口調は変わらないが、彼なりにキャスターの知識を認めた証だ。彼にとって、目の前に立ち塞がる存在は全て意思一つで消滅できる脆弱な壁であり、事実それだけの力を持っているのだが、その思うがまま振舞う傲慢さ故に興味を持ったモノには慈悲を見せる。キャスターを今生かしているものもその感情だった。
「今回の聖杯戦争の正規の器は別に用意されている。あの小娘は実験体から予想外に育った粗悪な贋作だ。まともに<孔>すら開けぬ不完全なモノなど、むしろ正規の器の成長を妨げる邪魔になるだけだ」
 ふん、とつまらなそうに吐き捨てると、ギルガメッシュは片腕を掲げた。視線は標的である桜に向けられている。そこに殺意はない。これから破壊する物に対して興味など抱くはずがない。そこにあるのは淡々とした機械的な判断だけだった。
 眼中から外れたキャスターは、威圧感から解放された安堵を感じる事もなく、静かに桜を見ていた。
 同情する気持ちが湧いてこない。不幸な少女。望んだわけではないだろう、聖杯となる運命を義務付けられ、それに苦しみ、今その不条理な運命のせいで殺されようとしている。
 助ける事など出来ない。彼女を助ける事はあの黄金のサーヴァントの行動を妨害する事であり、それは彼の敵意をこちらに向ける事になる。それは得策ではないし、現実としてそもそも彼に刃向かえる力がこの脆弱な魔術師の身には存在しない。それは純然たる事実だ。翻せない現実だ。それに抗うのは単なる無謀であり、愚行である。だから。だから―――。
「……っ!」
 誰よりも知略に長けるキャスターは、その氷のように冷めた思考で冷静にして合理的な計算を淡々と行いながら、不意に走ったノイズに歯を噛み締めた。灼熱の塊を飲み込んだような熱い激情が腹の底から湧いてくる。
 同情する気持ちが湧いてこない。ただひたすら強い焦燥感が彼女の理性を責め立てた。
 理性が『逃げろ』という。『生き延びろ』と判断を下す。しかし、その度に同じだけ、心が『少女を助けろ』と叫ぶ。『命を賭けろ』と訴える。


『俺は、誰も彼も救いたいんだ』
 それは確かに救いだった。


『私が間に合わせてみせる』
 だから自分でも本当に驚くほど素直に、約束した。


「だから―――」
 視界で黄金のサーヴァントが厳かな横顔で、掲げた手を下ろそうとする。それが背後の宝具の大群を進軍させる引き金。
 キャスターは震える腕を持ち上げる。自分が愚かだとはっきりわかる。今自分に出来る正しい判断は踵を返して、この場所から逃げ出す事だと確信している。戦ったところで勝ち目なんかない。彼女を助ける可能性なんて皆無に等しい。それでも―――。
 一瞬にして、手のひらで魔術が完成した。ありったけの魔力を収束させた凶悪な魔弾の発光に気付き、ギルガメッシュがわずかに眼を見開いてキャスターを見る。
 そして、キャスターは最強の英霊に向けて弓を引いた。






 それは、遠い遠い昔の話。
 だけど、昨日の事のように思い出せる。
 そこは海の上。風を切って走る船上。船の名はアルゴー号。イオルコスの王子イアソンと数多くの勇士を乗せた船。その中にはかつて英雄ヘラクレスの姿もあった。
 海を駆けるように進んでいく船。その背後からは凄まじい勢いで無数の船団が追って来ている。メディアの父であり、コルキスの王であるアイエテスの乗る王の船団だ。
 ギリシャ神話にはかく在る『イアソンを助力する女神はコルキスの王女メディアが、イアソンに恋をするよう息子のエロスに心臓を愛の矢で射抜かせた。このためメディアは、たちまち、イアソンに燃えるような恋を抱き、 父を裏切っても、魔術の知識のすべてを傾けてイアソンを救おうと決心し、金羊毛が納めてある花園にイアソンを案内して魔法の呪文によって龍を眠らせ、 金羊毛を盗み出させた』と。
 アイエテス王は宝が盗み出されたことを知ると、船で後を追いかけた。王の船がぐんぐん近づいて来て、いよいよ追いつかれそうになった時、 メディアは一緒に連れて来た幼い弟のアプシュルトスを抱き寄せると、 父の王の前で、鋭い刀を弟の胸に突き刺し、さらにその身体を幾つにも切り刻んで海に投げ込んだのだ。
 ―――そう、拾い集めるのが大変なほどバラバラに。
 泣き叫び、慟哭しながら必死で息子の体をかき集める父の姿を見つめながら。
 血の繋がった弟をその手で切り刻んだ実の娘に対し、憎悪とも悲哀ともつかぬ絶望を浮かべる父の瞳を見つめながら。
 メディアが考えていた事は罪の意識でも後悔でもなく、ただただ妄執的なイアソンへの愛だった。
 今でも思い出す度に吐き気を覚える。
 女神の仕掛けた偽りの愛の呪縛から解放された途端に襲い掛かってきた、悲しみと後悔と罪悪感と絶望が痛みとなって暴れまわって、そうやって腐っていく体の中のモノを、臓物ごと全て吐き出したくなるような衝動に襲い掛かられる。
 そうしなければ、耐えられない。罪の意識に耐えられない。あの時の自分だったモノを、それを構成するモノを全て捨て去らなければ、その罪が重くて、重くて、とても耐えられやしない。
 アレは自分じゃなかったと思い込もうとした。女神に操られた、単なる滑稽な操り人形だと。だから、弟を殺したのはその人形で、父を絶望させたのはその人形で、そして―――<悪>を背負うのもソレなんだ、と。
 でも、この手は実の弟を切り刻んだ感触も、噴き出した血の暖かさも、信じられないと見開いて見つめる瞳も、何もかも確かに覚えている。


『その英雄の為に、悪を犯してもらおう』と、女神が言う。


『船に乗る、多くの掛け替えない仲間の為に悪となって欲しい』と、愛する人は言う。


『善の為に悪となれ』と、運命が告げる。


 その人形はYESと答えた。
 自分の声で。それを自分の耳で聞いた。自分の脳で記憶した。何もかも覚えている。何もかも、この存在が証明している。



 それが、キャスター<メディア>の終わりと始まりだった。







「……っはぁ! かはっ!!?」
 体が生きる事を思い出したように呼吸を再開した。束の間、意識を失っていたらしい。
 キャスターの周囲一体が真っ黒に焼け焦げ、弱々しい黒煙を上げていた。一体、何がどうなったのかまるで理解できない。肩の傷からだけだった激痛が全身に走り、火であぶられているような熱さが感じられた。
「―――貴様」
 明らかに不服と不機嫌さを露にするその声が、変わらず頭上から聞こえる。見上げれば、ギルガメッシュはその鎧に傷一つ付けず、その髪に乱れ一つ無く、ただその顔だけをわずかに顰めて全く同じ姿で佇んでいた。
 ようやくキャスターは数瞬前の事を思い出した。
 渾身の魔力を込めた一撃は、その閃光がギルガメッシュに届く直前で、彼の前に出現した鏡のような盾に跳ね返されたのだ。おそらく対魔術用の防具だったのだろう、来た道を真っ直ぐに戻ってくる魔力弾。考える暇も無く、反射的にそれを魔力で相殺した。しかし、皮肉にもその一撃はわずかな可能性に全力で注いだ最強の魔術。完全に相殺する事は出来ず、余波が容赦なく放った本人であるキャスターを焼いたのだ。
 結局、状況は一ミリも動かず、ただ悪化するだけだった。
 最初から、勝てるなどという甘い希望は持たなかった。敗北を承知の上での賭けだった。しかし、ほんのわずかな勝機に賭けた全力の一撃でさえ、あの男は欠片の希望も見せず粉砕したのだ。
 次元の異なる存在を感じる。自分など、ゴミだ。アレが本気になれば、百万の敵の抹殺でさえ程なくやってのけるだろう。
 完全な思い上がりだった。逃げ出したい。『あんなもの』の近くには一秒だっていたくない。
 ああ、だけど―――。
「……その娘は、殺させないわ」
 言った。言ってしまった。キャスターは最後のラインを越えてしまった。
 ギルガメッシュが、満身創痍の体で立ち上がり睨みつけるキャスターを嘲笑する。
「あの小娘を使って聖杯を手に入れようというのか、たわけが。アレでは歪んだ機能を持った物しか作れぬ。そもそも此度の聖杯は―――」
「そんな事はどうでもいいのよ」
 浅はかさを嘲るような言葉を遮って、キャスターは詠唱を始めた。足元の地面に手をつき、高速神言を紡ぐ。魔力が波紋のように地面に広がり、敷き詰められた石畳が割れ、拳大の破片となってキャスターの周囲に浮遊し始めた。
「ほう、おもしろいな。石片を強化したか」
 他愛無い児戯を見るようにギルガメッシュは余裕を崩さぬまま一笑する。それを無視して、キャスターは地面についた手のひらを鋭く振り上げた。
 魔術が通用しないのなら、物理攻撃に切り替えるまで。
 その途端、周囲に浮いてた石の破片が強力な『つぶて』となって一斉に発射された。
 周囲の石畳をあらかじめ強化する事で鋼鉄並の硬度を持たせた無数の石塊一つ一つが、爆発的な加速によってライフル弾以上の速度と威力を持ち、ギルガメッシュに飛来する。
 ギルガメッシュはそれをただ眼前に片手をかざすだけで迎え撃った。
 一瞬にして何十というつぶてが標的に殺到する。鎧との激突で、強化された石塊が粉々に砕けていく。闇に響き渡る金属音は銃弾が鉄の壁にぶち当たる時のような鋭い音を立てて、絶え間なく連続していった。
 鋼鉄並の硬度を持った石が砕ける様を見れば、その衝撃がどれ程のものか想像できる。生身で受ければ、まず間違いなくバラバラの肉片に成り果てるような『銃撃』だ。
 壮絶な炸裂音は一瞬にして終了する。粉々になった石の砂塵が煙のように舞う中、ギルガメッシュはゆっくりと掲げていた腕を下ろした。
「……だが、我を傷つけるには少々力不足だ」
 変わらない笑み。全ての投石を受け止めた黄金の甲冑はヒビ一つ無く、その輝きに些かの曇りすらない金色の光沢を放っていた。
 何もかもが無駄に思えてくる。ダメージの回復に努めながら、キャスターは萎えそうになる闘志を必死で高ぶらせていた。
「所詮、小細工は小細工だ。我に敵対した事を悔いながら死ね」
 気を失いそうな程のプレッシャーが叩きつけられる。氷のような殺気が肌を突き刺し、血液を凍らせようとする中で、キャスターは必死の思いでその場から駆け出した。攻撃が来る。
 機械的にギルガメッシュが指を鳴らす。その瞬間、虚空から閃光のように一本の矢が放たれた。
 その矢じりから凄まじい魔力を感知するが、先ほどのような間断のない一斉射撃ではない。回避する隙はある。脚力を強化して、キャスターは矢の軌道から素早く走り抜けた。
「あ……っ」
 次の瞬間、太ももを貫いた衝撃に、キャスターはそのままもんどりうって地面に倒れこんだ。無防備に倒れた衝撃と、遅れてやってきた激痛に声にならない悲鳴を上げて蹲る。
 キャスターは肉体を行使する戦士ではない。ただ魔術にのみ特化した英霊であるキャスターには、戦いで負う傷やその痛みに対する耐性がほとんどなかった。
「ぁああっ! ぐ……ふぅぅ……っ!」
 汗が噴き出し、目尻には涙が浮かぶ。滲んだ視界を足元に向ければ、左足を外れるはずだった矢が無残に貫いていた。
「<無駄無しの弓(フェイルノート)>だ。貴様の俊敏性ではその追尾からは逃れられん」
 食い縛った歯から洩れそうになる苦悶の声を押し殺すキャスターに、ギルガメッシュが冷たい言葉を吐き捨てる。
 再び指の鳴る音に見上げれば、無慈悲にも次弾を構えるギルガメッシュの姿があった。左右に三本ずつ、短刀とも杭とも取れない特徴的な形状の武具が付き従うように出現していた。それは稲妻を象徴するかのように金色の光を放っている。
「そして、これがインドラの武器<ヴァジュラ>だ。六つ。気を抜けば一瞬で消滅するぞ。これ以上我に進言したくば、うまく守れ」
 冷酷な宣言と共にインド仏教の武法具であるヴァジュラが六つ、ミサイルのように発射された。それはもちろん、キャスターの放った石の弾丸をはるかに凌駕する威力を秘めている。身動きの取れないキャスターに向けて、空を覆うように金色の稲妻が降り注ぐ。
 眼を見開いたキャスターの口が高速神言を発し、それを飲み込むようにして連続した爆発と閃光が柳洞寺の闇を切り裂いた。






 女神が言うのだ。
『その男を助ける為に、弟殺しの罪を背負ってもらおう』
 <善>の為に<悪>として生きる事を強要してくる運命。それを素直に憎む事も出来なかった。この手は覚えている。暖かい、愛する弟の体を切り裂いた感触を。最初に犯した罪を、はっきりと覚えている。
 その罪を誰も許してはくれない。それは自分が自分を許す事が出来ないからだ。
 なりたくもない魔女にさせられて、それを全うして、死んだ後なら今までを清算出来ると思っていた。だが、結局それも叶わない。



 聖杯戦争。召還したマスターは正規の魔術師だった。
『サーヴァント・キャスター。真名はメディアと申します。共に聖杯を手に入れる為に戦いましょう』
 年の頃は三十代で、中肉中背で、あまり特徴のない男。
 戦う気もないくせに勝利だけを夢見ている、他のマスターたちの自滅を影で待っているだけの男だった。
 召還の光が収まり、形を持ち始めた意識の中で見るその男は、クラス名と真名を告げた途端落胆と、次に怒りを露にした。
『キャスター……キャスターだと!? ばばば馬鹿な、最弱のクラスじゃないか! 畜生! どれだけの時間と金を掛けたと思ってるんだ!? 畜生! 畜生!!』
 不本意な評価だが、それを受け入れるだけの覚悟はあった。一面的だが事実である事も確かだ。
 だから、今は耐える時だと思った。あるいはこれが生前の罪に対する罰なのだと考えれば納得も出来た。 それを乗り越え、共に戦うマスターから信頼を勝ち取り、きっと聖杯を手に入れてみせる。この<魔女>という汚名から脱してみせる。この因果から解放されてみせる。そして、そこできっと初めて、自分が許されると思うのだ。
 ―――それが間違いだと言うことに、数日も待たずに気付く事とになった。


『令呪に命ずる、自身の魔力の行使を主の魔力以下に抑えろ』


 輝き、その一画が消滅していく令呪。それと同時に自身に掛かる重圧と虚脱感を、キャスターは呆然としながら受け入れていた。
 令呪を使用したマスターである男は、怒りと嫉妬の混同した瞳でキャスターを睨みつけていた。
 直接的な戦闘力では最弱だが、魔術において特化した英霊。キャスターは正しくその能力を持っていた。
 聖杯戦争が開始する数週間前に早期召還されたキャスターは、マスター同士の潰し合いを期待して自ら動く事を渋る主をほんの少しでも支援する為に、彼の確保した住居に拠点とする為の陣地を作成した。守りに入ると言うのならば、それも決して悪い策ではないだろう。ならば、どんな英霊が攻め入っても防げるような強力な要塞を作ろうと、キャスターは尽力し、そしてそれは実際に見事な形で実現した。
 それが、男の妬みを買った。
『戦闘では大して役に立たねえクセしやがって! いい気になるなよ! お前は俺のサーヴァントなんだ、俺の下にいる存在なんだからな!!』
 何故そこまで必死になって叫ぶのか、キャスターには分からなかった。何故自分が主の怒りを受けなければならないのか。
 神代の優れた魔術師であるキャスターに対する、男の強烈な劣等感とそこから来る理不尽な嫉妬と憎悪を、彼女はしばらく理解できなかった。
 男はキャスターに自分の目の前で魔術を行使する事も禁じた。そしてやがて、魔力の供給量すらも制限し始めた。
 令呪によって消費を抑えられた魔力と、供給量の少なさから枯渇していく魔力で、徐々に自身の霊体の維持さえ困難になっていく。ついに朦朧としていく意識の中、キャスターは何か性質の悪い冗談を聞いた時のような引き攣った笑みを浮かべて、優越感に満ちた歪んだ表情を浮かべる主を見上げていた。
 ここで死ぬ? こんな所で、本当に消滅する? 嘘だ。これは何かの冗談だ。だって何もしていない。私は何も悪い事していないよ。ちゃんと頑張ったんだから。嘘ダ。コンナノ嘘ダ。
『ははははっ!! 分かったか? 誰がお前の主か、よぉく分かったか!? 俺だ! 俺がお前の主だ! お前の命なんて、俺の意思一つでどうにでもなるんだ! いい気になりやがって、身の程を知ったか!!』
 狂ったように笑う、その男の考えている事が理解できない。
 おかしい。こんなのおかしい。
 何を言っているんだろう?
 この男は何を言っテイルんだロウ?
『マ、ス、ター……たす……け…………っ』
 ワケが分からないけれど、ここで終わるわけにはいかない。必死に懇願するキャスターに、男の愉悦は益々濃くなった。形振り構わず縋るうちにフードがはだけ、苦悶に歪んだ美しい顔が露になる。涙を溜めて見上げる宝石のような瞳を見た時、主の顔に愉悦以外の笑みが浮かんだ。
『いいだろう、魔力を供給してやるぜ』
 その言葉に、安堵した次の瞬間床に組み敷かれた。もうロクに身動きの出来ない体を無遠慮に触る男の手に、その言葉の意味を悟って悲鳴を上げた。
『なんだぁ、魔力をくれてやると言ってるだろうが。魔女にお似合いの方法でな』
 必死に抵抗するキャスターのか細い腕を、嘲笑いながら男は受け止める。人間を遥かに超える存在である英霊を自由に出来るというのは、男に恐ろしく甘美な感情を与えてくれた。
『いやぁああああ!』
 悲鳴を上げて抵抗する。
 もちろんそれは無駄だった。魔力がなければ、純粋な魔術師であるキャスターの力など常人の女性と変わらない。それに加えて魔力の枯渇した半病人のような今の状態では、容易く捻じ伏せる事が出来る。
『そうか、わかった。そんなに嫌なら、もう一つ令呪を使って命じてやろう』
 しかし、それだけでは飽き足らず、男は更に令呪を行使した。
『俺を愛するようにな』
 心が一瞬で絶望に呑み込まれる。
 それは、キャスター・メディアにとって最悪の呪いに他ならなかった。
『いや……やめてっ!』
『ははっ、なんだ丁度いいじゃないか。コルキスの魔女メディアにこれほど相応しい命令はないだろ? いいか、お前なんか俺の意のままなんだ! その心さえなっ! それをよく理解しろ!!』
 絶望に染まった顔で力なく首を振るキャスターに、男はこれまでの鬱憤を晴らすかのように盛大な笑みを浮かべて、これ見よがしに腕の令呪を眼前に差し出す。
 何もかもが現実の外で起こっているような、曖昧な感覚を覚えながら、キャスターは目の前で紡がれる言葉とソレに続く令呪の輝きをぼんやりと見ていた。
 壊れた蛇口のように眼から涙が流れていく。それさえも他人事のように感じる。ただ『何故』と思う。
 体の上で頻繁に動く男の影。蹂躙される体。異物感。令呪の影響か、その暴行じみた行為に感じる甘美な熱。滾り。快楽。それが全部、テレビのように向こう側の出来事で―――そして、まるでスイッチを切るようにキャスターの中で何かが途切れた。
 これが、きっと自分の犯した過去の罪に対する罰なんだという、諦めと共に。
 月のない夜のように、周囲には一片の明かりもない暗闇で空っぽの心のまま彷徨いながら、誰にともなく呟いた。
『どうして、解放されちゃいけないんだろう?』
 死後も続く贖罪の煉獄。何を持って許されるのかも分からない、混沌の中。この苦しみこそが罰であると納得し、理不尽だと嘆き、それさえも許されるのかどうか―――もう何も分からない。
 だから、聖杯を求めた。
 もう一度、自分にチャンスを与えてくれる。何も分からない中で、初めて自分を救ってくれる夢想の中の奇跡を願った。
 だから、どんな手段を用いようと、どんな犠牲を払おうと、必ず手に入れてみせると決意した。



 ―――だけど、ようやく分かったような気がする。



『俺は、誰も彼も救いたいんだ』
 初めて、彼女がその言葉を掛けてもらった時から。
 あの時、違った形で一番欲しかった物が手に入ったのかもしれない。
 だから―――。







「……人間は蟻を踏み潰しても気付かんだろう。それと同じだ」
 あの聞くだけで息苦しくなる威圧感を含んだ声が聞こえる。
 痛みが、意識を取り戻させてくれた。全身がバラバラになったような激痛を感じながら、頭は延々不吉を告げる耳鳴りを聞いている。
 しばらく這いずる事しか出来なかった。力を振り絞って顔を上げると、何故か左目が開かない。半分になった視界で周囲を見渡せば、爆撃を受けた跡のように地面が抉れ、歪んで変形している。その中心に蹲る自分にダメージがない筈がない。
「実感しただろう? 貴様が今我にとってどんな存在なのか。どれ程格の違いがあるのか」
 声の方に見上げれば、黄金の鎧を纏った男が全く変わらぬ姿で、全く変わらぬ位置に、変わらぬ仕草で佇んでいた。まるで最初に対峙した時から、彼の位置では時間が止まっているかのように。ただ変わり果て、ボロボロになっていくのは自分だけだ。
 ひれ伏すように倒れた自分と、それを見下ろす傲慢不遜な男の瞳。つい数分前と同じ巻き戻しの状況。足掻く事すら、あのサーヴァントの前では何の意味もない。性質の悪い一人相撲に過ぎなかった。
「……ごほっ、ごほっ!」
 咳き込む振動だけで砕けた骨が軋んで狂いそうな痛みが走る。吐き出した血は、地面に広がる全身の出血と一緒になって、一際大きな赤い池を作った。
 矢に貫かれた左足が動かない。手をついて体を起こそうとして、キャスターはようやく自分の左腕が肩からごっそり無くなっている事に気がついた。左半身が爆発の被害を最も大きく被ったらしい。わき腹の左側も引き攣ったような感触がある。
 左肩から先の喪失感を混濁した意識で理解しながら、それでも何かに取り憑かれたかのようにキャスターはよろよろと立ち上がった。
「……何故、立つ?」
 嘲りではなく、怒りを持ってギルガメッシュは立ち上がったキャスターを睨み付けた。
「無様で、惨めで、愚かしい。なまじ美しい顔を持つだけに、貴様のしている事はより醜悪だ。潔く死のうとは思わんのか、たわけめ!」
「思わないわ」
 力なく首を垂れたまま、キャスターはしかしはっきりと答えた。
 口を動かしながら、傷ついた体の治癒を行う。キャスターの耐久力は決して優れたモノではないが、その体にここまで傷を負い尚消滅しないのは、治癒の魔術と、その効果を倍化させる秘薬をあらかじめ飲んでおいたからだ。傷を負う傍から回復させるそれは、セイバーの治癒力に匹敵する。
 これまでの魔術の行使で、残された魔力は少ない。自分の体を解析して、重要な『破損箇所』を選び、短時間で回復させる。鎮痛なんてしている暇も力もない。不自然な程の速さで行われる肉体の復元が、新たな痛みを生む。ギチギチと肉が軋むように再生していく痛みを感じながら、それをおくびにも出さずにキャスターは顔を持ち上げた。
「私には、這い蹲ってでもやらなきゃいけない事があるのよ」
 血に塗れ、潰れた片目でギルガメッシュを睨みつける。
「そんなに、紛い物の聖杯を手に入れたいか」
 呆れたような声に対して、見当違いだと笑ってやる。
「違うわ」
 痛い。本当に痛い。泣き喚きたいくらいに痛い。それに左腕が吹き飛んでしまったのだ。自分の体が欠けてしまったのに、サーヴァントだろうとショックを受けないワケがない。
「私に、もう聖杯は必要ない」
 不吉な鐘の音に似た耳鳴りが続いている。それがそのまま警告に聞こえる。
「私はただ、その娘を助けたいだけ……」
 わかってる。よく知りもしない少女を助ける為に、この身を賭けて戦うなんて割に合わない。
「その娘を助けて、約束を果たしたいだけ……」
 わかってる。あの最強のサーヴァント相手なら、逃げ出したって誰も文句は言わないし、言う資格のある奴なんていない。
「大した事なんて、もう考えていない……」
 わかってる。本音は、今すぐここから逃げ出したいって思っている。
 わかっているんだ。
 ああ、だけど―――。


「……私はただ、誰か一人にでも胸を張って生きたいだけよ」


 あの少年のような生き方を、してみたいと思った。
「…………くだらん」
 不快そうにギルがメッシュが吐き捨てると同時に、その意に従うように背後から武器の軍団が出現した。繰り返された状況ながら、あらゆる要因が確信させた。これが最後だ。この一撃で全てが終結する。
 その瞬間の前に立たされながら、何かを決意した瞳のまま、微笑を浮かべるキャスターの姿がギルガメッシュの不快を更に煽った。
「笑えぬ道化に価値などない。失せろ」
 ゆっくりと持ち上げられる腕を見据えながら、キャスターは満身創痍の体に力を込める。
 完全な回復など間に合わない。片腕と片目は失われ、体の致命傷は負ったまま。だが、走る為の両足は既に回復している。ならば良い。残された右腕は、しっかりと宝具たる切り札の短剣を握る事が出来る。ならば良い。
 この体はまだ動く。ならば、諦めるにはまだ早い。
「ふん、<聖コランタンのナイフ>に連なる魔術解呪の宝具か。確かに、それならば契約を切り、我を唯一打倒できるだろう」
 だが、無駄だ。短剣を構えるキャスターを無感情に見下ろして、吐き捨てた。キャスターの身体能力と今の状態では遠すぎる互いの間合いが、その理由を暗に語っていた。この距離はキャスターにとって、絶対に埋められぬ無限に等しい。
「貴様は藁のように死ぬのだ」
 パチンッと機械的な指の鳴る音と共に、死刑宣告が下される。無数の刃が処刑刀のように、駆け出したキャスターに向かって一斉に殺到した。
 飛来する宝具の矢から逃れる為キャスターが横に逸れて駆ける。脚力を強化した疾走は、かつてない程素早かったが、当然のようにその高速で迫る矢の軌道から抜け出す事は出来なかった。
 始めに一本の短刀が横腹に突き刺さり、バランスを崩した所へ次々と、無慈悲な刃が突き刺さっていく。一瞬にして幾つもの宝具に貫かれたキャスターの小柄な体がゆっくりと崩れ落ちていった。
 しかし、そのハリネズミのような体が地面に倒れこむのを確認し終える前に、ギルガメッシュは鋭く虚空に視線を走らせた。そして視界に、空中から迫り来るもう一つのキャスターの姿を捉える。
「やはり<影>か。我にフェイクは通じぬと言ったであろう、愚か者が!」
 怒号と共に腕を振りかざす。その瞬間、短剣を振り下ろそうとしたキャスターの体が空中で次々と宝具の矢に貫かれた。剣が額を貫き、巨大な戦斧が胴体を両断する。内臓が納まる隙間を失くすくらいの刃が腹を埋め尽くしていった。
 空中で貫かれた肉塊。いや、それはもう血で塗れた幾つもの武器の塊に過ぎなくなっていた。
「ふんっ」
 ゆっくりと、浮力を失った風船のように落ちていく、その命の抜け殻を一瞥して、ギルガメッシュはつまらない舞台の終劇を見た後のように息を吐き捨てた。
 ―――そして、次の瞬間閉じかけていた眼を見開いた。
 ズタズタに引き裂かれたキャスターの遺体が、地面に墜落するのを待たず大気に溶けるように霧散する。それが、自分の気付かぬ間に全ての事態がキャスターの思惑通りに進行している事を理解する合図だった。空中から襲い掛かったキャスターこそ、魔術によって生み出された<影>だったのだ。
 初めて英雄王は動揺した。一瞬で何かに気付き、視線を最初にキャスターがいた場所へ走らせた時には、すでに彼女は目標までの距離をほとんど走り抜いた後だった。
 全身を宝具に貫かれたまま、キャスターは死に始めた体を引き摺って駆ける。まさに捨て身の作戦だった。初撃をあえて受け、奇襲した方こそがフェイク。
 短剣を握る腕は一本残っていればいい、両足に走る為に必要な力と部分が残っていればそれでいい、後はそれを動かす命が目的を達成するまで持てばいい。後は全部切り捨てて、即死に至らないのなら急所にさえあえて宝具の矢を受け、そしてキャスターはついに英雄王を欺いた。
 一歩走るたびに命が削れていくのを感じる。ガチャガチャと体に突き刺さった剣や槍がぶつかり合う非現実的な金属音が聞こえる。その中で、キャスターは自分の命を自分の魔力で支えて、ただ駆けた。
 ギルガメッシュがキャスターの動きに気付けなかった理由はもう一つある。それは、彼女の持つ宝具の標的が彼自身ではなかったという事だ。
 キャスターは横たわる桜の元へと向かっていた。
 自分を狙うものだと思っていたギルガメッシュはキャスターの行動に一瞬困惑する。反撃でも逃亡でもない、彼の知る『追い詰められた敵の行動』の中でも想定外のものだった。
 その幾つもの要因が重なったタイムラグの間に、キャスターは目的の場所までたどり着いていた。
 振り上げた刃に、残された魔力の全てを注ぐ。
「―――破戒すべき(ルール)」
 残された力で、万感の思いを込め真名を紡ぐ。
 視界の片隅で、ギルガメッシュが舌打ちと共に背後の空間から一本の赤い槍を打ち出すのが見えた。だが、そんな事はもうどうでもいい。心臓に向けて迫るその槍の回避など考えもせず、キャスターは腕を振り下ろす。
 細かい計算をしている暇はない。残された可能性はこれだけだ。出来る事はこれだけだ。この一撃で桜の体内に巣食う全ての魔術を消去する。
 引き出せるあらゆる力を使って声を絞り出し、キャスターは叫んだ。
「全ての符(ブレイカー)―――ッ!!!」
七色の光が、辺り一帯を照らした。




 その破戒の光が収まった時、全ては終結していた。
 間桐桜の胸に突き刺さった<破戒すべき全ての符(ルール・ブレイカー)>が、その刃に籠められた全ての魔力を出し尽くして、霧のように消滅する。もちろん桜の胸にはナイフの傷一つなかったが、短剣の放った破戒の光は確かに彼女の体に影響を及ぼしていた。
 間桐桜に埋め込まれた聖杯の欠片の影響を断ち切るには、その欠片に関する情報も、それによる肉体への影響や状態もあまりに解析不足だ。だが唯一、あらゆる魔術を問答無用に根本から初期化してしまう概念を持つこの刃にならば、そんな未知の部分など歯牙にもかけず聖杯の欠片の力を一方的に無効化する事が可能だ。
 そこから数メートル離れた位置で、キャスターは立っていた。自分の足ではなく、その胸を無残に貫き、地面に突き立った真紅の魔槍にぶら下がるように、串刺しになって尚佇んでいた。
 その光景を、ただ一人僅かに顔を顰めたギルガメッシュが屋根の上から見下ろしていた。
「……どういうつもりだ?」
 王たる者の気質として、決して困惑した表情など見せなかったが、ギルガメッシュはキャスターの意図を図りかねて疑問を口にしていた。
 キャスターがとった行動はギルガメッシュを攻撃する事ではなく、桜を聖杯の欠片から解放する事だった。
 彼女の宝具は確かにその効果を発揮していた。
 本来ならば意味のない聖杯の欠片を変質させ、体内に埋め込み、その内部構造を聖杯のソレへと変質させていく。当然そこには、聖杯の欠片を作り変えた魔術的な技術が存在する。それを、キャスターは<破戒すべき全ての符(ルール・ブレイカー)>によって完璧に初期化していた。
 それがどんな物なのか、どんな魔術なのか、またどこに埋め込まれているのか、何も理解できていない。そんな曖昧な対象でありながら、それを力技で解呪していた。
 過剰に魔力を注ぎ込まれた宝具の効果はオーバーロードして桜の身体全体を覆い尽くし、その身に宿る魔術を全て破戒してしまっている。魔術回路にまで影響し、桜の魔力が減退して衰弱しかけている程だ。
 ギルガメッシュは完全にその機能を停止し、単なる無機物と化した聖杯の欠片を確認していた。
「なるほど、英霊唯一の宝具だけある。通常の力以上の効果が発現したな。
 ―――だが、それがどうした? 貴様は我を打倒出来たワケでも、まんまと逃げ果せたワケでもないぞ」
 依然、彼女達の命はギルガメッシュの手のひらにある。何も状況は変わりはしない。むしろ既に終わりかけている。視線の先で槍に貫かれたまま、まだ辛うじて虫の息を繰り返すキャスターがこの状況から脱出できる可能性など皆無に等しかった。
 キャスターは顔を上げる。かつて自分の主との契約を自ら切った時に感じたものと似た感覚を覚える。そう、これは自分の体が消滅していく感覚だ。だが魔力の供給が切れ、言わば燃料切れを起こした機械と同じ状態だったあの時とは違う。機械の中枢に致命的なダメージを負って、壊れて停止しようとしているのだ。
 自己治癒の魔術は、もうほとんど意味がなかった。サーヴァントの霊体にとって核となる基点は頭と心臓だが、その心臓を完膚なきまでに槍の穂先が破壊している。もう自分は底に穴の開いたバケツと同じだ。
 それでも、キャスターは残された魔力で僅かでも肉体を維持して、不敵な笑みを浮かべながらギルガメッシュを見上げた。
「…………っこれで、マトウ・サクラの……聖杯としての機能は失われたわ。そこに倒れているのは、何処にでもいる小娘よ……」
 ただ声を出すだけで、命を支える力がごっそり無くなっていく。しかしそんな事はおくびにも出さず、努めて滑らかに言葉を紡いだ。
「そう……殺したところで、刃の錆にもならない小娘よ……英雄王?」
 言って、どこか挑発的に、そしてギルガメッシュを試すようにキャスターは微笑を浮かべた。
 眼を見開く。すぐにキャスターの意図を理解した。彼女はギルガメッシュの王としての信義と自信を利用して、言わば口八丁で彼を乗せようというのだ。
 絶望的な戦力差の中で、キャスターの取れる最後の賭けだった。
「ふ……っ、ふはははははははははっ!!」
 全てを理解して、ギルガメッシュは心底愉快そうに笑い声を上げた。それは傲慢で不遜で、そして快活な響きを持って夜の静寂を破った。
「小賢しい魔術師め、よかろう! その挑発に乗ってくれるわ。もはや、その小娘には何の価値もない」
 笑みを浮かべたままギルガメッシュが掲げていた腕を下ろすと、周囲に浮遊していた無数の宝具は軍が撤退するように速やかにその姿を消していった。同時にキャスターを貫いていた槍も消失し、傷ついた体が力なく地面に倒れこむ。
 地面を舐めるはもう願い下げだったので片腕で身体を支え、キャスターは予定通りに事が進んだ事に小さく安殿のため息を吐き出した。
「なかなかの余興だったぞ。褒美として、我を攻撃した貴様も特別に見逃してやろうと思ったが―――」
「結構よ……自分の体は、よくわかってるわ…………」
 痛みはとっくに通り過ぎ、何も感じない身体をかろうじて立ち上がらせる。体は回復させる傍から崩壊し始めていた。ギルガメッシュが手を下すまでもなく、キャスターはすぐに消滅してしまうだろう。
 だが、恐怖も悔いもなかった。これまで感じた事のない、一種の清々しさすら感じていた。
「一つ聞こう。何故、そこまでしてあの娘を助けた? 貴様の無謀な行為の数々は、知略に長ける<キャスター>らしからぬものばかりだ」
 何でもない、ほんの僅かな好奇心から尋ねるギルガメッシュの問いに、既に視力を失い始めた眼で虚空を見据えながらキャスターは考えた。何故だろう。もう、はっきりと理由を思い出す事も出来ない。

「…………過去を、消したいと……ずっと思ってたのよ。昨日の事さえ、無しに出来はしないのに……」

 するすると、隙間から洩れるように言葉が流れていく。

「何をしても、例え聖杯を手に入れても……失った物は、何も戻って来はしない……」

 この今にも消え去りそうな体の中で。少しだけ。ほんの少しだけ変わったような気がする。

「だけど、この罪に塗れた手で……誰かを、私のような悲しみから解放出来たのなら……」

 それは、本当に僅かな一歩だけれど。

「私は、少しだけ……自分を許してあげられそうな気がするの―――」





 黄金のサーヴァントが、音もなく地上に降り立つ。瀕死のキャスターと対峙するその右手には、いつの間にか一本の剣が握られていた。刃の周囲の空気が霜となって凍りつく程の冷気を常時身に纏った、氷の魔剣だ。
 その刃を一振りすれば、放たれた氷の魔力が射線上のキャスターを一瞬にして美しい氷の柩に封じ込めるだろう。それに抵抗する力など、彼女にはもうない。
 消えていくキャスターへの介錯か、あるいはその美貌が無残に傷つけられたまま消えていく事に嫌悪を抱いたのか。いずれにせよ、ギルガメッシュは彼なりの慈悲を持って、キャスターに有終の美を与えようとしていた。
 剣が振りかぶられる。
 それを見据えるキャスターは静かに眼を閉じた。こんな時まで冷静に考えている内容は、横たわる桜と十分な距離が取れているから、彼女が余波によって被害を受ける事はないだろう、という場違いな安堵だった。
「さらばだ、魔術師」
 英雄王が厳かに告げる。その宣告を、キャスターは驚くほど穏やかな心で受け取り―――。



「キャスターァァーーーッ!!!」
 野獣の唸るような排気音が柳洞寺の石段を駆け上がり、そのまま空高く飛び上がったモンスターバイクに跨ったダンテの声が二人の間に鋭く割って入った。







 初めて会った時と同じ。その真紅の悪魔は嵐のように彼女の前に現れた。
 空回りするタイヤが大気を切り裂く。その鋼鉄の馬は月に届けとばかりに高く、雄々しく跳躍していた。
 グリップを全開に捻り、獣のような殺気立った視線で眼下の黄金のサーヴァントを睨み付けると、ダンテは空中でバイクのシートから腰を上げた。ハンドルを握るその両腕には、すでにイフリートの篭手が具現化し、闇の中で映える地獄の炎を纏っている。スローモーションに進む時間の中、ダンテが雄叫びを上げてバイクの横腹に蹴りを叩きつけた。
 インパクトの一点で轟音と共に爆発が起こり、蹴りを受けた200キロを超える車体が砲弾のように弾け飛ぶ。空中で炎に包まれ隕石のように加速した鋼鉄の塊は一直線にギルガメッシュへと突っ込んだ。
「ふんっ」
 それを一蹴する。身構える素振りも見せず、ただ片手を無作作に振るうだけで彼の軍隊が飛来する脅威を迎撃した。打ち出された幾つもの剣が一瞬で車体を貫き、跡形もなく爆発四散させ、空中で炸裂した炎が夜空を覆うように広がった。
 その爆発を挟んで対峙するように、キックの反動から見事着地したダンテが仁王立ちするギルガメッシュに鋭い眼光を叩き付ける。
「ダンテ!?」
「ちょっと、何……っ!?」
 石段の方向から、幾つもの声が上がった。遅れて駆けつけた士郎や凛だ。それぞれ、お互いのサーヴァントに抱えられる形で移動していた。
「ほう、思わぬ時に会ったな。セイバー」
 突然の乱入者に対して、しかしギルガメッシュが注視したのは奇襲を仕掛けたダンテでも士郎達でもなく、その傍らで信じられないと言った表情のまま彼を見据えるセイバーただ一人だけだった。
 それまでの状況や展開が全て彼にとってどうでも良くなったかのように、セイバー以外の存在が眼中から消え失せている。
 だが、それは士郎とダンテも同じ事だった。彼らの瞳に目の前の圧倒的な敵の存在など映ってはおらず、その少し離れた場所で力なく崩れ落ちる、変わり果てたキャスターの姿だけが焼き付いていた。
「キャ、スター……」
 士郎が震える声で呟く。怒りよりも悲しみよりも先に、絶望が滲み出た。
「馬鹿な……なぜ貴方が現界しているのですか、<アーチャー>」
「10年越しの言葉がそれか、セイバー。……いや、おまえにとっては昨日のことのようなのだったな」
 傍らでセイバーがその正体不明のサーヴァントを知っているかのように話す声が聞こえる。だが、士郎はそれを疑問に思う思考力を失っていた。
「……っ、キャスター!!」
「あ、士郎待って!」
 凛の制止の声も聞かず、士郎は駆け出す。全く同時にダンテも走り出している。それに気付いて、セイバーは背筋が凍るのを感じた。
「いけません! 危険です、シロウ!!」
「我と話している最中に、雑種など気に掛けるな。セイバー」
 明らかに不服と不機嫌を露にするギルガメッシュ。その視線が、つまらなそうに、興味のないものを仕方なく見るように士郎を捉える。
 そして、彼は虫を潰すように指を鳴らした。
 <矢>が放たれる。一瞬膨らんだ殺気と威圧感があまりに圧倒的なものだったので、士郎は反射的に気付く事が出来た。飛来する一条の銀光を一瞥し、それが自分の心臓を確実に射抜く死の神秘である事を察知する。
 だが、今はどうでも良かった。恐怖よりも自分を突き動かす感情が在る。恐ろしく自分の命に無頓着になり、ただ自分がキャスターに駆け寄る事を妨げる障害は何人たりとも許せない気持ちが湧き上がっていた。
「うおおおおおおおっ!!!」
 裂帛の気合いと共に、士郎が腕を振るう。硬い金属音と火花が散り、士郎の心臓を射抜くはずだった鉄の閃光は、一瞬にして右手に握られたリベリオンによって弾かれていた。軌道を逸らされた矢は士郎の腕を掠めて切り裂くだけに留まる。宝具の矢とぶつかり合ったリベリオンは、使い捨ての粗悪品のように一度で粉々に砕け散った。
「何……?」
 不快そうに顔を歪めるギルガメッシュ。膨らむ殺意。それを無視する。腕から噴き出す鮮血に顔を顰めながら、しかし士郎は足を止めなかった。
 その背後で、もう一つの雄叫びが上がる。
「■ォ■オ■■オオ■■■ォーーーーっ!!!」
 それははっきりと、野獣の咆哮だった。
 火山が噴火するような圧倒的な勢いで火炎の魔力が噴き出す。駆ける足を止め、その両腕に宿る力を完全に解放し取り込んだダンテが、爆炎の魔人と化して異形の眼光で一直線にギルガメッシュを見据えていた。腰溜めに構えた両手のひらには、凄まじい魔力がマグマのように脈動して集結しつつある。
「あれは……っ!」
「ウソ!?」
「いかん!」
 ダンテ達の後を追うように駆け出していた三人は、夜を昼に変える赤い魔力の輝きに慌てて足を止めた。
 次の瞬間、その手の中に生み出された巨大な火球は轟音と共に撃ち出された。突き出された左腕が砲身となり、発射された砲弾は小規模な隕石のように炎の軌跡を残してギルガメッシュに直進する。
「ちっ!」
 さすがにこの火球を無防備に受けるつもりはなかったか、初めて焦りのような感情を見せてギルガメッシュは背後の空間から自らの持つ最硬の盾を引き出した。
 ダンテは直撃の瞬間を確認せず駆け出す。轟音が鼓膜を叩き、爆発の光と熱が肌を刺しても意に介さず、二人は倒れ伏したキャスターの元へと駆けつけた。
 ダンテがキャスターを守るように立ち塞がり、士郎がうつ伏せに倒れたキャスターの体を抱き起こす。
「キャスター、しっかりし……っ!」
 言いかけて、視界に飛び込んできた惨状に士郎は喉を詰まらせた。
 手のひらをあっという間に覆い尽くした血の赤色。抱き上げた体が軽い。キャスターの体から、幾つもの何かが無くなってしまったかのように軽いのだ。
 眼を閉ざした姿は、死んでしまったかのように静かだった。
「う、あ、あ、……こんな…………っ」
 全身から力抜け、喉の奥から苦い痛みが込み上げてきた。士郎は目の涙と口の唾液を拭った。痙攣しそうになる肺を叱咤して、呼吸を整えようと大きく息を吸い込む。
 だが、次の瞬間腹の底から叫んでしまいそうになった。神様、何故こんな―――!
「おい、キャスター! 寝てる場合じゃねえだろ、しっかりしろっ!!」
 ダンテは激しい怒声を張り上げていたが、その怒りが目の前の現実への不安と恐怖から来るものだと自覚していた。左腕が疼く。急速に自分とキャスターを繋ぐラインが薄れていく感覚をダイレクトに感じ取って、ダンテは士郎よりも遥かに具体的な絶望を味わっていた。
「雑種が……」
 そして炎の中から、ゆっくりと遜色ない黄金の輝きが姿を現す。周囲に燃え滾る炎がそのままギルガメッシュの心を表し、鬼神の如き怒りの表情を刻んでいた。
「つけ上がるなっ!」
 黄金の獣が怒りの咆哮を上げる。右手に握っていた氷の魔剣を振り上げれば、ただそれだけで空中を薙いだ刃が周囲の空気を凍結させ、炎は一瞬で凍りついた。
 ダンテ達に向けて、刃が振り下ろされる。刀身から凍てつく冷気が放たれ、矢のようなブリザードとなって標的に襲い掛かる。
「うるせえっ!!」
 相対する悪魔もまた吼えた。
 苛立ちを爆発させるように、炎を纏った腕を足元の地面に叩き付ける。それを支点にして、ダンテの周囲に地獄が具現化した。まるでその領域だけが異界と繋がってしまったかのように、円状に凄まじい豪炎が吹き上がり、炎の波紋となって空気を焼き尽くす。
 相反する性質を持つ二つの力の激突は一瞬だった。氷の牙は圧倒的な地獄の業火(インフェルノ)に飲み込まれて消滅した。そして、ダンテが限定的に生み出した地獄もまた一瞬のかりそめのように消失していく。
 同時に蓄えた魔力を全て使い切ったイフリートの篭手は炎を緩め、ダンテを覆っていた魔人の力が消える。
 逆転した形勢で、自らの攻撃を取るに足らない存在が二度も防いだ事に激怒するギルガメッシュ。しかし、彼がダンテと士郎を消滅させる前に、立ち塞がるようにしてセイバー達が駆けつけた。
 それで、ようやく戦いが静止した。
 緊張感を滲ませるセイバーと、敵だという事以外全く不明の不気味なサーヴァント相手に困惑する凛。黙するアーチャー。多対一でありながら、状況は拮抗している。そして、多勢を相手に対峙するギルガメッシュが視線を向けているのはセイバーただ一人であった。




 セイバーがいた事でギルガメッシュの敵意が士郎達に向けられなくなった事。ダンテがイフリートの力を解放した事で、一時的にだがラインからキャスターに流れ込む魔力が増大し、それに伴って自己治癒が促進した事。幾つかのささやかな幸運が重なって、キャスターはもう一度だけ眼を開く事が出来た。
 赤く滲んだ視界の中に、食い入るように瞳を覗き込む士郎とダンテの姿がある。彼女の主が、普段見せない蒼白な顔色を浮かべているのが可笑しくて、キャスターは思わず苦笑していた。
「キャスター……」
 士郎が震える声で呟く。信じたくなかった。認めたくなかった。目の前で横たわる血まみれのキャスターが悪い幻覚か何かだと思いたかった。そして、本当にそうであるように、彼女の体は幻のように消え始めていた。地面に広がった血溜りが、まるで蒸発するように消えていく。
 しかし、それに安心する事など出来はしない。消えるという事は、本当にそのままの意味なのだ。キャスターが消滅してしまうという『現実』なのだ。
 士郎は、もうどうすればいいのか分からなくなって、ただ目に刻んだ。消えていく彼女の姿を縫い止めるように刻み付けた。
「……」
 ダンテは、ただ無言だった。普段の豊かな表情を鉄のように固めて、激情の炎を奥に押し込んだ瞳でキャスターを見ていた。
 今すぐにでも爆発しそうになる感情の塊を、必死の想いで飲み下す。それは大変な労力を必要とした。吐き出してしまえれば、どれ程楽な事か。だがもう、無力な自分に出来る事はこの塊を腹に抱え、彼女を穏やかに逝かせてやるぐらいしか思い浮かばなかった。
「ああ、悪く……ないわね。誰かに包まれて……眠るというのは……」
 定まらない焦点で虚空を見上げて、残された右手をゆるゆると持ち上げる。それをダンテの左手が力強く握り締めた。薄れていく左手の令呪を繋ぎ直すように。
「キャスター……死ぬな」
 嗚咽交じりの声で、士郎は必死に紡いだ。それを聞いて、キャスターは普段彼女が士郎に向けるように微笑する。
「馬鹿ね、坊や……。英霊は、既に……死んだ存在よ……。死なんて……存在しない…………ただ、<座>に還るだけ……。もっと、勉強しなさい」
「だけど、それでも……っ!!」
 士郎は慟哭した。英霊の事は凛から学んで聞いている。
 だがそれでも、今いる彼女が消えてしまうのは確かではないか。この襲い来る喪失感と痛いほどの虚無感の理由がようやくわかった。彼女はもういなくなってしまうのだ。永遠に、失われてしまうのだ。
 例え、その本体が別の場所にあり、彼女に明確な消滅などなくていつかまた全く同じ存在と出会う事になったとしても、それはもう彼らの知るキャスターではない。ダンテをあしらい、信頼し、士郎をからかい、そして優しく諭してくれた。その想いも記憶も全て持っている彼女は、しかしもう二度と戻っては来ないのだ。
 それが<死>でなくて何だというのか。
「悲しまれても……困るわ。私は、ちゃんと約束を……果たしたのだから……笑って、頂戴…………」
 いろいろ問題もあったけれど。大丈夫、それも含めて全て解決してみせた。
 誇らしげに笑みを浮かべて、キャスターは近くに倒れた桜を見る。桜の傍らで体の状態を見ていた凛が安堵の表情を浮かべていた。それが、桜が無事である事を証明している。
 キャスターは清々しい気分だった。聖杯を手に入れる事も出来ず、志半ばで倒れながら、今自分は酷く穏やかな気持ちでいられた。
 だが、自分自身に追い詰められた士郎はそれに気付けなかった。
「俺は……、俺が……っ!!」
 自責の念が再び士郎を埋め尽くす。また一人、自分の理想の犠牲になった。慎二を逃がし、桜を救えず、あげくその尻拭いでキャスターが死に瀕している。
 この理想は、間違っているのではないのか―――。
 士郎の信念が揺らぐ。全てを救おうなどという傲慢な考えが、誰かを巻き込み、殺しているのではないか。お前が何もしなければ、存在しなければ、あるいはその死を回避出来たのではないのか―――。
「やめて頂戴」
 それまでの消え入りそうな声ではなく、はっきりと迷いを断ち切るように、キャスターの声が届いた。
 向けられた真摯な瞳に気付き、士郎は放心したようにそれを見返した。
 苦しそうに歪められていた唇が緩み、笑みを形作る。それは以前、現実に打ちのめされ、同じように疲弊した自分を救い上げてくれたキャスターの、あの優しい笑顔とまったく同じものだった。
「昨日の後悔さえ……どうする事も……出来ない。だけれど……アナタの想いは…………決して間違いなんかじゃない」
 涙を流しながら彼女が微笑む。嬉しそうに。
「私に、とって……アナタの理想は……間違い……なく……『救い』だったのだから……」
 救えないものが在る。救えない現実が在る。だけど、全てを救おうという心にしか、助けられないものも在る。
 神に、愛する人に、運命にさえ裏切られた彼女に初めて手を差し伸べてくれたのは、確かにその『想い』だったのだから。
 士郎の視界が滲んだ。涙が止まらない。何故だろう。
 自分が彼女を救ったというのなら、彼女もまた自分を救ってくれたのではないか。『助けること』と『救うこと』の違いが、今ようやくはっきりとわかったような気がする。
「ああ、疲れたわ……」
 ゆっくりと、キャスターは瞼を降ろし始めた。士郎が何かを言いかけ、止める。ダンテが更に力を込めて手を握り締めたが、それに反して手のひらの感触は徐々に薄れていった。手袋を脱ぎ捨ててキャスターの手を包み込んだが、もう体温さえはっきりと感じ取れない。終わりが近い事を示していた。
 ダンテの頭の中に、キャスターと初めて出会った時の情景が思い浮かぶ。死に際に思い出すような光景だ。それがどうしても癇に障り、止めたくて、危うく自分のこめかみを銃で撃ちそうになった。
「マスター……」
「何だ? ああ、後マスターってのはやめろ」
 内心の激情に反して、ダンテはいつもの軽口を叩きながら静かに笑みを浮かべた。それは彼に酷く似合わない、空っぽの微笑だったが、そんな無理をする彼の様子が嬉しくて、キャスターは終始笑顔のままだった。
「なかなか……愉しかったわ……ダンテ…………」
 眠るようにゆっくりと言葉を紡ぐ彼女の様子が、これまで出会ってきた多くの人間の死に繋がる。全ての始まりは彼の母親であり、そして今は共に戦ってきたパートナーだった。
 ダンテはこれまで多くの人間にそうしてきたように、優しい笑みを浮かべながら握った手に力を込めた。
「あばよ。良い夢をな」
 キャスターはその言葉を聞いて、最後に一度だけ微笑を浮かべた。
「そう、ね……。でも、たぶん……これが……<良い夢>だったの……よ…………」
 それが、彼女の最後の言葉になった。
 眠っているような、穏やかな表情だった。
 士郎の口から慟哭が飛び出す前に、キャスターの体は静かに消滅していった。ダンテが握る手に感じていた体温も、抱き上げた士郎の腕を真っ赤に塗らしていた血も、その痕跡も何もかも残さず、最初からそこに存在していなかったかのように跡形もなく消え去ってしまった。
 何も無くなった、キャスターが横たわっていた筈の地面を必死で弄り、士郎は子供が親に縋るような瞳でダンテを見上げる。
 ダンテは自分の左手を見つめていた。その手の甲に刻まれていた令呪が、今はもう跡形もない。その手を握り締める。ギシギシと拳の骨が軋みを上げても、何も返って来ない。皮膚を突き破って尚食い込む爪から流れる血が、虚しく地面に落ちた。もちろん、その血は消えなかった。
 その場にいる全員が、理解していた。キャスターの<死>を。


 そして、ようやく思い出したかのように、士郎は眼上の月に向かって慟哭の声を上げた。






「あ―――」
 不意に心臓付近を襲った僅かな鈍痛に、イリヤは思わず声を漏らしていた。口元に運ぼうと掴んでいたティーカップが短い距離を落下し、少々乱暴な音を立てて受け皿に落下する。丁度持ち上げようとしていた所だったので、カップが割れるような惨事にはならなかったが、入れられたばかりの紅茶が白い湯気と芳香を上げてテーブルに零れた。
「お嬢様?」
「―――あ、うん。ごめん、ちょっと力入らなくなっちゃって」
 丁度ティーポットを台車の上に乗せ終えたセラは、普段の無表情に不安そうな面持ちを見せて、イリヤの様子を覗き込む。その視線からくすぐったそうに顔を背けると、イリヤは安心させるような笑みを浮かべた。これまで他人に気を遣った事などないイリヤには、自分の笑顔が果たしてこれでいいのか自信が持てなかったが。
「サーヴァントが、一人やられたみたい」
 胸に残る痛みの余韻を手で押さえながら、イリヤは呟いた。その答えに、セラは皆まで聞かず心得たように頷く。
 淀みのない流れるような動きでテーブルを拭き、新しいカップに紅茶を入れて音も無くイリヤの前に差し出すと、そのまま淵の汚れたカップを洗う為に部屋のドアへと向かった。
 途中、イリヤの部屋にも関わらず、我が物顔でソファーを陣取ったリーズリットを睨みつける。
「リーズリット、貴女も手伝いなさい」
「ごめん、忙しい」
「銃の手入れは自室でしなさい!」
 かわいい壁紙とぬいぐるみに囲まれた部屋の中で、オイルの異臭を放ちながら、無表情に鼻歌まで歌って拳銃の分解整備をしているリーズリットに馴染んだ拳骨を落とす。双子のように似通った二人だが、スタイルの一部と従者としての勤務態度に関してのみ著しい差があった。
「イリヤの話し相手、してたのに」
 口を尖らせて、文字通りブーブー言いながらリーズリットが引き摺られていく。
「何かございましたら、お呼び下さい」
「うん、ありがと」
 セラの心遣いに礼を言う。
 まだ心が少しざわついている。体の中に自分以外の何かが入ってくる異物感は、決して心地の良いものではない。この身を別のモノが満たす代わりに、スペースを作る為何かを失くさなければならないのだ。
 自分でもよく分からない感情のざわめきを落ち着かせる為に、今は一人になりたかった。
 二人の従者が部屋を出て、一人部屋に残されたイリヤは、静まり始めた鼓動を感じながら窓の外を見上げた。
 月が遠い。
 今日、聖杯戦争が一つ終わりに近づいた。
「……キャスター、か……」
 サーヴァントが消えるのは、聖杯戦争において至極当然の事だ。
 しかし、この胸に去来する僅かな落胆と悲しみはなんだろう。









「……もう一回、ちゃんとお話してみたかったんだけどな―――」











―――第五回聖杯戦争。クラス「キャスター」 真名「メディア」 脱落。残り6人(イレギュラー+1) 


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