ACT19「罪と罰」



<ヒーロー>の条件がある。




 誰かを助ける事。
 誰かを守る事。
 その為の力を持っている事。


 そして、誰かのピンチには必ず駆けつける事。


 俺が思いつくのは、それくらいのものだ。
 テレビの中のヒーロー達は、皆その条件を満たしていた。


 だけど―――。


 誰かを救いたいという気持ちだけで、何かが出来るわけじゃない。
 全てを知るその瞬間まで、わかりはしなかった。




 正義の味方にとって、無知である事が既に罪であると―――。







 それまで築いてきた日常が壊れていく音を聞いた。
「桜が……魔術師だって?」
 引き攣った笑みを浮かべる。それが性質の悪い冗談なら、士郎は今がどういう状況か分かった上でも喜んで受け入れただろう。
 しかし、彼がゆっくりと動かす視線の先で、凛は眼を伏せて唇をかみ締め、桜は涙を浮かべながら顔を背け、そして慎二は心底楽しそうな笑みを浮かべていた。
「何言ってんだ……」
 握り締めた剣の感触が唯一心と現実を繋いでくれる。だが、同時にこれが夢だと思いたかった。
「何言ってんだっ!!」
「本当さ、魔術師の血が枯渇した<マキリ>に十数年前養子に出された<遠坂>の子供。それが桜なんだよ」
 慎二がいっそ憎しみが湧くほど平坦に告げた。
「魔力を持たない僕の代わりに桜は間桐の正式な後継者に選ばれた。ああ、この事について昔は恨んでたけどさ、今は別にどうでもいいから。
 ま、とにかく桜は全部知ってたんだよ。魔術の事も、聖杯戦争の事も、衛宮が魔術師だって事も全部さ。全部承知で衛宮に近づいたんだ、何も知らない振りして」
「兄さん、やめて! それ以上先輩に喋らないでっ!!」
 慎二の死刑宣告にも似た言葉と桜の悲痛な叫びが、何処か遠くの出来事のように聞こえる。
 いつの間にか、手の平から剣が零れ落ちていた。敵はまだ要るというのに、この手に武器を握ることが急に不必要に思えてしまった。
「ああ、後さ。遠坂ならもう薄々気付いてると思うけど、ライダーを召喚したのも桜なんだよ」
「兄さんっ!!」
「気付かなかったかい、衛宮? 苦しんでる桜の姿なんて、想像もつかなかっただろ? なあ、何とか言えよ! お前一人だけ何も知らないでさあ、とんだピエロだよね! あはははっ!」
「……しん、じ」
 揺れる瞳で士郎は慎二と桜の二人を仰ぎ見る。嘲笑が、驚くほどすんなり心の中に入ってきて、自分も自身を笑ってやろうかと思えるほどだ。
「衛宮、お前桜の事をどう思ってたんだ? 何も知らずに笑い合ってさ。でも桜ははお前の知らない所でずっと苦しんでたんだよ。マキリの魔術に適応する為に、ずっと前から体の中に気色の悪い蟲を何匹も棲みつかせて、髪の色まで変えられて、ほとんど人体改造と同じだよ。ウチの爺さんが飼ってる性質の悪い蟲でさ、自分が枯れてるもんだから桜の魔力を片っ端から吸い上げてる。その負担にずっと耐えてきたんだよぉ、桜は。お前に会うよりずっと前からね!」
 言葉の刃が士郎を切り刻む。
「さくら……」
「せん……ぱい……っ」
 ああ、何故彼女はそんな申し訳なさそうな顔をするのだろう。何故自分の為に泣くのだろう。いっそ笑ってくれてかまわないのに。
 何も知らずに生きていた日々の陰で、少女が苦しんでいる事にまったく気付かなかった。
 桜がどんな目にあっていたのかを知って、今までの時間を思い返すと、気が狂いそうになる。桜は笑っていた。いつも穏やかに微笑んでいた。それがどんな痛みの上にあるのかも知らず、自分はそれを日常として、当然のように甘受していた。
 あの笑顔が本物だったのか、偽物だったのかなんてどうでもいい。ただ、あんな風に笑っていながら、痛みを隠し続けていた桜を想う。そして、それを救えなかった原因は何であったか。
 知らなかったからだ。ただ、自分が無知であったからだ。
<正義の味方>という夢に語る度に、目の前の彼女達は自分をどう思っただろう。綺麗な理想ばかりを語って、目の前で助けなければならない人がいながらそれに気付きさえしなかった。
『正義の味方は、自分が味方をした人しか救えない―――』
 遠い日、父であり理想である切継が告げた冷たい現実。それを必死に否定していた、ただのガキだった自分。
 何もかもが滑稽に見える。誰に味方をすべきだったのか、それすらも知らないで自分は―――!
「俺は……っ」
 まるで懺悔をするように地面に膝をついた。傍らで凛が何かを言っているが、それが罵声なのか叱咤なのかそれすらも分からない。
 何も分からなくなっていた。
「なあ、衛宮。僕も自分のやった事を棚に上げるつもりはないけどさ、桜は随分苦しんでたよ。マキリの魔術はさ、本当に苦しいものなんだ。体の中を蟲が這いずる感覚なんて想像も出来ない。それを10年以上、何も知らない大切な『先輩』に隠してさ。ずっと続けてたんだよ、桜は!」
 哄笑交じりの慎二の声だけがやけにクリアに脳に入っていく。
「お願いだからやめて、兄さん! これ以上先輩を傷つけないでぇ!!」
 泣き喚きく桜の声が絶望に染まっている事が分かる。それなのに、今更自分には何が出来るか分からない。
 これまで信じてきたモノが、全て崩れていくのを感じた。
 許しを乞うように、額を地面に擦り付ける。
「……なあ、衛宮。これからどうする?」
 答えられない。
「<正義の味方>なんだろ?」
 答えられない。
「どうするんだよ、なあっ!? どぉするんだよぉぉおおおおーーっ!!」
 爆風のような衝撃波が無抵抗な士郎の体を打ち据えた。体内で肋骨が折れる音と凶暴な風の雄叫びを聞きながら、士郎は木の葉のように吹き飛ぶ。そのまま縁側の雨戸をブチ破って屋敷の中へと突っ込んだ。
 凛と桜の悲鳴のような声が聞こえた気がしたが、それを理解するより速く意識が焼き切れる。脳がこれ以上考えることを拒否するように。


 本当に、もう何もわからなくなっていた。







始まりの刑罰は五種―――。



 目の前で大切な人が哭いている。それは誰のせい?



生命刑、身体刑、自由系、名誉刑、財産刑、様々な罪と泥と闇と悪意が回り周り続ける刑罰を与えよ『断首、追放、去勢による人権排除』『肉体を呵責し嗜虐することの溜飲降下』『名誉栄誉を没収する群体総意による抹殺』『資産財産を凍結する我欲と採決による嘲笑』死刑懲役禁固拘留罰金科料、私怨による罪、私欲による罪、無意識を被る罪、自意識を謳う罪、内乱、勧誘、詐称、窃盗、強盗、誘拐、事象、強姦、放火、爆破、侵害、過失致死、集団暴力、業務致死、過信による事故、誤診による事故、隠蔽。益を得る為に犯す。己を得る為に犯す。愛を得る為に犯す。得を得る為に犯す。自分のために



 脳裏に焼き付けられるその無数の罪状。
 目の前には蟲。目の前には自分。蟲に蹂躙され、悲鳴を上げる自分。
 かつて兄だった人に蹂躙される自分。涙を流す自分。



窃盗罪横領罪詐欺罪隠蔽罪殺人罪器物犯罪犯罪犯罪私怨による攻撃攻撃攻撃攻撃汚い汚い汚い汚いお前は汚い償え償え償え償えあらゆる暴力あらゆる罪状あらゆる被害者から償え償え『この世は、人でない人に支配されている』罪を正すための両親を知れ罪を正す為の刑罰を知れ。人の良性は此処にあり、余りにも多くあり触れるが故にその総量に気付かない。罪を隠すための暴力を知れ。罪を隠すための権力を知れ。人の悪性は此処にあり。余りにも少なく有り辛いが故に、その存在が浮き彫りになる。百の良性と一の悪性。バランスを取るために悪性は強く輝き有象無象の良性と拮抗する為強大で凶悪な『悪』として君臨する。始まりの刑罰は



 罪。間桐桜の罪。
 傍らの兄が容赦なく現実を大切な人に叩きつけていく。正義の味方を目指す強い人。不器用だけど優しい人。その人が跪いている。懺悔をするように力なく首を垂れ、断頭台の刃を受け入れる罪人のように。
 悲しかった。強い人。優しい人。綺麗な人。そんなあの人が今こうして絶望に蝕まれているのは、彼を笑いながら糾弾する兄ではなく自分のせい。隠し切れなかった自分のせい。全てを話す勇気を持てなかった、あの人の傍にいる日常が壊れる事に怯えて何も出来ずただ先延ばしにしていた自分のせい。
 汚い。汚い汚い汚い私は汚い。間桐桜は罪人だ。



自分のために■す自分のために■す自分のために■す自分のために■す自分のために■す自分のために■す自分のために■す自分のために■す自分のために■す自分のために■す自分のために■す自分のために■す勧誘、詐称、窃盗、強盗、誘拐、自傷、強姦、放火、侵害、汚い汚い汚い汚いお前は汚い償え償え償え償えあらゆる暴力あらゆる罪状あらゆる被害者から償え償え



 そうだお前のせいだ全部お前のせいだ。先輩助けて。お前に助けを乞う資格などあると思うのか。姉さん助けて。お前にそう呼ぶ資格などあると思うのか。
 目の前で戦う二人の姿を見て自分は確かに喜びを感じていたのではないのか。生と死の狭間にいる二人を見てその危険な状況で戦ってくれる自分の為に戦ってくれるその事にお前は歓喜していたのではないのか。二人が自分の為に傷つき倒れる様を想像して奇跡のように自分を救い出してくれる様を夢想してお前は一人で悦に浸っていたのではないのか。
 違う。
 そして同時に妬んでいたのではないのか自分の実の姉を。強く美しくそして今もまた大切な彼の傍で戦い彼を『士郎』と呼び彼に信頼される二人の絆にお前は醜い嫉妬すら抱いていたのではないのか。
 違う違う。
 汚い。
 違う。
 汚い汚いお前は汚い違う汚い罪人めお前はこれからもっと罪を犯す違う救われる価値などない全てはお前のせいお前の罪。故に。






―――『死んで』償え!!!!






「いやぁああああああああーーーっ!!」
「士郎っ!!」
 屋敷に突っ込んだ士郎の上に木材が崩れ落ちる光景を見て、桜の悲鳴と凛の叫びが響いた。最後の一太刀でブレイドを真っ二つに両断したセイバーが瓦礫に埋もれた士郎の姿を視界に捉えて顔を青ざめさせる。
「シロウッ!」
「おっと、まだまだ」
 駆けつけようとするセイバーの目前から地面を蹴破って、新しいブレイドが三体出現した。
「く……っ、どけぇぇえーっ!!」
 士郎の身を案じ、焦りを押さえつけながらセイバーが剣を振りかざす。怒りの豪風となった斬撃が敵に降り注いだ。しかし、流石に三対一では分が悪い。同時に士郎の安否を気遣う焦りが剣を鈍らせている。状況はあっという間にセイバーの防戦一方となっていった。
「悪いね、一応今は目的があるんだ」
 慎二は戦闘を見下ろすと、腕の中でがむしゃらに暴れる桜を離して塀から突き落とした。
「あうっ!」
「桜!」
 塀といっても屋敷の二階ほどの高さもない。地面に落ちて呻く桜に駆け寄ろうとする凛。しかし、それを遅れて降り立った慎二が遮った。
「先輩……、先輩っ!」
「待ちなって、桜。お前にはもっと絶望してもらわなくっちゃいけないんだからさ」
 土で汚れた服を気にもせず、立ち上がって一心不乱に士郎の下へ駆け寄ろうとする桜を慎二の腕が留めた。
「アンタ、何がしたいのよ!?」
「話してもいいけど、長くなるからパスするよ」
 凛は背後から迫る唸り声を聞き取り、反射的に体を屈めた。頭の上を猛スピードで巨大な物体が通り過ぎて行き、次の瞬間目の前にトカゲもどきが着地する。
「リン、一体そちらに行きました!」
「わかってるわよ……」
 剣戟の合間を縫って聞こえるセイバーの声に、苦虫を噛み潰したような表情で答える。三体の敵をその場に釘付けにするのは、戦闘力の差云々以前に数の上で不可能だった。
 目の前で唸り声を上げ、その凶暴な牙と爪を剥き出しにして今にも飛び掛らんとするブレイドの存在感と殺気に、思わず眼を瞑ってしまいたくなる。だが怯えて竦んでしまえば、その隙に訪れるのは確実な死だ。
 凛はじりじりと後退しながら、左手に握った宝石の感触を確かめた。
 間合いが狭すぎる。この宝石で放つ魔弾ならば、目の前の悪魔を滅ぼすだけの威力を秘めていると確信出来るが、敵のスピードを見る限りこの距離では詠唱に入る前に敵の攻撃が届いてしまう。何か、接近戦で対抗できる武器が必要だった。
「追い詰められてるね、遠坂。そうだなぁ、僕に服従して雌奴隷になるっていうなら、特別に助けてあげてもいいけど?」
「そんなに犯りたきゃ、自分でナメたら?」
 全身を舐めまわすような粘つく視線を向ける慎二に、中指を突き出して凛は吐き捨てた。慎二の顔が憤怒の表情に醜く歪む。
「あっそう、ムカつくなぁ。じゃあ、手足切り取ってそのトカゲどもの玩具になっちゃえよ!!」
「……っ、姉さん逃げて!!」
 悲嘆に暮れていた桜は、その瞬間思わず叫んでいた。
 頭の中がグチャグチャしてワケがわからない。心の奥から無尽蔵に湧き上がる負の感情とその罪悪感に押し潰されそうになって、それを必死で押し殺す。今も目の前の光景に、遠い日に別れた姉の姿に喜びと妬みを同時に感じて、そのどっちが本当の感情なのかも分からない。
 はっきりと目の前の姉の身を案じる事すら出来ない自分こそ悪魔なのかもしれない。それでも。
「私の事なんて、気にしなくていいから……っ、そんな価値ないから!!」
 今でもはっきりと覚えている。子供の頃、遠坂家から間桐の家へと移される日に、いつも決然としていた姉が必死で涙を堪えた顔で渡してくれた、大切なリボン。形ある絆。それだけは、決して嘘でも幻でもないから。
 いつも遠くで見ていた。美しく、強く、気高く、優しい姉に、誇らしさと妬ましさと、そして愛しさを感じていた。間桐桜の中で、遠坂凛は本当にどうしようもないくらい大きなウェイトを締めていたのだ。それだけは確かだった。
 だから―――。
「逃げ、て…………」


「違うでしょ?」


 忽然と、凛は言い放った。
「そうじゃないでしょうが、アンタの言いたい言葉は」
 後退っていた足を踏ん張って、決然と、凛は目の前の悪魔と、悪魔に魂を売った男と、そして遠く別れた妹を鋭く見据えていた。
 コツンッと踵に当たる感触を表情に出さずに確かめる。見つけた勝機。極度の緊張から額に流れる汗さえ拭う隙がない。
「姉さん……」
「いっつもそうよね、子供の頃から引っ込み思案で、私の後ばかりついて来て。言いたい事もはっきりと言えない。そんなんだから、隣のカスに良いようにやられるのよ」
 糾弾するような凛の言葉に、桜はカッと顔が熱くなった。どろどろした感情が全部吹き飛んで、真っ赤な炎のような激情が口から溢れそうになる。
(何、勝手な事を言ってるんですか! 私がどれだけ辛い目に遭って来たか知らないで!! 貴女がそれを言うんですか!!)
「ひどい事言うなぁ、遠坂。そんな事言う資格ないだろ?」
 そして、皮肉にも桜の気持ちを代弁したのは慎二だった。
「お前だって衛宮と同じなんだ。いいや、桜の事情を知ってて何もしなかった分、罪は大きいんじゃない? 自分だけのうのうと平和に暮らしちゃってさあ、血が繋がってるとは思えないよ。ホント冷たいよね」
「当たり前でしょうが。アンタ、遠坂の魔術師舐めてんの?」
 罪を糾弾し、古傷を抉るような言葉。しかし、凛はそれを意にも介さず切り捨てた。慎二が笑みを張り付かせたまま硬直する。
「恨み言も泣き言も聞くつもりないわよ。魔術師を舐めるなっつってんの。何の覚悟も出来てない青二才が、遠坂の魔術師を舐めんなつってんのよっ!!」
「ひっ!?」
 目の前の美しい少女から放たれる野獣のような殺気と威圧感に、慎二は悲鳴を飲み込んだ。
 その殺気に反応したのか、弾けるようにブレイドが跳び出した。三本の鋼鉄の爪が、睨みつける少女の顔を無残に切り裂かんと迫る。 その瞬間、凛は素早く片足で地面を抉るように蹴り上げた。
 硬い感触。土埃と一緒に、足元に転がっていた巨大な刃が目の前で舞い上がる。それは士郎が取り落とし、地面に横たえられたまま出番を待っていたフォースエッジだった。
 極限まで集中した凛の視界では、全てスローモーションで進んでいた。宙を舞う砂の粒一つ一つの動きまで捉えられるような気さえする。その砂塵の中でゆっくりと剣が弧を描いて舞い上がっていく。遅く流れる時間の中からもぎ取るようにして、凛はフォースエッジを掴み取った。
 眼前に掲げた剣の刃と、一直線に迫る敵の爪が正面から激突する。衝撃。
「ぐ……っ!!」
 激しい金属を叩く音と共に、凛は後方へ転がるように吹き飛んだ。腕の筋力は強化したが、足の踏ん張りの方が持たなかった。全身をバネに使った敵の突撃を受け止め切るには、女である凛ではどうしてもパワー不足が否めない。
 勢いのままに後転して、起き上がりながら地面を踏み締める。片腕で力強く剣を握り締めると、凛は自ら敵に向けて突進した。
「はっきり言いなさい、桜! 黙って祈っていれば助けてくれるヒーローなんて、いやしないのよ!!」
 士郎より更に一回り細身の凛ではもはや負担にしかならない巨大な剣を、片手で敵に向けて振り下ろす。それは凄まじい火花を散らして、受け止めようとした盾を弾き飛ばした。
「姉さん……逃げて」
「違うんでしょ!? そうじゃないんでしょ……っ!!」
 恐れもせず、真正面から凛は悪魔に斬りかかる。剣技などない、ただ力任せの斬撃は限界を超えて強化しまくった腕力と裂帛の気合で悪魔を圧倒する。
 桜は滲んだ視界の中で、その姉の姿を見ていた。形振りかまわず、必死で、しかし力強く戦う凛の姿をその眼に刻み込んでいた。それは彼女が憧れた、遠い日の姉の姿だった。
 戦っている。遠坂凛は間桐桜の為に戦っている。
「ねえ、さん…………っ」
「言いなさい、桜ぁ!!」
 大きく足を踏み出し、渾身の力で突き出した剣先が兜に直撃して、ブレイドは背中から地面に叩きつけられた。勝機。左手に握ったままの宝石に呪文を紡ぐ。
 後、欲しいのは、確かな言葉。

「―――っ助けて!!!」

 戦闘の音を貫いて届いた桜の心からの叫びに、にやりと笑った。
 応えるように発光する魔術刻印。立ち上がろうとするブレイドに向けて、容赦のない閃光の嵐が降り注いだ。凶悪な魔弾が地面ごと敵の体を薙ぎ払う。四散する肉片すら存在する事を許さないように、爆炎が全てを飲み尽くした。
 立ち上る炎を前に、凛は剣を無作作にぶら下げて慎二を睨みつける。
 状況は何も変わらない。自分が身につけた強大な力と、従えた無数の悪魔達。その依然変わらず有利な自らの舞台の上で、しかし慎二はその時確かに恐怖を感じた。
「オ、オマエ……お前ぇぇッ!!」
「桜」
 取り乱す慎二を無視して、その腕で泣きじゃくる愛しい妹を優しく見つめる。爆発の風が汗で頬に張り付いた髪をなびかせる。トンッと気軽に大剣を肩に乗せて、腰に手を当て威風堂々。
「お姉ちゃんに任せなさい」
 凛は挑戦的な笑みを浮かべた。






『誰も彼も救う事の出来る<正義の味方>になってみせる』
 遠い日の誓いが聞こえる。
 世界を知らなかった子供の頃は、何もかもが大きく、高く、しかし限界などないと思っていた。手を伸ばせば、伸ばし続ければきっと届くのだと。
 何も知らずに理想を口にしていた。
『お前一人だけ何も知らないでさ』
『俺の街に来てみれば、考え方も変わるぜ』
 何も知らなかった。何も知らなかったんだ。<正義の味方>にとって、その無知が既に罪。
 誰かを救いたいと願う傍らで、別の場所で起こる不幸を知らず、目の前にいる大切な少女の嘆きにさえ気付く事が出来なかった。
『そういうの、心の贅肉よ』
 かつて誓った理想は、綺麗で、単純明快で、だからこそこの複雑な世界の中で余る。現実との摩擦によって擦り切れていく。
 何故誰も教えてくれなかった。教えてくれれば、その時はこの身を捨ててでも彼女を助けたのに。
 無力な自分への怒りは苛立ちとなって他者へとぶつかる。なんて浅ましい。知ればお前に何が出来たというのか。
 自責の念に溺れて死にそうになりながら、それでもこの体は理想の為に進もうとする。元より、この体にはそれ以外何も入っていないのだから。
『恨み言も泣き言も聞くつもりはないわよ』
 遠くで少女の声が聞こえる。
『黙って祈っていれば助けてくれるヒーローなんて、いやしないのよ!!』
 痛みも現実感も無く、無意識に開いた瞼の隙間から見えるぼんやりと霞んだ光景には、炎のように赤い少女が背を向けて立っていた。
 彼女は強い。自分を打ちのめした糾弾を歯牙にもかけず彼女は真っ向から対峙する。それはきっと彼女が魔術師だからだ。理想を理想と割り切って、切り捨て、妥協しているから立っていられるんだ。だから理想の重さに溺死せずに済んでいるだけなんだ。
 わかっている。自分とは違う。その理想を腹に抱えて生きるしかない自分とは違う。
 わかってる。
 ああ、だけどそれでも。


 ―――彼女は一度の言い訳もせず、其処に立っているじゃないか。


 実の妹を見捨てていた。その怒りも。悲しみも。後悔も。罪悪感も。何もかも抱えて、だけど前へ進んでいる。
 その場で懺悔の為に膝を折り、祈りの為に手を結ぶ。そうする事で自分が何も出来なくなる事を彼女は知っている。そこに何の意味もない事を知っている。
 だから彼女は進む。どれだけ立ち止まりたくても、どれだけ許しを乞いたくても、どれだけ裁きを受けたくても、彼女は進み続ける。
「とお……さ……か」
 視界が滲む。泣かない事を誓った体から、その気高い後ろ姿を見て涙が溢れてくる。
 俺は、馬鹿だ。






『―――っ助けて!!!』






 正義の味方を呼ぶ声が聞こえた。



<―――創作の理念を鑑定し>

 思い出したように痛む体に鞭を打ち、瓦礫を押しのける。

<―――基本となる骨子を想定し>

 体は痛みが、心は無力感が蝕んでいく。自分を構成する信念が根本から削られ、切り倒されようとしている。

<―――構成された材質を複製し>

 それでも、立ち止まる事だけは出来ない。自分を信頼し、信頼すると言った少女達に顔向け出来なくなるような事だけはしたくない。

<―――製作に及ぶ技術を模倣し>

 助けられなかった罪への罰は後で受けよう。今はただ、自分の罪悪全てを背負って進む。

<―――成長に至る経験に共感し>

 だから、今一度この手に無敵の幻想を! 今戦う為の力を!!

<―――蓄積された年月を再現する>



「投影、完了(トレース・オフ)」
 そして、衛宮士郎は立ち上がった。






「な……っ」
 慎二の間の抜けた声が洩れる。周囲に響く、悪魔たちの耳障りな悲鳴。
 ボロボロの体。左腕は折れた木片に引っ掛けたのか、シャツの袖が破れ皮膚に裂傷を作って血で真っ赤に濡れている。強打した頭から流れる血が赤毛を更に赤く染め、ガンガン響き渡る頭痛に瞳は虚ろ。右手に握った巨大な鉄塊を力なくぶら下げた姿は、まさに死に体だ。
 しかし、それでも悪魔達は悲鳴を上げていた。その瓦礫の上で幽鬼のように佇む人間に、反逆の剣を握る人間に怯えていた。
「士郎」
 肩越しに振り返った赤い戦女神は士郎のそれと匹敵するほどの大剣をぶら下げて、呼びかけるでもなくただその名前を呟いた。立ち上がると思っていた。だって彼女の知る限り、衛宮士郎はどうしようもない馬鹿だから。
 その言葉が引き金になったかのように、士郎の瞳の中で瞬時に火が灯る。
「慎二……」
 右手にいつの間にか握る鉄の感触。反逆の剣<リベリオン> その剣が在る事にも、傷ついたこの体にその重ささえ感じない事にも疑問は抱かなかった。
「待ってろよ、これから殴りに行ってやる」
 復活した士郎の姿に眼を見開いていた慎二は、狂ったように金属的な悲鳴を上げる。
「えええ衛宮ーっ! なんだよ、それっ!? ひ、卑怯だぞ、なんでそんなモノ持ってるんだよぉ!!?」
 ぶるぶると小刻みに震える指を向けた先には、士郎の握る巨大な黒鉄の剣がある。人間が振るうには無理のある、まして満身創痍の士郎には振り回されるだけの代物なのに、それがどうしようもなく怖い。銃を向けられるよりも強烈で、心の底から滲み出るような虚ろな恐怖が慎二の全身に浸透していった。何故そこまで恐ろしいのかわからない。ただ理由もなく怖い。
 アレは殺す。あの剣は自分を殺す。絶対に殺してしまう。絶対的な現実味をその刃が叩きつけてくる!
「殺せよ! アイツを殺せ! 殺せ殺せ殺せぇええ!!!」
 視界に立つ士郎の存在を必死で覆い隠すように手を振り乱し、慎二は錯乱して叫びまくった。その言葉には力があったのか、セイバーが未だ戦っているブレイドとは別の三体が同じように地面から出現し、甲高い雄叫びを上げて一斉に士郎に襲い掛かった。
「私を忘れるなっての!」
 一直線に飛び掛る敵の横腹をガンドの嵐が打ちのめす。無防備に直撃を受けて足を止める敵の群れに、士郎は剣を掲げて突進した。
「うおおおおーーーっ!!」
 雄叫び。臆す事など、何もない。
 士郎は右腕一本で造作もなく、鋼の巨塊を叩き付けるようにして振る。荒々しい剣閃は、しかし斬るべき理想的な軌道をなぞるようにして突き進み、容易く一体のブレイドを斜めに両断した。物凄い手応えと同時に一瞬の抵抗もない。返す刀、予定されていたかのようにトドメの首を刎ねる。
 空中に四散した鮮血が、そのまま消滅していく様を尻目に、士郎は敵の最中を駆け抜けた。あと二匹。
 側面から迫る爪の一撃を、当然のように弾く。士郎はその流れるような自分の動きを疑問に思わなかった。この攻撃は剣が知っている。
 爪と刃が火花を散らして離れる。士郎はコントロールを失う剣をあえて手放すと、そこを支点に一回転させて器用に空中で再度キャッチ。そのまま剣先を目の前に押し出した。スブリッと嫌な音を立てて剣が敵の胸に深々と飲み込まれる。背後からもう一体。
「だから」
 無防備な士郎の背中を引き裂こうとしていたブレイドは、背中に走る熱い衝撃に悲鳴を上げた。フォースエッジを袈裟斬りに斬り下ろした凛が、悪魔の耳元で冷たく囁く。
「人間を舐めるなっ!」
 慌てて振り返るトカゲもどきの醜い顔を恐れもなく睨みつけ、凛は振り絞った剣をその胴体目掛けて全力でフルスイングした。大気を切り裂き、唸りを上げる刀身。世界を狙える必殺打法が悪魔の体を一気に両断する。
「慎二ぃぃぃーーーっ!!」
 背後で起こった一瞬の攻防を気にも留めず、士郎は剣に敵を串刺しにしたまま足を止めない。士郎よりも一回り大きい化物の体を抱えて駆ける。迫り来るその姿が人間のものとは、慎二には信じられなかった。
「来るな来るなクルナ来るナ来るなぁああああーーーっ!!!」
 一片の余裕も形振りも捨て去った姿。口の端から白い泡粒を撒き散らし、慎二は絶叫しながら考えうる限り最強の力を放った。
 慎二の放った強力な魔弾。凛の魔術に匹敵する光の奔流に向けて、士郎は渾身の力を込めて剣を振り抜いた。柄を握り込む両腕に血管が浮き上がり、筋肉が盛り上がる。食い縛った歯から洩れる獣のような唸り声。
 気の遠くなるような重さのソレを振るうと同時に、刀身に突き刺さったまま足掻いていたブレイドの体が剣から抜け、勢いに乗って宙を舞った。
 そのまま魔力弾と激突する。凄まじい発光と共に、ぶつかり合った二つの存在が互いに消滅し合って跡形もなく四散した。その真っ白な光の中を、一瞬も立ち止まる事無く士郎が駆け抜ける。
 それは慎二にとって悪夢そのものだった。
(やめろ)
 その剣が空気を裂く音が。
(来るなよ)
 その刀身の放つ鈍い光沢が。
(来るなよぉぉぉ―――!!!)
 死を呼ぶ。
「うわあああああああああああああっ!!!」
 恐怖に狂う標的の元へ、野獣のように迫り来る反逆の剣を持つ剣士。全てを貫いて敵を睥睨する瞳。
「歯ぁ食い縛れっ!!」
 剣を左手に持ち替え、右の拳を握り込み、渾身の力と万感の想いを込めて振り抜いた。瞬間、慎二の身体が鞠を蹴飛ばしたかのように、塀まで跳ね飛ぶ。安っぽい絵の具のような血が、豚を殺す時のような悲鳴と共に口から溢れた。蛙のように壁にへばりつく。
 桜は慎二が殴り飛ばされた瞬間に、彼の腕から解放された。
 腕を振り抜き、ようやく止まった士郎を仰ぎ見る。その横顔は、いつか見た夕日の中で跳び続ける彼のまま。憧れた先輩のままだった。
「桜、大丈夫?」
「はい……」
 冷静さを取り戻したセイバーが残りの敵を葬ったのを見届けた凛が歩み寄る。優しい声に、桜は素直に返事を返す事が出来た。もう一度『姉さん』とは言えない。でも、嬉しさから涙が溢れた。
 その様子に苦笑し、抱き締めてやりたい衝動に駆られたが、魔術師としての顔を取り戻して凛は地面に這いつくばった慎二を見下ろした。
「―――魔術師なら、覚悟は決まってるでしょうね」
 無慈悲に凛が告げると、慎二は悲痛に表情を歪ませ、拝むようにして手を擦り合わせた。
「ま、待ってよぉ〜遠坂ぁ。ま、まさか、殺すなんて言わないだろ? ほ、ほんの出来心だったんだ、あああの悪魔どもに誑かされたんだよぉ〜!」
 先程の傲岸不遜振りとは打って変わった卑屈さを表しながら凛に擦り寄ったが、しかし彼を見下ろす眼は慈悲も暖かみも無く、ただ冷静に敵の抵抗と反撃だけを機械的に警戒していた。
 同じようにかつての友人を見下ろす士郎にも、未だ消えぬ怒りがあった。リベリオンの剣先を静かに持ち上げて慎二の目の前に突きつける。己の末期を悟ったのか、それまで媚びるような笑みを浮かべていた慎二の表情が盛大に引き攣った。汗も涙も鼻水も遠慮なく撒き散らして甲高く絶叫する。
「ひぃーっ、衛宮っ! 僕達友達だろぉ、助けてよっ! 桜の事も全部謝るからさ、助けてくれよぉ!!」
「慎二、お前は……」
 自分には優しく出来るんだな。口を吐いて出そうになる悪態をかろうじて飲み込む。
 一度目。学校の生徒達の命を奪おうとした時、士郎は彼を見逃した。そのミスが、この二度目を招いた。もう許す事など出来ない。ここで相手の弁解を間に受けて見逃すほど、士郎は馬鹿ではない。間桐慎二は悪魔に魂を売って、悪魔の力を手にしてしまったのだ。
 歯を砕けんばかりに食い縛り、士郎は断罪の刃を振り上げた。慎二が一際高い悲鳴を上げる。
 慎二の凶行を防げたのは、全てがギリギリだった。あと一つ、何かの歯車が狂っていれば罪もない誰かが死んでいた。もうそれを許すワケにはいかない。繰り返すワケにはいかない。
 だから、ここで断つ。
「……」
 傍らで魔術師としての遠坂凛が、士郎のする事を見守っている。何も言わない。止めようともしない。
 それを士郎は冷たいなどと思わなかった。凛は眼を逸らさずに、見据えている。これから起こる事全てを見届ける為に、そして士郎が背負う罪を自らも半分背負う為に。その強さと優しさに涙が出そうになる。
 だから、やれ。その剣を振り下ろせ。目の前の悪に向けて。
 何を躊躇っている。人を殺す事への恐怖か? 友を殺す事への罪悪か? そんな物は飲み下せ。凌駕して殺せ。さもなくば三度目が来る。この男が二度罪を犯して三度目の罪を犯さない保証などない。学校の級友、義理の妹、その姉、親友。次は何だ、次は街の人間全てが危機に陥る事態になるのではないか。
 悪は斬れ。その腐敗が他者を汚染する前に。
 一を切り捨て、九を守る―――。
「一を切り捨て、九を守る―――」
 口に出して噛み締める。今ならその言葉の意味と重さが嫌というほどよく分かる。
『―――喜べ少年。君の願いは、ようやく叶う』
 黙れ。
『明確な悪がいなければ君の望みは叶わない』
 黙れ。
『正義の味方には、倒すべき悪が必要なのだから』
 黙れ。
「……その通りだ、クソ野郎っ」
 そして、士郎は剣を






 囁き、詠唱、そして発動。夜空を無数の光の矢が切り裂く。空を覆うおぞましい『死神』の群れの、さらに上空からキャスターが魔力弾をつるべ打ちにした。
 ブレイドやマリオネットとは違い、その『死神』が媒介としているのは明確な<体>ではなく、その中央に浮かぶ<仮面>だ。仮面は古来より人の思念を集める道具とされてきた。それを中心に展開した恐ろしい程濃密な魔力によって『死神』は実体化している。
 故に、狙うべきはその一点。
 降り注ぐ魔力弾を、その手に持った巨大な鎌で打ち消していく。攻防一体の馬鹿げた強度と、『死神』自身の持つ強大な魔力が魔術の効果を相殺していた。しかし、それと同時に下方向からアーチャーの正確無比な射撃が襲い掛かっていく。鉄の矢が防御の隙間をすり抜け、片っ端から悪魔の宿った仮面を打ち砕いていった。
 奇怪な悲鳴が響き渡り、夜空で次々と悪魔が幻のように霧散していく。
「……ようやく打ち止めか」
 周囲を見渡し、アーチャーは構えを解いた。
 倒しても倒しても、次々出現する『死神』の群れを観察していたが、何かしら動きがあったのか急に増援が来なくなった。先ほど倒した悪魔が消滅した後には、残されたキャスターのみが浮かんでいる。
「いい援護だったわ」
 羽根をローブに戻したキャスターが、ふわりと屋根に舞い降りる。
「何本か矢がこっちに飛んできたけど」
「失敬、さすがに延々射ち続けていると手元が狂ってね」
 睨み付けるキャスターに、アーチャーはいつも通り皮肉な笑みで返した。
 静寂を取り戻した夜空にまだ眼下から剣戟の音が続いている。見下ろせば、庭の戦闘の状況が一望できた。
 ダンテとアサシン。こちらはまだ戦っている。
 いや、あれは戦いなどではない、凄惨な殺し合いだ。
 両者の剣技は、まるで鏡合わせのように酷似している。それも、不自然にコピーされたものではなく、ひとつの流派をベースとし、互いが互いに自分自身のスタイルを突き詰めた結果が、特徴として明瞭に現れていた。故に太刀筋があまりに噛み合い過ぎている。
 普通にぶつかり合えば、互いの技が相殺し合うのは道理。そこで両者が選んだのは、また奇しくも同じ肉を切らせて骨を断つ戦法だった。
 致命傷にならない攻撃には防御を捨て、受けざる得ない攻撃を放つ。結果相打ち。再びその隙を自らの隙を犠牲にして打ち合い、結果―――。
 延々と続く、命と肉体の文字通りの削り合い。剣を一振るごとに、金属的な激突音よりも噴き出す血飛沫の方が多くなっている。
 血に塗れた剣舞。絶えず鳴り響く刃金の旋律は、終焉に向けてますます加速していった。
 アーチャーはそれを見守るキャスターの横顔を一瞥すると、別方向に視線を移した。手出しする必要はないだろう。合理的にも心情的にも一致した判断をする。
 一番案ずるべき凛たちの様子を伺うと、丁度セイバーが最後のブレイドを切り伏せたところだった。
 これで、ダンテとアサシンの対決を除く全ての戦闘がこちら側の勝利で終了した事になる。
 アーチャーは音も無く屋根から降り立つと、凛達の元へ歩み寄った。凛と桜の二人が無事である事を一瞥だけで確認し、密かに安堵する。そして、視線を移した。
「―――何をしている、衛宮士郎」
 アーチャーは、剣を投げ出し、その場で膝をついた士郎に氷のように冷徹な視線と問いを投げ掛ける。士郎は何かに耐えるように震え、涙のない嗚咽を漏らしていた。
 振り下ろされる筈だった刃が力無く地面に横たえられ、命を断たれる事の無かった慎二は一秒遅れで再び襲ってくるかもしれない刃に怯えて同じように蹲っている。
「何故、間桐慎二を殺さない?」
 アーチャーの言葉は糾弾に等しかった。
「……俺には、出来ないっ」
「貴様、この男にまだ情けを掛けるつもりか? また同じミスを犯すつもりか!?」
「俺には、慎二を殺す事なんて出来ないっ!」
「貴様―――っ!」
 普段鉄面皮を通すアーチャーが、激昂して士郎の胸倉を掴み上げた。精神的に疲れ、引き攣った士郎の顔からその葛藤の強さが見て取れる。
 横目でソレを見て、凛はわずかに顔を背けた。士郎の判断に、何も言わないし何も感じない。今この場で、慎二を殺すことを魔術師としての自分は是としている。しかし、士郎が誰かを殺す事は想像できなかった。その葛藤が、凛に口を挟む事を躊躇わせた。
「学校の屋上で、貴様が間桐慎二を見逃したせいでこの襲撃は起こった! あの時見逃した貴様の甘い判断が、この事態を巻き起こし、間桐桜を直接的に巻き込んだのだ! その事実を知って、まだ尚理解できんのか!?」
「だからって……慎二を殺せば何もかも解決するのかよっ!? ここから、まだやり直す事が出来る筈だ! 死んだらそれで終わりなんだぞ!」
「そうだ、終わらせなければならない。この男が三度目の、今度こそ本当の犠牲を生み出す前に!」
 殺気すら含む凄まじい眼光に、士郎は言葉を飲み込んだ。アーチャーの言葉の一つ一つが全て核心を突いて来る。
 皆助けるだの、やり直しだの、もっともらしい理由を言い訳としてしか口に出来ない今の士郎を圧倒する。何一つ自信を持って反論できない。
 唐突に、士郎は理解した。目の前の、自分とは絶対に相容れぬ存在だと確信した男は、実は誰よりも自分と似ているのだと。その冷徹な鉄面皮の下に、誰よりも他者を想う心を持っているのだと。
「それに間桐慎二はもはや人間ではない、悪魔と契約した男だ。力を持つ者はそれだけで人々の脅威となる。貴様はそれをどうする? その男を助ける事で、もし失われる命があったなら、貴様はどう責任を取る!?」
「……っ」
「貴様の言葉は全て詭弁だ。切り捨てる事を否定するのは、ただその覚悟がないだけにすぎん。貴様は永遠に夢でも見ていろ」
 もはや返す言葉もない。打ちのめされた士郎を投げ捨てると、無表情の仮面を被り直し、アーチャーは慎二に歩み寄った。その両手にはいつの間にか白と黒の湾刀が握られている。
「……『魔術師』としての遠坂凛に聞く。構わないかね?」
 言葉の一部をあえて強調して、アーチャーは傍らの凛に尋ねた。
 凛は無言で桜を見る。その顔には葛藤と戸惑い、多くの感情が入り混じった複雑な表情を浮かべている。
 間桐慎二が、桜にとって決していい兄でなかった事は確かだ。彼の歪みは先ほども見たばかりであるし、その狂気が身近な桜にぶつけられなかった事がない筈がない。実際に、学校でもそれとなく桜の様子を案じていた凛は何度か虐待の跡を見た事もあった。
 だが、それでも。昔、遠坂の家から去っていく桜を見送り、他人としての距離を取り続けていた凛に代わって、家族として桜の傍に居続けたのは慎二だった。
 その点に関してのみ、凛には口を挟む資格などない。空白の年月をどんな形であれ代わりに満たした慎二に、桜の姉として口を出す資格など遠坂凛にはない。
 ―――だから、此処から先は魔術師<遠坂凛>の決断と行動。
 兄の犯した罪を見てきた為直接止める事など出来ない、しかし何処か縋るように向けられる桜の視線を無視して、凛はアーチャーに向けて一つ頷いた。それが肯定の合図。
 振り上げられる刃。目の前の罪深い男。慎二は涙を流しながら必死で手を摺り合わせる。しかし、士郎とは違いアーチャーには一片の慈悲すらない。其処には悪を裁く正義の執行者としての神々しさすら感じた。
 桜がそれを見て、辛そうに顔を背ける。凛はソレをあえて無視する。例え止められても、無視して殺す。もう決めた。
 慎二が殺される事を当然などと思っているワケではない。
 例え彼を殺す事で、家族である桜に恨まれたとしても構わない。その覚悟は10年前に済ませた。再び桜と姉妹に戻り、微笑み合う時間を一瞬でも夢想する資格すら失った。
 だから、全てを背負う。人を一人殺す事で生み出されるあらゆる怨嗟や罪悪を、その肩に背負う。その愚かしいまでの覚悟と甘さ。凛と、そしてアーチャーにもそれがあった。
「アーチャー」
 凛が突きつけた銃の引き金の代わりに、その名前を告げた。
 一瞬の躊躇も無く、無言で刃が振り下ろされる。
 その瞬間。
「……っうぁああああっ!!」
「!?」
 振り回されたリベリオンの刀身が、アーチャーの振り下ろした剣を直前で弾き返した。
 凛と桜が息を呑む様子の端で、瞬時にアーチャーの雰囲気が切り替わる。慎二の前に立ち塞がるようにして震える手で剣を握る悲壮な表情の士郎と間合いを取り、完全な敵意と殺気を発しながら双剣を構えた。
「……何のつもりだ、衛宮士郎?」
 冷たい声。熱に浮かされ、肩で荒い息をする士郎の頭に冷や水が掛けられる。しかし、士郎はその場を動かない。
「俺は……」
 声が聞こえる。
 あの赤く、熱い、灼熱の地獄で延々聞き続けた声が、今でも聞こえる。助けを呼ぶ声、泣き叫ぶ声、呪う声。それらが鎖となって逃げる士郎を縛りつける。
 それを振り切って逃げた。
 あの時、自分は彼らを見殺しにした。助かる可能性があったかもしれない。当時の無力な子供であった自分に何が出来たかはわからないが、しかしその可能性や猶予を挟む隙間もなく、自分は逃げた。見殺しにした。自分一人が助かる為に、多くの命を『切り捨てた』。
「俺はもう、誰も殺さない。殺させない。誰も切り捨てない」
 あの時、自分の命の価値はゼロになった。
 そして罪は無限になった。
「俺は、誰も彼も救いたいんだ」
 故に願う。
 故に誓う。
 今にも折れそうな剣を抱き、士郎は震える声で強く告げた。
「…………そうか」
 葛藤に次ぐ葛藤。剣を握る腕は震え、見据える瞳は迷いに揺れ、それでも理想を捨てようとしなかった男をアーチャーは驚くほど無表情に見つめていた。
「ならば―――」
 士郎に向けられていた炎のような激情は嘘のように消え去り、ただ機械的に双剣の剣先を士郎に向ける。淡々と言葉を紡ぐ。


「その理想を抱えて、溺死しろ」


 次の瞬間、嵐の前の静けさを切り裂いて白と黒の剣閃が士郎に襲い掛かった。
「く……っ!」
 何処かこういう事態になる事を予想していた。この判断を、アーチャーは許しはしない。その奇妙な確信は当たり、高速で振り下ろされる斬撃に士郎はかろうじて反応できた。
 小回りの効く短剣の連続攻撃を、長い刀身を盾にして辛うじて受け止める。刃の激突する一点から、英霊としての桁違いの力と、同時に凄まじい怒りの感情が士郎の体に伝わってきた。
 アーチャーは無表情に、しかし何か間違ったモノを消滅させようとするかのように怒涛の勢いで剣を繰り出して来る。その迫力に凛さえ口が出せなかった。
 何度目かの斬撃を捌く。火花と鈍い金属音が響き、次の瞬間士郎の投影したリベリオンの方が砕け散った。
「な……っ!?」
 消滅していく剣の感触に驚愕する。
 何百という悪魔の攻撃を真正面から受け止め、単純に見た目から武器の強度を見てもアーチャーの短剣に勝る筈のリベリオンが何故砕けたのか、士郎には分からなかった。ただアーチャーだけは、その現象がまるで当然であるかのように動揺を見せず、一瞬の間も無く次の斬撃を繰り出した。
「アーチャー!」
 その一撃は、割り込んだセイバーによって受け止められていた。
 ぶつかり合う不可視の剣と双剣の音に、ようやくアーチャーの激情が止まる。
「……セイバー」
 何故、とは問わない。マスターを襲うサーヴァントをそのサーヴァントが守る。この状況が、聖杯戦争において当然のモノであるのだから。
「正しい英雄というものは、正しい人間にしか使役できない」
 アーチャーは淡々と告げた。何の感情も篭もらないその言葉に、セイバーは一瞬だけ瞳に小さな迷いを浮かばせる。
「その男の判断は、正しい……か?」
「私はシロウの剣になると誓った。私が信じたマスターだ」
「君にも多くの人間を救う為に、一人の人間を切り捨てる覚悟はないのかね?」
 何処か訴えるような言葉に、セイバーはほんの少しだけ歯を噛み締めた。何故、アーチャーの言葉はこうも核心を突いて来るのか。
「確かに、シロウは甘い。しかし、その甘さが人を救う時もある」
「しかし、今はそれが誰かを殺す!」
 剣戟が再開する。
 一撃、二撃、魔力の込められた双剣は不可視の剣を後退させる。干将莫耶を交差させ、セイバーの剣の支点を狙う。セイバーは、その連撃を受け流す。
 もとより弓兵が剣士を圧倒できる道理などない。しかし、的確に攻撃を捌き続けるセイバーからの反撃には、気付かないほどわずかな鈍りがあった。目の前で剣を振るい続ける赤い弓兵の姿が、まるで慟哭しているようで、攻撃よりもその姿と先ほどの言葉が何よりも重かった。
 この男は、ただ多くの人間を助けたいだけだ―――。
 その戦いを見る者全員に、戸惑いと迷いがあった。
 言葉を挟めない凛と、目の前で剣の少女が赤い弓兵の攻撃を防ぐ様を見て、何故か苦痛を感じる士郎。延々と続く剣戟の音。
 その中で、不意に小さな笑い声が響き渡った。
「慎二……?」
 我に返った士郎が振り返る。
 視線の先で、顔を俯かせたまま肩を震わせ、慎二が笑い声を漏らしていた。
「いやあ、助かったよ。衛宮」
「お前……」
 それまでの怯えた様子を一変させ、壮絶な笑顔を浮かべた慎二は士郎を見上げた。


「ありがとう、偽善者」


 慎二を中心にして、魔力が爆発した。螺旋状に発生した強大な衝撃波が、傍で佇んでいた士郎と凛を薙ぎ払うように吹き飛ばす。唯一凛の陰に庇われる形になった桜が悲鳴を上げた。
「凛……っ!」
「シロウ!?」
 非常事態を察知したセイバーとアーチャーが斬り合いを中断して、それぞれの主の名を叫んだ。互いに地面に叩きつけられたマスターの元へ駆けつける。
 その隙を突いて慎二が駆け出す。視線の先には桜の姿。
「待ちなさい!」
 屋根の上で事態を察したキャスターがすぐさま矢のような魔力弾を放つ。爆発の余波に桜が巻き込まれる事を考慮した低威力の魔術は、慎二の掲げた手のひらで一瞬で消滅する。悪魔の膨大な魔力によって、力任せに相殺された。
「来いよ、桜っ!」
「イヤ、先輩っ! 姉さん!!」
「うるさいっ!」
 必死に抵抗する桜を怒りに任せて殴りつける。鈍い音を立てて、力を失った桜が地面に転がる。その光景を見た士郎と凛は一瞬にして頭が沸騰する感覚を覚えた。
「てめえ!」
「貴様っ!」
 士郎の怒号と、アーチャーの鋭い叫びが重なった。素早く弓を出現させて矢を引き絞る。
「あはははははははっ!」
 しかし、その弓を放つより速く慎二の体から発生した蒼白い炎のような魔力が、抱えた桜を巻き込んで周囲を覆った。一瞬で形成された膨大な魔力と、それが形作る術式を目の当たりにして凛が我が眼を疑う。
 慎二の周囲の空間が歪む。
「空間転移……っ!!」
 唯一、その現象を確信を持って理解出来たキャスターが驚愕に叫んだ。
 慌ててアーチャーが矢を放つが、一瞬の遅れで慎二が桜と共にその場から転移する。二人の体が蒼白い炎が飲み込まれた後を矢が虚しく過ぎて行き、その後には魔力の残留のみが残って、後は全て掻き消えていた。
「まずい、完全に逃げられたわ!」
 転移の跡に駆け寄ったキャスターが悪態を吐く。空間転移に距離は関係ない。これはサーヴァントでさえも追跡出来ない事を示していた。
 瞬く間に過ぎていった事態。ついさっきまで慎二と桜のいた場所を、士郎は放心したように呆然と眺める。
 周りを行き交う多くの声が良く聞き取れない。
 ただ、ジワジワと心の奥底から濁った激情が湧き上がって来る。
 これで、
「慎二……」
 三度目だ。
「慎二ぃぃぃいいいいーーーーっ!!!」






 もう何度鉄を打ちつけ合ったか忘れた。狂ったように斬りつけ、斬りつけられ、考える事を放棄してただ剣を振るう鬼となる事に没頭していたダンテは、唐突に体の中心を襲った衝撃に我に返った。
 ズブッと肉を裂く嫌な音を立ててアサシンの大剣が下腹に深々と潜り込み、背中から真っ赤に濡れた剣先が顔を出した。
 とっくに麻痺した痛みの代わりに、喉を逆流してきた大量の血を盛大に嘔吐する。
 二人の戦場は、本当に凄惨たる有り様だった。互いの体に無事な箇所はほとんどない。急所以外のあらゆる部分を切りつけられ、そこから噴き出した鮮血が絶えず地面を濡らして、もう周囲の芝生は緑ではなく赤一色に染まっている。全て互いの血だ。
 10人の人間を惨殺しても足りないくらいの血を、地面に撒き散らし、木や塀にへばり付かせたスプラッターな光景の中で、なおも殺し合う二人は等しく悪魔そのものだった。
 だが、それも終わった。生物ならこれで終わらない筈がない。自分のウエストに匹敵する程幅広い刀身が一直線に体を串刺しにしているのだ。これで生きている道理などない。
 トドメとばかりにアサシンが更に剣をダンテの体に押し込んだ。腹に刺さった剣に持ち上げられる形で足が地面から離れる。
「ぐぅ、あ、あ、あぁあああああああ……ッ!!!」
 苦悶の声が、しかしすぐに裂帛の気合へと変わる。普段の飄々とした態度など欠片も失い、手負いの野獣と化したダンテが雄叫びを上げて、アラストルを高々と振り上げた。
 何度もアサシンを斬りつけ、返り血で余す所無く赤く染まった刀身が月明かりに照らされておぞましい輝きを放つ。次の瞬間、それが全力で振り下ろされた。
 ありったけの魔力を込めた一撃がアサシンの肩口にめり込む。黒鉄の鎧を砕き、肉と骨を断って、刃は胸にまで達した。
 互いに即死レベルの致命傷。しかし、それでも尚二人は動く。
『■ァ■■ア■■■アア■アア゛アーーーッ!!』
「ぐぉおおおおおおおーーーっ!!」
 咆哮とも絶叫ともつかない恐ろしい声を張り上げて、二人は互い剣を敵の体内深くに潜り込ませようと渾身の力を振り絞る。
 そこに人間はいなかった。ただ、狂った悪魔がいた。
「……っ!?」
 狂気の力を借りて限界を超えようとしていたダンテが、唐突に我に返った。目前でアサシンが腰溜めに構えた左手に凄まじい魔力を収束させていくのが見える。それが強力な魔力弾の発射準備であると、かつての戦闘経験から察知した。
 それが放たれる前に、ダンテはボロボロのコートを翻して中からショットガンを引きずり出した。奇しくも散弾が最高の威力を発揮する超至近距離。ダブルバレルの銃身をアサシンの顔面に突きつける。
「キスしようぜ、ブラザー」
 瀕死の筈のダンテは、血まみれの口を吊り上げていつもの笑みを浮かべた。
 引き金を絞り切るのと、魔力弾が放たれるのは全く同時。銃声と爆音が混ざり合って炸裂し、容赦なく標的を打ち据え、ダンテとアサシンは互いに正反対の方向へと弾けるように吹き飛んだ。
 アサシンが塀に、ダンテが屋敷の縁側に窓をブチ破って叩きつけられる。一晩で衛宮家は散々たる有り様に変わってしまったようだ。
「ぐはっ……ぐぁ」
 満身創痍のダンテは盛大に咳き込んだが、もう血反吐は出し尽くしていた。巨大な剣に貫かれ、その上で魔力弾の直撃を受けた腹筋はズタズタに破られている。あばらも数本叩き折られ、何本かが肺に突き刺さっていた。
 ダンテの異常な生命力を持ってしても死ぬ一歩手前だ。だが、その一歩を踏み止まれるモノがダンテの体の中には流れている。
「畜生、鈍った体にゃ、ちょいとキツイぜ……」
 疲れた様子で悪態を吐きながら、剣を支えにして立ち上がる。
 これで終わるとは思わなかった。現に視界には、同じように立ち上がるアサシンの姿がある。頑強な鎧は所々亀裂が走り、ショットガンの直撃を受けた顔面は、右半分が『おろし』に掛けられたかのように削り取られている。角は折れ、右目は跡形も無く吹き飛んだ。それでも頭が原型を留めているのは、咄嗟に魔力を集中させて防御したからだ。
「相変わらず半端なガッツじゃねえな」
 ダンテは呆れ半分で呟いた。言いながら、再び剣を構える。
 だが、アサシンの身体は残された片目に強烈な殺気を宿したまま、足元から発生した蒼白い炎に包まれ始めた。その炎がアサシンの使役する魔力の形であると、ダンテは知っている。
 丁度同じタイミングで、士郎達が戦っている方向から同じような魔力の発光と展開が見て取れた。
「……どうやら、今夜はここまでみたいだな。お楽しみはまた今度だ」
 剣を降ろして、炎と同化するように身体を消滅させていくアサシンに挑戦的な笑みを浮かべる。それは皮肉でも強がりでもない。アサシンがダンテの知る相手である以上、二人が再び出会い、再び殺し合う事はほぼ決定された事なのだ。嫌な表現だが<宿命>と言ってもいい。
 蒼白い炎がアサシンの身体を完全に飲み込み、凄まじい勢いで天へと昇っていく。そのまま炎は夜空で一際大きく輝き、次の瞬間幻のように霧散して完全に消え去っていった。
 余韻さえも残さない完全な空間転移を見上げて、ダンテは軽く鼻を鳴らすだけに留めた。人間の魔術師にとっては<魔法>の領域に達する神秘だが、存在自体が魔術の上にある悪魔にとっては『動作』の一つに過ぎず、それを見慣れたダンテにとっても悪魔どもの『隠し芸』程度にしか感じない。
「ふぅー」
 大きく息を吐く。アサシンと対峙して以来、初めて疲労した様子を見せると、ダンテはボロボロの体を引き摺って何やら揉めている士郎達の元へと歩み寄っていった。
 丁度その時、視線の先ではアーチャーが士郎の胸倉を掴み上げている所だった。






「三度目だ」
 糾弾する言葉は静かな声で告げられた。アーチャーの怒りを宿した眼光を前に、士郎はその端的な言葉の意味を嫌というほど理解していた。
「何を思い上がっていた。無力な人間である貴様が、何を思い上がって『全てを救う』などと! 貴様は十も一も救えなかっただろう!」
「……っ」
 何も言い返せなかった。反論する資格など無かった。全て自分の責任だ。
 いっそ、アーチャーを含むその場の全員が責め立ててくれたら、まだ気が楽だったが、一番怒りを抱くはずの凛はただ顔を顰めたまま俯くだけだ。
「貴様は―――っ!」
「アーチャー、もう止めて。士郎を責めても事態は解決しないわ。これからどうするか決めなきゃ」
 珍しく普段の立場を一変させて、激昂するアーチャーを凛が冷静に諌める。アーチャーは舌打ち一つすると、投げ捨てるように手を離した。力なくよろめく士郎の体をセイバーが支える。
「……追えるわよ」
「え?」
 それぞれが思案する中、不意に呟いたキャスターの言葉に凛が顔を上げる。キャスターの真摯な視線とぶつかり合った。
「私なら、魔力の残滓を辿って同じ空間転移で追えるわ」
「そうか、キャスターなら!」
「マスターの状態は?」
 キャスターが傍らに佇むボロボロのダンテの様子を見て尋ねる。
「この程度でへばりゃしないさ」
 見た目でもう既に重傷だと判断出来るが、ダンテは余裕を見せ付けるようにいつもの不敵な笑みを浮かべた。もちろん、それが半分以上強がりだという事もキャスターにはわかっていたが、あえて黙る。多少は無理をしてもらわなければならない状況だ。
「なら、私が転移した後はラインを辿って後を追って頂戴」
「待て。協力的になってくれている所悪いのだが……何故だ?」
 早速呪文の詠唱に入ろうとしたキャスターをアーチャーが引き止める。
 同盟を組んでいるとは言え、キャスターとダンテは間桐桜に対して何の関わりもない。極端な話、これは個人的な事情のある凛や士郎達だけの問題だ。無償の協力がありがたくないワケではないが、何か裏があるのか探ってしまうのも仕方がない事だった。
 アーチャーはキャスターに探るような鋭い視線を向けて、その真意を問いただした。
「―――悪を断ち、何かを切り捨てて、より多くのモノを助けようとするアナタの考えは正しいわ。英雄そのものよ」
 言葉とは裏腹に無感情に呟いて、キャスターはアーチャーから士郎に視線を移した。自分の犯したミスに打ちひしがれ、自責の念に駆られて、迷い、疲弊しきった姿。それを癒すように優しく微笑みかける。
「でもね、切り捨てられる側にとって、彼の甘い理想は間違いなく『救い』なのよ」
「キャスター……」
 弱りきった体にその言葉が染み渡る。鼻の奥が熱くなって士郎は言葉に詰まった。間違いではないと、彼女は言ってくれている。
「まだ間に合うわ。私が間に合わせてみせる」
 たった一言に無数の激励を込めて紡ぎ、キャスターは空間転移を発動した。
 その姿を見送り、士郎は再び拳に力が戻ってくるのを感じる。
 自分はとんでもない罪を犯し続けてしまった。桜の危機に気付かず、己の甘さで判断を誤り、迷いから自らの理想を言い訳にしようとしてしまった。このまま誰かに裁かれるのを待つだけにしようかとも思った。
 この罪を失くしたい。責めるのなら責めて欲しい。この罪悪を消す為に罰して欲しい。誰かに。
 だが、無理だ。この後悔はどうする事も出来ない。容易く罪を償う方法など無いし、あっても選んではいけない。それは自分の信じたこれまでの決断を否定する事になる。
 行動しよう。キャスターのささやかな言葉が力を貸してくれた。ああ、ありがとう。この腕はまだ動く。この足はまだ動く。
 選ぶ事を放棄したら、もうそれまでだ。進もう。跪くのは全ての終着点でだ。
「士郎、私は行くわ。アンタはどうするの?」
 凛が静かに尋ねてきた。事態を悪化させた原因でもある士郎を見限ろうという意思はない。ただ士郎の意思を確認するように尋ねた。
「俺は……一緒に行くよ」
 士郎はしっかりと噛み締めるように答えた。『来るな』と拒絶されても縋りつく覚悟で。
 予想に反して凛は士郎の返事に満足そうに頷いた。
「ここで『邪魔になるから行かない』とか『留まる』とか答えてたら、問答無用でブチのめしてたわよ」
「遠坂……」
「でもね、勘違いしないで。アンタにとって、慎二と桜を天秤に掛ける事自体許せない事かもしれない。でも私は、慎二を犠牲にしてでも桜を助けるつもりだから」
 正面向かってはっきりと断言すると、凛は何処か不満そうなアーチャーを引き連れて屋敷の門へと向かっていった。その決断と覚悟が彼女の冷徹さであり、同時に甘さでもある。
 士郎は苦笑すると、これまでのダメージを思い出したかのように軋む体を引き摺って後を追うように歩き出した。
「まったく。シロウ、一人で進もうとしないで下さい。アナタには私という剣が共に在るのですから」
 それを支える為にセイバーが苦笑しながら傍らに寄り添う。その反対側にダンテが並んだ。
「ああ、まったく難しくしてんのはお前の頭だぜ? やる事はシンプルだ。捕らわれのお姫様を助けるヒーローをやるのさ」
 月の浮かぶ夜の下、少女を救う為に五人が征く。夜明けには、まだ遠い。






 自分の行動に迷いはあったが、自然と愚かだとは思わなかった。
 長い階段を登りながら、キャスターは静かに考える。
 裏切りの魔女メディア。それが自分の真名だ。仕組まれた茶番とはいえ、父を裏切り、国を裏切り、弟を裏切って、最後には愛する者に捨てられ、腹を痛めて産んだ子まで殺した。
 その悪の権化たる自分が、今たった一人の、しかも良く知りもしない少女の為に自らリスクを犯そうとしている。
 同盟の中で信頼を勝ち取る為。セイバーのマスターに恩を売る為。いろいろと合理的な理由を付けたが、全て後付けに過ぎないと気付いた。
 普通の人間とは少し違ったマスターに移っても、自分は何も変わっていないはずだ。聖杯を求めて、そこに願うものも決まっている。それさえ手に入れば全てが戻ってくると信じて、だから何を犠牲にしてでも手に入れると誓った。
「―――あ、そうか」
 そこまで考えて、不意にキャスターは気付いた。
 あの時、衛宮士郎の言った言葉がきっかけだったのだと。
『俺は、誰も彼も救いたいんだ』
 苦しげに、迷いと葛藤の中で告げた言葉。甘い理想。だがあの時、キャスターは確かに一瞬救われたのだ。
 登り続けた階段が終わりを見せる。最後の石段の先には、闇に満たされた広い境内が広がり、柳洞寺がその姿を覗かせていた。淀んだ空気とそれに混ざる黒い魔力が、そこを霊的な空間に変えている。サーヴァントであるこの身でもおぞましさを感じずには要られない。だが、歩みは止めなった。
 あの少年の持つ甘い理想は、彼自身を自滅に追いやるだろう。そんな危うさがあった。
 だがもし、あの時。自分が生きた、あの時代に彼がいたら―――ひょっとしたら自分の罪を『許して』もらえたのではないか。
「そうだったのね……」
 奇妙な納得を経て、キャスターは苦笑した。
 あの時、違った形で一番欲しかったものが手に入ったのかもしれない。
 石段を登りきり、境内をしばらく歩くと、寺に続く石畳の上で膝をつく慎二とその横で気絶して倒れた桜の姿が見えた。肩を上下させて荒い呼吸を繰り返す慎二は、熱に浮かされたように笑っている。
「は……っ、あははははははっ! すごいぞ、最高だ! 僕は、ついに<魔法>まで手に入れたんだ!!」
 空間転移という強力な神秘の行使に疲弊した体を気にもせず、自らの手のひらを見て歓喜する。彼は今、絶頂にいた。
 無表情に歩み寄っていたキャスターが靴底でわざと石畳を強く叩いて足を止める。そこでようやく慎二は追ってきたキャスターの存在に気がついた。
「なんだぁ、しつこいなぁ……は、ははっ!」
 高揚した気分のまま、サーヴァントであるキャスターを恐れもせず笑って見据える。自分の手に入れた力に絶対的な自信を感じていた。額の汗を拭って立ち上がる。
 そして、すぐにその場にへたり込んだ。
「……アレ?」
 言う事を聞かない自分の足に、たった今気付いたかのように間の抜けた声を上げる。気分は最高に良いのに、足が動かない。それに先ほどから絶えず噴き出す汗と、全然収まらない胸の動悸がようやく気になり始めた。荒い呼吸が止まらない、心なしか体中の筋肉が痛み始めた。
「自分の手に入れた力がどういうものか、気がついたかしら?」
 戸惑う慎二の様子を、冷たい視線で見下ろしてキャスターが平坦に呟いた。
「なん、だって……?」
「この世界の基本原理は全て<等価交換>で成り立っているわ。何かを手に入れる為には、何かを代償にしなければならない。魔力を供給する事で、サーヴァントという神秘を使役するという<契約>もまた然り。アナタは、悪魔との<契約>の際に一体何を捧げたの?」
「何、言って……ぎぃっ!!?」
 唐突に体内で生まれた激痛に、慎二は醜く呻いた。体の中で何かが暴れている。血管を物凄い勢いで血液以外の何かが駆け巡り、筋肉が空気を入れ続けた風船のようにパンパンに膨らんでいく。このまま体が爆発するのではないかと錯覚する程だ。
「ラインを介して供給される魔力とは違う、アナタの体に宿った異質な魔力が暴走するのが見える。魔術師でもない人間が、不相応な力を扱う代償がそれよ」
「う、う、うるさい……っ!」
 キャスターはローブの下から、歪んだ刃を持つ短剣を取り出した。
「今ならまだ間に合うわ。人間でいたいのなら、この刃を受け入れなさい。これなら悪魔との契約を断てる」
「い、嫌……だっ! 僕は元になンて戻らナイぃぎぃぃぃっ!!?」
 発作のように悶え苦しんで、慎二は一際大きな悲鳴を上げた。背骨が折れるほど体を逸らして、全身を駆け巡る制御不能の力にのた打ち回る。
 キャスターは小さく舌打ち一つすると、短剣を構えて駆け出した。
 その刃を振りかざし―――。
「性質の悪い贋作を始末しに来てみれば、まさかくだらぬ喜劇まで見る事になるとは思わなかったぞ」
 断ち割るようにして、男の声が被さった。
 キャスターの全身が危機を感じ取り、瞬間的に硬直した。
 覆いかぶさるようにして、吹き付けてくる威圧感。
「サーヴァント? まさか、何も感じなかったのにっ!」
 足を止めて、キャスターが寺の屋根を見上げると、そこには月明かりを背にした男が神々しいまでの輝きを放って佇んでいた。
 それは、以前言峰教会で遭遇した赤い眼を持つ金髪の男。
 今、その男は変わらぬ圧倒的な威圧感と共に、美しい金色の鎧に身を包み、その髪を雄雄しく逆立て、凄まじい魔力を纏ってそこに立っていた。
 キャスターは言葉と思考を失くす。
 あの男は底が知れない。この身も神秘で編まれたものだが<絶対>には程遠い。しかし今、キャスターの視線の先にはただ存在するだけで全てを凍りつかせる<絶対>があった。
「まあ良い、ガラクタは纏めて片付けるに限る」
 金色の男は不遜な笑みを浮かべると、片手でパチンッと指を鳴らした。
 キャスターは眼を見開いた。ただそれだけで、男の背後に無限の死が出現する。恐るべき神秘と威力を内包した無数の武具が、その切っ先をキャスター達に向け、絶望の軍勢となって何もない空間から姿を現した。
 行く先に在るもの全てを荒地に変える鋼の兵団が、無機質に主の進軍合図を待つ。抵抗など無意味。ただ蹂躙されるだけの一方的な未来が其処にある。
 キャスターは、停止した思考の中で唐突に理解した。









 私はここで死ぬのだ、と―――。









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