ACT17「追憶」



 餅に良く似たガムの塊を食べた方がマシだ。喉に残る粘ついた感触に、士郎は思わず心の中で悪態をついた。しかし『良薬は口に苦し』と言うが、確かにキャスターの作った薬の効果は絶大だった。軋んでいた体が、まるで油を差したようにスムーズに動く。
 体の感触を確かめながら軽快に縁側を歩き、士郎は普段は使わない部屋の一つの襖の前に立った。
「なあ……」
「ボウズか? 入れよ」
 声を掛ける前に中の住人から許可が出た。襖を開けると、簡素な和室の中で異色を放つダンテが巨大なトランクを前に胡坐をかいていた。
 凛達との一時的な同盟の話を終えた後で、なし崩しにこの衛宮家を拠点にする事となった。ダンテ達はもうホテルには戻れないし、凛の屋敷は仮にも魔術師の工房の為士郎はともかくキャスターを入れる事は出来ない。消去法で此処になったわけだ。
 その後、凛とキャスターとダンテにそれぞれ空き部屋を割り当て、夜も遅い為一時解散となった次第である。
「なあ、アンタは和室で良かったのか?」
 座り方一つ取っても、お世辞にも居心地が良さそうとは言えないダンテの様子に士朗が尋ねる。屋敷の離れには洋室もあった。
「野宿よりははるかにマシさ。それに、ここなら敵が襲って来た時、一番に外に出られるからな」
 ダンテが縁側から見える庭を指差して答える。普段は陽気な男に見えても、やはり彼は危険に身を置く戦士だった。
 黒くて無骨なトランクの鍵が、パチッと音を立てて開錠される。旅行用にしてはあまりに巨大で、あまりにデザインが目に優しくない、装甲板の塊のようなトランクだ。横に長く、トランクというより子供用の柩と言われた方がしっくりくる。
 そのトランクの中身への好奇心と、後は特にこの場を去る理由がないという理由で、士郎は畳みに腰を降ろした。その視線を気にする事もなく、ダンテはトランクをゆっくりと開いた。
「うわ……」
 思わず声が洩れる。トランクの中から現れたのは幾つもの銃と弾薬だった。しかも外国の映画でしか見た事のないような巨大な物ばかりだ。
「どうやって持ち込んだんだ?」
 空港の税関を指して、士郎は尋ねた。『本当はここを一体何処と勘違いしているんだ?』と尋ねたかった。まるで戦争に行くような装備だ。
「外交特権だ」
 ダンテはトランクの中でベークライトの型に固定されたショットガンを取り出しながら、悪ふざけをするような笑みを浮かべた。
 二本の黒い銃身を並べたダブルバレルで、本来ならその銃身に一発ずつしか装填できない物を合計で10発まで入るようにしたカスタムショットガンだった。強力な散弾を発射するそれは、当然ながら人間を撃つ為の拳銃などではなく、熊撃ち用の猟銃として造られた物だ。だが、それ程の銃でありながら大きさは銃身を短くする事でかろうじてハンドガン・サイズに納まり、携帯性に優れている。
 士郎は銃に関しては明るくないが、ダンテの手に取った銃が西部劇の保安官が持つショットガンに似ていると感じた。
「何しに来た、野郎と喋るのが趣味なのか?」
 物置の奥から出てきた昔の玩具を懐かしむように銃を手で玩びながら、ダンテは視線を銃に落としたまま尋ねた。
「ああ、いや。遠坂やキャスターがセイバーと一緒に部屋に閉じ篭っちまったから、特にする事がなくてさ」
「キャスターがお前の体を治療するとか言ってなかったか?」
「もう診てもらったよ。今は調子も大分良い、貰った薬は酷かったけど」
 ローブの中から次々得体の知れない道具を取り出し、理科の実験みたいに調合を施した薬を差し出した時のキャスターの怪しげな笑顔を思い出して士郎は僅かに身震いした。ビーカーから直に飲まされた、やたらと粘着質な薬を飲み干すのは、下水を口にするよりも覚悟が必要だったものだ。思い出した食感に胸がムカついて顔を顰める。
 ダンテはそんな士郎の様子を一瞥して苦笑した。
「セメントでも飲まされたって面だな」
「緑色のセメントがあるなら、きっとそうだ」
 返された言葉を聞いて、この堅物そうな少年に意外とユーモアのセンスがある事を知ったダンテは急に親近感を抱いて楽しそうな笑い声を漏らした。しかし、その手は休まずショットガンの状態を細部に至るまで点検し、可動部に詰め込まれた油紙を取り出す。実に無駄がなく、恋人を愛撫するように優しげな動作だ。
 ダンテの手の中で黒鉄の獣が瞬く間に戦闘態勢を整えていくのを、士郎は半ば呆けたように見つめていた。
「……気になるか?」
「えっ、あ……いや」
「お前くらいの年頃だと、こういうモンに興味を持つもんだ」
 俺もそうだった、と言いながらダンテはにやりと笑った。だが正直な話、士郎は特に銃に対して興味はないのだ。日本人にはあまりに縁のない代物であったし、ただその手さばきに見惚れていたに過ぎない。
 ショットガンに口紅サイズの赤い弾丸を装填すると、ダンテは壁に掛けたコートの裏側にそれを固定した。丁度裏地にベルトが取り付けられており、急造のガンホルダーとなっているのだ。
「それとも、こっちの方が趣味に合いそうか?」
 再びトランクの前に腰を下ろすと、ダンテはトランクの蓋の裏側にベルトで固定された剣を取り外して、士郎の前に掲げた。初めて子供に楽器を与える親のような顔で。
「……すごいな」
 その刀身に、士郎は思わず魅入られた。
 押し付けられるように渡されたその剣は酷く重く、以前知り合いに頼んで見せてもらった、柳洞寺に祭られてある日本刀より倍は重かった。両刃の刀身は鉄塊のように無骨でありながら、同時に鋭く、鍔から握り手に至るまで全て鋼鉄製の、まさに鉄の塊だ。何よりアラストルやリベリオン程ではないにせよ剣としてはかなり巨大で、それらと同じように、人間には規格外なサイズである。
「これ、何ていう剣なんだ?」
 尋ねる士郎の眼が本人も気付かず輝いているのを見てダンテは苦笑する。どうやらこちらが趣味に合ったらしい。
「銘柄なんてないが、名前は<フォースエッジ>だ。リベリオンと同じで、父の使ってた剣の一つさ。少し前に見つけたんだ」
「これも親父さんの形見の剣か……」
 掲げた刀身と、両手で握りながらも取り落としそうな重量感に思わず納得する。確かに、悪魔の使う剣ならば人間に合わせた物なわけがない。
 だが、ダンテの傍らに置かれた雷の魔剣に比べると、この剣は少々見劣りがした。剣として芸術品には違いないのだが、これはリベリオンにも劣って特別な神秘や魔力の付加を感じない。解析してみても、剣の材質のほとんどが鉄と銅だ。
 しかし、士郎はそれに違和感を覚えた。この剣を始めて見た時、思わず感嘆を覚えたのは確かなのだ。
「なんだか、これがこの剣の本当の姿じゃないような気がする……」
 無意識に呟いた士郎の言葉に、ダンテは僅かに眼を見開いた。なるほど、本当に只者ではないらしい。
「良い勘だ」
「え?」
「いや。それより、気をつけろ。その剣の特性は持ち主の力を引き出す事だ、具体的には魔力を吸う」
「え……って、うわ!? ホントだ!」
 ダンテに言われて自分自身の体に意識を集中させると、気付かないくらい少量ずつだが、確かに魔力は剣の方へ無意識に流れていた。『力の剣(フォースエッジ)』とはよく言ったものだ。
 士郎は服に見知らぬ汚れがついていた時のような声を上げて、慌てて剣を畳の上に置いた。慌てながらも剣の扱いが丁寧だったのは流石としか言いようがない。
 部屋の静寂の中に響く音がダンテの銃を整備する音だけになると、士郎は不意に口を開いた。
「……なあ、ダンテ……さんの親父さんってどんな人だったんだ?」
「特別にファーストネームを恋人みたいに呼び捨てていい事にしてやるよ、シロウ。急に何だ?」
「気になったんだ」
 士郎は正直に話した。
 横たえられたフォースエッジを眺めていると、その剣を握ったスパーダの姿が思い浮かんだ。人の為に剣を振るった悪魔。その姿に酷く関心を抱くのは、夢で見た光景のせいだろう。
 正義に目覚めた悪魔。そう謳われた彼が、自分よりもはるか先に<正義の味方>へと近づいているのは確かだ。だから、知りたかった。
「どうして、人間の為に戦ったんだろうって」
「さあな。ガキの頃に剣を教えてもらった記憶以外まともな事は覚えちゃいない。家に留まる事もほとんどなかった、甲斐性なしの親父さ」
 ダンテが自嘲気味に答えた。その顔は昔話をする時のように穏やかで懐かしむような表情だったが、そこに僅かな悲しみの色は隠せなかった。
「嫌いだったのか?」
「いいや、尊敬してるよ。弱者の為に戦った人だ、その魂を受け継いだ事を誇りに思う。だがな、父の守ったものを同じように無条件で信じるには、人間って奴はちょいと汚すぎる」
「そんな事はない!」
 自分でも意外なほど激情が声となって溢れ出た事に、士郎は驚いた。だが、どうしてもダンテの言葉が受け入れられなかったのだ。
 スパーダの伝説を聞いた時、凛は『おとぎ話』だと言った。人の為に剣を振るうヒーロー。士郎の憧れた<正義の味方>の具現が、しかし今現実としてそこにあった。
 スパーダが何を思い、人の味方についたのかはわからない。だがその結果こそが、悪魔でありながら人間の命を救ったその行為こそが、人間同士でさえ殺し合うこの世界において何物にも変えがたい尊い事であると思えたのだ。
 誰かの笑顔の為。
 誰かの幸せの為。
 誰かが頑張って誰かを守れるのなら、それは良い事だ。皆が幸せに笑えるのならばもっと良い。それは絶対に間違いではない。
 だから、ダンテの言葉が嫌だった。自分の父親を、そして士郎の憧れる<正義の味方>の行動を、その血を継ぐ彼が否定する事がどうしようもなく悲しく、絶望をもたらすもので、士郎はショックを受けたのだ。
「皆が笑顔でいる為に頑張る事が、間違ってるはずがない」
 士郎は確かめるように、口に出して呟いた。
 そんな士郎をダンテは嘲笑うワケでもなく、ただ静かに、そして少しだけ眩しいものを見るように見つめて苦笑した。
「そうだな。だが、無条件で人は皆幸せにはなれない」
 ダンテは説教をするわけでもなく、淡々と言った。
「俺の街に来てみれば、考え方も変わるだろうぜ。路地裏を覗けば、男は人を殺してヤクを売り、女はレイプされて、ガキは売られる。文字通りの糞溜めだ」
 この世の全てを唾に変えて吐き捨てるような表情で告げると、士郎は喉が引き攣ってもう何も言えなくなった。士郎が毎朝見るテレビのニュースには強盗事件だの殺人事件だの、多くの不吉な言葉が流れてくる。だが、目の前の男はそれを毎日悪夢のように目の前で見続けているのだ。
「街の娼館ではお前より年下の少女が客引きして、その片隅の路地裏で孤児が汚い毛布と身を寄せ合って震えてる。街に潜むマフィアの数は、それを取り締まる警官よりも多い。家庭の破綻で疲れた警官が口に銃を突っ込んで、脳味噌を吹き飛ばしたっていう記事が毎朝の新聞に載らない日なんてほとんどない。おまけにそんな糞溜めのような街が別に珍しくもないと来てる」
 喋り続けるダンテの声は段々と平坦なものになっていく。そこに普段の気安さや陽気さはない、悪魔としての威圧感もない。ただ一人の人間の独白があった。
 士郎は先ほど語った自分の言葉が、よく鼻で笑われなかったものだと青い顔で考えていた。自分は狭い視野の中で、正義だの幸せだの語っていたのだ。その重さも知らずに。
「その現実を再認識する光景を見る度に俺は父親を疑問に思わざる得なくなる。『一体、何の為に?』ってな」
 ダンテは最後に、漂い始めた陰鬱な空気を吹き飛ばすように鼻で笑った。しかし、それまでの言葉が彼にとっての本音である事は確信できる。
 無条件で信じられるほど人間は綺麗なものじゃない。だからこそ、今この街で聖杯戦争は起こり、それによる犠牲者も出ているのだ。
 士郎は急に自分が何を信じればいいのか、分からなくなってきた。遠い日の父との誓い。だが、それは本当にあまりに遠く、この現実の中であまりに綺麗過ぎた。
「……じゃあ、ダンテは何故悪魔と戦うんだ?」
 揺れ動く心の中で、士郎はほとんど無意識に、助けを求めるようにして尋ねていた。
「……半分は私怨だ」
 しばしの沈黙を経て、ダンテが胸元にぶら下がる二つのアミュレットを手で弄りながら呟くように答えた。そこにどんな意味と過去があるのかは、士郎にはわからない。
「残り半分は、俺なりの『答え』を見つけたからってとこか」
「『答え』って?」
「そいつは教えられない」
 暗い海に溺れて、必死に浮き輪を手繰り寄せるような表情で尋ねる士郎に、しかしダンテはようやくいつもの人を食ったような笑みを浮かべて返した。
「その『答え』は俺のものだ。お前のじゃない」
 何か言いかける士郎にそれだけ断言すると、ダンテはもう何も答えず口笛を吹きながら手元の銃の整備に集中した。
 士郎はそれを見ながらダンテの話を頭の中で反芻し、いろいろな事を考えていた。これまでの事、信じているモノの事、自分の事。多くの事に整理をつけようと必死で考えていた。しかし、結局考える事が多すぎて、何も考える事はできなかった。




「失礼します……シロウ、ここにいたのですか」
 思考の海に沈んでいた士郎は、不意に掛けられた声に我に返った。顔を上げると、士郎が入って来た時開けたままになっていた部屋の入り口の前にセイバーが立っていた。
「セイバー……その格好はどうしたんだ?」
 内心の苦悩を隠して、何でもない風を装った士郎は視界に飛び込んできたセイバーの姿に一瞬眼を見開いた。
「趣味がいい」
「どうも」
 意味深げに口の端を上げて呟くダンテの言葉を皮肉と受け取ったセイバーは冷たく返した。
 セイバーは赤い服と黒のミニスカートにニーソックスを身につけた、髪型以外は凛とお揃いの服装をしていたのだ。
「どうしたんだ?」
 士郎が単刀直入に尋ねた。決して似合っていないワケではないが、物静かなセイバーの雰囲気には少々情熱的過ぎる格好だ。
 セイバーは疲れたようなため息を吐いた。
「リンとキャスターに着せ替えさせられました。不本意ですが、キャスターがドレスを持ち出したのでこちらで妥協を」
「あー、つまり遊ばれてたのか」
「う……返す言葉もありません。二人とも、何故か興奮していて」
 士郎の隣に腰を降ろしたセイバーは、恥ずかしそうに顔を俯かせた。少しだけ表情が強張っているのは、つい先ほどまで着せ替え人形にされていた事を思い出したせいか。セイバーは意外と押しに弱いらしい。
「うん、でもその格好もよく似合ってるぞ。やっぱりセイバーは可愛いからなんでも似合うな」
「……ぬぉっ! シ、シロウ、からかわないで下さい!」
 さらりと恥ずかしい事を口にする士郎に、しばしの間を経て言葉を理解したセイバーは顔面を沸騰させてがぁっと吼えた。それが照れ隠しである事は誰にでもわかる。『可愛い』と言われて喜ばない女性は、まずいないだろう。
 士郎もようやく自分の言った事の恥ずかしさを理解したのか、セイバーと向かい合って赤くなる。しかし、前言を撤回する事はしなかった。
 黙り込むセイバーと士郎。世界が二人だけの物になる。
「……んんっ。俺、外した方がいいか?」
「「はっ!!?」」
 わざとらしい咳払いに、二人は我に返った。
 銃を弄ったまま蚊帳の外にいたダンテが、にやにやと人の悪い笑みを浮かべながら二人を眺めていた。
「お、お気遣いは無用です」
「俺の事は『棒きれ』か何かだと思ってくれていい。さ、続けてくれ」
「ダンテッ!!」
「冗談だよ」
 一直線な性格のセイバーでは、ダンテにあしらわれるだけだった。だが、そんな怒った顔も可愛く見えてしまうのだから自分も重傷だ、と士郎は思う。あるいは遠坂がセイバーにちょっかいを出す時もこんな気分なのかもしれない。構いたくなる性格なのだ。
「それで、何の用だ? シロウを探しに来たわけじゃないんだろ、俺に話が?」
 尋ねるダンテの声に、もう気安さはなかった。
 彼は掴み所がない。世界の全ての物事を遊んでいるような態度を取りながら、時折海よりも深い表情を見せる。そして、それはセイバーの知る限り決まって彼の父親の話の時だった。
「そうです。スパーダについて話しておきたいと思っていました」
「……俺、外そうか?」
「聞いとけよ、坊や」
 ダンテに代わって気まずげに立ち上がる士郎の肩を抑えて座らせる。身内の話を嫌うダンテにしては珍しく、誰かにこの場にいて欲しいと思っていた。
「親父とは何処で知り合った?」
 ダンテが回りくどい話を飛ばして核心を尋ねる。
「私が英霊になる前に生きていた時代、戦場で。詳しい状況は私の真名に繋がるので話せませんが」
「出会って恋に落ちた、なんてオチじゃないよな?」
 頼むから。ダンテは切実に心の中で呟いた。
「違います、彼とは一度剣を交えただけの仲です」
「敵同士だったのか?」
「どうでしょう? あの時、私はまだ未熟だった……」
 呟いて、セイバーは虚空を見つめる。そこに遠い日の記憶を思い出して。それを眺めるセイバーの表情は幼い少女のそれではなく、人生の全てを見た老婆のように悟りきったものだった。
「彼にどんな感情を抱けばいいのか、今でも分かりません。彼の剣技には感嘆と畏怖を抱きました。ですが、同時に憎いとも思っていた。彼はそれまでの私の考えを否定しましたから」
「親父は紳士だと思ってたんだがな。何を言われたんだ?」
「……『人に触れた方がいい』と。『人を救うのは剣ではなく、人の手だ』と言いました」
 ダンテにはその言葉がセイバーに一体どんな意味をもたらしたのかわからなかった。中身のない言葉のようでもあるし、セイバーの信念を根幹から覆すような言葉であるような気もする。結局は彼女の為に語られた言葉だ、それは第三者には何の意味もないのかもしれない。
 だから彼は、その言葉を聞いて再び表情を強張らせる士郎の様子に気がつかなかった。
「その言葉を、私は受け入れる事も否定し切る事も出来なかった。
 私はある日から王になり、民の為に剣となって戦った。血は流れたが、それで守られた笑顔も多くあった。だから、私は正しい選択をしたと思っていた。
 しかし……私の国が滅んだ時からその自信は揺らぎ続けている。王となった時は、あれが私に出来る最も良い判断だったと。しかし今は別の選択をしていれば良かったと、思わない日は一日もない」
 そこまで言い終えて、セイバーは自分が自らの素性について吐き出している事にようやく気付いた。だがもうサーヴァントとして正体を知られるリスク云々について考えるつもりもなくなっていた。
 ダンテと士郎は静かに聞いている。セイバーの過去を知らない二人が、彼女の独白の意味を全て理解出来る筈はない。それでも二人は黙って聞いていた。目の前の気高い少女が初めて漏らした弱音を。
「いっそ、あの時スパーダが私の生き方を完全に否定していたら、何かが変わっていたかもしれない。失われなかった笑顔があったのかもしれない。しかし、彼は去る前に言った『他者の言葉など君にとっては戯言だ。正しさは自らが決める』と。もしあの時…………いえ、忘れてください」
 言い掛けて、それが何の意味もない『IF』の話であると気付くと、セイバーは誤魔化すように笑って目元を拭った。涙はなかった。だが彼女がほんの少しだけ泣いていた事を、士郎は気付いていた。
「もう過去の話です。私の『答え』は間に合わなかった」
「違う、セイバー」
 全てを悟ったようなセイバーの顔が、どうしても気に入らなくて、言葉が思わず口を突いて出た。
 安い慰めの言葉など言いたくはなかったが、今何も言葉を掛けてやれない事の方がもっと嫌だ。無責任な言葉でも何でもいい。今、目の前の弱々しい少女に必要なのは誰かの言葉なのだと。
 気付かせて上げたかった。
「間に合わない事なんてない」
 口から出たのは、そんな空っぽの言葉。それでも、士郎は自分で言って虚しさを感じながら、なおも繰り返した。
「間に合わない事なんて、ないんだ……」
「シロウ―――」



 その時、屋敷の中に侵入者を知らせる結界の警鐘が鳴り響いた。



「敵だっ!」
 それまでの重苦しい空気が、緊急事態の緊迫したモノに一瞬で摩り替わった。士郎が顔を強張らせて立ち上がる。セイバーは既に鎧を実体化させていた。
「ああ、しかもこりゃ悪魔だ」
 ダンテが悪態をつきながらアラストルを手にする。
「人生相談する暇もねえ。タイミングはいつだって最悪。これだから奴らは気に食わねえんだ!」
 悪態を吐いて壁に掛けたコートを颯爽と着込むと、ダンテは空いた手でフォースエッジを持ち上げ、そのまま士郎に放り投げた。慌ててそれを受け止める。
「え、何を……っ?」
「使え、木刀よりマシだ」
「いいのか? だって、これ親父さんの……」
「お前なら、今更だろ? それに、二刀流までは習わなかったからな」
 士郎は一度握ったフォースエッジの感触を確かめながら、改めてその刀身を眺めた。重い。やはり人間が振り回すには少々無理のあるサイズだ。
「行くぜ」
 しかしそんな都合などは、ダンテも敵もかまってはくれなかった。縁側から庭へと飛び出すダンテとセイバーの後ろ姿を見て、士郎は慌てて意識を集中する。使えないのならば、使えるようにするまでだ。
「同調、開始(トレース・オン)」
 肉体を強化する。途端、士郎は血管に物凄い勢いで溶けた鉄が流れてくるような痛みを味わった。
「ぐ……っ!」
 リベリオンの投影によって魔力は消耗されているはずなのに、むしろ普段の強化の練習では感じた事のない程大量の魔力が流れ込んで来るのを感じる。
 暴れる魔力を必死で制御しながら、士郎はようやくその理由に思い当たった。あの投影の時に感じた、撃鉄の起きる感触だ。あれで目覚めたのだ。自分の中に眠る全ての魔術回路が。
 これまで一本の魔術回路を作って強化をしていた時と同じ感覚で、全ての魔術回路を強化に使ってしまった。つぎ込む魔力が多すぎる。暴走する。
「はっ……ぁあっ!」
 魔術回路を生成する時の要領で、最高の集中力を発揮して魔力をコントロールする。全身の筋肉が注ぎ込んだ魔力でパンクしそうになりながら、それでも何とか士郎は強化を成功させた。
 本番に強い性分と、やはり魔力を消耗していた事が皮肉にも強化の暴走を抑える要因になった。フォースエッジが適度に込められた魔力を吸収して減らしてくれた事も幸運だった。
 士郎は強化の成功の感触を確かめると、額の汗を拭った。右手の大剣も、もう程よい重さ程度にしか感じない。これならば問題なく振り回せる。
 緩んだ気を引き締めると、士郎はダンテ達から少し送れて外に飛び出した。
 そして視界に飛び込んだ光景に、思わず訝しげな表情を浮かべてしまった。
 離れにまで繋がる広大な庭で警戒しながら佇むセイバーとダンテ。屋根の上を見上げれば、すでにアーチャーが実体化して弓を構えている。黒い雲が月に靄をかける夜空の下、緊迫した空気が流れていた。
 しかし、肝心の敵の姿がない。
「セイバー、敵は何処に……」
「シロウ、危ない!」
 不用意に足を進めた士郎を叱咤するように、セイバーが叫んだ。その言葉の意味を理解するより早く、現実が動き出す。
 聞き慣れた甲高い声が夜の闇の中に響き、士郎の背後の地面を蹴破って真っ黒な影が飛び出した。
「伏せろ!」
 巻き上がる土砂と爆発に似た音に振り返ろうとした士郎は、鋭く叫ぶダンテの声に反射的に従った。頭を下げながら、視界にショットガンを引き出すダンテの姿を見る。それはつい先ほどまで士郎の頭があった位置に銃口を向けると、爆音と共に無数の散弾を吐き出した。
 鼓膜を麻痺させるほど強く叩く銃声に、一瞬全ての音が無くなる。無音の世界にいる士郎の背後では、鉄が肉にめり込む音とそれを掻き消す甲高い悲鳴を上げて、地面から飛び出した黒い影が屋敷の中へと吹き飛んでいった。
「立て、来るぞ!」
 かろうじて音を取り戻した士郎が頭を上げて振り返ると、襖をブチ破って倒れこんだ敵の姿が確認できた。それは人形に宿った脆弱な代物ではない。悪魔としての血肉をしっかりと備えた化物だった。トカゲからうっかり進化してしまったような姿を持つソイツは、士郎の腕を切り裂いた因縁あるあの悪魔だ。
「ブレイド!」
 確かめるようにその名前を口にする。すると、まるでその呼び掛けに応えるかのように、削り取られた頭から血を流して敵が素早く立ち上がった。至近距離で炸裂するショットガンの威力は人体を挽肉にする程のものだが、頭にかぶった鋼鉄の兜がその威力を半減したらしい。
 憎しみの咆哮を上げると、ブレイドは鋭い爪を翻して士郎に飛び掛った。
 全身をバネに使った強力な一撃を咄嗟に剣で防御した。金属的な音が響いて、刀身と爪が互いを弾き合う。以前強化された木刀をへし折った威力を考えれば、それを完全に受け切るフォースエッジの強度は計り知れないものだ。正面から打ち合った刃には刃こぼれすらない。
「ハァッ!」
 火花を中心に互いの体が離れた瞬間を狙って、セイバーがブレイドに踏み込んだ。ヴォンッ、と風を斬る音と共に、振り下ろされた不可視の刃が、目前の悪魔を頭頂部から兜ごと真っ二つに斬りおろす。
 惚れ惚れする太刀筋に歓声を上げる間もなく、セイバーは返す刀を振り返りながら翻した。まるでその軌道に飛び込むように、背後の地面から別のブレイドが飛び出してくる。
 奇襲を仕掛けたブレイドは、予想に反して自分を迎えたのが見えない刃とその風切り音だと気付く前にその腹を切り裂かれた。敵にとって誤算だったのは、もはや予知に近いセイバーの直感を知らなかった事だ。
 致命傷を負わされたトカゲの悪魔が血を撒き散らして身悶えようとするが、その暇すら与えず上空から降り注いだ雷撃のような矢の一撃が兜を貫通して頭部を射抜いた。
「気をつけな、あのタイプは地中を移動できる」
 絶命したブレイドがその魔力を失って、単なる土くれとなりながら消滅していく様子を冷たい視線で見下ろし、ダンテがその場の誰にとも無く説明する。目の前で跡形も無く消えていく死体を眺めながら、士郎はごくりと唾を飲み込んだ。
「アーチャー、もう一匹いないか?」
 ダンテが銃を油断無く構えながら、周囲を一望できる位置にいるアーチャーに問いかける。
「いない。何故だ?」
「あのトカゲのバケモンは大抵三体の群れで行動するからさ。リーダー役の奴がいない」
「それは―――」
 どういう事か、と士郎が言いかけた。その瞬間、離れの二階の窓が割れる音が響いた。
『きゃあああっ!?』
「……っ凛ッ!!」
 続いて聞こえた悲鳴に、アーチャーが顔色を変える。
「くそっ、こっちは囮か!」
「遠坂ッ!?」
 ダンテが悪態を吐いて、その横で士郎が足に力を込める。セイバーと、屋根の上ではアーチャーが既に駆け出していた。普段ピクリとも動かないアーチャーの鉄面皮に、初めて焦りの表情が浮かんでいる。
 全てが致命的に間に合わないと、全員が嫌な予感を感じ、それを否定し始めた。その時。
『このボケェェェーーーッ!!』
 凄まじい爆音と共に、凛の部屋の全ての窓をブチ破って凶悪な閃光が噴き出した。凄まじい魔力の奔流が夜空を乱舞する。
 全員が呆気に取られる中で、飛び散る硝子の破片に混ざって黒い塊が吐き出されるように窓から空中へと投げ出された。それは放物線を描いて、きりもみしながら士郎達の佇む庭へと無残に墜落する。
 黒い煙をブスブスと上げるそれは、不味そうに丸焼きになったトカゲのレアだった。
 もはやピクリとも動かないソレの後を追うようにして、光の収まった窓から赤い風が飛び出してくる。空中で一回転して華麗な着地を決めると、凛は鬼神のような表情でゴミのように転がった黒焦げのブレイドに歩み寄った。その颯爽とした姿に全員が呆気に取られ、ついでに士郎は直感的に恐怖を感じた。
(あれは『あかいあくま』だ……)
「凛、無事……」
 だったか。アーチャーがそう言い終えないうちに、凛はまだかろうじて息のあるブレイドの体を踏みつけ、魔術刻印の無慈悲な光を纏う左腕を額に向ける。
 そして満面の笑みを浮かべた。
「地獄に落ちろ」
 地を這うような声で囁き、優しい笑みは音を立てて軋んだ。
 凶暴な雄叫びを上げてガンドの雨がブレイドの頭に降り注いだ。何の慈悲も感じさせない呪いの弾丸が怒涛の如く吐き出されて、指先にある標的と周囲の地面を無茶苦茶に蹂躙する。
 原型を留めぬほど頭部を破壊すると、凛はトドメとばかりに死体を蹴り上げた。強化を受けたその一撃によって、憐れな悪魔の死体が空中に放り出される。地面に落ちると、そのまま力なく土くれへと成り果てた。
「……すげえ」
 ダンテが信じられない、と首を振りながら感嘆の声を漏らした。それに続けて「神よ……」と怯える信者のように祈りそうになってしまった。
 セイバーは冷や汗を流し、士郎とアーチャーは自分でも気付かぬうちに震えていた。
「……で、何処のどいつよ!? この馬鹿の親玉は!!?」
 怒り狂った猛牛のように鼻息を荒くしながら、凛は周囲を睨み付けた。そこには悪魔に襲われて怯える少女の姿など欠片も見えない。その眼は、獲物を狩る狩人の眼光を宿している。
「無事なのはいいのだが……何があったのだ?」
「どうも、魔術を邪魔されたらしいわ」
 直接聞く勇気も無く、呟くように疑問を口にしたアーチャーに答えたのは、空中からふわりと降り立ったキャスターだった。先ほどの爆発の余波を受けたのか、ローブの裾が少し焦げて、本人も煙でも吸い込んだのか、けほけほと可愛らしく咳き込んでいる。
「敵の気配を感じて知らせに行ったんだけど、ドアがいきなり爆発して」
 言いながら、キャスターはアーチャーの前に右手を差し出した。その手のひらにはひび割れてその輝きを失った宝石が乗っている。
 アーチャーは遠坂の魔術特性が『流動・変換』である事を思い出すと、すぐに納得した。
 凛は宝石に魔力をストックする事で、手軽な限定礼装としていた。宝石がこのように砕けたのは、魔力を蓄える段階で何らかの失敗があったせいだろう。金のかかる魔術のせいで最近散財を嘆いていた凛にとって、貴重な宝石が一個無駄に潰れた事はまさに泣きっ面に蜂。『キレる』のも無理はない。襲撃された時の悲鳴はそういう意味だったのだ。
 アーチャーは怒り狂う凛を必死で宥める士郎とセイバーの姿を見下ろしながらため息を吐いた。
「まったく、心配させて……」
「待って、来るわ!」
 キャスターが虚空を鋭く睨みながら告げた。その言葉に、アーチャーが遅れて気配を察知する。
「……さぁて、コイツはどうやらこれまでの奴らとは違うらしいな」
 ほとんど同時に、ダンテもまた闇の気配を感じ取っていた。その表情は口を衝いて出る軽口とは裏腹に、酷く重たい。彼の全身が、神経線維の末端に至るまでの全てが、睨みつける塀の向こうから漂ってくる暗い空気に敏感すぎるほどの反応を示していた。
 漂う緊迫した雰囲気に気付いたセイバーと士郎、そして凛が警戒をあらわにする。
 その観客の視線に応えるように、再び地面から三つの影が飛び出してきた。見た目通り爬虫類に似た、それでいてどんな生物とも違う雄叫びを上げて、三体のブレイドが士郎達を取り囲む。
 そして次に、不気味な笑い声が響いた。
「上もか……」
 屋根に陣取ったアーチャーとキャスターが揃って夜空を睨み付けた。
 黒い闇の中でも尚黒い、ボロ布のようなマントが四つ、夜空に漂っている。マントの中から覗く、ミイラのようにやせ細った腕には不釣合いに巨大な鎌を握り、その中心に浮かぶ不気味な白い仮面からは壊れたテープレコーダーのように冷たい笑い声が絶えず洩れ出ていた。
 果たしてそれは現実か―――?
 現実だった。空中から滲み出るように現れた4体の悪魔は、古来より人が『死神』と呼ぶ者の姿そのままで幽鬼のようにゆらゆらと浮かんでいた。
「気味の悪い人形に、トカゲの化物、次は死神。悪魔のセンスって最悪ね!」
 凛が呆れるように吐き捨てる。しかし、笑い飛ばす事は出来なかった。心から滲み出る悪魔への恐怖心と、漂う不気味な空気、そして狂った光景に囲まれた中で出来る必死の抵抗だった。
 背筋に冷たい汗が流れる。敵のサーヴァントと対峙した時の圧倒的な威圧感とは違う、じわじわと首を荒縄で締められるような恐怖に士郎も歯を食いしばって耐えていた。
 そこに地獄が舞い降りた。悪魔の怒りと共に。

「―――強がるのはやめなよ、遠坂。もうお前らの命は僕の物なんだ」

 地獄に聞き慣れた笑い声が響いて、士郎と凛を現実へ引き戻した。
 あるいは更に捻れ狂った非現実へと引きずり込んだ。
「慎二……」
 士郎は眼を見開いて、呆然と変わり果てた親友の名前を呟いた。
 雲間から現れた月の真っ白な逆光に、黒く塗り潰された男の影が禍々しく浮かび上がっている。その体に有り得ない魔力と、その瞳に有り得ない真紅の光を宿した間桐慎二は悠然と塀の上に佇んでいた。
 だが、士郎と凛の目を奪ったのは、その慎二の姿ではなかった。
 彼がその手に抱えるようにして抱き締めた、苦悶の表情を浮かべた少女。それが二人にとってよく知る相手だとわかった瞬間、士郎は戸惑い、言葉にならない激しい怒りが凛の脳天を貫いた。
「「桜っ!!」」
 二人は愛しい少女の名前を叫んだ。






「―――サクラ?」
 不意に立ち止まったライダーに気付き、バゼットは背後を振り返った。彼女は眼帯に隠された瞳で月明かりに浮かび上がった遠くの街並みを見下ろしている。
「ライダー、どうした?」
「いえ、サクラが呼んだような気がしたので」
「ラインから流れた意識じゃないのか?」
「いえ、おそらく私の気のせいです。貴女の持つ<偽臣の書>によって、サクラの令呪は限りなく希薄になっています。サクラが強制的にラインを取り戻さない限り、意識が流れる事などありません。情けないですが、私の不安が形になっただけでしょう」
 行動の優先順位を冷静に思考しながら、ライダーはバゼットと自分自身に告げた。サーヴァントとして桜の事を心配するのは当然の事だが、度を過ぎた不安は判断力の低下を招く。
「だが、虫の知らせという事もある。予定を繰り上げて、病院に向かってみるか?」
 素直に相手を案じるバゼットの言葉に、ライダーは滅多に変えない表情に苦笑を浮かべた。
 打算と計算だけで行動しきれない。こういう所だ、彼女を無防備に信じてしまいそうになるのは。
「いえ、それは契約に背きます。ゾウケンを襲撃するという私の要求を、貴女は果たしました。次は貴女の番です」
「……そうか。では、行こう」
 バゼットはわずかに迷いを感じながら、振り切るように踵を返した。コートが翻り、進んでいくバゼットの背中をライダーが追う。
 ああ、彼女はずるい。利害の関係だけに割り切ってくれれば良いのに、その隠せない優しさが本当にずるい。これではこっちも無感情に徹する事が出来ないではないか。
 背の高さから歩幅も違うバゼットの後ろを、距離を保つように調整して歩きながら、ライダーは気付かれないように笑みを浮かべていた。
 やがて、バゼットの視界に見慣れた、呪いのような因縁すら感じる建物が見え始めて来た。
 言峰教会。間桐邸を後にしたバゼットとライダーは、言峰綺礼に会う為、一路この場所を目指していたのだ。
 言峰綺礼から、全ての真相を聞きだす為に―――。
 教会へと続く一本道。石畳を一歩一歩踏み締めながら、バゼットは進んでいく。
 静寂に包まれて佇むその建物とそこに至る道に、かつて訪れた時の面影はない。自らの血反吐を撒き散らし、無様に這いずった道はまるで数十年前からそうであるように整然と扉まで続いている。
 ひょっとしたらあの悪夢のような出来事は全て幻で、扉の向こうにいる言峰とかつてのように穏やかな談笑すら出来るのではないか、とバゼットは思い始めた。
 しかし、その幻想を信じ込むほど彼女は愚かではない。左腕の消えない痛みが疼く度に、現実を再認識させてくれる。
 そして、道も半ばまで辿り着いた時点で、視界に現れた青い影もまた―――。
「ランサー……」
 教会へ続く道を遮るように、仁王立ちで、しかし飄々と気安く佇むかつてのパートナーを見据え、バゼットは万感の思いを込めてその名を呟いた。
「よお、バゼット。アンタの事だ、必ず来ると思ってたぜ」
 従者であった時と変わらぬ素振りで笑いかけるランサー。それがどうしようも懐かしく、だからこそ気付いてしまう。もうその声や視線に、背中を預ける者に対する信頼の念が少しも込められていない事に。
 バゼットは閉じた口の中で奥歯を噛み締め、しかし真っ直ぐに見つめ返した。
「ランサー、私はコトミネに会いに来た。取り次いではくれないか?」
「悪いがそいつは出来ないな。奴は教会の中にいるが、その前にまず俺を倒しな」
「不本意だな。君はあの男の味方をするのか?」
「サーヴァントとしてはイエス。個人的にはノー。だが<クー・フーリン>としては……どうでもいい事さ」
 わかるだろ? ランサーは言外にそう語って、初めてバゼットに親愛を込めて微笑んだ。
『英雄は幸せに生きる事よりも、満足できる死を望む』
 かつて、バゼットがランサーに聖杯戦争における目的を尋ねた時、彼はそう答えた。
 聖杯など興味はない。第二の生など気にもならない。
 彼が求めたのは、戦い。
 死力を尽くし、誇りも、魂も、その身の全てを賭ける価値すらある戦い。
 限りある命を燃やし尽くして一瞬の輝きを放つような戦いを、彼は望んでいると語った。
 誰が敵で誰が味方なのかなど、どうでもいい。そう、彼には些細な事だ。
 彼がここに立つ理由を。裏切りという屈辱を経て、今尚犬のように扱われる現状の中で自棄を起こさない理由を、バゼットは痛いほど良くわかっていた。
「そうだな、君はそういう男だった」
 儚い笑みを浮かべる。
 彼の考えが理解出来る。理解出来てしまう。だからこそ、辛いのだ。そこまで信頼し合ってしまったから、彼に背を預ける事を今尚望んでいるから。
「……だが、私はまだ君を諦めたワケではない」
 バゼットは強い意志を込めて、わずかに怪訝な表情を浮かべるランサーを見据えた。
「ランサー、君のマスターは私だ。君は、私の物だ」
「……おいおい、こんな所で随分熱い告白してくれるじゃねえの?」
 ランサーは一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、次に少しだけ嬉しそうに笑い声を漏らした。しかし、それもすぐに引き締められた口に塞がれる。
「だけどな、場違いだぜ。ここを通りたきゃ俺を殺せ。出来ないなら、俺がアンタを殺す」
 ランサーは言い切った。その言葉と向けられた殺意に、バゼットは一瞬沈痛な表情を見せたが、すぐに弱味を見せまいと視線を尖らせた。
「違う。君を殺さずにそこを通り、私はコトミネから令呪を奪い返す」
「やめろよ、それが目的で来た訳じゃねえだろ? もう俺とアンタは敵同士でしかねえんだ。いい加減受け入れろよ、未練たらしいぜ?」
「ああ、私は未練たらしい女なんだ。全力で君を取り戻す」
「……そうかよ」
 ランサーは苛立たしげに吐き捨てた。
 駄目だ。その信頼を捨てていない視線も、言葉も、駄目なのだ。ランサーは焦がれて、差し出しそうになる手を仮面の奥に押し込めた。
「けどよぉ、アンタ俺のいない間にもう『代わり』を見つけたみたいじゃねえか」
 それまで黙してバゼットの背後に佇んでいたライダーにようやく視線を向けると、ランサーは侮蔑交じりの嘲笑を浮かべた。それは彼に酷く似合わない笑みだったが、確実にバゼットの心を切り裂いた。
「驚いたぜ。俺を失って、ほんの数日で新しいサーヴァントと契約するなんてよ。やれやれ、アンタの移り気もなかなかのモンだ。これは袂を分かって正解だったかな」
「―――!」
 ランサーが吐き出すように紡ぐ侮蔑の言葉に、バゼットは唇を噛み締めた。痛々しい程に傷ついた表情を浮かべるバゼットに対して、ランサーは笑みを浮かべたまま槍を構える。
「ま、あっさり令呪奪われた時点でアンタには失望してたんだ。何もしないなら、勝手に死んでくれや」
 苦痛に顔を歪める彼女を前にして、一切の同情などない、狂犬と化したランサーが獰猛な笑みを浮かべる。
 ―――それが目の前の『クソ野郎』の言葉を許容できる最後だった。
 ドゴンッ!! と、何かが爆発するような凶悪な音がバゼットの背後で響き渡った。
 それが、無言を貫いていたライダーが予備動作もなく走り出し、地面を蹴り砕いた音だと気付くよりも早くに、ランサーの顔面を凄まじい衝撃が襲った。
「なっ……ごぉぉおっ!!?」
 無意識の内にバゼットに意識を集中しすぎていたらしい。気付いた時には頬骨がミシミシ軋む音と共にランサーの体は空中をぶっ飛んでいた。激しい衝撃と共に地面に叩きつけられ、石畳を勢い良く滑る。ランサーは慌てて姿勢を立て直して、勢いを踏み堪えながら立ち上がった。
 衝撃の正体はありったけの加速で繰り出した、ライダーの右フックだった。
「……ってぇぇ〜! てめえ、なんつー怪力してやがるんだ!? 首から上が無くなるかと思ったぜ!」
「こんなモノで済ませるつもりはありません」
 いつの間にか両手に鎖を構え、ライダーは二人の間に割り込むように佇んでいた。バゼットに向けるランサーの視線を全て遮るように、その長身を仁王立ちさせて対峙する。固く閉ざされた眼帯の奥には、確かな怒りを宿して。
「バゼット。女の方が泣き寝入りするなど、男の思う壺ですよ」
「ライダー……」
 優しく、そして力強い声が心地よく心に届く。淡い紫色の長髪に隠された背中を、バゼットは呆けたように見つめる。
 ライダーは鋭い犬歯を僅かに覗かせて、口元を歪めた。
「ランサー、さっきから黙って聞いていれば好き勝手言ってくれましたね。アナタのような男が女を駄目にする。叩きのめして、バゼットの前で土下座させて上げましょう」
 鋼鉄の杭を牙に持つ紫の獣が、しなやかに体を屈める。見えない視界の先には、怒りの標的を捉えて。
「ハッ、女の怒りほど怖いモンはねえな。そう! そういうシンプルなのがいいぜ、俺が敵で、アンタが味方! それで十分さ!!」
 真紅の牙を携えた蒼い獣は、獰猛な笑みを浮かべた。
 最速と最速。互いに速さを武器にするクラスに座した二人の英霊が、月の下で対峙する。









「こういう場合、現代に合わせた言葉で言うと、こうでしょうか」
 ジャラッ、とライダーの鎖が揺れた。
 膨れ上がった互いの殺気が膨張する。破裂する。
「『くたばれ、粗チン野郎』」
 次の瞬間、二匹の獣が地面を蹴り砕いた―――。










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