ACT16「鼓動する闇」



 そして、夢を見る。
 とても荒々しく、雄々しい剣の夢を。


 王となるべくして生まれた少女がいた。
 王になる決意をした少女がいた。
 王を選ぶ、選定の剣。その前に、恐怖と不安を置き去りにして少女は立つ。
『その剣を抜けば、君は人間ではなくなる』
 背後からは、推すとも止めるともつかぬ最後の忠告の声が聞こえた。
 恐怖がなかったワケじゃない。不安がなかったワケじゃない。
 誰かを救う為に、王になる。だが王となった者こそが一番人を殺さなければならない。ただ『救いたい』と願うだけではいられない。
 その事を理解して、少女は何度も怯えた。
 背後から聞こえる最後の忠告。その言葉に、一体何度躊躇った事か。
 だが、それももう今日で終わりにする、と。
 少女は剣を抜き、王となる。
 勝利を約束された、最高の王の誕生だった。
 少女の物語はここで終わる。ここから先は、英雄の物語。

 その手に携えた、黄金の剣と共に戦場を駆け抜けた王の物語。

 いつか見た夢と、全く同じ。一人の王となった少女の夢だ。
 だが、今日は続きがあった。
 王となった少女が駆け抜けた、幾つもの戦場。その戦いと血と死に埋もれた中にあった、一つの出会い。



 少女は悪魔に出会った。



 出会ったのは戦場。
 視点が変わる。黄金の剣から、その悪魔が持つ鋼の剣に。
 その剣は、王が持つ王の為の剣とはあらゆる面で正反対。
 美しい金の装飾などではなく、悪魔の頭蓋を連想させる奇怪なオブジェを貼り付けた握り手。
 磨き抜かれた光を放つ鏡のような刀身ではなく、鞘などなく野晒しで汚れくすんだ鉛の刀身。
 その剣は、剣としては到底王の剣に敵う代物ではなかった。
 担い手を選び、その者を勝利に導く神秘の剣などではない。逆にその剣は、たまたま選ばれたに過ぎなかったのだ。魔界で<最強>と謳われた魔剣士に。
 選ばれた故に、その剣は最強となった。
 敵の刃と打ち合う事で鍛えられ、敵の血を浴びる事で磨き抜かれた、まさに地獄の剣。
 その在り方こそ違え、王と黄金の剣がそうであったように、魔剣士とその剣もまた一心同体だった。
 魔剣士は斬った。自らの同族を。同じ闇の世界に棲み、同じ血と魂を持つ自らの同胞達を斬って斬って斬り続けた。
 血に酔い、殺戮を楽しみ、人々の恐怖の叫びに恍惚とする。そんなどす黒い快楽しか持たない悪魔達に、その魔剣士は恐怖を刻み込んだ。その鋼の輝きを見た悪魔は死を予感し、その刃が空を斬る音にすら震える。

 それは何十年、何百年、何千年と延々気の遠くなるような月日の中。
 魔剣士は剣を振るい続けた。悪魔の為ではなく、人間の為に―――。



<王となった少女>と<同胞を裏切った悪魔>
 奇しくも、互いに人の為に剣を振るい続けてきた二人は、ある日戦場で出会った。



 その悪魔を見る。
 同族の悪魔達に、無限の恐怖を浴びせ無限の呪詛を浴びせられる裏切り者。それは同時に、人間にとっては救世主と同じで、人は彼を<正義に目覚めた悪魔>と謳った。


 ―――だが、『彼』は本当にそれで良かったのだろうか? それはそんなに安易な話だったのだろうか?
 悪魔に同族意識や仲間との信頼などという感情は有り得ない。それでも、彼にとって悪魔とは自分と同じ存在の筈である。同じ忌むべき力を持ち、同じ暗黒の魂を持つ、無条件で互いの存在を容認出来る『兄弟』だった筈だ。
 それを裏切った。魔界と言う、自分に許された<世界>さえ敵にした。


 一体、何が彼をそこまで駆り立てたと言うのだろう?
 それが<正義>?
 ならば、<正義>とは一体何なんだ?




 衛宮士郎は剣の夢を見る。
 悪魔が振るい、悪魔を殺し続けてきた裏切りの剣。反逆の剣。
 そこに秘められた記憶を。
 正義に目覚めた悪魔の、奇跡の様で冗談のような物語を。

 テレビの電源が切れるみたいに、その夢は唐突に現実味を失っていく。それに酷く落胆する。



 その結末が、どうしても気になったのだ―――。






「あ、バカが起きた」
 ちょっと、酷いんじゃありません奥さん。見慣れた天井が眼に入った途端、耳によく聞き慣れた心地よい声が響いたが、本来ならいないはずのその人物の声を聞いても熱に浮かれたような頭では十分に驚く事が出来なかった。いつもなら飛び起きるところだろうが、全身を覆う虚脱感がそのリアクションのやる気を削ぐ。彼女の声が、ぐちゃぐちゃの頭の中で妙に気持ちよく響くせいもあった。
 視界がぼんやりと滲んでいる。それはカメラのピントを合わせるように、すぐに正常に定まっていった。
「……よぉう、カール」
「誰よ、カールって?」
「やっぱ、遠坂は知らないかぁ……」
 余裕を見せて安心させようと、口にしたジョークは失敗。ここで『血だぁ、血が足りねぇ〜』とか呻いたら洒落じゃなく大騒ぎされるんだろうな、と自分の左肩に巻かれた仰々しい包帯を見て士郎は心の中で呟いた。
 記憶が混濁して未だに脳は情報を整理中だが、自分が悪夢のような戦いをしていた事ははっきりと覚えている。死の直感と全身の魔術回路を駆け巡る激しい熱と同時に、自分の記憶は滲んで途切れたが、今こうやって自分の部屋できちんと布団を敷いて横になっているという事は、とりあえず危機的状況は切り抜けられたと言う事だろう。
 自分の体が動く事を確認する前に、士郎は首を動かして自分の傍らに視線を送った。そこに、彼女は座っていた。
 『ガンスリンガー・マガジン』などという物騒な名前の雑誌を興味深そうに読み耽る凛は、士郎のその視線に気づいて顔を上げる。
「何? 眠いんならまだ寝てても良いわよ。聞きたい事は山ほどあるけど、とりあえずアンタは重傷なんだから」
「どれくらい寝てた? 俺、どうなったんだ?」
「寝てたのは1時間程度よ。肩の傷は骨まで達してたけど、やっぱり例の妙な効果であっという間に塞がったわ。包帯は念の為」
 士郎はその言葉に左腕を動かそうとして、指先から脳天までまんべんなく走り抜けた激痛に叫び出しそうになった。傷は肩だけじゃないのか、話が違う。
「……っなんで、こんなに痛いんだ?」
「どういう魔術を使ったのか知らないけど、何にしろアンタのレベルには不相応なモノを行使した代償よ。魔術回路が一本の残らず全部焼け爛れてるわ。でも、痛みを感じるならまだ大丈夫だから安心しなさい。下手したら、再起不能だったわよ」
 痛みに悶絶する士郎を冷ややかに見つめて、凛はそれに飽きたかのように再び視線を雑誌に落とした。『あくまめ……』と士郎は食い縛った歯の奥で呪詛を吐く。
 痛みの峠を越えた士郎は、汗ばんだ額を拭いながら凛がページを捲るかすかな音を聞いていた。
 静かな部屋。その空間に異性と共にいるというのに、彼の心は酷く穏やかだった。
 子供の頃、風邪で寝込んだ自分を切継が看護してくれた時があった。疲れ果てた自分の傍に誰かが寄り添ってくれると言う安堵感。久しく忘れていたその優しい感覚に、士郎は自然と穏やかな笑みを浮かべる。
 凛の言葉に甘えてしまおうか。心地よい空気とそれが誘う眠気に全てを任せそうになりながら、しかし士郎は気合いを入れ直して瞼を開いた。
 そんな些細な甘えさえ、自分には不必要であると。彼は自らを戒めた。
 全身に錆びた針金を通したかのように、軋む体を起こす。気を張れば痛みは我慢できた。
「無理しなくていいわよ」
「いや、どうなったか知りたい。俺は確か、変な人形とトカゲの化物みたいな奴に襲われてた筈だ。遠坂が助けてくれたのか?」
 尋ねる士郎に、凛は一瞬士郎の言葉の真意を探るような目つきをして、そしてそれが徒労であると分かるとすぐにため息をついた。
 士郎と連れ立つように立ち上がる。
「その辺の説明も含めて、皆の前で話すわ。居間の方に揃ってるから」
「皆?」
 それ以上何も言わず無言で部屋を去る凛の赤い背中を、足を引き摺って追いながら、士郎は首を傾げた。






「お茶請けが見つかりました。どうぞ」
「あら、ありがとう」
「なんだよ、本当にここは男所帯か? 酒瓶の一つもないぜ」
「マスター、勝手に人様の家の冷蔵庫を漁らないで頂戴。品性を疑われるわ」
「固い事言うなよ。おっ、こいつはなんだ?」
「ドラ焼きという和菓子らしいです。非常に美味ですよ」
「うっ、こいつぁ甘すぎるぜ」
 わいわいがやがや。居間に着いた士郎を迎えたのは、言葉にするならそんな光景だった。
 甲冑を脱いだだけの、美麗で鮮やかなドレスに身を包んだセイバーが自ら用意したお茶と茶菓子を上品に食している。テーブルを挟んだその向かいではローブ姿のキャスターが妙に様になる正座でお茶を啜り、コートを脱いだダンテが口にしたドラ焼きの甘さに顔を顰めていた。
 さながら此処は異国の晩餐。全員が日本人離れした容姿をしている事もあって、士郎には常日頃見慣れた居間が異世界のように見える。
 壁に立て掛けられた大剣アラストルの剣先が畳をわずかにほじくっているのを見て、『ああ、畳が傷む』と現実逃避に似た思考が脳裏を掠めた。
「あ……赤いのが一人足りないな」
「アーチャーなら屋根の上で見張りさせてるわよ。アイツ、ダンテとあんまり相性良くないみたいだし。……っていうか、赤いのって」
 痛みと熱に浮かされ、挙句現実逃避までし始めた脳のせいか変な事を口走ってしまった士郎を、凛が春によく見る『脳が幸せな人』を見るような眼で見つめた。我に返った士郎が慌てて笑って誤魔化す。
「おっ、主役が登場したか」
 居間の前で呆然と佇む士郎に気づき、ダンテは含みのない笑みを浮かべた。キャスターが人当たりの良い笑みで迎え、セイバーは何処か安心したような顔を見せる。
「とりあえず、座りましょう」
 凛の言葉に、士郎はごく自然にセイバーの隣へと腰を降ろした。この場を仕切るように凛は全員を見渡せる位置に座る。
「シロウ、体の方は大丈夫ですか?」
「あ、ああ」
 戦いの時の凛とした横顔など面影すらない、ただ相手を案じる不安げな表情で尋ねるセイバーに、士郎は安心させるような笑みを浮かべて返した。
「大丈夫だ、心配かけてごめん」
 頭を下げる。戦いで足手まといになってしまった事、彼女にこんな心配そうな顔をさせてしまった事、それら多くの意味の謝罪を込めて。
「いえ、頭を下げるのはこちらの方です。私が未熟であったばかりに、マスターであるアナタを危険な目に遭わせてしまった」
「それは違うぞ。セイバーがいなきゃ、俺はきっとあの変な人形の群れに殺されてただろうからな」
 落ち込むセイバーを、真意を伝えて励ます意味で力強く語る士郎に、しかしセイバーは複雑そうな視線を向けるだけだった。そこにあるのは自責の念だけではない。何処か、戸惑うような眼だった。
「……あれ? セイバーが俺を助けてくれたんじゃないのか?」
「……いえ、違います」
「あ、じゃあ遠坂か?」
 本来ならここにいる筈のない少女に視線を移して、士郎は納得したように頷いた。しかし、それも凛が無言で首を振って否定する。
「いいえ、あの悪魔の群れについて話があったからここに来たけど、私が助けたワケじゃないわ」
「え? じゃあ、アンタとキャスターか?」
 同じくここにいる筈のないダンテとキャスターに視線を移す。ダンテは笑みを消し、初めて見る真剣な表情で首を横に振った。
「いや、違う。あの悪魔どもを一匹残らずぶっ潰したのはお前だ」
「……え?」
 静かだが、有無を言わせぬ鋭い視線と指で士郎を指す。一瞬、その言葉の意味を理解できなかった士郎は思わず間の抜けた声を上げてしまった。
「お、俺があのトカゲの化物を……?」
「そいつは<ブレイド>だ。魔界で人工的に作られた人界に適応した悪魔の兵士さ。ついでにあの人形は<マリオネット> そいつらも含めて、この屋敷を襲ってた悪魔全部だ。お前が、倒した」
 一語一句、強調するように士郎に言い聞かせて、ダンテは自分の傍らに寝かせていた巨大な剣を持ち上げた。
「コイツでな」
「あ……っ」
 その巨大な刀身を見た瞬間、士郎の記憶が蘇った。
 幅広の刃に、悪魔の頭蓋骨をそのまま飾りにしたような持ち手。不気味だが、同時に圧倒的な存在感を持つその大剣の名は<リベリオン>
 士郎の身長に匹敵するほど巨大なその剣を、確かにこの手で握り、振るった記憶が脳裏に蘇る。切り裂かれる悪魔達の、哭き叫ぶ断末魔がはっきりと思い出される。
「そうだ、俺が……」
 視界に入る悪魔達が次々と消滅していく一方的な戦闘を、他人事に観察していた事を士郎ははっきりと思い出した。
 正確には自身ではない。ただその剣が、自らの為すべき事を為し、それを士郎が自分の肉体を使って再現してやったに過ぎない。その剣に染み付いた、たった一つの単純な目的が手段として士郎の体を突き動かしたのだ。
 それはすなわち、<悪魔殺し>である。
「私達がこの家に着いた時、既に戦いは終わっていたわ。庭に残っていたのは、セイバーとその剣を握ったまま気絶した衛宮君。それとその周りに散らばって、消滅し始めていた無数の悪魔の残骸だけよ」
「……よく覚えてないけど。ああ、確かに俺はその剣を使って戦った」
「とりあえず、一つ聞いていいか?」
 混乱しながらも、口に出してはっきりとその事実を確かめる士郎にダンテが口を挟む。
 いつか見たような人を食った笑みは浮かんでいない。比較的付き合いの長いキャスターでさえも見た事のない真剣な、僅かに殺気すら滲ませる程有無を言わさぬ眼光を受けて、士郎は思わず息を止めた。
 何を尋ねられても、正直に答えなければならない。嘘を吐けば彼は自分を殺すかもしれないとすら思った。
 ダンテが剣を慣れた手つきで玩びながら口を開く。
「お前、どうやってコイツを手に入れた?」
 ダンテの問いは、あの光景を見ていた者にとっては少々的外れと言えるものだった。
「この剣の名前は<リベリオン>という。俺の父、スパーダが生前使っていた形見の剣の一つで、悪魔を殺す事に掛けちゃ呆れるくらい歴史のある武器だ。だから、コイツで悪魔を皆殺しにしたってのはまだ分かる」
「そうか、これアンタの親父さんの形見なのか」
「ああ。そして問題なんだがな、俺はコイツを『持ってる』」
 ダンテの言葉に、その場の全員が息を呑んだ。
「コイツは俺が譲り受けた親父の唯一の形見で、今も俺の古臭い事務所の壁に掛けてある筈なんだ。それが、一体どういう手品でお前の手元にやって来たってんだ?」
 空気が軋んだ。下手に口を開く事さえ許されない、まるで糾弾するような声だった。
 ある筈のない物が他人の手にあった。そして何より、それが父の形見の品であるという点がダンテの心の闇を浮き彫りにしていた。彼は確かに動揺していたのだ。
 おそらく彼自身、自分を落ち着かせようとしているのだろうが、無意識にその体からは魔力が洩れて出ていた。焼け付くような魔力が対峙する士郎の肌をチリチリと焼く。
 途端、静寂を裂くようにダンテの手の中にあるリベリオンが音を立てて変化した。持ち手にある髑髏が、まるでダンテの闇の力によって眼を覚ましたかのように、動かぬ装飾であった眼と口をカッと開いたのだ。
 それは鉄でありながら、まるで生きているかのように禍々しい剣だった。そして士郎には、何故かそれがその剣の本当の姿のように感じられた。
 つい先ほど経験した悪魔との戦いなど、比べ物にならないような闇の姿を見て、士郎は恐怖しながら同時に納得していた。
 ああ、やっぱり。あの剣は人間が持つモノじゃない。悪魔を殺す為に、悪魔が振るっていた剣なのだと。だから、あの剣がダンテと共にある姿がここまでしっくりくるのだと、場違いな納得をしていたのだ。
(だけど、アレは本物じゃないんだ……)
 急激に密度を増した闇の気配に、士郎と凛は凍りついたように動けなくなる。反射的にセイバーが立ち上がり、武装を展開しようとする。
 しかし、それはキャスターの手によって静かに制された。
「落ち着きなさい」
 それはダンテとセイバーの二人に掛けられた言葉だった。しかしそれでも、ダンテの体から溢れる魔力も、セイバーから滲み出る緊張感も消えない。誰も動けない張り詰めた沈黙が走る。
 息苦しく、終わりを見せぬ沈黙が続くかと思われた、その時。
「うおっ!?」
 不意にダンテの握っていたリベリオンが硝子の割れるような音をたてて砕け散った。砕け散った破片すら空中で霧散して、後に残ったのは予期せぬ出来事に呆けたような顔のダンテだけだった。
 全員の視線が何もなくなったダンテの手のひらに集中する。
 またも沈黙が走った。しかし、今度の沈黙は何処か気まずいものだった。
「……ああああーっ!!」
 動き出す時間のスタートを切るように、凛が悲鳴のような声を上げた。
「壊した! 超壊したっ!!」
「えっ、俺か!? 俺なのか!!?」
「待ちなさい! ちょっと落ち着きなさい!」
「うおっ、親父の形見がっ!!」
「っていうか何あの剣!? なんで口が開くの!? 何のサービス!?」
「スパーダの剣になんという事を……っ!!」
「やっぱり俺のせいか!? だいたいお前、親父の何だっ!?」
「もったいない! 壊すくらいなら寄越しなさいよっ!!」
「静粛に! 黙れ! シャーラップッ!!」
「ぐおっ!?」
 右へ左へのどこか壊れた大混乱。張り詰めた空気の反動で爆発した騒動は、キャスターが気合いと共に惚れ惚れするような黄金の右をダンテの頬に叩き込んだ事でようやく終結した。
 肩で荒い息をしながらキャスターが、殺気交じりの視線で凛とセイバーに座るよう促す。迫力に押された二人はいそいそと腰を降ろした。たかが話をまとめるだけで大変な労力を消費したキャスターが、苛立ち紛れに荒く息を吐く。
「なんだ、何かわかったのか?」
 『落ち着いた』ダンテが頬を擦りながら、キャスターの説明の言葉を待った。
「ええ、今のではっきりと理解したわ。アレはアナタの持つ剣じゃない。魔力で生み出された紛い物よ」
 キャスターが呟いた言葉は、本人にも思いの外冷たいモノになってしまった。
「エミヤシロウ、アナタがあの剣を作り出したのね?」
 理解し難い物を見てしまった、魔術師として否定したい心が、そしてそれを実現してみせた衛宮士郎への嫉妬が隠せない程滲み出た。
 キャスターの言葉を理解した凛が驚き、そして何か警戒するような視線を士郎に向けた。言葉の意味が理解できない士郎自身とダンテが訝しげな表情を浮かべる。
「……そうです。シロウ自身が覚えているかどうか分かりませんが、私はあの戦いの中で、シロウの手の中にあの剣が突然現れるのを見ました。何らかの魔術行使の跡である、魔力の流れも確認しています」
 唯一、その一部始終を見ていたセイバーが代わりに告げる。それが裏づけであったかのように、キャスターは自分を納得させて大きくため息を吐いた。
「やはりね、さっき剣が消滅する時に魔力の綻びが感知出来たわ。アレは限りなく物質化した魔力の塊。実在するアナタの剣そのものではないわ」
 キャスターの説明に理屈は分からないままだったが、とりあえず父の形見が消滅した訳ではないという事だけ理解すると、ダンテは安堵のため息をついた。
「ついでに言うと、あの魔力の崩壊のパターンはよく知っているモノだったわ。リン、貴女も魔術師ならアレを分からないとは言わせないわ」
「ええ、キャスターの説明で理解したわ。あの消滅の仕方、投影魔術よね。……でもそれは有り得ない筈よ」
 強化の延長上に位置する投影。それはここにはないものを魔術によって再現する、いわば模造、贋作作りの魔術。
 解析した物体を頭の中でイメージ。設計図を再現。構成物質を判明させ基本骨子を解明して無から有を作り出す。
 しかし、そうして形作られたモノはあくまで魔力の塊でしかないので強度が酷く脆い。何より投影に限らず、魔力を持って作り出したものというのは長くは存在できないのだ。それはどんな大魔術師だろうと、キャスターですら例外ではなく、魔力で1から作ったものを存在し続けさせることなど不可能な事なのだ。
 だが、士郎が自称『投影魔術』で生み出したリベリオンは剣として確かに機能し、悪魔の肉体を切り裂き、つい先ほどはダンテの闇の魔力に反応すらしてみせた。
 魔術に関しては素人のダンテとセイバーに投影魔術に関して簡単に説明しながら、凛とキャスターも改めて目の前で起こった有り得ない筈の現象を思い出していた。
「魔術の原則は等価交換。『ある物に手を加える』か『ある場所から物を持ってくるか』それが絶対よ。『ない物を作り出す』なんて事は決して不可能なの!」
「えーと、つまり俺の投影はおかしいって事?」
「おかしいのではなく有り得ないのよ。魔術を粘土で物を形作るものとするなら、貴方は何もない所から粘土そのものを生み出したに等しいわ。それがどれ程異常か分かるでしょう、エミヤシロウ」
 凛とキャスター。互いに自分とは格上の魔術師に厳しい表情で説明されて、士郎は戸惑いながらも理解した。まともな魔術も使えない半人前と自覚していた士郎にとって、彼女達が言うほど自分がすごい事をしているとは思えなかったが、わずかに殺気すら篭った二人の視線は真剣そのものだったし、それまで『坊や』扱いしていたキャスターが名前を呼ぶという事が士郎に異様な圧力を掛けていた。 
「そうよ、わかってるの? アンタはさっきの剣を何もない所から魔力だけで作り出したのよ。つまりタダで出したって事のよ! 私なんて血を吐く思いで魔術行使してるってのに、アンタはタダでっ! 無料でっ!!」
 凛が鬼気迫る表情で士朗に言い寄った。それはもはや糾弾に近い。
「あの、遠坂さん……?」
「アンタ、それ絶対なんか使ってるわ。寿命とか勝負運とか預金残高とか、ともかく何かが減りまくってるに違いないんだから!」
「遠坂、預金残高は関係ないと思うが」
「関係あるわよ! 魔術ってのは金食い虫なんだから、使ってればどんどんどんどんお金は減っていくものなの! そうでなければ許さないんだから、特にわたしがっ!!」
 そして凛は全く違う意味で威圧していた。涙目の彼女の声には多分に妬みが入っている。
「リンが妬むのも無理はないわ。アナタに警告しておくけれど、何があっても他の魔術師に投影を見せたり、ましてや今みたいに投影の話をすることは絶対にやめなさい。殺され……いえ、最悪の場合生きたままホルマリン漬けにされて永遠に研究対象にされかねないわよ」
「そ、そうなのか?」
「ええ、実際私がそうしたいわ」
 凛の影響か、キャスターも奇妙な方向に思考が進み始めていた。真顔で断言されて非常に怖いので、士郎は思わず後退る。二つの視線にそこはかとなくピンチ。
「シロウの魔術が本物に限りなく近い模造品を作り出すという事は理解しましたが、それだけではあの悪魔の群れをシロウが倒した事に説明がつきません。何より、あの時のシロウの戦い方は彼のものではない」
 そこへセイバーが口を挟んだ。魔術に疎い彼女は凛達のようにその事にこだわる必要などない。今ある純粋な疑問を口にした。
「あれは、スパーダの剣技そのものでした」
 表情を引き締めたセイバーの言葉に、ダンテの眉が軽く跳ね上がる。セイバーが士郎に向ける疑念、ダンテがセイバーに向ける疑念。それらの視線が交差する。
「……なんでお嬢さんがそこまで断言出来るのかは、後で聞くとしてだ。それは確かか?」
 疑惑の矛先をとりあえず先に収めたダンテが体をリラックスさせてセイバーに尋ねる。
「はい。しかもアナタのように我流で磨いたモノではない。私の記憶にあるスパーダの太刀筋と寸分違わない技でした。シロウが人間である以上、力や速さは劣りますが、あの動きはスパーダそのものです」
「模倣したのは剣だけじゃなかったって事か?」
 何気なく呟いて士郎を見るダンテ。そこに先ほどのような張り詰めたものはない。それでも士郎は居心地悪そうに視線を逸らした。
 剣を振るっている時の記憶は酷くおぼろげだったが、ダンテの言葉には思い当たる事もあった。あの時自分は確かに、剣に引き摺られるように動いていたのだ。あれはおそらく、あの剣の持ち主であったスパーダによって刻み込まれた戦いの記憶だったのだろう。今ならそう確信できる。
 手を見る。あの時、反逆の剣が収まっていた自分の手を。
 ごつごつとして肉厚の皮膚に覆われた、見慣れた手のひらが急に自分の物ではないような違和感に捉われた。
「やれやれ、全く面白すぎるぜお前」
 沈黙する士郎に対して、ダンテが愉快そうに笑い飛ばす。目の前の不可解な出来事を小事のように笑ってしまえる彼の精神的タフさに、その場の全員が感心するなり呆れるなりした。
 それまで奇妙に張り詰めていた居間の空気が霧散する。ダンテの笑い声が丁度良い区切りとなって、全員が何処か気の抜けたため息を吐いた。凛とキャスターも、とりあえず士郎の魔術について言及する事はやめたらしい。
「ま、衛宮君についてはここまでにしておきましょ。
 それじゃ、ここからが本題なんだけど。衛宮君、貴方達はあの悪魔の群れにいきなり襲撃を掛けられたのよね?」
「そうです。予期する事すら不可能でした」
「家の結界も反応しなかったな」
 凛の問いにセイバーと士郎が順に答える。襲撃された状況を事前に説明し合っていた凛とキャスターは無言で頷いた。
「こっちと同じね。キャスターは根城にしてたホテルで、私は自然公園で、同じような悪魔と戦ったわ。しかも状況からして、これは他のマスターの仕業じゃない」
「無作為な悪魔の襲撃と私の結界を破壊した上位悪魔の存在。どうも今回の聖杯戦争はキナ臭い方向に向かっているわ」
 凛、キャスター、セイバー、士郎、ダンテ。全員が全員の顔を静かに見渡した。聖杯戦争に参加した三人のマスターとサーヴァント。誰が誰とも無く、これから凛が代表して口にする提案を察する。奇妙な意思の疎通がそこにあった。
「そこでね、この不測の事態を解決するまでの間、この場の全員で一時的な同盟を組まない?」
 異を唱える者はもちろんいなかった。






 その苦悶の呻き声は、薄暗い地下室の中で延々と木霊し、途切れる事は無かった。それは今この場にいない者への呪詛に他ならない。
 間桐臓硯は、己の忠実な僕であり手足であり肉である蟲達に囲まれながら、ただひたすら呪いを吐き散らしていた。
「おのれおノレおノれオノレぇぇぇ……っ!」
 腐臭に混じって、肉の焼ける嫌な臭いが地下室の惨状をよりいっそう酷いものにしていた。火事で焼け残った人体標本のような出来損ないの肉体に走る痛みに耐えながら、呪詛を吐き散らす。この腐り傷ついた肉体を脱ぎ捨ててしまえばどれ程楽だろう。しかし、肉体を失って人は生きれらない。それはこの腐った魔術師であっても同じ事だった。
 ならば、これまでそうしてきたように、破損した肉体の代わりを手に入れに外へ繰り出せば良いものだが、それも不可能だった。事態はこの妖老が予想していた以上に急ぎ、地獄へと向かっていたのだ。
「まさか既に悪魔がこちらに現界し始めるとはっ。これでは新しい肉体の調達にでも出られん!」
「ぎゃあぎゃあ五月蝿いおじいちゃんだねえ、おしめ代えてもらったら?」
 間桐邸のほの暗い蟲蔵の中に、臓硯の呪詛に混じって嘲笑が響き渡る。
 そこにピエロは立っていた。蠢く蟲の闇の中で、まるでスポットライトに当たっているかのように両手を広げて邪悪な笑みを浮かべている。
「貴様、話が違うではないかっ!」
 あらゆる結界に守られた間桐の工房へと気配も感知されずに侵入したその太りすぎた道化師に、しかし臓硯は驚くことは無かった。全身を駆け巡る理不尽な痛みと怒りを微笑むピエロに叩きつける。
 その叫びを、憐れなものを見るように<ゴーマー・パイル>は鼻で笑った。
「喚くなよ、みっともねえ。長生きしてるワリに度胸が据わってねえな、ジジイ。何でもかんでも俺に頼るんじゃねえ。『話が違う』『何故こんなに痛いの?』『私は地獄へ?』 神様に祈るんじゃねえんだ、悪魔に魂を売りたけりゃもうちょっとマシな言葉を覚えな」
 ピエロの甲高い笑い声に、臓硯は老斑の濃く浮き出た皺だらけの顔を醜く歪めた。焼け爛れた顔に移った憎悪の表情は、もはやその老人を完全に人間離れしたものに見せていた。
「……何をしに来た。ワシをただ笑いに来たのか?」
「それも暇つぶしにゃ丁度いいかもなぁ……冗談だ、怒るなよ! アンタに朗報を持ってきたのさ!」
 臓硯の目の前まで歩み寄ると、パイルは足を止めた。靴の下でぐちゃりと蟲の潰れる奇怪な音が聞こえたが、それを気にする事などない。
 パイルはその肉に埋もれた紅の眼光を一度だけ、臓硯の傍らに向けた。そこには何時の間にか漆黒の鎧に身を包んだアサシンが幽鬼のように佇んでいた。あと一歩でも進めば、アサシンは機械のように剣を振りかざして近づく者を二つに両断するだろう。だから足を止めた。それだけの事だった。
「お前の可愛い孫がもう一人の孫をレイプしに向かったぜぇ、うまい具合に事が運べばアンタの思い通りになる」
「なんと、慎二を引き入れよったか!?」
「あの坊やがてめえで選んだのさ。そこで俺様が、ちょいと悪魔の力と知恵を貸してやったのよ。そしたら急にやる気になってな、まったく大した大馬鹿だぜ!」
「貴様、慎二に全て話しよったな!? 全てを知ったあやつが暴走する事などわかりきった事じゃ! 桜には無理強いするわけにはいかん、微妙な時期なんじゃぞ!」
 激昂する臓硯の声を、パイルは爪に詰まった黒い垢をほじりながらつまらなさそうに聞き流していた。
「落ち着きなよ、おじいちゃん。守りに入った賭けほどくだらねえもんはねえ、元々あんた等<人間>には分のないゲームだ。若い頃思い出して、少しくらい冒険してみなよ」
「……言いよるわ。慎二が桜を壊して使い物にならなくするか、確率は五分五分じゃ」
 臓硯は諦めたようにため息を吐いた。その瞬間だけ、彼は人生に疲れきった見た目通りの老人だった。
 そう、人間には分のないゲームだ。彼の目の前に、今と変わらずこの世の全てを嘲笑う道化師が現れた時、間桐臓硯は大きな岐路に立たされたのだ。この数百年の悲願を灰燼に帰す絶望と、全てを叶える希望、その二つの道に。
 古来より、悪魔に人間が敵う道理等ない。人が恐れ、人が知る事を禁じた闇の存在。もう人間は、彼らの用意した悪夢のような舞台に上がってしまっている。
「さあ、アンタもさっさと手札(カード)を切りな。あの坊やが向かう先はもう分かってる筈だ」
 道化師が老人の傍らに佇む黒い騎士を意味深げに流し見て言った。臓硯自身も既にその考えに至っていた、それは確かに彼に対する助言だった。
 その赤い瞳の奥にある真意が測れない。何故人を助け、何故人を陥れるのか。
「悪魔よ、お主は何を望んでおる?」
 人である事を捨てた魔術師は、人ではない存在に問いかけた。
「<恐怖>だ」
 悪魔は答えた。






 美綴綾子は薄く眼を開けた。見慣れない白い天井が薄暗い闇の中にぼんやりと浮いている。そこが自分の家の自分の部屋ではない事を訝しがりながら、ようやく自分が余り意味のない入院をしているのだという事を思い出した。
 学校を襲った集団衰弱事件。学校の生徒や教職員全員が、日中一斉に倒れるという奇怪な事件は、世間一般では毒ガスだの光化学スモッグだのそれらしい推論を上げて煽られていた。そしてその真相を知っているのは、おそらく自分自身とあの事件を起した張本人、そしてあれ以来見る事のない赤いコートを羽織った不敵な笑みの男だけだろうと、美綴は理解していた。
 ダンテの説明通り、魔力を吸われた生徒達の中には極度の栄養失調に似た症状を起こした者がおり、更に酷い者には皮膚が硫酸でも掛けられたかのように溶けた外傷を刻まれた者もいた。何より、ほとんどの生徒にこの突発的で異常な事件に遭遇した精神的なダメージがあった。
 当然ながら学校は休校。自宅療養の者もいれば、酷い者は病院での数日間の入院を勧められた。美綴も、そんな入院組の一人だった。
 時計を見ると、時間が深夜の1時過ぎだと言う事を確認する。まだ夜明けは遠い。しかし、美綴はすっかり目が覚めてしまっていた。
(大して運動もしていないんだから、当然か……)
 退屈な昼間の事を思い出してため息を吐く。学校の運動部に所属し、武道にも手を出している美綴は心身共に少なからず鍛えられている。その彼女に十分過ぎる休息は苦痛以外の何物でもなかった。
 そもそも彼女が入院したのは精神的な疲労が大きかったからだが、それも全て結界の影響に長時間抵抗していたからに過ぎない。命の危機である状況下で、彼女の体は無意識に自らの魔力を放出する事を覚え、それによって肉体を守っていたのだ。
 実際、美綴は結界が解除されるまで唯一意識を失う事がなかった。その抵抗ゆえに精神力を使い果たして深い眠りについてしまった訳だが、もとより肉体的には何のダメージも受けていない。既に状態はベストにまで回復していると言ってよかった。
「絶対明日には退院させてもらおう」
 病室で眠る他の患者を起こさないように注意を払ってベッドを降りる。冷気と静寂で冷え切ったタイルの床は、スリッパ越しにも刺すように冷たかった。窓から下を見ると、駐車場と円状ロータリーがある。しかし人っ子一人いない。
 美綴はこっそりと病室を後にした。
 ……別になんでもない。トイレである。




(夜の病院ってのは不気味だねえ……)
 美綴は自然と早足になる歩みを、音を立てないように慎重に進めながら非常灯の光の下を潜っていった。
 夜の病院というのは夏の怪談のネタにもなる、不気味な雰囲気の似合う場所だ。ここで多くの患者が息を引き取るのだから、それも無理はないと思う。もちろん、女傑でならす美綴はそれらしい怪談を聞く度に嬉々としたものだったが、常識では測れない裏の世界の事情を知ってしまった今は以前のようにもいられなくなった。早い話が、やはりちょっと怖いのだ。
 痛いほどの静寂が満たす病院の廊下を小走りで駆けて、美綴はすぐさま目的のトイレに辿り着いた。このトイレと言うのも怪談には縁のある場所だよなぁ、とあまり心地良いとは言えない気分になりながら、冷たいドアノブに手を掛ける。
 悪寒が駆け抜けた。
 悲鳴を上げなかったのは全く幸いだったとしか言い様がない。魔力を持つ事で鋭敏となった美綴の感性が、かつてない程の違和感を感じ取った。
 夜道であの謎の美女に襲われた時、学校が血の結界で覆われた時、等しく感じた威圧感とそれに伴う恐怖が全身を走り抜ける。
「……っ!!」
 美綴はどうしようもない恐怖に押されて、反射的にトイレの中に逃げ込んだ。そういえばホラー映画では、こういう風に一箇所に閉じ篭った奴は必ず殺されるんだよな、などとどうでもいい事を半ば混乱したおかしな思考の片隅で考える。
 ドアにへばりついて息を潜めていると、やがて廊下の奥にあるT字路の曲がり角の奥から、静寂の中に波紋を打つような靴音が聞こえてきた。
 もしこれが院内を巡回する見回りの看護婦さんだったらきっと怒られるのも構わず飛び出して抱きついただろう。しかし、美綴には未だに感じる悪寒がその足音の方向からこそ発生していると確信していた。
 ゆっくりと迫る感じの足音が近づいてくる。美綴はドアをほんの少しだけ開くと、そこから廊下の曲がり角を覗き込んだ。願わくば、それが寝惚けて病室から抜け出した患者でも場違いな強盗でも構わないから、人間であるようにと祈る。
 人影がゆっくりと姿を現した。窓から入る優しい月明かりは、その人物を隅々まで照らし出す。
 その人物は美綴にとって見慣れた横顔に、やはり見慣れた下卑た笑みを浮かべて、ゆっくりと廊下を進んでいた。
(間桐……?)
 それは彼女にとって嫌いな部類の人間であり、不本意ながら弓道部の同僚である間桐慎二だった。
 美綴は息を潜めて彼を見送った。何故彼がここにるのか。一体何処に向かっているのか。疑問は数多くあったが、美綴はただそれを見送る事しかできなかった。
 必死で声を殺す傍で、カチカチと歯が鳴り始める。それはもちろん、寒さで震えているワケではない。美綴は音を聞かれまいと、あわてて口に指を挟んだ。
 怖かったのだ。
 あのある意味慣れ親しんだ間桐慎二という同級生に、美綴は今確かに恐怖を抱いていた。それは怪談を聞く時や、ホラー映画を見た時に感じる恐怖とは一線を画す、より現実的でより非現実的な恐怖だった。
 狼に追いかけられた少女のように怯え、震えて縮こまる美綴の不安をよそに、慎二は笑みを浮かべたままT字路を通り、また曲がり角の向こうへと消えていった。
「あれが……間桐?」
 未だに体から震えが抜けぬまま、美綴は壁にもたれ掛かってその場にへたり込んだ。
 見間違いではなかったか。あれが本当に自分の知る間桐慎二か。
 見間違いではなかったか。月明かりに照らされた彼の黒い影が、人の形ではなく、まるで悪魔のように歪んだ角と羽根を生やしていたのは―――。
「また……か……っ」
 また自分は、異世界の扉の前に立ってしまったらしい。ほんの一歩先に口を開ける非日常と言う魔界の門。あの日、路地裏で黒い女神と赤い悪魔に出会った時から否応なしに与えられた天国と地獄の選択権だ。
 間桐慎二に何があったかは分からない。ただ、彼がもう普通の人間ではなくなったのは確かだ。彼は美綴の知る、非日常の世界の住人になってしまったのだ。そして、彼が向かった先にある病室は確か―――。
(何考えてんだ、あたしは……っ!)
 急いで暴走し始めている思考を中断する。考えてどうしようと言うのだ。学校の時とは違う。恐怖の元凶は去った。彼がこれから誰に何をしようが関係ない。ここで怯えて震えていれば危険な目に遭う事もないのだ。
 だと言うのに。
「くそっ!」
 トイレの個室の一番端にある掃除用具用のロッカーを開き、中にあったモップを掴んで棒の部分を勢い良く蹴りつけてへし折った。丁度良い長さになったモップを振って手ごたえを確かめ、即席の木刀にする。剣道は多少齧った事があった。
「自分で思ってるよりも、あたしって馬鹿なのかな?」
 自嘲気味に呟いて、美綴は自分を笑った。恐怖は消えてなどいない、なのに覚悟だけはすでに決まってしまっている。
『彼女』なら同じように立ち向かうだろう、『彼』ならば同じように駆けつけるだろう。美綴の知る友人達を自分の立場に置き換えて考えれば、答えは簡単に出た。いちいち考えて行動しているわけじゃない。ただ揃って曲者で、どうしようもないお人よしな友人達に顔向け出来なくなる事だけは嫌なのだ。
「主将としての責任もあるしな……っ」
 ここから飛び出しても、ここに留まっても、どっちにせよきっと後悔する。『ならば』と隠れるのをやめて、美綴はトイレから飛び出した。
 行かなければ。慎二の向かった先には、彼の妹であり弓道部の貴重な部員である間桐桜の病室があるのだ。






「え?」
 眼を開けた途端いきなり降ってきた黒い手のひらに、桜は声を発する間もなく口を塞がれた。
 覆いかぶさるような人影は、オレンジ色の小電球の淡い光を遮って出来損ないの絵みたいに真っ黒に塗り潰されている。ただその中で顔の部分に真っ赤な点が二つだけ浮かび上がっていた。
 兄さん。
 喉だけで呟く。何故か、そう確信できた。目の前の人物からは、彼の兄には持ち得ない不気味な闇の気配と『魔力』が漂っているというのに。
「―――とてもいい気分だよ、桜。全てを知るって言う事は、本当にこれまでの自分の視界を広げてくれる」
 兄はこれまで見た事もないような穏やかな笑みを浮かべていた。
 兄はこれまで見た事もないような恐ろしい笑みを浮かべていた。
「まるで目の前が真っ黒に塗り潰されたみたいに」
 三日月のような笑みを浮かべると、慎二は桜をベッドから引きずり出した。塞がれたままの口と、掴まれた腕に痛みが走る。それは人間とは思えないような恐ろしい力だった。
 そう、桜は初めて仮にも兄である間桐慎二を本当に恐ろしいと感じた。
 誰でもいい、助けて欲しい。視線を周囲に走らせる。当然ながら桜の眠る病室は一人部屋などではなかったが、整然と並んだベッドに眠る同じように入院した生徒達は平穏な眠りを保ったままだった。その眠りが異常だと気付いたのはすぐだった。
 もう一度兄を見る。漫然と見下ろす充血したような真紅の瞳。だがいつから兄の眼はこんな血のような光を放つようになったのか。じんわりと心を塗り潰していく恐怖。
「来いよ、桜。本当のお前を解放してやる、衛宮の前で」
 絶望に眼を見開く。それは桜にとって死刑宣告に等しかった。
 もう誰でもいい。正義の味方じゃなくてもいい。だから、止めて。
「間桐っ!!」
 病室の入り口から怒号が乱入した。桜はその声の主をすぐに察し、そしてすぐに助けを願った事を後悔した。来てはいけない。
 モップの片割れを構えて、病室に飛び込んだ美綴は問答無用で慎二に飛び掛った。現役の剣道部員にも匹敵する鋭い踏み込みで棒を斬り下ろす。慎二は振り返る暇さえない。
 瞬間、吹き飛んだのは美綴の方だった。
 性質の悪い悪夢か、あるいは喜劇のように、勇猛に襲い掛かった美綴の方がただ佇むだけの慎二から弾かれるように来た方向へと勢い良く吹き飛ばされた。病室を通り越して廊下の壁に叩きつけられ、背骨が嫌な音を立てるのを体内で聞く。一度のバウンドもなしに壁まで吹き飛ばされた美綴は、その場で少量の血を吐いた。口の中が切れたような軽傷ではない、衝撃を受けた内臓から逆流したどす黒い血だった。
 桜が声にならない悲鳴を上げる。
「やあ、綾子じゃないか」
 旧友と出会った時のような懐かしさを滲ませて、慎二は穏やかに笑いかけた。
「気……安く、名前を呼ぶんじゃ……ないっ」
 血で濡れた喉で掠れた声を絞り出す。震える足で立ち上がる美綴を見て、慎二は子供が良く出来た玩具を見るように楽しげな笑みを浮かべた。
「間桐、何をしてる……っ?」
 腹に鉄球でもぶつけられたような痛みを抱えながら、美綴は何とか呼吸を整え、ダメージを負った体を隠して不敵に尋ねた。
「別に、桜を退院させに来ただけさ。肉親が迎えに来るのは普通だろ?」
「それにしちゃ、ちょっと連れて行き方が乱暴すぎやしないかい? まるで拉致ってるみたいに見えるよ」
 絶対的優位に立つ者が浮かべる笑みをその顔に刻む慎二に、美綴は精一杯の虚勢を張って笑い返した。
 実際、真正面からの勝負なら美綴には慎二をボコボコにぶちのめす自信があったし、そうしたいと腹を据えかねる事が何度もあった。だが、それもほんの数時間前の事だ。一体どういうワケか知らないが、彼は映画やテレビで出てくる超能力だの魔法だのといった類の力を身につけてしまったらしい。
「それに、何の冗談だ? その体から立ち昇ってるワケの分からない湯気みたいなのは?」
「……へえ、お前この魔力が『視える』んだ」
 美綴の言葉に、慎二は初めて笑み以外の表情を浮かべた。口は笑いながら、その目元を醜く歪め、濁った泥の色を瞳に浮かべる。
 美綴には慎二の纏う魔力が、実際視覚的に見えているわけではない。感覚が察知したモノをそのように錯覚しているに過ぎない。しかし、他人の魔力の気配を探ると言う事は、同じ魔力を持つ者でなければ不可能な事だった。
 慎二にとってそれがどうしようもなく不快な事実だった。
「まったくさぁ、どいつもこいつも……衛宮も遠坂もお前も桜も……」
「間桐?」
「僕の前で、これみよがしにいちいち神秘を見せびらかすなぁぁーっ!!」
 甲高い絶叫と共に、美綴の目の前の空気が破裂した。
 桜には今度こそはっきり分かった。先ほど美綴を吹き飛ばしたのは念動力や超能力といったものではない。れっきとした魔術だ。空気を圧縮して打ち出し、爆弾のように破裂させる風の魔術なのだ。慎二はそれを詠唱なしに発動させているに過ぎない。そして、それこそが桜にとって我が眼を疑う、信じられない出来事だった。
 破裂した空気の衝撃波は美綴の右手を襲い、その腕を壁に叩きつけた。手の中で握っていた木製のモップがへし折れ、それと同時に衝撃と壁に挟まれた腕の骨が音を立てて砕ける。
「……っぁああああーっ!!」
 食い縛った歯を突き破るように悲鳴が上がった。夜の静寂に包まれた病室に声が響き渡ったが、それでもベッドの患者達は一人も眼を覚まさない。
「他の奴らみたいに、ちょっと眠ってもらうだけにしようと思ってたけどさ。やめたよ」
 狂った笑みを浮かべる慎二の横顔を見上げて、桜は全力で嫌な予感を感じた。自分の口を塞ぎ、同時に押さえつける慎二の腕をなんとか離そうと足掻くが、しかしそれはビクともしなかった。
「前々からムカついてたんだ、お前には」
「お……まえ……っ!」
 折れた腕を押さえて蹲りながら、美綴は慎二を睨み付けた。
「だからさ、死ねよ」
 冷たい宣言と共に、今度は美綴の足元の空気が破裂した。
 美綴の体が勢い良く宙を舞う。天井に叩きつけられて、バウンドした瞬間加速させるように背中の空気が破裂した。一瞬で床が迫り、額をタイルに激突させる。鼻の骨が砕ける感触と奥から血が溢れる熱を感じる。
 桜は塞がれた口の奥で悲鳴を上げた。それ以上やったら死んじゃう美綴先輩が本当に死んじゃうやめてにいさんもうやめてなんでもするからもうやめてやめてやめてやめ
 必死の叫びは慎二の甲高い哄笑に掻き消される。美綴の体が床や壁や天井に叩きつけられる嫌な音が断続的に響く中、病室の人間達は穏やかな眠りを保つ。
 声無き叫びと、狂った笑い声は続いた。




 ガタガタと震える桜の、涙で歪んだ視界の中にはぐったりとして動かなくなった美綴の姿があった。その床に真っ赤な池がゆっくりと広がっていく。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。何に対して、誰に対して謝っているのか。しかし、もし彼女が死んでしまったらそれは絶対に自分のせいだと。私なんか助けようとしたせいで。
「ま、こんなもんでいいかな。あんまり時間を割いてる暇はないし」
 自分の行った事に誇らしさすら感じる声色で、慎二は満足げに頷いた。
 桜は、恐怖と絶望と怒りと不安の混ざり合った瞳で、兄であった男を見上げた。
 兄さんは、一体何を望んでいるんですか―――?
 声なき声で問いかける。









「<恐怖>さ」
 慎二ではない何かは答えた―――。









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