ACT14「契約」



 気がついた時には、驚くほど多くのものを失っていた。
 名前を失っていた。
 言葉を失っていた。
 記憶を失っていた。
 自我を失っていた。
 心を失っていた。
 時折、胸元が酷く寒々しい感覚を覚えた。そこに何かがあったような気がする。首にぶら下がる僅かな重みを、それの暖かさをかすかに覚えている。だが、今彼の首には何もない。その致命的な何かを失っていた。
 脈動する生きた金属の鎧に身を包み、全身に漲る暗黒の力と、目覚めた時から決して潤う事のない圧倒的な渇きの中で、彼はただ足掻き続ける。
 自分が一体何者で、ここが一体何処で、一体何を望むのか。それさえもわからぬまま、彼は傍らに立つ歪な主の導きのまま剣を振るう。
 彼が持っていたものは、永劫振るい続けてきた黒い大剣。戦いへの衝動。そして、耳にこびり付く剣戟の音。
 鉄と鉄がぶつかり合う音が、延々と頭の中に響く。
 それは剣と剣であったり、剣と槍であったり、剣と斧であったりした。おそらく彼がここに出現し、そしてそうなる前から、最も多く聞き続けてきた音。
 その音が、彼の失った心の中で唯一残った欲望を滾らせる。
 もっと闘争を。
 もっと力を。
 何故、ここまで自分がそれを欲するのか、彼自身すでに覚えていなかった。だが、何もない彼を突き動かすのはただそれだけだった。
 力の求める先に、何があるのか。彼はそれを知っているような気がする。かつてその果てに何かを見たような気がする。それを思い出す事は出来ないが、彼は確かにそれを知っているような気がした―――。
 ふと、感じた気配で現実に戻ってくる。
 闇夜。月に雲がかかり、何処か生暖かい風の流れる柳洞寺の境内を彼は静かに歩んでいた。傍らには朽ちかけた己が主。腐臭を放つ自らの主に対して、彼は特に何の感情も抱いていなかった。
 そんな事よりも、彼の嗅覚は近づいて来る闘争の空気を嗅ぎ取っていた。
「ふむ、敵かアサシン?」
 傍らの腐敗した主が尋ねる。彼は答える事はしない。ただ言葉なく、右手に握る巨大な鉄塊を掲げた。
「―――よお、ご両人。真夜中の散歩かい?」
 軽薄な声が静かな境内に朗々と響き渡った。その荒っぽい口調に、彼は何故か懐かしさを覚える。彼の失った部分が、何かを思い出そうとする。だがそれは徒労に終わった。
 寺の屋根に、薄暗い月を背負って蒼い獣が佇んでいた。その手に握る真紅の槍。そこから彼は、自らの望むモノを感じ取る。
 闘争と力。そして死。
 蒼い槍の戦士は、腐敗した主と黒金の鎧を着た彼を流し見て、愉快そうに笑った。
「腐臭と瘴気。なんとまあ、随分なコンビじゃねえか」
「カカカ、そういうお主はランサーか。このようなサーヴァントにとって鬼門となる場所で、一体何をしておる?」
「何、網を張っていたのさ。経験からな、この場所を根城にしたがる魔術師が多いらしい。こんな嫌な空気が漂う夜には、お前みたいな辛気臭い魔術師が嬉々として動く。待ってるだけでいずれ大当たりだ」
 真紅の穂先を突きつけ、獰猛な笑みを浮かべて獣は言った。叩きつけられる焼けるような殺気は、しかし腐った主とその黒い下僕に何の動揺も与えられない。
「カカカカ、辛気臭いとは言いよるわ。今宵は様子見のつもりじゃったが、見つかってしまっては仕方がない。大人しく退散させてもらうとするか」
「寝ぼけんなよ、おい。てめえみたいに腐った血の臭いを纏う奴はロクなもんじゃねえって相場が決まってる。ここで死んでもらうぜ」
 顔を歪めて獣が槍を構えた。対峙する二人の間の距離は遠い。しかし、蒼い獣の脚力ならばそれを一瞬ゼロにする事さえ可能だった。
 ゆっくりと、闇に溶けるようにその身を下げる主に代わって、黒金の従者が前に歩み出た。
「へえ、お前が俺の相手をしてくれるってのか?」
「……」
 やはり答える事無く、彼はそのあまりに巨大な剣を構える。鎧の上から覆うボロボロに擦り切れた外套が、僅かに揺れた。
「……おかしな野郎だ。俺はこの戦争に参加したサーヴァントと戦ってきた。だからお前は最後のクラス、アサシンのはずだ。それが……」
 まるで騎士じゃないか。槍の英霊はその言葉を飲み込んだ。
 騎士と言うのなら、目の前の存在は明らかに真っ当な存在ではなかった。その身と剣に纏う、黒い靄のような力の渦。圧倒的でありながら不気味な暗黒の力を感じる。
 何より、その顔はもはや人間のものとはかけ離れていた。
「人間離れした姿の英霊もいるが、てめえはどうやら本当に人間じゃねえようだな」
「その通りよ、ランサー。侮るな? 侮れば死ぬぞ?」
 愉快そうに笑う腐敗の主。
「ふん、消えな。てめえは見逃してやるよ」
 ゆっくりと消えていくその姿を一瞥して、興味を無くしたかのように言い捨てる。
 そして残ったのは、槍と剣を振るう戦いの権化と化した二匹の怪物だけだった。
「さあて、楽しもうぜ化物?」
 好戦的な笑みを浮かべて、槍の英霊が跳ぶ。迫る赤い閃光に、かりそめの騎士は右手に持つ鉄の塊を向けた。
 剣戟の音が響く。ずっと昔から、聞き慣れた音が。
『I need more power(もっと力を)―――』
 言葉を失った彼は、ガランドウの体での中でそれを叫び続ける。それが彼の剣を動かす。
 気がつけば、多くのものを失っていた。
 ただそれだけが残った。






「とりあえず、座りなさい」
「それは命令ですか?」
「……」
 頭痛い。キャスターは額を押さえてため息をついた。なんでこう、私の周りには癖の強い人が集まるのだろう?
 腰掛けた彼女の横で、空席のままの椅子の傍らに彫像のように無言で佇むライダーがいる。わずかな身動ぎすらしないその姿は、無表情さも相まって精巧な置物のようだ。
 対面のソファーに座ったバゼットは、ダンテ達が部屋に戻ってきていきなり紹介された騎乗兵のサーヴァントを静かに見据えていた。
 眼帯で覆われた鉄面皮。そこに何らかの感情を見ることはできない。偽りの令呪で縛られ、敵であった者の配下に下ってしまった現状への不満や反抗心など見られない。『隙あらば』と敵意を撒き散らされるよりはありがたい事だったが、同時に彼女にはキャスターやバゼットとコミュニケーションを取ろうと言う好意的な感情も全く見られなかった。
 この身はただ、偽りの主に使役されるだけの存在であり、それ以上でもそれ以下でもないと。ただ命令を聞くだけの機械のように頑なだった。
 周囲との完全な隔絶。バゼットにはそれがたらい回しにされたサーヴァント・ライダーのささやかな反抗に思えた。
「……まあ、とにかく状況はわかった。しかし、令呪を弄った反則を使うとは、マキリの老人も随分と思い切った事をするな」
「理屈はわからねえが、ソイツはそんなにスゴイ物なのか?」
 唐突にバスルームのドアが開き、一体どの辺りから会話を聞いていたのか、ダンテがおもむろに呟いた。シャワーを浴び終えたばかりの体は白い湯気を上げ、ズボンを履いただけの半裸の状態だ。鍛え上げられた上半身を頭から被ったバスタオルで申し訳程度に隠し、冷蔵庫からスプライトの瓶を取り出して無造作に三人のついたテーブルへと歩み寄る。
「ずぼらなのは分かったから、せめてシャツを着ろ」
「あんまり熱っぽく見るなよ、少女諸君」
 悪戯っぽく笑ってウィンクするダンテに、バゼットがやれやれといったため息を吐いた。美しい銀髪や、引き締まった筋肉から流れるシャワーの雫がワイルドな色気を醸し出していたが、あいにくとこの場にはその程度で頬を赤らめるミーハーな少女はいなかった。
 瓶に口をつけながら、無遠慮に足をテーブルに乗せて座る。勢いよくブーツでテーブルを叩くと、上に乗っていたダンテの銃がバウンドして宙を舞い、彼はそれを器用に片手で受け止めた。
「それじゃあ、尋問と説明を始めてくれキャスター先生。俺にもわかりやすいようにな」
 口ではそう言いながらも特に興味を示さないダンテは、鼻歌を歌いながら愛用の銃を手の平で遊ぶように分解整備を始めた。
 元々頭脳労働や話し合いでダンテに対して特に期待はしてないキャスターとバゼットは、気を取り直して向き合う。カチャカチャという部品を弄る音が小気味よく室内に響く中、バゼットは口を開いた。
「そうだな、まずはその本について何かわかったか? サーヴァントを律するもののようだが」
「どうやら令呪一回分の命令権を使って作られたもののようだわ。サーヴァントに対する強制力という意味では確かに機能している」
 部屋に戻ってからずっと手の平で弄り続けている、令呪の宿った本とライダーを見比べながらキャスターは説明した。
「でも所詮は偽の令呪。サーヴァントを縛る力は持っていても、それは単純な強制の干渉。サーヴァントの体に作用して効果を表すものではないわ。瞬間的に能力を上げたりは出来ない」
「つまり、サーヴァントに対する単なる鞭というところか」
「無理矢理言う事を聞かせる、という点ではそうね。おまけにこの本自体が支配権を持っているから、これを持つ者なら相手を選ばず誰であろうとライダーのマスターになれるわ」
 なんならこの場でストリップでもさせてみましょうか? 悪戯っぽくそう言うキャスターに、バゼットは軽く顔を顰めた。さりげなくライダーの方を見れば、さすがに気分を害したのかほんのわずかに口元を歪ませている。
 それに反してキャスターの悪女っぽい嬉しそうな表情。どうやらこの二人の相性はあまり良くないらしい。
「からかうのはよせ。すまん、ライダー」
 バゼットはキャスターの『ストリップ』という発言で銃の整備を一時停止させたダンテを義手の方で一発殴ると、ライダーに謝罪した。頑なに自らを石像か何かと思い込もうとしていたライダーは、その言葉に小さい声で『いえ……』と返事を返す。
「それではキャスター、間桐慎二がその本を用いたかりそめのマスターであったワケだが……ならばライダーの本当のマスターは一体誰なのだ?」
 その問いに、最も動揺したのはライダーだった。ついに触れられたくない核心に近づかれた、と。
 偽りの令呪により縛られたライダーは不安定な存在だ。ライダーを完全に支配下に置きたいのならば、大元となるライダーのマスターの命を絶てば良い。魔術師ならば当然の判断だろう。
 マスターを守りたい。しかし、今この身では偽りの令呪に対して逆らう事も難しい。
 ライダーは内心、焦燥に歯を食いしばった。
 そんな彼女の動揺に気づかず、目の前では二人が会話を進めていく。
「マキリの一族はこの地に移住して以来、血が薄れ、魔術師の家系としてはほとんど絶たれたと聞く。ゆえに君の出会ったマスターは魔力を持っていなかったワケだが」
「他人のサーヴァントを奪ったという可能性もあるけれど、リスクが大きいわね。あの坊やには荷が重いわ。
 別の、魔力を持つマキリに関係する人間がサーヴァントを召還し、この本を作って彼に与えたと言う方が一番あり得ると私は考えているわ。何か心当たりはあるかしら?」
「マキリの一族で魔力を行使できる魔術師はもはや間桐臓硯以外にはいないだろう。噂では蟲を使った魔術を使い、何百年も生きながらえている醜悪な妖怪と聞く」
「そう」
 納得したような、まるで納得していないような気のない返事を返して、キャスターはライダーを流し見た。
「……その様子だとマキリ・ゾウケンは違うようね」
 自分のマスターへの疑惑が見当ハズレの方向に進んでいる事に、内心安堵していたライダーは、つまらなそうに断言するキャスターに対して急激に畏怖を覚えた。魔術か。こちらの心を読んでいるのか。疑心暗鬼の囚われた心を必死で静める。
「この本からも擬似的とは言えラインが通っているのよ。簡単な心理状態くらいは探れるわ」
「……」
 苦笑するキャスターに対して、ライダーは諦めに似た感情抱く。どうやら彼女は完全にこの状況を支配しているらしい。
「バゼット、他にマキリの関係者はいないのかしら?」
「……いるな。マキリは数年前に遠坂から養子を一人貰っている。娘が二人生まれた時、妹の方をな。当然魔術回路を持った魔術師の血族だ」
「魔術師の家系は一子相伝。となると、マキリの本当の後継者はあの坊やではなく、その娘の方かしら?」
「おそらくな。少なくともマキリの家系に魔術回路を持った者が加わったのは確かだ。聖杯戦争に参加する前に、協会に協力を要請して可能な限り資料は集めた。間違いない」
「そう……今度は合ってるかしら、ライダー?」
「……」
 ライダーは答えられなかった。目の前の魔術師のサーヴァントは何もかも見透かしているような気がする。姦計を巡らせる事に長けた、恐ろしい頭脳の持ち主だ。
 ライダーを殺すよりも利用する方が良いと考えている以上、彼女は支配を確立する為に真の令呪を持つライダーのマスターを殺すだろう。
 どうせ令呪を使用されれば洗いざらい吐いてしまう。自害も出来ない。ライダーはせめてもの抵抗として口を噤むしかなかった。
「私の勘では、貴女のマスターは戦う事を望んではいない。令呪を他人に譲る事は、そのまま聖杯戦争の参加権を放棄する事に繋がるわ。貴女のマスターはこの戦争から降りたがっている。違うかしら?」
「……」
「答えられない?」
 楽しむような口調。憎らしいが、何か一言でも発すればそれで全ての真実が暴かれてしまうような気がして、ライダーは石のように口を閉ざした。
「……本当のマスターには随分と思い入れがあるようね?」
 何かに耐えるように沈黙を保ち続けるライダーを見て、キャスターは苦笑した。
 冷静に考えて、本来ならばそれほど意固地になる話ではないのだ。サーヴァントの最終目的は聖杯であり、それを得る為の協力関係がマスターとのそれである。故に、サーヴァントの再契約があるように、目的の為に割り切るならば従うマスターは必ずしもただ一人だけ、というワケではない。
 例えば今のライダーの状況は、自分のマスターを失う代わりに新しいマスターの下につくというものだ。それを拒否する時点で、ライダーは自分のマスターに主従以外の感情を抱いているという事は明白だった。
「さて……」とキャスターは思案した。手元に令呪がある以上、全てを洗いざらい吐かせる事も出来る。
 いや、そもそも契約破りの短剣を持つキャスターならば、この本とマスターの繋がりごと断ち切って、思考を奪い、ライダーをただ命令を聞くだけの人形に変える事も可能だろう。
 しかし、キャスターはこちらの出方を興味深そうに見つめるバゼットと変わらぬ調子で整備を続けるダンテを一瞥して、そんな自分の考えを一笑に伏した。
 ライダーの境遇は自分とよく似ていた。ならば彼女にも、同じような権利があるのではないか。キャスターが、そうして今この場に在るように。
「取引をしましょう、メドゥーサ?」
 そして彼女は、魔女の契約を持ちかけた。




 カチンッと銃を構成していた最後のパーツが当てはまる。ダンテの手の中で、ある種儀式にも似たメンテナンスを終えた白と黒の相棒が再びその姿を取り戻していた。
 キャスターの言葉に沈黙が漂う中、二つの銃身がテーブルに置かれる重々しい音だけが響き渡る。二人の会話を聞き流していたダンテは、面白そうに薄く笑いながら沈黙を続けるライダーを見据えた。
「……それは、どういう意味ですか?」
 キャスターの言葉の意図を計りかねたライダーが、声を絞り出すように呟く。そこには戸惑いがあった。
「取引よ、ごく単純な。貴女の力を借りる代わりに、貴女の目的を達成する事を手伝う」
「何故?」
「そうね……まず貴女の最優先の目的が聖杯ではなく、マスターの命にあるところかしら。貴女が協力してくれるのなら、貴女のマスターには手を出さない。戦いを望まないのなら、こちらで保護もするわ」
 キャスターが口元を歪めて笑った。
「……何故、取引を? 見る限り状況は一方的ですが?」
 マスクで隠した視線を令呪の本に向け、ライダーが当然の疑問を口にする。強制的な命令権を持つ以上、彼女達は利害を求める必要などないのだ。
「契約は鎖よりも人を縛る」
 キャスターは謳うように告げた。
「貴女のような人だからこそ、この取引を持ちかけたのよ。メドゥーサ」
「アナタに私の何がわかると言うのですか?」
「わかるわ、貴女と私は似ている。<裏切り>もそこから至る<不幸>も知っている。私の名前はメディア」
 この女もまた間違いなく神話の闇に位置づけられた怪物の一人に違いない―――ライダーは頭の中に響く呪文のような声を聞きながら奇妙な共感を感じた。
「……私に何をしろと?」
「バゼット」
 しばしの沈黙の後、静かに切り出したライダーの言葉に、キャスターは満足げに笑ってバゼットの方へ視線を移した。
「聖杯戦争の裏について探ると言ってたわね。助手をつける代わりに、一つ頼まれてくれないかしら?」
「ふっ、彼女のマスターの保護か?」
「ええ、そうよ」
「君の交渉力には頭が下がるな」
 バゼットは苦笑して、全てを承諾するように大きく頷いた。
 元々一人で言峰の目的や、この戦争における情報を探ろうとしていたバゼットにとってライダーの協力を得られる事は素直にありがたい。
 最低でもランサーのマスターである言峰と接触する可能性が高いのだ。サーヴァントに対抗できるモノは同じサーヴァントだけ。この戦争の裏で暗躍する上で、この提案はまさに渡りに船という奴だった。
「一応聞いておくけど、マスターはそれで構わないかしら?」
「一応ってのが気になるが、俺の意見は反映されるのか?」
「いいえ」
「ありがとよ」
 即答するキャスターにダンテは笑顔で中指をおっ立てた。拗ねたように、椅子にふんぞり返る。
 その子供っぽい反応に苦笑すると、キャスターはライダーに向かって令呪の刻まれた本を無造作に差し出した。
「これをバゼットに渡して頂戴」
 微笑を浮かべて、静かに告げる。
 それは、ライダーの意思でバゼットに従うか否かを選ばせる、最後の選択肢だった。
 ライダーが本を持った瞬間、彼女は自由となる。本を引き裂き、偽りの縛りを破る事も出来る。
 差し出された本を、ライダーは僅かに躊躇って手にした。
「選びなさい」
 キャスターの静かな声。バゼットも僅かな緊張感を滲ませながらも、ただライダーの挙動を見守っている。
「……わかりました」
 しばしの熟考を経て、決心したライダーはそのまま本をバゼットの前に差し出した。
「貴女をかりそめの主と認めましょう。ミス・バゼット」
「ああ、よろしく頼む。ライダー」
 そして、ここに偽りの契約が結ばれた。




「とりあえず、これで話はついたわね。貴女のマスターについての情報は明かす必要はないわ。その辺はパートナーになったバゼットとだけ内密に済ませて頂戴」
 ライダーとバゼットの契約が終わったのを見計らって、キャスターがそれまでの緊迫した空気を振り払うように切り出した。
「確かめておきたい事があるわ、ライダー。その擬似令呪は、貴女の能力や魔力供給にどういう影響を及ぼしているかしら?」
「身体能力にワンランクの低減が。魔力供給に至っては、現界出来るギリギリの量程度しか供給されていません」
「……少し深刻ね」
 キャスターの解析する限り、二重の令呪がライダーの力を制限しているのは確かだった。
 サーヴァントの能力は、自身の基本能力を元に召還したマスターの技量や魔力量に影響して変動する。それは擬似令呪でマスターが変動しても変わる事はなく、現に魔力を持たない慎二から、魔力を持つキャスターやバゼットへと令呪が移ってもライダーの能力は制限された状態のまま変動する事はなかった。この場合、偽りの令呪は明らかに彼女への枷である。
 おまけに二重の令呪を介しているせいか、魔力のラインが細く、十分な魔力供給が成されていない。
 ライダーの場合、吸血種である為魔力を他人から吸収する事は比較的容易だが、それはあくまで充電のようなものだ。戦闘中に瞬間的に大量の魔力を消耗した場合、常時供給がないのはあまりに不利で効率が悪い。
 そして今も、魔眼を使用した事でライダーの魔力量はかなり減少していた。
「せめて、バゼットからの魔力供給が必要だわ」
 現在の状況を高速で処理し、解決策を導き出したキャスターは意味ありげな笑みを浮かべてライダーとバゼットを見つめた。
 その言い回しに隠された意図を素早く察したバゼットが顔を歪めた。
「というわけで、二人ともラインを繋ぎなさい」
「やはりか……」
 満面の笑みで宣告したキャスターに対して、バゼットは珍しく額に手を付いて心の底から大きなため息を吐いた。ライダーもその言葉の意味するところがわかったのか、僅かに口元を動かす。
 魔術に関する知識のほとんどないダンテだけが、会話の要領を掴めず不思議そうに首を傾げていた。
「恐ろしく気が進まないのだが?」
「あら、処女?」
「ストレートに言うな!」
 バゼットが真っ赤になって叫ぶ。冷静沈着を常とする彼女にはやはり珍しい狼狽振りだ。
「どういう事だ、キャスター?」
 ダンテがスプライトの瓶を空にして、何気なく尋ねた。
「つまりはね、ライダーに魔力を供給する大元のパイプが不調だから、バゼットと新しくパイプを繋いで、そこから常時魔力を補給できるようにするのよ。
 さしずめ、ライダーのマスターとの繋がりがメインパイプで、それとは別にバゼットとサブパイプを繋いで魔力を供給するというワケ。もちろん、令呪を介したものではないからラインを繋いだところで支配権は大元にあるわ。あくまで魔力の補給専用よ」
「なるほど」
 小難しい魔術の話を抜きにして分かりやすく説明する。ダンテは感嘆と共に頷いた。
「それで、そのラインを繋ぐ上で何か問題でもあるってのか?」
「特にないわ。元々ラインを繋ぐ行為はれっきとした魔術、人間の魔術師同士でも行うわ。ただ、繋ぐ方法がねえ……」
 小悪魔のような悪戯っぽい笑みでバゼットを流し見る。
「千差万別なんだけれど、さてどれが一番確実で効率的な方法かと言うとねえ」
「…………ラインを繋ぐ上で最も確実な手段は、性交だ」
 肩を落としたまま、頬を赤くしてそっぽを向いた状態でバゼットが続く言葉を吐き捨てた。さすがにその言葉は意外だったのか、ダンテが眼を丸くした。
「あ……あ〜、つまりはアレか。バゼットがライダーとナニをすると?」
「ああ、互いの意識もシンクロさせる必要がある。それには性的興奮で互いを高め合うのが最も効率がいい」
「あぁ〜、だがな。その、二人は女だろ?」
「当たり前だ!」
「ああ、分かってるんならいい。ちょいと確かめただけだ」
 気まずく言葉を交わす中、ようやく現状を受け入れたダンテが何度も納得するように頷く。
 ダンテはおもむろに立ち上がると、何気ない足取りで食品棚まで移動し、備蓄しておいたスナック菓子の袋を片手に再び椅子に腰を降ろした。
 袋を開き、中のポップコーンをポリポリ齧りながら軽く身を乗り出す。
「OK、じゃあ始めてくれ」
 そして真剣な表情のまま、野次馬根性丸出しでバゼットとライダーを促した。その視線はさながらポルノ映画かストリップ劇場を訪れたガキだ。
 キャスターは拳に魔力を込めて強化すると、無言でダンテの後頭部を殴り飛ばした。顔面からテーブルに突っ込み、鼻血とポップコーンをぶちまける。もちろん意識は吹っ飛んだ。
 昏倒したダンテを見下ろして、バゼットは胸を撫で下ろす。危うく銃を使うところだった。もちろん、ワリと本気だった。
「1時間したら戻ってくるから、それまでに済ませて頂戴」
 気絶したダンテを引き摺って、部屋のドアへ向かいながらキャスターが何処か事務的に短く告げる。反論の余地はない。バゼットは羞恥に頬を赤く染めながら、同時に行為の必要性もよく理解していた。
 キャスターがおもむろに足を止めて振り返る。
「気持ちよくなる薬は要らない?」
「出てけっ!」
 バゼットは今度こそ、ダンテとキャスターを部屋から叩き出した。
 二人だけが残された室内。先ほどから特に動揺を表す事もなく、無言で佇むライダーにバゼットは気まずげに視線を合わせる。
「その……君は、抵抗はないのか? 女性同士でというのは……」
「特にありませんが」
 普段の覇気など欠片もなく、ごにょごにょと眼を逸らしながら呟くバゼットに反して、ライダーはこの部屋に入ってきてからほとんど変わらない無表情のままで答える。
 ひょっとしてそういう方面の経験があるんだろうか? 平然としたライダーの態度を見て、バゼットは少し身の危険を感じた。
「……一つ、聞いても宜しいですか?」
「な、なんだ?」
 このまま1時間延々と見詰め合うわけにも行かないとバゼットが決死の覚悟を固めようとしている中で、ライダーは不意に口を開いた。
「貴女達と私は敵同士でした。いかにその本を持っていようが、わずかな隙があればそれを奪う事も可能ですし、ましてや行為の最中ではなおさらです。そんな私が協力すると言って、貴方は信用することが出来ますか?」
「無論だ」
 バゼットは間髪入れずに答えた。わずかな躊躇いさえ、ライダーに対する信頼を揺るがせるものだと思った。
「……何故そこまで私を信用するのですか?」
「これまで見てきた君の人柄。それと、私自身が君に信用してもらいたいからだ」
「貴女は少し人を信用しすぎるのでは?」
「それを言われると痛いな。一度、私もその事で痛い目に遭っている」
 もう完全に治癒した背中の傷と、失った左腕に思いを馳せて苦笑する。
「だが、懲りないのが私の性分でね。それに、私は信用する相手を選ぶ。その結果がどう転んでも、私は後悔はしない。反省するだけだ」
 きっぱりと断言するバゼットの言葉を、ライダーは無言で受け止める。変わらぬ鉄仮面の顔に、わずかに笑みの形が浮かんだような気がした。
「いいでしょう、かりそめのマスター。真の意味で、この身は貴女と契約します」
 今度こそ、ライダーは微笑んだ。顔半分を奇妙なマスクで隠しながらも、その笑みが神話の女神そのままの美しさだったので、バゼットは気づかずに頬を赤く染めていた。
 ライダーの流れるような紫紺の髪がバゼットの肩に軽く触れる。いつの間にか近づいている顔。
 バゼットは女性の中でも決して長身の部類ではない。自然とライダーが頭一つ分見下ろす形となり、頬に触れるライダーの前髪に、バゼットはわずかに身を震わせた。
「いい、いきなりだな、ライダー?」
「そうですか、流れとしてはこんなものですが?」
 その細い腕を頬に伸ばしてくる。気圧されるように、バゼットは一歩後退した。足に当たるベッドの感触。いつの間にか逃げ場はない。もちろん、逃げる事は許されないが。
「はは……っ、ず、随分と慣れているようだね?」
 平然を装った虚勢を張るバゼットを見て、ライダーの笑みが益々深くなっていく。
「安心してください、私も女性相手は初めてです」
「そ、そのワリにはちょっと楽しそうに見えるのは……きき、気のせいかな?」
「いえ、初めてですから、どういうものか興味もあります」
 白くしなやかな指先が、バゼットの金糸を優しく梳いた。それだけで、全身の力が抜けていく。甘い魔性の香りが羞恥だけを残して、全ての感覚を奪っていく。









「お……お手柔らかに頼むよ……」
「はい、マスター」
 優しい声を聞くと同時に、霞んだ視界が天井を捉えた。いつの間にか背中には柔らかいシーツの感触。自分がベッドの上に倒れたのだと気づいた時には、ライダーの柔らかい体がバゼットに覆い被さるように寄り添って来ていた―――。










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