ACT11「夜を見てる女」



「少し調子に乗りすぎたか」
 街灯の明かりを頼りに、腕時計を見ながら美綴は舌打ちした。時計の針は、もう少しで日付が変わることを示している。
「帰ったらうるさそうだな」
 連絡一つくらい入れるべきだったか。おそらく帰宅と同時に始まるであろう両親の説教を想像して、大きくため息をついた。それでも憂鬱な気分になるどころか、苦笑が浮かんでいるのはそれだけ有意義な時間だったからだろう。
 女傑で通る美綴綾子にも女子高生らしい感性はある。親しい友達と街に繰り出して、カラオケに行って遊ぶくらい当然だ。だが、今日は少々ハメを外しすぎたらしい。きょうびの女子高生ならば朝帰りでも珍しくはないが、美綴の家は門限にはうるさい方だった。
 カラオケで六時間も粘って疲労した体を引きずり、美綴は帰宅の足を早めた。途中に見えた喫茶店の光に寄りそうになったが、明日も学校がある事を思うとこれ以上の夜更かしは得策ではない。
 商店街、飲み屋の雑踏を潜り抜け、人気の少ないオフィス街のど真ん中を通り抜ける。先ほど通った、有限会社の乱立する区画とは一変し、窓にはただの一つも明かりが漏れていなかった。残業する人間の影も形も無く、冬枯れの街路樹が丸裸に剥かれた屍の林を想像させる。
(こう人気がないと不気味だな……)
 墨を流したような闇夜の中、美綴は自然と早足になっていた。暗闇が怖い、などと可愛い事を言うつもりはないが、気持ちの悪い予感がするのを止められない。
 昔から霊感というものはある方だった。明確な幽霊などを見た事はないが、墓地などに漂う独特の冷気を彼女は強く感じる事ができた。特に新都にある自然公園では吐き気を催す程の悪寒を感じた事がある。10年前の大災害で多くの死者が出た場所だけに、あの荒涼とした場所に漂う淀みが美綴の鋭敏な感覚を酷く気色悪く撫でるのだ。
 その感性が今、徐々に強くなる嫌な予感を感じ取っていた。
(……なんだ、この匂い?)
 訝しげに思いながら、足を止めずに視線を走らせる。気のせいだろうか、鼻腔を突く生臭い臭いがした。この街中であまりにそぐわない、血の臭いが。
 自分自身でも気づかないうちに、その足は全力疾走になっていた。一秒でも早く人気のある場所に辿り着こうと、夜のオフィス街を駆け抜ける。
 美綴は今、はっきりと自覚していた。この震えが来るほどの悪寒は、恐怖なのだと。
 陸上部のスカウトも受けられる俊足で街道を走る。息は上がり、心臓は破れるくらいに鼓動している。
 しかし、それほどの全力疾走にも関わらず、血の臭いは離れない。むしろどんどん近づいてくる。
「―――っ!?」
 不意に、美綴がその足を止めた。
 止まって向けた視線の先。ガードレールと車道を越えた向かいの歩道の更に先。ビルとビルの間の路地裏。その奥に溜まる濁った闇の中で、白い微笑が浮かび上がっていた。
「ひ……っ!」
 雲間から顔を出した月光に照らされる『ソレ』が人の形をしている事に気がついたのは、ソレが人の世界とは相容れない異質だと確信した後のことだった。
 美綴の予感が全力で不吉を告げる。アレは駄目だ。アレは人間じゃない。アレには敵わない。ここから逃げろ。
 空手を始め、多くの武道武術に手を出している彼女が確信する。
 しかし、その逃避すら不可能だった。
 途端に動かなくなった足を引きずって一歩後退する。その瞬間、美綴の体には鎖が巻き付いていた。
 一体いつの間に? どうやって? 何故? これは何?
 混乱する思考を振り切って、鎖に巻き取られた体が宙に浮く。鎖の先は真っ直ぐに血の臭いのする路地裏へと吸い込まれている。凄まじい力で美綴はその路地裏の中へと、抵抗する間もなく引きずり込まれていった。
「―――ミツヅリ・アヤコですね?」
 引きずり込まれた路地裏の壁に押さえつけられた美綴の耳に飛び込んできたのは、寒気のするほどよく響く女の声。
 闇の中、浮かんでいた微笑はその女のものだった。綺麗すぎて悪夢のように思える暗紫色の髪と、黒衣に身を包み、その両眼を異様な眼帯で隠した美女だ。非現実的な美しさ故に、それは恐怖すら感じる。
 美綴はいよいよ混乱した。目の前の血の臭いのする美女が、何故自分の名前を知っているのか。何故こんな事をするのか。何故、こんなモノがこの世にいるのか―――。
 喉が引き攣って声は出なかった。逃げようとも女に抑えられた肩が、壁に縫い付けられたかのように全く動かない。信じられない力だ。
「貴女に恨みはありませんが、マスターの命令ですので」
 女は美綴の顎に手を添えると、首筋を晒すようにして押さえ込んだ。抵抗など無意味だった。凄まじい力で押さえ込まれ、相手がその気になれば自分の顎などあっさり握り潰せると実感した。
 悲鳴すら出せず、ただみっともなく震える声だけが洩れる。
「ぁ……ぅあ」
「なに、命までは取りません。少しだけ血を、魔力を貰うだけです」
 美しく整った女の口が開く。そこから覗くのは真っ白な異常に鋭い犬歯。女がゆっくりとその口を、美綴の露になった首筋に近づけていく。肌に掛かる吐息に感じるものは息の温かみではなく、冷たい冷気。
「下手に暴れると痛いですよ?」
 耳元で微笑交じりの声。それがどうしようもなく冷たく聞こえる。もう心を占めるものは恐怖と諦めしかない。美綴は歯を食い縛り、次に来る苦痛に備えてきつく眼を閉じた。
「た……すけ……っ」
「お楽しみの途中で悪いが、そこまでだ」
 路地裏の闇の中、不意に響いたそのおどけたような声は美綴にとって聞き覚えのあるものだった。





 路地裏の入り口で、炎が揺れている。
 人間が操る物とは思えないほど巨大な剣を背負い、街灯の光を背にした銀色の髪は美しい光沢を放つ。その体から業火の如き魔力を滾らせた真紅のコートの男は、初めて会った時とは似て非なる不敵な笑みを浮かべてそこに立っていた。
 夜は彼の時間でもある。悪魔狩人ダンテの。
「お食事中か? 見たところ血を吸うみたいだが、食生活の改善をお勧めするね」
「あ……あんた……っ」
 ダンテの姿を認めて、美綴が状況も忘れて驚愕に眼を見開く。
 一度だけの出会いだった。朝の校門で偶然出会い、意気投合したおもしろい外国人。その男が今、あの時と同じようなふざけ半分の軽口を叩いて立っている。
 その場違いな状況に、美綴は混乱しながらも何処か安心していた。
「……アナタは、サーヴァントですか?」
 美綴の体を壁に押さえつけたまま、眼帯の女が静かに尋ねる。しかしその声には、美綴に対して見せた余裕が消え、敵を前にした確かな緊張に身を包んでいた。
「いいや、それは俺の連れ合いだ」
「吸血種のサーヴァントとなると、反英霊かしら貴女。……ああ、そう。なるほどね」
 極めて冷静に呟く女性の声を聞き、美綴が視線を向けると、ダンテの傍らにはいつの間にか時代からずれた紫のローブを着た美女が立っていた。顔を隠すように深く被ったフードの下から覗く口元は笑みの形、ダンテが炎のイメージを持つとすればこちらは氷のような冷たい雰囲気を持っていた。
「キャスター、アイツのクラスは分かるか?」
「おそらく、ライダーね」
 黒い女を見据えたまま傍らのキャスターにダンテが尋ねると、思案の間もなく答えが返って来る。一目見ただけでクラスを見抜かれた事を怪訝に思ったのか、眼帯で見えないライダーの表情がわずかに強張ったような気がした。
「見た目はアサシンって感じだがな。もっとも、そのプロポーションはちょいと目に付きすぎるか」
 顎に手を当てて露出部分の多いライダーの格好に視線を走らせる。いやらしさよりも、どちらかと言うと愉快そうなものを含んだ笑みをダンテは浮かべていた。
 そのジョークを交えた台詞に、キャスターが呆れたように肩を竦める。
「メドゥーサに暗殺者の適性があったという話は聞かないわ」
 キャスターの言葉に、今度こそライダーは明確な動揺を浮かべた。鉄面皮のような顔の口元がわずかに歪む。
「……何者ですか。何故私の真名を?」
「同郷の人間よ、貴女はあの時代でも割と有名だったものね」
「では、貴女も神代の……私は貴女を知りませんが?」
「半生を穴倉で過してた神代のひきこもりなら、外の事など知らなくて当然ではなくて?」
 クスクスとキャスターが嘲笑する。呆然と目の前で進行していく状況を見ているだけだった美綴にもこれだけははっきりと分かった。あの女性は性格が悪い。っていうか黒い。
 その挑発でライダーの様子が一変した。キャスターに向けて無言で凄まじい殺気を放つ。
「……魔術師風情が、死にたいようですね」
 噛み締めた歯が軋んだ音を立てる。感情を表に出さないライダーにしては珍しい怒りの発露だった。それだけの傷に触れてしまったのだろう。
 しかし、キャスターはそんなライダーの怒りを目の前にしてますます挑発するような笑みを浮かべる。悪女だ。アレ絶対性格歪んでる。美綴はもう確信した。
「おい、あまり挑発するなよ。怒った美女っては怖いもんだぜ?」
 背筋も凍る殺気が飛び交う中、ダンテは苦笑しながら肩を竦めた。睨み合うキャスターとライダーを流し見て、次に今だ押さえつけられたままの美綴に視線を止める。
「よお、また会ったな。アヤコ……でよかったか?」
 ダンテの問いに、美綴は律儀にもかろうじて首を縦に動かす。
「OK、それじゃあとりあえずそのお嬢さんを離してくれ。将来が楽しみな魅力を持ってるが、あいにくそれだけだ。こっちの世界とは関係ない」
「この状況で離すと思いますか?」
 くだけた態度で話すダンテの言葉を、しかしライダーは切り捨てた。
 突如現れたマスターとサーヴァント。マスターの方は信じられない程の魔力を放ち、キャスターのサーヴァントは人目で自分の真名を言い当てた。この不利な状況下で、人質に出来る者を手放す道理などない。
「ははっ、そうだな」
 ある意味当然の返答を聞き、ダンテは笑いながら頷いた。
「―――そう言うと思ったぜ」
 顔を上げる。その一瞬でダンテは腰の銃を引き抜いて、銃口を美綴を押さえつけるライダーの腕に固定していた。
 引き金を引き、撃鉄が振り落とされる。そのわずかな金切り音を聞き取る間に、ライダーは射線から腕を引いてその身を翻らせた。
 夜の街に銃声が響き渡る。放たれた弾丸は、ライダーの腕があった場所を通過し、美綴の目の前の空間を引き裂いていく。
 鼓膜を叩く銃声と、一瞬で過ぎていった弾丸の風を受けて、美綴はもはや完全に足が竦んでいた。鼻腔を突く硝煙の臭いと耳に残る銃声。この平和な日本で、この平和な街で、こんな非現実的なモノを見る日が来るとは思ってもいなかった。
 視線を走らせた先には、硝煙を上げるダンテの白い大型拳銃。アクションモノの映画を休日によく見る美綴は、銃の種類を多少知っている。しかし記憶にあるそれらと比べてみても、ダンテの持つ銃はあまりに大きく、あまりに凶悪だった。
「キャスター、アヤコを頼む!」
「あの眼帯を外させないで、魔眼よ!」
 キャスターの言葉を聞きながら、ダンテは疾風のように駆け出して路地裏の奥に消えたライダーを追う。黒衣の美女はそのまま逃亡する事無く、闇の中でダンテを待ち構えていた。その手には杭のような物を先端に取り付けた鎖を握っている。
 ダンテが見た事もない武器だったが、その短いリーチがこの場に適している事は判断できた。ビルとビルの隙間の狭い路地。人が二人並べば肩が付く。少なくとも、剣を振り回して戦えるような場所ではない。
 10メートルほどの間合いを置いて、二人は対峙した。
「やれやれ、また美女と殺し合いする事になるとはな。毎回この展開はマジで参るぜ、俺はフェミニストなんだ」
「サーヴァントも連れずに単独で戦いを挑もうとは、舐められたものです」
 ダンテの軽口を無視して、ライダーが杭を構える。人間では決して対抗できない絶対的な力を纏い、その闇の美女は標的を見据えた。
「ヘイヘイ怒るなよ、レディ。アンタはサーヴァントよりもモデルに転職した方がいいぜ」
 ダンテが細く息を吐き出すと、薄い湯気が残影のように立ち昇った。背中の剣には手を掛けず、両腕を持ち上げてシャドーボクシングの要領で左右の拳で空を切る。
 サーヴァントに対して生身の体で、しかも無手で挑もうとするダンテにライダーは表情に出さず不快感を強めたが、その腕に強い魔力の発生を確認すると踏み込むのを中断した。
 ダンテが普段から手袋の上に付けている赤錆びた色の簡素な腕輪。両手首にはめたそれは、ダンテが拳を構えると同時に真っ赤な炎を発生させた。
「っ!?」
 視界を隠したライダーには、それがただの炎ではなく魔力によって形成された<神秘>に達する炎であると感じ取れた。
 腕輪から発生した炎はダンテの両腕を覆い尽くしていく。しかし普通の人間ならば骨まで炭化するほどの炎に包まれながらも、ダンテの不敵な笑みは変わらない。
 両腕を包み、揺らめきと共に形を固めていく魔力の炎。闇を引き裂くようなその火炎は、轟々と唸りながら瞬時にしてダンテの腕を覆う篭手へと変化した。
 アラストルと同じく、炎の魔人<イフリート>の魂が武具と化した灼熱の力を宿す篭手だ。
「顔に当たらないように気をつけな、コイツを喰らったら火傷だけじゃ済まないぜ」
 その場で足踏みするような軽いフットワークと、胡散臭いカンフーアクションを繰り出しながらニヤリと笑う。拳が空を薙ぐ度に、炎の軌跡が生み出された。空気さえ焼き尽くす篭手の力、それが直撃した時の威力がどれ程のものかは実際に受けなくてもはっきりと分かる。
「精霊の宿る武具を……一体、アナタは何者なのですか?」
「ダンテだ。気安く呼んでくれ、アンタみたいな美女なら大歓迎だぜ?」
 凍りつくような殺気と、文字通り炎のような殺気がぶつかり合う。
 ダンテの足が地を離れるのと、ライダーが地を蹴るのはほとんど同時だった。その場を強く蹴ったダンテがライダーに炎を纏った飛び蹴りを繰り出す。滞空時間などゼロに近い、弾丸のような蹴りは間一髪体を捻ったライダーの頬を掠めて過ぎた。ただそれだけで焼けるような熱さを感じる。イフリートが放つ炎の加護はダンテの全身を覆っていた。
 狭い路地裏で一瞬にして互いの位置を入れ換えた二人は、振り返り様に右腕を突き出した。ダンテの拳とライダーの杭が交差し、互いの肩に叩きつけられる。
 インパクトと同時に衝撃と灼熱を叩き込んだダンテの一撃はライダーの肩を一瞬で焼き尽くした。文字通り焼けるような痛みに顔を顰めながら、ライダーは一方でダンテの肩に杭が突き刺さる確かな手応えを感じ取る。
「何っ!?」
 驚愕の声を聞く。あの余裕に満ちた軽口を叩いていた男が、わずかながらも初めて驚愕する声を捉えてライダーは愉悦に薄く笑った。
 ライダーの杭は急所を外して肩口に突き刺さっていたが、それが抜けないのだ。先端は鋭く、滑らかな曲線を描いていたフォルムを思い出せば、傷に引っ掛かる道理などある筈がないのに、まるで銛を打ち込まれたかのようにそれは抜けない。
 ライダーが鎖を引く。その細身の何処にあるのか、凄まじい力で引っ張られてダンテの体はなす術もなく宙を飛んだ。強制的に間合いに引き込まれたダンテに、もう一方の杭が額に向けて一直線に突き出される。
 激突と火花。ダンテは目の前にかざした篭手で杭の先端を受け止めた。
「キスは唇にしてくれよ!」
「……っ!」
 地面にしっかりを足をついたダンテ。繰り出したのは上下左右から無作為に降り注ぐ打撃の嵐だった。圧倒的な熱とパワーを乗せた拳が矢継ぎ早にライダーを襲う。
 枷を付けられたダンテは一瞬で決断していた。間合いを外せないのならば詰めれば良い。元々拳の届く範囲が今の戦闘エリアなのだ、こちらから近づけば鎖など関係ない。ある種開き直りにも似たその判断力の高さが、ダンテの長所だった。
 ライダーが迫る火炎の拳をあるいはかわし、あるいは魔力を込めた腕でガードする。
 ダンテの蹴りと殴打のコンビネーションはストリートファイトで鍛えた我流の技だった。元々彼が得意とするのは剣技だが、これまで悪魔や彼に喧嘩を売るマフィアなどと戦う際に必ずしも手元に剣がある状況ばかりではなかった。時には素手で迫る無数の敵を薙ぎ倒した事もある。
 B級アクション映画で覚えた、見よう見マネの格闘術は実戦という経験を経て独自に昇華されていた。
 ダンテがボクシングスタイルを取って連続したジャブを放てば、ライダーが隙を突いて杭を繰り出す。交差する銀光と炎。狭い路地で器用に互いの間合いを測り、位置を入れ換え、戦闘は加速する。
「シッ!」
 ダンテが鋭い呼気を吐く。一直線に繰り出される杭を左手で払うと、狙い澄ました右ストレートをライダーの鳩尾に叩き付けた。
「が……はっ!」
 腹で小規模な爆発でも起こったのかと錯覚する程の内臓を蹂躙する衝撃と、直撃した箇所の皮膚を一瞬で炭化させる灼熱の痛みに苦悶の声が洩れる。慈悲無く頭部に向けて放たれるダンテのハイキックをスウェーで回避すると、ライダーは逃げるようにして間合いを離した。追撃しようと足を踏み込むダンテの肩から、刺さったままの杭を抜いて更に大きく間合いを離す。
 それまでの苦労が嘘のようにスッポリと抜けた杭の傷跡を見て、ダンテは笑みを浮かべた。彼の定番になった不敵な表情。それに対して、ライダーはブスブスと煙を上げる傷跡を抑えたまま荒い息を吐いていた。
「なかなかパワフルな攻撃だ。動きも速い。だが、これまで会った奴らに比べると、ちょいと足りないぜ」
 人差し指を立てて軽く左右に振る。
 ダンテはライダーの動きが素人のそれであると判断していた。確かに戦い慣れた感じもあり、トリッキーな動きは意表を突くが、それを裏打ちする戦闘技術がライダーには備わっていない。
 冷静に分析すれば、彼女の正体であるメドゥーサは神話で有名な怪物だが、武勲を上げた騎士でもなければ訓練を受けた兵士でもないのだ。
「確かに、私には秀でた戦闘技術がありません。しかし……」
 言うが早いか、ライダーは跳躍した。まるで飛翔するように宙を舞うと、壁を蹴って更に高度を上げる。
 舌打ち一つして、ダンテは同じように跳んだ。壁を蹴り、一直線に空中のライダーへと襲い掛かる。しかしいかに速くともその動きは直線、あまりに愚直な軌道だった。
 壁を蹴ってダンテの攻撃を紙一重で回避すると、反動を利用して華麗な回し蹴りを横腹に叩きつける。
「ぐっ!?」
 体の中に響き渡る衝撃に、肺から空気が洩れる。
 続いて、更なる蹴撃がダンテに襲い掛かった。空中で凄まじい蹴りが放たれる。それはわずかな淀みもない清流のような動き。身動きの取り辛い空中でありながら、壁を蹴る反動を利用して高速で蹴りのコンビネーションを繰り出す。
「ハァッ!!」
「うおぉっ!?」
 アクロバティックな動きと共に放たれた、旋風のような浴びせ蹴りの直撃を受け、ダンテは撃墜された戦闘機のように地面へと叩きつけられた。
「―――ならば地の利を以って戦うまでです」
 倒れ込んだダンテを見下ろし、ライダーは壁を蹴って空中に留まる。通常ではありえない状況下でさえも自在に動ける程の身体能力。彼女の技術を補って余りある長所だ。
「今夜は退かせていただきます。さようなら、ミスター・ダンテ」
「待て!」
 ダンテが素早く起き上がり頭上を見上げた時には、ライダーはビルの壁を蹴って飛ぶように暗闇の奥へと消えていく所だった。
 薄暗い路地裏に静寂が戻ってきた。その場に残されたのはダンテと、戦闘の余韻を示す熱と舞い上がった埃だけだ。もはやライダーの気配は闇に紛れて消えてしまっていた。
 すでに暗闇だけになった頭上を見上げたまま、ダンテは半ば呆れ、半ば感心するような苦笑を漏らした。
 コートの埃を払って立ち上がる。その両腕に装備したイフリートは、いつの間にか篭手から腕輪へと形を戻していた。
「神話の魔物の正体は、血を吸うとびっきりの美女……」
 今だ闇を見つめたままゆっくりと踵を返し、誰にとも無く呟く。浮かぶのは愉悦の笑み。
「こういう展開も悪くないか」
 ダンテの姿が遠ざかり、呟いた言葉と共にやがて闇へと吸い込まれていった。




「ライダーは?」
 路地裏の入り口へと戻って来たダンテに、キャスターが開口一番尋ねる。ダンテは無言で両手を挙げた。
「いい女だったからわざと逃がした、というワケじゃないわよね?」
「あのな」
「冗談よ」
 冗談と言いながら自分は全然笑っていないキャスター。何処まで本気なのか分からない。ダンテはため息をつきながら、壁にもたれ掛かるように座った美綴の傍にしゃがみ込んだ。
「怪我はないか?」
「肩が少し痛いけど、他は大丈夫……」
「そうか。ああ、最初に言っとくがこれは夢じゃないぜ」
 ああ、先手を取られた。美綴はその言葉を半ば絶望的な宣言として聞き入れていた。
 可笑しな格好をした絶世の美女が何処からとも無く現れ、その女は人間とは思えない力で自分を組み伏せて、あげくに吸血鬼のように血を吸おうとした。次に現れたのは、映画にも出てこないような非常識な大型拳銃を振り回し、背中には禍々しい気配を放つ大剣を背負った銀髪の男。とどめは何もない空間から、突然出現したローブ姿の魔女だ。
 一体自分はいつからスクリーンの中の世界へと迷い込んでしまったのだろうか。
 これが夢だと言うのなら、まだ納得は出来た。目が覚めて、変わらぬ天井を見て安心した後に、いつものように学校に向かうだけだ。
 だが、そうではなかった。この狂った夜の全てが、現実だと目の前の赤いコートの男は断言したのだ。
「そうか……」
 頭の中で必死に状況を整理している美綴が言えた言葉はそれだけだった。
「キャスター、事情は説明したか?」
「いいえ、どうせ記憶を消すもの」
 キャスターの返答に、ダンテはわずかに顔を顰めた。
「……じゃあ、なんですぐに消さなかった?」
「この娘、暗示に強い抵抗力があるようね。普通の人間に比べて、潜在的に秘めた魔力が多いのよ」
 言って、キャスターは二人の会話についていけずに半ば呆然としている美綴を一瞥した。
「貴女、霊感が鋭いとか、普通目に見えないモノが見えるとかない?」
 路地裏に引き込まれる直前の感覚を思い出して、美綴は何度も頷いた。
「魔術師じゃないわ、突然変異で多くの魔術回路を持って生まれた人間。たまにいるのよ」
「つまり、記憶は消せないって事か?」
「暗示ではね、無理矢理干渉すると精神障害の危険性もあるわ。呪術で記憶を塗り替えるしかないわね」
「……」
 魔術は秘匿するもの。それはダンテにもよく分かっていた。彼の素性や仕事柄、魔術を扱う人間に出会った事も、敵対した事も多かった。
 一般人がこういった<こちら側の世界>に巻き込まれてしまった場合、その秘匿の為に相手を殺してしまう事も少なくない。その点、キャスターの『記憶を消す』という処理はむしろ穏便な済ませ方だと言えるだろう。
 しかし、それでもダンテには納得の出来る事ではなかった。
「キャスター、記憶は消すな」
「……一般人を巻き込む事になるのよ?」
「もう巻き込まれてる」
 キャスターの咎めるような鋭い視線を、ダンテは珍しく真面目に受け止めた。
 美綴は今回、間違いなく一方的に巻き込まれたのだ。そこに彼女の意思は何ら関与していない。こっちの都合で巻き込まれ、こっちの都合で記憶を消され、水面下で起こる戦争を知らないまま無知な日常へと返される。
「俺はあいにく、正義の味方じゃない。この戦争に巻き込まれた一般人がいたとしても、それは運が無かったからだ。事故や事件と同じさ。どんな理不尽な出来事でも、自分に降りかかる火の粉は自分で処理するしかない」
「そうね」
「だからこそ、だ。アヤコは巻き込まれて、運良く助かった。その記憶を消して日常に戻すってのは、見えない銃弾がそこらかしこで飛び回る戦場に放り出すようなもんだ。彼女は今夜、自分の身を守る責任と権利を持ったんだ。違うか?」
「……でも、聖杯戦争は」
「それは魔術師の理屈だ。一般人から言わせて貰えば、このクソみたいな戦争はまさに他人のクソだ。何の許可も無く、普通に暮らす人間の日常の影で勝手にやってる戦争だ。ここに住んでる奴らは皆口を揃えて言うだろうぜ、『そっちがその気なら、こっちも知ったこっちゃねえ』ってな」
 ダンテの言葉は一言一言が強い意味を含んでいた。
 彼もまた、他者の都合で日常を無残に破壊された。母と兄。一般的な家族の団欒は、突然現れた悪魔達によって一方的に蹂躙されてしまったのだ。
 あの時、誰も助けてくれなかった事をダンテは恨んではいない。そんな事に何の意味もない。彼もまたあの時、自分一人の力で生きねばならない責任と、同時に悪魔の存在を知ってそれと戦う権利を得たのだ。
 いつに無く強い口調のダンテ。その瞳を見据え、彼の意思が揺るがない事を悟ると、キャスターは小さくため息をついた。それが無言の肯定だった。
「悪いな」
「別に私が困る事じゃないわ。うまくフォローしなさい、私は知らないわよ」
 バツの悪そうに笑って謝るダンテに毒気を抜かれたキャスターは、もう一度呆れたようなため息をついた。さんざん憎まれ口を叩かれ、苦労ばかり掛けられているにも関わらずキャスターが彼を嫌いになれない最大の理由が、この時折見せる子供のような表情だった。
「さて、お嬢さん。ワケが分からないだろうが、とりあえず話は聞いてたな?」
「う、うん」
 美綴は平静を装いながらも、内心見知らぬ世界に迷い込んだ子供のように不安な気持ちで頷いた。
「今、この街はヤバイ。アンタら一般人の知らないところで戦争が起こってる。しかも魔術なんてオカルトを持ち出してやり合う、魔術師同士の戦いだ」
「魔術……? じゃあ、あの眼帯の女は?」
「人間じゃない。後ろの彼女もだ、なんとなく分かるだろ?」
 ダンテの背後のキャスターを見て、その存在自体から滲み出る威圧感を感じると、美綴は頷いた。
「OK、ならその感覚を忘れずに覚えときな。これからお前さんを日常に帰す。戻ったら今夜の事は口を噤んで、いつもの生活を繰り返せ。さっきみたいな何かヤバイ感覚を感じたら、その場所からなるべく遠ざかるんだ。それで危険を回避できる」
「……わかった」
 美綴はダンテの言葉に頷いた。今度は先ほどよりもしっかりとした強い意志を持って。
 背後のキャスターは、美綴の様子に素直に感心していた。予想以上に強い精神の持ち主だ。
 突然ワケの分からないモノに襲われて、日常の影に潜む危機を突き付けられた。そこに助けは無く、これから自分一人だけが知る恐怖に耐えていかねばならない。
 いっそ記憶を消して、何も知らぬままの平穏な日常に戻りたいと思っても不思議ではないだろう。しかし、彼女にはその不条理に対する悪態などなく、ただ現実を受け止めて『何としてでも生きてやる』という力強い意思が宿っている。
 ―――ああ、そうか。キャスターは唐突に理解した。
 その揺ぎ無い意思、彼女は何処と無くダンテと似ているのだ。
「この戦争は少なくとも、あと二週間以内に終わるわ。それまでの辛抱よ」
 だからだろうか、キャスターは無意識にフォローするような事を口走っていた。
 それまで無表情に口を噤んでいたキャスターに、不意に言葉を掛けられた事で美綴は驚いたような表情をしたが、すぐに笑みを浮かべた。
「ああ、頑張るよ。ありがとう」
「―――っ! 別に、どうでもいいわ」
 真っ直ぐに告げられた感謝の言葉に、キャスターは顔を赤くしてそっぽを向いた。それを見て美綴が苦笑する。仮面の下に隠された意外と可愛い素顔が、何処か彼女の友人である赤い少女に似ていて、それまでの緊張感から急に親密な気分へと移り変わっていた。
 二人のやり取りを面白そうに見ていたダンテは、今だ座りこんだままの美綴の手を引いて立ち上がらせた。
「乗りかかった船ってヤツだ、家まで送ってやるよ。それぐらいいいだろ、キャスター?」
「好きにすればいいわ。今夜の巡回は中止ね」
 やれやれと言った感じに肩を竦める。ダンテはその嫌味を意に介さず、明るく笑って美綴の肩を叩いた。
「素直じゃねえんだ、うちのは」
 苦笑する美綴の横で、ダンテがムキになったキャスターの平手をかわしていた。キャスターを宥めながら、三人連れ立って路地裏から抜け出す。
 変わらず街を照らす街灯の光に、美綴は知らず安心感を覚えた。
「とにかく、だ。普段と違う雰囲気や違和感を感じる場所には近づかない方がいい。魔術ってのはそういう風に感じ取るしかないからな」
「え―――?」
 不意の閃き。ダンテの言葉に、美綴は息を呑んだ。
 違和感。
 普段と違う雰囲気。
 そのキーワードが、彼女の記憶の中に埋もれたモノを一瞬で掘り起こす。突然足を止めた美綴に、ダンテとキャスターが訝しげな顔で振り返った。
「どうした?」
「……っあの! 違和感って、言ったよね?」
 取り乱す美綴の様子に、少々気圧されながらダンテが頷く。
 突然突き付けられた非日常の存在。そして今夜であった非常識な存在たち。それらが、美綴の中で単なる懸念だと思っていた事に恐ろしいほどの現実味を与えていく。
 まさか。でも、ひょっとしたら―――!。
「ちょっと待って」
 ほとんど確信にも近い不吉な予感が、彼女の心を支配していた。知らず、縋りつくような視線を二人に向ける。









「最近、あたしの学校の様子がおかしいんだ……っ!」
 悲痛な声で叫ぶ美綴の言葉に、ダンテとキャスターは思わず顔を見合わせた―――。









SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送